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2025.09.16:早朝の街歩き

「徘徊と日常」のページに9月5日に載せた画像は、大阪市中央区南本町に立地する総合卸商社・江綿の本社第一ビルと本社第二ビルを撮ったもの。 グリッドを強調した同じ外観の建物が幅員の狭い道路を介して対峙する風景が気になってカメラを向けた。
同社のサイトで確認してみると、第一ビルの竣工は1971年。 第二ビルが1983年。 十年以上の隔たりがありながら統一感を持たせた外観の建物を構えたこと。 それが風景としての強い印象を通り沿いに与えようとの意図ならば、成功していると思う。 私もその意図に嵌って撮影に及んだのだから。

この様な遭遇があるから、気侭で無目的な散歩は楽しい。 だから通常は何のあても無く歩きまわるが、泊りがけの出張の朝、この界隈を散策した際には目的とする建物があった。 新建築誌の6月号で紹介された高松建設設計施工の「TK BUILDING」。

紙上に載る開口部廻りの水平及び垂直断面図には驚いた。 “逃げ”が皆無。 この様な納まりは、まだ右も左も判らぬ新人がやらかすか、あるいは逆に全てを判り切ったベテランが敢えて取り組むか、どちらか。 当該作品は、当然後者だろう。 私の様などちらでもない中途半端な技術者にはとてもじゃないが怖くて手を出せぬが、そこは設計施工一括受注の強み。 実現に向け、徹底したフロントローディングと細心の施工管理が貫徹されたのであろう。 その出来栄えを確認したいと思った。

解説には、

雑居ビルが密集する区域の中で静かな佇まいを実現しようと試みた

とあるが、現地を訪ねた際の印象はその記述通り。

※1

オーガニックビル外観
直前に、近傍に建つ「オーガニックビル」※1の前を通った。 目に留まり易いその外観に視覚を奪われながら歩を進めたためか、静謐な当該作品に気付かずに通り過ぎそうになってしまった。 しかし、ただならぬ気配に視線を向けてみれば、誤魔化しが一切許されぬディテールが丁寧に仕上げられている。 均質な開口部や柱梁フレームのプロポーション自体はこの際大した問題ではなく、ひたすらその奇麗な仕上がりを愛でる。 そんな作品なのかもしれぬ。
しかしその繊細さは、いずれのフロアもまだテナントが未入居、即ち内部がガランドウゆえに味わえる印象かもしれぬ。 供用が開始されてからもその居住まいが保たれるだろうか・・・等々建物の前で暫し思いを巡らせたのち、朝食をとるため宿泊先のホテルに戻った。
2025.09.09:変わりながらも変わらぬもの

少し前に新建築誌の8月号についてこの場に書いた際、「タンジェリン・ドリーム」のライブアルバム「ロゴス」に触れた。
この作品を初めて聴いたのは、かつてNHK-FMで深夜に放送されていた「クロスオーバーイレブン」。 架空の物語の落ち着いた朗読と、そしてその物語とは何ら関わりを持たぬ音楽とを交互に淡々と流すだけの独特の雰囲気を持った番組で、恐らく私と同世代の人の中には懐かしいと感じる方も多いのだろうと思う。

キーボード・マガジン誌の新譜レビュー欄で僅かに見知っていたに過ぎぬこのライブアルバムの収録曲が当該番組で放送されると知り、ワクワクしながら真夜中にラジオのスイッチを入れたのは遠い遠い昔の話。
最初に流れたのは、アルバム所収のアンコール曲「ドミニオン」。 複数のパートで構成された大作「ロゴス」を演じ終えた後の高揚感ないしは開放感に満たされたかのような曲調が、逆に番組の最初に流す作品としてとても妥当な選曲。
その後、別のアーティストの作品数曲と朗読の後で、「ロゴス」が流れ始める。 演奏時間が45分に及ぶため、LPでは前半と後半に分けてそれぞれをA面とB面に収録している。 同番組で流されたのはB面の後半部分のみ。
録音したカセットテープは手元に残っている。 今は、動画サイト等でも聴けるので保管している意味も無い。 しかし破棄せず、あるいは上書きもせずに今まで残し続けてきたのは、最初に接した際の印象ゆえだろうか。
改めて全編を通しで聴いてみると、かつて当該番組でB面のみを選曲した意図も腑に落ちる気がしなくもない。 A面に収録された前半は、個人的にはやや退屈な印象。 前半終盤のBlueパートに至って漸くタンジェリン・ドリームらしくなってくる。 シンセサイザーによる重々しく陰鬱なストリングスと、ミニマルミュージック的なシーケンス・パターン。 その組み合わせは、このグループにしか出せぬ味わいであろう。 以降、パートごとに変幻自在に表情を変える後半の流れは、今聴いても惹きこまれる。

