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2024.11.19:メーカー住宅私考_198
「往来」の意味するところ

GENIUS往来の家。
2002年5月にミサワホームが発表したこのモデルを後年になって見知った際の第一印象は、同じ時期の同社の他モデルと同様、「普通」であった。 ちょっと気の利いたメーカーならばどこでもやっていそうな内外観デザイン。 否、決してレベルが低い訳ではない。 しっかりと纏まっている様には見える。 でもそれは、「質の高いありふれた住まい」でしかなく、それ以上深く詳細を確認してみようとの関心が持てるモデルではなかった。
玄関と階段の間にリビングルームを配した代表プランを一瞥し、「家族がリビングを生活動線として行き来するから「往来の家」とは何とも安直だネ・・・。」と受け止める程度に留まった。

最近、同モデルのパンフレットをお譲り頂いた。 タテヨコ30cm角、40ページ超の立派なもの。
折角貴重な資料を頂く機会に恵まれたのだから、しっかり読んでみようと表紙を捲って驚く。 冒頭に、家族の問題をテーマに有識者二名の結構重い小論がそれぞれ見開き2ページを使って切々と展開する。 共通するのは、引き籠りやいじめ等の子供を取り巻く社会問題は、父性の弱体化が原因として深く関わるといったもの。
更にページを捲ると、今度は一人の男性の内省がモノローグにて訥々と始まる。 社会に出て必死に働き、それなりの地位も獲得してきた。 しかし今まで家族をどの程度大事にしてきたのだろうか。 子供達との接し方に何か誤りはなかっただろうか。 父親としてもっとふさわしい立ち居振る舞いがあり得たのではないか。 冒頭で有識者が言及した社会問題と関連する逡巡を抱きつつも、しかしその子供達も独立。 自身の引退の時期もそんなに遠い未来の話ではない。 いわゆるアクティブシニア層に属する自身の今までを顧みつつ、そして今後を鑑みつつ、これから暮らす家の理想形を熟考する。 そんな内容。
連動して、積み重ねてきた人生が余裕や渋味として容姿にあらわれた男性を捉えた画像が載せられ、読者のイメージを補完する。


外観 

平面図(55-2Wタイプ)

長々と語られる考察の過程に、妻も少しだけ登場。 双方合意の空間構成の在り姿が語り尽くされたところで、漸く当該モデルの具体的な紹介ページへと移る。
そこまで読み込む頃には、このモデルに係る商品企画の意図するところが何となく刷り込まれてしまう。 以降のページは、その刷り込みの下に目を通すから素直に腑に落ちる。 かくして、カタログを読み終えた際には何とも言えぬ読了感に満たされ、こんな住まいもアリだよナと考え始めてしまう。 私も、この雑記帳の場に、今まで大して気にも止めていなかった当該モデルについて何か書いてみようという気になってしまった。 販売資料として実に巧みな造り込み。
この手法は、既に同社の大ヒット商品である1976年発表のミサワホームO型のカタログにも見受けられた。 一つの家族の物語を想定した短文を各ページの画像に添えて住まいの在りようを強くアピールする構成。 その手法の深化と進展が、往来の家のパンフレットにも見い出される。

ページの途上に、代表プランを用いて三段階のライフステージとそれに対応した間取り変更の提案が載せられている。
最初のステージは、子供たちが独立し、夫婦二人だけとなった日常生活をより豊かに満喫するための当該モデルの魅力や特徴が纏められている。 二段階目のステージは、何らかの介護を想定し、子供世代(孫を含む)が同居する様になった際の三世代居住の在り姿が。 そして三段階目のステージは、自身がこの住宅での暮らしを終え、子供世帯が引き継いだ後の住まい方提案。
そんなロングスパンのライフサイクルのもと、自身と妻、あるいは親子、更には孫達との間の様々な想いが、住まいを通じ時を重ねて往来する。 モデル名称には、そんな意味も込められていたのかもしれぬ。

現状、同社のサイトの商品ラインアップに、当該モデルは見当たらない。 そこに込めたアクティブシニアをターゲットとした様々な提案は、果たして市場にどの様に受け止められたのだろう。

2024.11.11:再開発事業のその後

新潟県三条市。 かつて同じ県内の長岡市に住んでいた際の感覚では遠く離れた場所であった。 そしてその後も、同市を訪ね歩いた記憶は無い。
少し前に燕市のギャラリーを訪ねた件をこの場に書いた。 ならばこの機会に隣接する三条市内も散策してみようと思い立った。

