大学院の博士課程に在籍する知人から長文の草稿がチャットで届く。
何だろうと思って添付ファイルを開けてみると、なかなかに興味深い内容。
その知人の文章を読む機会はこれまでも何度かあった。
しかし今回の原稿にはやや違和を覚える言い回しも散見された。
例えば、引用が集中する箇所があったり、あるいは文末が「ですます」調で統一されている等。
敬体を用いたのは、それが論文ではなく書籍等に掲載する原稿だからかな・・・、などと思いながら二万字を超える文章に目を通す。
でもって真面目な感想を一生懸命考えて返信すると、してやったりといったニュアンスで、実はAIで生成した文章だとのコメントがプロンプトと共に返って来た。
愕然とした。
やや気になった違和はAI生成が原因か、などと思いつつ、しかし言われなければそうとは気づかぬ出来栄え。
こうなると、論文の執筆や推敲、そして査読の作業とは一体何なのだとなる。
なんて書くと、何を今さら・・・ってなるのでしょうかね。
もはや自身の知見を動員して文字を書き連ねる能力や労力には全く価値は無く、自身が満足出来る文章を如何に手早くAIに書かせるか、あるいは推敲させるかといったスキルが重用される時代に入って既に久しいのだろうか。
でも、推敲や査読に係る的確な判断には、やはり自身の作文力が欠かせないし、そのための継続的な鍛錬も必要だと思うのだけれども、それすらAIに依存してしまう時代なのだろうか。
後日、同じ知人から別の原稿が届く。
一計を案じ、私の替わりにAIに読み込ませ原稿を評価するよう指示を出し、生成されたコメントをそのママ返信しようと企てた。
でも、生成文に目を通していたら原稿自体に関心が沸いてきて、結局全て読んでしまうことに。
なるほど、AIの活用にはそんな作用もあるのだな。
試しにここまでの文章を同様に評価させたら、構成や文法や表現方法のほか、改善点や総括を箇条書きにして簡潔に取り纏めたコメントが瞬時に返ってきた。
一部引用すると、
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最後の「結局読んでしまうことに」というオチが効いていて、思わず微笑んでしまいました。
AIに関する懐疑と受容のあわいに揺れる筆者の心情が、ユーモアを交えて巧みに描かれています。
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との評価。
AIでも微笑むんだな、などと思わずこちらも微笑んでしまうと共に、提示した文章の内容に沿った無難なコメントが取り敢えずちゃんと生成されていて感心する。
でも、コメントに載る改善点を受けて、「それを踏まえてもっと良い文章を作成して」とAIにお願いする勇気は、今の私にはまだ無い。