クロスオーバーイレブンでは、「ロゴス」以外にもこのグループの様々な作品が紹介された。 初期の傑作「フェードラ」を途中カットすることなく17分にわたって流すなんてのは、この番組ならでは。 「シンセサイザー・ミュージック」ではなく「電子音楽」と表記する方が雰囲気に合う、そんな硬質で尖ったこの作品は、学生時代に設計演習の課題に取り組んでいる際にBGMとして随分お世話になりました。

でも、個人的に良いなと思えるのは初期の作品のみ。 例えば1988年発表の「オプチカル・レース」を聴いた時は、アレッ?と思ってしまったものでした。
1967年の結成以降、メンバーが入れ替わりつつ、そして作風を変えつつグループとして継続しているところは凄いと思う。 最近の動静には疎いのだけれども、変わりながらも変わらずに今後も活動し続けていくのだろう。

2025.09.02:親柱
「建築外構造物」のページに、「柿川に架かる橋の親柱」を登録した。
柿川とは、新潟県長岡市の街中を蛇行しながら流れる小川。 そこに架かる幾つかの橋の親柱に目が留まったのは、2012年5月中旬に同地を訪ねた際のこと。 初見の印象は、この場にも2012年7月7日に書いている。
で、そのうち「建築外構造物」のページで扱ってみようかなどと思いつつ、この「そのうち」という考え方ほどいい加減なものは無い。 結局13年間も放置し続けてしまった。 否、放置というよりも忘却に付していたと言った方が正しいのではあるが。
昨年、同じ「建築外構造物」のページに「新潟駅万代口バスターミナル」を載せようと、移転のため閉鎖された直後の同施設を観に新潟市を訪ねた。 その際に長岡にも立ち寄り市内中心部をあても無く徘徊。 そういえばとフと思い出し、改めて各橋を巡ってみた次第。
もっとも、ページ登録に至るまでそれから再び一年以上が経過してしまった訳ではあるが、そこはそれ、個人サイトの気楽なところ。
※1

「建築外構造物」のページ掲載画像とは別アングルで捉えた一之橋の親柱。 小さなアーチが密に並ぶ欄干の意匠も、日の角度によって路床に落ちる影と相俟って味わい深い。
個性的な親柱の中で特に気に掛かったのが、埋め込まれたプレートに刻まれた竣工年月が先の大戦前に架けられたことを示す事例が現存すること。 例えば「一之橋」※1の親柱には、「昭和十四年四月竣工」と刻まれている。 市内中心部が悉く灰燼に帰した長岡空襲を耐え抜いたということか。 もしも爆撃で破壊され、後に架け替えられたならば、その年号が記されるだろう。 長年の風雪に洗われたその表層は、一朝一夕では獲得し得ぬ深いテクスチュアを纏っている。 目まぐるしく変容する街の中心部にあって、この親柱は長きに亘って泰然とその場に在り続けてきたことを、その風合いが静かに物語る。
在住時、そしてこの土地を離れてからも時折同地を訪ねる際、柿川に架かるこれらの橋を無意識のうちに何度渡って来たことか。 でも、そんな何気ない日常風景の中に、歴史の記憶を留める小さな物理存在がひっそりと佇む。 暫しそんな感慨に浸った。
2025.08.26:メーカー住宅私考_207
DEBUT活人広間の家 − 両端コアに向けた可能性

このシリーズで前回(2025年8月8日)取り上げたミサワホームの「DEBUT活人広間の家」に関し、引き続き異なる視点で言及してみる。
※1

ミサワホーム「DEBUT活人広間の家」南側外観
前回も引用した南側外観画像※1からは、両端コア型の空間構成を思わせる。 即ち、立面両側の壁面を強調した箇所がコア。中央のほぼ外部建具で構成された部分が、コアに挟まれたスペース。
この場合、一般的に後者にその建物の主用途が配され、前者には、その主用途をサポートするための機能が収められる。 例えばオフィスビルの場合であれば、後者が執務空間。 前者がエレベーターや階段などの垂直動線やトイレ、あるいは設備室やその竪シャフト等々の用途。 更に前者は建物そのものの構造耐力も負担する。 それによって後者は無柱のユニバーサルな空間が獲得可能となり、主用途の活用に係る制約が大幅に低減される。
では、当該モデルが両端コア形式かといえば、否。 少なくとも二階については明らかに異なり、同社固有の壁式構法の組み立てに拠っている。