東京始発の上越新幹線で一旦長岡駅に降り立つ。 早朝の市内を久々に小一時間散策した後、信越線に乗り東三条駅に向かう。 そこから燕駅には更に弥彦線に乗り換えるが、その待ち時間が二時間弱。 否、敢えてその様なスケジュールを立てた。 で、隣の北三条駅まで歩きながら途上の街並みを堪能。 北三条駅から改めて弥彦線に乗り燕駅に向かおうとの算段。

東三条駅前広場を横切る県道121号を西に歩を進め、接続する県道331号に差し掛かると両側にアーケードが連なる商店街が現れる。 住居兼自営店舗と思しき2,3階建ての建物が軒を連ねる。 その街路に直交する道路は、多くが車一台通るのがやっとの狭隘な路地。 使い古された言葉を用いるなら、ヒューマンスケールとでも言える優しい街並みに少々和まされながら歩を進めるその先に、しかし突然違和な風景が出現する。
五層に及ぶ巨大な自走式駐車場。 そしてその外周には、そこに至るまでの風景には無かった幅員の広い道路が敷設されている。 この手の施設があるならば、その先に大規模小売店舗が構えているのだろうと思い周囲を見渡すが、隣接して建つのは低層階に商業施設が入ったタワー型の集合住宅。 他に駐車場の規模に見合う商業ビルは確認出来ぬ。

※1
昭栄地区市街地再開発事業。
本文右側の画像は、その事業エリア内に整備された公園から撮ったもの。 手前に、公園内の幾何学的なフォリー。 背後に低層2フロアに商業施設が入った高層住棟。 右手に自走式駐車場棟。
これらとは別に、更に左手に都市計画によって敷設された幹線道路を挟んでもう一区画、再整備エリアが設定され大規模な商業施設が建てられた。 駐車場棟は、その商業施設への集客を想定したものだったのかもしれぬ。

奇異に思いその場で調べてみると、高層住棟及び駐車場棟は1980年代に同市主導で実施された再開発事業※1。 かつては更にもう一棟、道路を挟んだ向かいの区画に大規模小売店舗棟が建てられていたらしい。 しかし、今は銀行に建て替えられている。 高層住棟の基壇を形成する低層2フロア分の商業施設も閉鎖されている。
それらの経緯についてここでは言及しない。 既成市街地の一部を丸ごと作り変えた当該事業がこの地域にもたらしたものは何であったのか。 あるいはこの事業の施行が無かったら、この界隈は今現在どうなっていたのか。
傍らに設置されている、当時の市長の名前が記された「昭栄地区市街地再開発事業完成記念の碑」を眺めながら暫し思案する。

再開発エリアを離れると街並みはもとの雰囲気に戻る。
伝統的な民家や擬洋風の医院建築。 昭和半ばに建てられたのであろう渋みのある低層の事務所ビルや商業施設。
このエリアの規模に見合ったスケールの建物群が織り成す風景を愛でつつ北三条駅へと向かった。

2024.11.04:変わりながらも変わらぬもの

JR長岡駅。
上越線と信越線が乗り入れ、更にかつては栃尾鉄道線も乗り入れていた。 いずれも高架ではないため、幾重にも敷設された鉄路を挟んで東西に設けられた駅前広場を往来するために地下自由通路が整備されたのは1955年。 長さは約150mに及ぶ。
かつて同市内に住んでいた際、線路敷の東側に住んでいた。 なので、駅舎の西側に広がる商店街に出向くため、この地下道は日常的に利用していた。

幅員は狭く天井も低く、そして照明も最小限。 雰囲気は文字通り、地下の闇空間。 その暗がりの中、東口側には通路の両側に店舗が幾つか連なり小さな商店街を形成していた。 居酒屋、骨董品店、花屋、クリーニング取次店。 更には「長岡水族館」と名乗る鑑賞用水生生物の販売店等。
それらが織り成す風景はどこか場末的な妖しさがあり、暗くてジメジメとした通路の雰囲気を強化していた。 地元では、懐かしい風景として往時の様子が今でも語り継がれている。

そう、懐かしい風景。 既にかつての雰囲気は無い。 いつの頃か、商店街は廃止。 表装も明るく清潔なものへと一新され、照度も改善された。 更に地下通路の用途に加え、後年その末端に整備された地下公共駐輪場へのアクセス経路としての新たな機能も付与された。 あるいは東西をつなぐぺディストリアンデッキも別途架構され、連絡経路の主役はそちらに移った感もある。