二階平面図
一階平面図
しかし一階については無理やりな解釈が出来ぬ訳でももない。
向かって右手のコアと見立てられる南北に伸びる帯状の箇所には、南から北に向かってキッチンや玄関、そしてトイレといった非居室用途が配置される。 そして左手の同様の箇所は、北側半分が前回取り上げた巨大収納。 その南側はリビングの一部ではあるが、取り敢えずはリビングに連続するニッチ的な空間と位置づけてみよう。 すると、中央のリビングや和室からなる空間を様々に活用する日常生活をサポートするためのサービス機能を両側のコアに収めたプランと解釈できぬ訳でもない。
即ちそこに、「活人広間」なるモデル名称を実際のプランとして実現するために両端コアが選択されたとの解釈がこじつけられる。 勿論、そのセオリーに則るならば、階段室もコア側に収まっているべきなのではあるが。
二階も、中央の非コア部分に個室を集め、それぞれの個室の活用をサポートする機能を付随するコアに収める空間提案がなされれば、モデルのテーマに掲げた「活人広間」としての商品性が両階通じてより徹底され得たかもしれぬ。

※2

ミサワホームA型二階建て外観。 中央の突出した箇所が、裏手の北側まで貫く形で帯状に計画されたコア部分。 ここに非居室用途が全て収められ、その両側に居室が配置される中央コア形式の組み立てが容易に読み取れる。

※3

ミサワホーム・HYBRID-M マホーの家の施工中の状況。
両端にコアとしてのルームユニットを設置。 間に横架材を架け渡してユニバーサルなスペースを確保する空間構成が見て取れる。

居室と非居室を、コアとコア以外に振り分ける考え方。 その点を徹底した例として、同社が1979年に発表したミサワホームA型二階建て※2が挙げられる。 但し、A型二階建ては中央コア形式。 建物の南北中央を貫くようにコアを二層分配置し、そこに住宅に必要な非居室用途を配置。 その両側に居室を配置する極めて明確な形式が採用されていた。 そこでは、コアに接続する居室は、理屈の上では如何なる形態・規模にも対応可能。 提示されていた規格プランバリエーションは左右対称形のみであったが、非対称でも成立するし、実際の建築事例ではそのような処置も散見される。 あるいは居室部分の増築ないしは減築に対しても、非居室用途部分に何ら影響を及ぼすことなく容易に対応可能。 あるいは、非居室用途としてコアに収められた設備機器類の改修・交換も居室に影響を及ぼすことなく実施可能な極めて興味深いプラン構成となっていた。

住宅における居室と非居室の明確な分化を目的に導入するコア形式は、このA型に見受けられる中央コアないしは片側コアが自然なのだろう。 一般的居室と非居室の面積配分を鑑みれば、両端コアだとスペースを持て余しかねぬ。 「DEBUT活人広間の家」における二階部分の扱いも、その辺りの考慮に基づくのかもしれぬ。
但し、同社において両端コア形式を採用した事例はある。 このシリーズの第75回(2017年6月11日)及び第187回(2024年2月6日)にて取り上げた、2002年発表の「HYBRID-M マホーの家」※3。 当該モデルは、往時社会問題化していたピッキング等の不正開錠による犯罪被害の増加を受け、防犯に係る安全安心確保を追及。 その一環として提案されたセーフティルームをコア内に設けることで、両端コアの面積的な持て余しを回避した。
近年、未知の疫病や災害の激甚化等を背景にし、セーフティルーム同様に今まで要求されてこなかったレジリエンスに纏わる各種機能や用途の組み込みが住まいに求められるようになって来た。 今までの居室と非居室の枠組みでは分類できぬそれらの室の配置スペースの確保といった点でも、両端コア形式が優位に機能する様になるのかもしれぬ。
時代が、「マホーの家」に追いつき、あるいは「DEBUT活人広間の家」の新たな組み立てを欲するようになるや否や。、

2025.08.17:新建築 2025年8月号

表紙がいつもと全く異なるやや古風な雰囲気。 真ん中に大きく「建築100年 PART 1」と掲げられていて、その手の特集号のためかと納得する。 調べてみると、同誌の創刊号を意識したデザインの様だ。
ページを捲ると各年代における国内外の代表作が次々と登場する。 今まで何度か似たような特集が別冊の体裁も含め刊行されているけれども、それらに近年の動向を加えた追補版みたいな内容かナ、などと思いながらパラパラとページを捲る。 途中に載るテート・モダンに関連したオラファー・エリアソンのインスタレーション作品「ウェザー・プロジェクト」は、何やらタンジェリン・ドリームのLIVEアルバム「ロゴス」のジャケットデザインを彷彿とさせる・・・、などとどうでも良いことを連想しながら見覚えのある画像が多々並ぶ各ページに漠然と目を通すうちに、巻末に載る坂牛卓の論考「空間価値の変容」に至る。 そこには特集の編集方針や、その方針に基づく各分野の概要がものの見事に理路整然と言語化されている。 建築の価値判断指標として7種の分類を提示し、更にそれらを垂直的指標と水平的指標に仕分けする。 その中で、7種の分類の一つ「時間」を垂直と水平双方の指標に位置付ける考え方がとても面白い。 論稿を読み終えて漸く、当該特集の編集方針が単純な各年代の代表作品カタログではないのだと認識。 改めて最初から目を通し直すこととなった。
その編集方針に基づく各ページ構成の中で、この枠組みであれば何故あの作品が載らないのか?などと思えてしまう箇所が少々散見されぬ訳でもない。 あるいは枝葉になるが、新都庁舎コンペに関する短い解説に載せられた磯崎案に対する「物議を醸した」との表現には少々違和を覚えましたかね。 往時のこの案に対する業界の受け止め方は、批判的なニュアンスを含む「物議」よりも、例えば語数を揃えるならば「一石を投じた」の方がより近しい状況だったのではないか。
特集のタイトルに「PART 1」とある通り、来月号は特集のPART2が予定されていると巻頭言に紹介されている。 どの様な内容となるのか楽しみだ。

特集に連動し、巻末に「建築100年企画広告」と銘打ち数十社の広告が並ぶ。 いずれも統一された書式に則り、各社の代表作を一点掲載して短く解説を添えている。
膨大な業務実績の中から自身を表象する代表作を歴史的観点から如何に一点だけ選び出すか。 そしてその代表作をもとに、限られた文字数の中でどの様に自社をアピールするのか。 そんな企画の主旨をしっかり踏まえ、尚且つ建築に対する素養を有する読者を唸らせ愉しませる構成でなくてはならぬ。 その辺の熟慮に基づいた広告は、いずれとても興味深い。 建築専門誌の企画ならではの内容であり、読み物として特集記事本体とは違った面白さがある。 例えば、このプロジェクトにこの企業がこの様な形で関わっていたのかといった新鮮な驚きを愉しめた。
雑誌に載る広告は、発刊時は商利用目的であるが、時間の経過とともに史料的価値を帯び始める。 例えば住宅専門誌であれば、どの時期にどのメーカーがどの様な規格住宅や建材を発売していたのか。 そしてそれらの開発にはどの様な想いが込められていたのか等々、時代の流れに埋没し忘却に付されてしまいそうな情報の保存媒体となる。 即ち、広告以外のページに連なる記事や論稿と違わぬ歴史的価値を宿す。
最初から意識的に歴史的な観点を取り込んでいる点で、「建築100年企画広告」は歴史書としての本書の価値をより高めるのだろう。

2025.08.08:メーカー住宅私考_206
DEBUT活人広間の家 − 大型収納の正しい在り方

※1
ミサワホームの蔵のある家の最初期形態。 上下階の層間に配された天井の低い箇所が、大容量の収納空間「蔵」。
ミサワホームが容積非算入を目的に天井高を抑えた「蔵」と称する収納スペースを組み込んだモデルの商品化を公表したのは1994年※1。 往時の私の受け止め方は、否定と肯定が相半ばした。
その手の収納空間は、小屋裏収納等にて既に一般的に事例があり、特に目新しくはない。 これは否定的な受け止め方。 一方、その空間を「蔵」と命名するセンスは、ミサワホームらしいなと思った。 これは肯定的な受け止め方。 そしてそれを層間、即ち一階と二階の間に設け、そこに1.5層の天井高を持つ一階リビングと組合せる空間構成も面白い。 加えて、本来の二階部分が通常よりも半層ほど持ち上げられるため、狭隘で隣接建物が混み合う立地条件において、眺望や採光の面でも優位に作用しよう。 これらも肯定的な捉え方。 但し、層間に設置するとその出入口は階段の中間踊り場となる。 これは物の出し入れに際し少々不便では無いか。 収容物を居室へ運ぶのに階段の昇降が必須。 小物ならまだしも、大きな重量物は大変だ。 普段使いに支障があると、一度仕舞われたら最後、永遠に収容されっぱなしとなる恐れが無きにしも非ず。 つまり、大収納空間の筈が、単なる不要物の集積所と化す恐れもある。 これは否定的な捉え方。
※2