姿や状況は変われど、しかしこの地下道に降り立つと懐かしさが沸く。
それは例えば、通路の途中に生じている僅かな屈折。 あるいは同じく途上に設けられたニッチの存在。 そこには昔からボランティアの手によって花が活けられ続けている。
変わりながらも変わらぬもの。
そんなモノやコトの存在が、かつて住んでいた街に向ける視線に奥行きを生む。

翻って、建築はどうだろう。 例えば長岡駅の西口広場から目抜き通りを眺めた際、同地に住んでいた三十年前と同じ装いを辛うじて保つ建物はそれ程多くは無い。
土木系の都市施設が適切な修繕や維持管理を伴いながら永く現役で供用され続けるのに対し、建築の寿命はあまりにも短く儚過ぎないか。 所与の用途の喪失や経済情勢、そして老朽化などを理由にいとも簡単に取り壊され新たな建物に取って代わられる。 あるいは未利用のまま更地として放置される。
土木施設とて、全てが例外なく良好に保全されている訳では無い。 問題を抱えるものも少なくは無く、そしてその数は年々増えつつある。 しかしそれでもなお、土木に対する建築の劣勢(若しくは虚しさ)を感じてしまうところ、無きにしも非ず。

2024.10.30:アートとモジュール

新潟県燕市に立地するgallery SAIで10月17日から27日までの会期で外山文彦展が開催された。
御本人から事前にお送り頂いた案内状には、ギャラリーのオーナーによる紹介文。 その冒頭に、大学で建築を学んでいた経歴の言及があり、「ナ〜ンダ、やっぱりそうだったんジャン。」と、一人腑に落ちた。 外山氏のプロフィールの多くを知る訳でもなく、あるいは大して気にもとめていなかった。 しかし、mailのやり取り等を介して、建築について話が通じやすい人だなとは思っていた。 オーナーの文章にも、近作に関し「それは建築に近い手法とも言えます。」との分析。
今回は、四十年に及ぶ創作活動の回顧展の様相。 では、各年代の創作に対し建築側の視点からアプローチを試みるとどうなるか。 改めて確認する良い機会と捉え、会期終盤、現地に向かう。

※1

内観。 玄関ホール正面に取り付く階段見上げ。

※2
「徘徊と日常」の2024.10.27にも会場の様子を掲載。

※3
当該雑記帳の2022.06.07及び2022.06.14参照

到着したギャラリーの前で、やや困惑する。 そこに在るのは、昭和中頃に建てられたと思しき一軒の日本家屋。 周囲に埋没する様に、やや広めの戸建て住宅がそこに在るのみ。 子細に見れば、外壁には手が加えられているし、ギャラリーの表示も控えめに設置されてはいる。 しかし、戸建て住宅然とした雰囲気に変わりはない。 見ず知らずの他人の家にお邪魔する様な心持ちで、恐る恐る玄関引き戸を開ける。
屋内はきれいにリフォームされていて、生活の痕跡はほぼ消去されている。 けれども真壁構造の内観はそのまま※1。 つまり、尺モジュールに従った造作が室内に現れる。 作品の展示にあたっては日本古来のそのモジュールを意識せざるを得ぬ。
通常のアートスペースの様にプレーンではない空間で如何に個展を構成するか。 その点に関心を持つ※2

訊けば会場は元は会社経営者の自宅。 ために、多数の室を擁する。 回顧展を開催するにはうってつけのスケールだが、ぞれぞれの部屋に居宅であった頃に象られた床の間や押入等が遺されたままとなっている。 加えて、日本家屋ゆえの室どうしの繋がりによって生成される奥性や連環。 それらの特性を活かし、部屋ごとに展示が企てられる。
“場に仕掛ける”とは、同氏が古民家を活用したアートスペース「ギャラリー湯山」にて二年前に開催した展覧会の際に掲げたテーマ※3。 方向性は同じながら、会場となる建築の成り立ちの違いから今回の仕掛け方は全く異なる。 ギャラリー湯山では外部環境との積極的な関わりも試みられたが、今回は建具は全て閉め切られていた。 仮に開放したとしても、湯山と同様の外部環境は望めぬ。 その分、インテリアとの関係がより強く立ち顕れる。 そこに視覚化された建築モジュールとの関わり方を含め、半ば謎掛けの如く所々に作者が企んだ“場への仕掛け”を暫し堪能した。

とはいえ、どこまで読解が出来たのか心許ない。 当然誤読もありそうだ。
会期後、外山氏のBlogには、早速企ての一端が披露された。 「そうだったのか!」と、驚くと共に愉快にもなる。 今後も種明かしを含む個展に纏わる言説が諸々述べられるかもしれぬ・・・と、ちょっとだけ期待しておこうか。

2024.10.24:メーカー住宅私考_197
セキスイハウスE型とホームコア

※1
セキスイハウスE型施工事例

※2
ホームコア施工事例

※3
工種の統合、もしくは多能工の導入の考え方が、後に内外装を兼ねる多機能素材PALCを帳壁として用いたミサワホーム55に繋がったと捉えると興味深い。

「住宅メーカーの住宅」に積水ハウスの「セキスイハウスE型」※1を追加した。
昭和40年代に発表されたこのローコストモデルに今まで大した関心は持っていなかった。 しかし、9月30日の雑記に書いた住宅地に出向き、当該モデルが結構な密度で建ち並ぶ様子に接していたらスイッチが入ってしまった。 幸い、同モデルに関する資料が僅かながら手元にある。 それらに改めて目を通しているうちに、文章を取り纏めてみたくなった次第。
その過程でこぼれ落ちた内容をここに書き留めておく。

例えば、15種の規格型の間取り。 「住宅メーカーの住宅」に載せた文章では表現を和らげたが、特に魅力や関心は見い出せぬ。 それこそ、朝、上司に設計条件を告げられ、今日中に15タイプ用意せよと指示され取るものも取り敢えず作成したといった印象。
それが、E型の4年後に同じく平屋建てローコストモデルとしてミサワホームが発表した「ホームコア」※2となると、様子が全く異なる。 「中央コア」若しくは「ジョイントスペース」といった、その後暫くの間同社の商品体系の礎となる設計手法の萌芽がそこに見てとれる。 そこに、単なる廉価な狭小住宅との評価に留めぬ魅力を同モデルに付与する。
但し、住み易さを考えると、E型の方が素直なのかもしれぬ。 凡庸であることが住まいとして劣っていることにはならぬ。 逆に、先進的であることが優れていることとも限らぬ。 その評価は難しい。 技術的な視点と、住まう行為に向けた評価。 E型とホームコアには、その距離が見て取れる。

内装についても然り。
E型ではローコスト化のために簡素な取り纏めに注力しつつ、用いられている部材は概ね往時の平準的なもの。 一方のホームコアは、工種の整理統合や部材の新規開発にまで踏み込んだ。 例えば、室内の壁に外装仕上げ材を持ち込む。 あるいは、断熱材を芯材に用いた薄型畳を開発する等々。
中古住宅として販売中のホームコアを実見した際、リシンが吹き付けられた内装をみて、「本当にこの仕上げだったのか」と驚いたものだった※3。 畳も、今となっては薄型は普通だが、当時は抵抗が強かった旨、内橋克人著の「続々続々匠の時代」に記されている。
住宅の工業化と保守的な市場ニーズとの乖離。 そのジレンマを抱えつつ、工業化によって新たな住文化を切り拓こうとする気概が往時のミサワホームには漲っていた。 一方の積水ハウスは、工業化は住み心地の良い住宅を提供するための一手段との捉え方であった。

果たして今、市場の価値判断はどちらに軸足が向いているだろうか。

2024.10.15:大同生命札幌ビル

※1
旧大同生命札幌ビルの中間層に設けられた空中庭園

札幌駅前通りに連なる凡庸なオフィスビル群の中にあって、建替え前の掲題の建物は少々異彩を放っていた。
地上二層の基壇と基準階を成す上層五階以上のボリュームに挟まれた中間層に大きくピロティ空間を挿入。 空中庭園※1を形成し、地上部からアクセスする螺旋階段を収めた円筒形のボリュームを交差点に面した建物隅角に配した構成。
建てられたのは、1975年。 設計は黒川紀章。 となると、三,四階に設えられた空中庭園は、さしずめ中空に持ち上げられた“中間領域”といったところか。 その中間領域へと地上を行き交う人々を誘うためのアクセス経路の工夫も含め、設計意図が極めて分かりやすく表現された外観が、周囲とは様相を異にしていた。
しかし無目的に滞在可能なはずの都市の公共的空中広場は、私が訪ねた際にはいつも閑散としていた。 企図された仕掛けは、その供用において十分には機能してはいなかったのかもしれぬ。 管理は行き届いており、いつ訪ねても植栽を含めて小奇麗に整備されていたし、広場に面して設けられたギャラリーや、あるいは地上レベルとは異なる都市景観への眺望等、なかなかに興味深い空間であったのだけれども。