本文言及モデルとは異なるが、同じくリビングに面して「蔵」を配した事例。 ソファ背後の腰までの高さの引戸が「蔵」の出入口。 内部の天井高もこの建具と同じ。 その直上に約半層分スキップフロアとなった居室が積層。 リビングと障子戸で繋がる。

その後、実際に「蔵」を組み込んだ同社の建築事例を初めて訪ねたのは、遅まきながら2004年。 札幌市内にて分譲中の「it's My Style 庭の家」を内覧した時であった。
その施工事例は、同モデルの販売資料等に一般的に用いられていた代表プランとは異なり、二階にリビングルームを配置。 そのリビングに面して「蔵」とその出入り口が設置されていた。 リビングとは床面が同じレベルだから、リビングへの物の出し入れの際に初期事例の様な階段の昇降は伴わない。 リビングを様々に活用するための什器の収納空間として有効活用される可能性が見い出せる。 更には、「蔵」の直上にリビングより半層高いフロアレベルを持つ和室を計画。 1.5層の天井高を持つリビングルームとスキップフロアで連携。 この構成※2は、良いと思った。
その後、今日に至るまで、プランの中に「蔵」を組み込む手法は、多彩に展開。 層間に留まらず、一階に設けたり小屋裏に設けたりと、屋内に複雑なスキップフロアを創出する手段としても「蔵」が扱われ、多種多様な商品展開が図られて来た。 それであっても、一般的な居室の半分にも満たぬ天井高ゆえに、物の搬出入に当たって四つん這で内部を往来する無理な姿勢を強要する前提に変わりはない。 その点は、「蔵」に対する否定的な価値判断として変わらない。

そこで、1998年4月1日に同社が発表した掲題のモデルである。 以下に一階平面図と内外観画像を引用する。

内観
一階平面図
外観

内観画像は、一階平面図のキッチンを背に室内を眺めたアングル。 右手に、リビングから連続する六畳の和室が確認出来る。 その和室内に見える襖を開けると、中は奥行一間、幅二間の大型収納。 画像では襖が部分的にしか見えぬが、実際には三枚引違いなので、大型の押し入れの様な感覚で利用できる。 更には、リビング側からも内開き扉にて直接出入り可能であることも二枚の画像から読み取れる。
「蔵」とは異なり居室と同じ天井高さが確保された収納が、リビングと和室双方に直接面しているところが良い。 この配置及び連携により、両居室に対する様々な利用形態をサポートする収納空間としてこの大型収納が活用されよう。 即ち、モデル名称に掲げた「活人広間」なる造語が指向する住まい方が具現化される。
パンフレットにも、リビングダイニングルームを「広間」と呼び、大型収納を活用した様々な空間利用を図る提案が掲載された。 例えば、普段使いのソファを大型収納に仕舞い、広々と床坐を愉しむ。 あるいは予備のダイニングテーブルを持ち出して、普段使いのテーブルと合わせ、ホームパーティに興じる、等々。
大型収納、すなわち同義の「蔵」は、搬出入時の使い勝手も踏まえたこの形式が正しい様にも思える。 単に不要物の集積場所と化すリスクを避けつつ、居室と収納双方が有効活用され得るのだから。

当該モデルの特徴は、この「蔵」としての大型収納に留まらぬ。 内観画像左手のコーナー障子に面する部分は、「広縁」の様な扱い。 また、そのコーナー障子右手の壁の裏側は、小さな書斎コーナーの設置が想定されている。 即ち書院の様な設え。
蔵、書院、広縁。 伝統的なそれらの要素が、現代の住宅に現代の形式に置換され配備される。 そんなところも、「活人広間」としての日常生活のサポートが企図されたのだろう。

2025.08.01:3Dプリンター

JR紀勢本線初島駅の新駅舎が3Dプリンターで積層造形され設置工事が完了した旨のニュースを目にした。
その面積は、約10平米。 従来の駅舎に比べるととても小振りで、二人掛けのベンチと券売機を組み込んだ待合い小屋といったところ。 無人駅ゆえに、それで十分なのであろう。 かつては利用客が多々往来し駅員も常駐していた旧駅舎の脇にチョコンと佇むその光景は、どこかユーモラスでもある。

無人駅化に伴い無用の長物となり老朽化が進む駅舎を、必要な機能を満たす適切な規模へと建て替える。 そんな事例は今後ますます増えるのだろう。 でも、その需要に対し3Dプリンターを用いる必然性は如何にある哉。
今回の取り組みは、駅舎に関しては世界初の試みと記事にはある。 しかし初物に拘るのでなければ、他にも様々なプレファブリケーション技術を活用する選択があり得る。
既にある選択肢としてのそれらの技術は、大量生産・大量供給を前提に進展が図られてきた。 しかし3Dプリンター技術は、少なくとも建築生産においては今のところその前提は成り立たない。 むしろ、大量生産のラインに乗せにくい一品生産前提の特殊形状の製作にメリットを見い出し得る。 必然性を求めるとしたら、そこになろうか。

初めて試みのせいか、初島駅舎の造形はおとなしいものに留まる印象。 3Dプリンターならではの意匠とまでは残念ながら言い切れぬ。 でも、今回の取り組みで得た知見をもとに、同じ路線上の他の無人駅を対象に、それぞれの地域性を反映したより個性的な造形の駅舎を3Dプリンターで個別に製作し、それらが百花繚乱の如く並ぶならば、楽しいかもしれない。 あるいはそれによって、話題性を含め利用客の増大につなげるきっかけにもなり得ようか。

最近、知人が勤務する建設系の技術研究所で、ロボットアーム式大型3Dプリンターを中古で購入した。 所内の上層部の面々は大層御満悦らしく、すぐにフル活用する様にと担当者である知人に指示が出されたらしい。 しかし、一体何に使えば良いのか。 如何なる技術開発テーマを与えれば良いのか。 これといったビジョンは見い出せず、考えあぐねて取り敢えず研究所内の外構部分に置くベンチの製作を考えた。
所用で訪ねた際に試作品を見せてもらったが、座りたいという気分を全く起こさせぬ奇妙な形のそのベンチの背後には、失敗作が累々と並ぶ。 材料を射出するノズルにトラブルが発生し、制作途中からトンデモなくグロテスクな形状に変わり果ててしまったり、あるいは基材の配合ミスにより自重で全形がひしゃげてしまったり・・・。
それらを見るにつけ、3Dプリンターによる積層造形は未だ発展途上。 しかし、だからといって検証を避ける理由にはならぬ。 新進の技術に係る貪欲な取り込みや研鑽の積み重ねが、更なる技術を進展させるのだろうから。
とはいえ、基本的な価値観がラガードの私は、単純には距離を置きたい・・・と、失敗作を眺めながら考えてしまうのであった。

2025.07.25:新建築 2025年7月号

霞ケ浦どうぶつとみんなのいえ
橋一平建築事務所

冊子をパラパラと捲る手がピタリと止まる。
64ページから65ページに見開きで載せられた写真。 そこには、遺棄された建物に植物が侵食し始め、野生動物が思い思いに往来しているかの如き風景が映し出されている。 瞬時にカル・フリン著(訳:木高恵子)の「人間がいなくなった後の自然」に綴られた現実世界を想起した。 そこで紹介された事例程に深刻ではないにせよ、この状況は一体なんだ?と思いながら前のページに戻る。 すると、掲載されている内外観画像の殆どにキリンが写り込む何ともシュールな紙面構成。
但しキリンの背後に映る建物は、全てが廃墟然としたものではない。 新たに追補された部位も散見される。 その新旧のあわいに、地上から高く持ち上げられた歩廊がうねうねと曲面を伴いながら挿入され、その内側にキリンが佇み、あるいは霞ヶ浦への視線が開ける。
不思議な状況に関心を持ち設計者の論稿に目を通すが、建物そのものよりも設計に纏わる思想の話が中心。 むしろ、新たな用途に供するために、既存建物にどの様に手を加えて今現在の姿に変容させたのか。 その過程を概念図の提示も含め具体的に詳述して貰った方が読み物として面白かったのかな、などと思ってしまう。
とはいえ、実際に観に出向いたみたい気分にさせられる作品。 空間を体感したいのか、それともそこにキリンが佇む状況を目撃したいのか良く判らないのだけれど。