建替え前

建替え後

そんな当該ビルが数年前に建替えられた。
基壇と基準階を明確に分ける構成は、かつての建物を踏襲していると読み取れそうだ。 但し、双方の中間層としての中空ピロティは存在せず。 替わりに基壇二階部分の隅角にかつての空中庭園を思わせる広々としたラウンジが設けられた。 二層吹抜けの十分な天井高。 そしてほぼ天井高目一杯の巨大なガラスの外部建具は開閉可能で、外部の気候に応じ内外の関係を多彩に演出する。 なるほどかつての空中庭園は、吹きさらしであったから冬季の利用は困難であっただろう。 そんな過去の経緯を鑑みた現実的な措置として考えられたものなのかもしれぬ。
但し、そのラウンジに至るには、一旦建物屋内のエントランスロビーを介する必要がある。 かつての様に接道部に面した螺旋階段で直接アクセスできる訳ではない。 だから、形態は踏襲されていたとしても、そこに新たに整備された空間は、かつてとは性質が全く異なるものなのかもしれぬ。 内外の位置づけが曖昧な中間領域ではなく、屋内化された豊かな公共空間。
果たしてそれが、旧建物の中間領域の継承と位置付けられ得るのか、あるいは過去のそれに込められた設計意図以上の豊かな公共空間として十分に供用され得るのか。 そんな事々に関心をもって眺めてみたい建物である。

2024.10.07:ミサワホーム・ドメイン補足

先月、「住宅メーカーの住宅」のページに「ミサワホーム・ドメイン」を追加した。 1983年に同社が発表した企画住宅。
もともとこの雑記帳の場にて不定期に連載している「メーカー住宅私考」の中で、2021年の2月から3月にかけて4回にわたって書き散らしたものを再構成して登録した。 再構成にあたり加筆ないしは記載から外した内容もあるため、雑記帳の方はそのまま残しておく。
一旦雑記帳に書いて、後年住宅メーカーの住宅の方に移設したケースというと、積水ハウスの「フェトーのある家」やミサワホームの「NEAT INNOVATOR」がある。 当該連載は、2012年2月から書き始めて、その連載数も190を超えた。 まさかここまで回数を重ねられるとは思っていなかったし、これからいつまで続くのかも定かではない。 というよりも、タイトルに通し番号を付ける意味も何だか分からなくなってはきたが、そこは私設サイトの気楽なところ。 これからは、今まで書いた内容を見直したり新たに知り得た事項を追加しながら、同様に「住宅メーカーの住宅」のページに移設するケースが増えるかもしれぬ。

引用画像は、発売されて間もない頃のドメインの新聞広告切り抜き。 左が1983年11月。 右が1984年3月のもの。 それぞれ、大きく「一家両得。」「一居六得。」の文字。 いずれの一挙両得を捩ったもの。 後者の方が、より御利益がありそう。 同じ文字遊びでもインパクトが違うものだなと往時思ったものだった。
そんな当該モデルに関しては、発想が実に(当時の)ミサワホームらしくて面白いなというのが、発表当時の第一印象。 これから高齢社会が更に進行し、定年退職後の生き甲斐や生活の安定などを目的に、在宅起業を行うケースが増えるであろう。 そんな近未来を想定したモデルを発表する。 「20年、30年先考えてますか? ミサワホームは21世紀を捉えた!!」という、同社の当時の広告の決まり文句そのままの先進の発想が、当時の同業他社にはない同社ならではの先進の商品企画の妙がそこにはあった。
そして単に器を提案するだけではない。 器を有効活用するためのソフト面のフォローとして、各種出版活動も並行させる企業姿勢にも感心したものだった。

但し、その発想を具体化した内外観については、特に新鮮に思う点は無かった。 既に手慣れた手法によってそつ無く纏められているといったところ。 その印象は、今も当時とは変わらず。 従って、文面もそのような組み立てで纏めることとなった。

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