エアリスベース
平田晃久建築設計事務所

86ページから87ページの見開きを目一杯使って載せられた内観画像がとても印象的。 段差を積極的に取り入れたその構成は、昨今の主流であるバリアフリーの思想とは一線を画す様でもあり、あるいは図書館として求められる書棚のレイアウトに関わる可変性に制約を課しそうに思えなくもない。 でも、それを超える魅力や特質がそこに容易に視認される。 それは、奥へ奥へと自然に来訪者を誘う空間的な仕掛け。 高低差と、見通せない動線計画が中庭を介し一筆描きで円環を成す。 その構成と、設計者の解説文との符合も見事。 こちらは読み物としてとっても面白い。
床面の高低差処理に関し、段床の末端とスロープが手摺を介さず直接取り合う箇所が、見開きの画像に確認できる。 安全策として床面に「段差あり」の注意喚起表示がなされ、且つ段差を視認させる鋲が等間隔に打たれてはいるが、果たして措置として十分か。 この手の納まり箇所は、供用開始から暫く経って、より強力に注意を促すためにトラテープが無造作にベッタリと貼られてしまうケースに事欠かぬ。 果たして、この事例においてはどうだろう。 些事ながら少々気になった。

Satologue
堀部安嗣建築設計事務所+NIa

隠居後、当該施設の宿泊棟の一室くらいの規模の住まいにて静かに暮らしたいものだと思いつつ、物欲に塗れた現実がその希求との距離を無情に刻む。 それでなくても、日常生活を送るならここにキッチンを付けて、更にユーティリティや予備室を・・・などと考え始めると、途端につまらなくなってしまう。
素材の扱いや納まりがとてもきれいで、ゆっくりと佇んでみたい作品。

2025.07.15:AI生成

大学院の博士課程に在籍する知人から長文の草稿がチャットで届く。 何だろうと思って添付ファイルを開けてみると、なかなかに興味深い内容。
その知人の文章を読む機会はこれまでも何度かあった。 しかし今回の原稿にはやや違和を覚える言い回しも散見された。 例えば、引用が集中する箇所があったり、あるいは文末が「ですます」調で統一されている等。 敬体を用いたのは、それが論文ではなく書籍等に掲載する原稿だからかな・・・、などと思いながら二万字を超える文章に目を通す。 でもって真面目な感想を一生懸命考えて返信すると、してやったりといったニュアンスで、実はAIで生成した文章だとのコメントがプロンプトと共に返って来た。
愕然とした。 やや気になった違和はAI生成が原因か、などと思いつつ、しかし言われなければそうとは気づかぬ出来栄え。

こうなると、論文の執筆や推敲、そして査読の作業とは一体何なのだとなる。 なんて書くと、何を今さら・・・ってなるのでしょうかね。 もはや自身の知見を動員して文字を書き連ねる能力や労力には全く価値は無く、自身が満足出来る文章を如何に手早くAIに書かせるか、あるいは推敲させるかといったスキルが重用される時代に入って既に久しいのだろうか。
でも、推敲や査読に係る的確な判断には、やはり自身の作文力が欠かせないし、そのための継続的な鍛錬も必要だと思うのだけれども、それすらAIに依存してしまう時代なのだろうか。

後日、同じ知人から別の原稿が届く。 一計を案じ、私の替わりにAIに読み込ませ原稿を評価するよう指示を出し、生成されたコメントをそのママ返信しようと企てた。 でも、生成文に目を通していたら原稿自体に関心が沸いてきて、結局全て読んでしまうことに。 なるほど、AIの活用にはそんな作用もあるのだな。

試しにここまでの文章を同様に評価させたら、構成や文法や表現方法のほか、改善点や総括を箇条書きにして簡潔に取り纏めたコメントが瞬時に返ってきた。 一部引用すると、

最後の「結局読んでしまうことに」というオチが効いていて、思わず微笑んでしまいました。 AIに関する懐疑と受容のあわいに揺れる筆者の心情が、ユーモアを交えて巧みに描かれています。

との評価。 AIでも微笑むんだな、などと思わずこちらも微笑んでしまうと共に、提示した文章の内容に沿った無難なコメントが取り敢えずちゃんと生成されていて感心する。
でも、コメントに載る改善点を受けて、「それを踏まえてもっと良い文章を作成して」とAIにお願いする勇気は、今の私にはまだ無い。

2025.07.09:メーカー住宅私考_205
和室か、和の要素か

※1

ハウジング・トリビューン誌2025年6月27日号(通巻705号)の特集は「今、和室を考える」。 このテーマを巡り、神戸芸術工科大学学長松村秀一氏と大手ハウスメーカー四社の座談会の様子が収録されている。

興味深く目を通したが、議論の流れは最初こそ「和室」を巡る現況の確認。 しかし以降は、司会の松村氏が和室の議論を深めようと話を振るが、各メーカーの出席者の発言は和室そのものよりも、和風や和の要素へと移ろいがち。 考えるべきなのは和室なのか、それとも和の要素なのか。 「和室」や「和風」の定義がしっかり決まっていないと、何を議論すべきなのか曖昧になりかねぬ。
畳が敷いてあれば和室なのか。 床の間が無ければ和室とは言えないのか。 居室の多くを和室で計画すれば和風住宅なのか。 和室が無くても和風の表現は可能なのか。
各社の昨今の商品開発の動向は、最後の四点目に主眼が置かれている様な印象。 それは、和の要素を更に再解釈した「和風風」ないしは「和感」とでも言うべきものなのかもしれぬ。

和風の問題に関し、例えばこのサイトの「住宅メーカーの住宅」のぺージに登録しているミサワホームSIII型について、敢えて和風という切り口で言及を行った。 とはいっても、建物ボリュームは四角四面。 総二階のほぼ直方体。 その外表に取り付くディテールも和風の伝統的なそれからはかけ離れている。 にも関わらず、全体から受ける印象を洋風と和風の二択で問えば後者となろう※1


ミサワホームSIII型外観
それは、伝統的なディテールを踏襲するのではなく、それを工業化住宅としての生産性の枠組みの中で巧みに再構成しているため。 あるいはそれこそが、和風風とでもいえる意匠の手法なのかもしれぬ。
内観も、四間四方の狭隘な容積の中で、和室とリビングルームを続き間にしつつ双方にバラバラなインテリアを与えるのではなく、リビング側にも和風の仕上げを導入して統一感の獲得を図っている。 あるいはその和室も、壁一枚隔てて隣接する玄関側に床の間に寄り添う書院を配置。 書院と下足入れを縦に重ね、玄関側にも和の情緒を小さなスペースの中に巧みに造り出している。 そして極めつけは標準搭載が決まっていたソーラーシステムの形態処理に錣屋根を援用する発想の柔軟さ。
これらを踏まえ、当該モデルについて「直方体の和風住宅」とのサブタイトルを付けて取り上げてみた。

※2
発表当初の名称。 現在は、「CENTURY SUKIYA」と改称されている。


※3
it's MY STYLE「SUKIYA」施工事例外観。 和風のプロポーションとしてややいびつな印象。

例えば、いわゆる「入母屋御殿」にでもすれば違和の緩和が期待されるかもしれぬが、それでは数寄屋にはならぬ。

一方、同社がSIII型から約四半世紀後に発表した「it's MY STYLE「SUKIYA」」※2は、その名の通り数寄屋への意識が明白でありながら、実見した際の外観の印象は和風としてはややいびつなものであった。 当該モデルの販売資料に掲載されるモデルとほぼ同形の茨城県内に建つその施工事例は、伝統的な意匠に接近しつつもプロポーションが和風から遠ざかっていた※3
それは同社が売りにしている「蔵」と呼ばれる容積非算入を目的に天井高を抑えた大容量の収納空間をプランに組み込んだため。 上下階の層間及び小屋裏に「蔵」を配置したために生じた急勾配屋根と2.5層のボリュームが、あたかも洋風の住宅が和風の意匠を纏っているかの如き雰囲気を醸す。
「擬洋風」という言葉があるが、その対置として擬和風という言葉が浮かんだ。 何をもって和風とするのか。 一階に和室を三部屋矩折に連続させ、玄関ホールにも畳を敷き込み本格的な和風住宅を指向したその事例を前に軽く悩んでしまったのは、既に二十年以上前の出来事。

その「SUKIYA」に関し、冒頭の座談会で大和ハウス工業の方が興味深いコメントをしている。 果たしてその方が仰るように、「SUKIYA」は早過ぎたモデルなのか。 今だったら、どの様な商品化があり得るのか。
個人的にはSIII型の様に工業化住宅の枠組みで和の要素を改めて再構築できないものかと思う。 そこにこそ、暮らし方や居住まいをも含めた和室の継承の可能性がある様に思うのだが。

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