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雑記帳
2013.05−2013.06
2013.06.26:メーカー住宅私考_31
construction site

新建築の6月号に南極昭和基地が掲載されている。
御存じの方も多いと思うが、同基地施設の殆どはミサワホーム製だ。 最初の受注が1968年であるから、会社を設立して間もない頃の仕事。
まだ実績も僅かであった同社にこの様な極めてハードルの高い仕事が持ち込まれるというのは、なかなかに大胆なことにも思える。 しかしそれはあながち、単なる時代の勢いということだけではない。

同社は、創業当時から今日に至るまで、住宅建設の手法として独自に開発した木質パネル接着工法を脈々と用いている。 工場で生産したモノコック構造の木質パネルを現場に持ち込んで接着剤で組み立てるというもの。
この前代未聞の工法の事業化にあたり、住宅用途においては初めてとなる旧建築基準法の38条認定を1962年に取得。 その認定にあたっては、創業者の出身大学である日大の協力の下、数々の試験を実施している。 住宅の工法開発における産学連携の先駆例なのではないだろうか。 そんな真摯な技術への取り組みが評価された面もあろう。

さて、最近偶然同社の施工現場を見かけた。
実はミサワホームを含め、各メーカーの施工中現場を観る機会には数度しか恵まれていない。 珍しいこともあって暫し施工の様子を眺めていたのだけれども、少々奇異に映る。
同社のアイデンティティである筈の接着剤の塗布が何だかとってもラフ。 むしろ、補完的に用いるスクリュー釘の打込みの方が念入りだ。 何か接着工法って雰囲気ではない。 ハタからは、接着剤の使用が形骸化しているのではという印象すら持つ。
いや、実際のところ、旧38認定にあたっても、構造耐力の担保は接着剤ではなく併用するスクリュー釘に拠るという解釈でクリアしているのだそうだ。 しかし、実際には接着剤が主である。 昭和50年代の同社のリーフレットには、現場でパネルを組み立てる際に専用の器具でパネルどうしの接合面全面に接着剤を塗布する画像を載せたものもあった。 その画像のことを思うと隔世の感。 まぁ、工法や材料が確実に進歩していることの顕れではあるのだろう。

それにしても、同工法の施工風景を観ていても、あまり高揚感が沸かぬ。 伝統的な木造軸組み工法の建て方を眺めている際のワクワクする様な感覚に浸れぬのは、どうしたことか。

2013.06.20:都市のワームホール

ワームホール (wormhole) とは、Wikipediaを紐解くと、「時空のある一点から別の離れた一点へと直結する空間領域でトンネルのような抜け道」とある。 難しいことはよく判らぬが、任意の場所から任意の場所を結ぶ意外な経路と読み替えるならば、都市の中にはそのような場所が人知れず堆積している。 そして、そんな場所を見つけることも、街歩きの楽しみではある。
例えば、JR新橋駅と有楽町駅の間に在る「西銀座JRセンター」などは、そんなワームホールの一例と言えるのかも知れぬ。 東海道線新幹線高架の下に二階建ての構成で形成された空間。 そこには店舗や事務所や倉庫が、線形に延々の如く続く。
新橋駅側からアクセスするならば、その入り口は新幸橋交差点から高架下に入ったところとなる。 そこから銀座側のみゆき通りと交差するまで、距離にすると300mくらい。 しかし、薄暗くて単調で無機的なため、それ以上の距離感を覚える。 そしてどこか昭和中期の様相を保持し、季節に関わらず常に一定の温度で冷え切っている様な気がする。

ところでこのアーケード状の空間は、みゆき通りで終わりではない。 通りを挟んで向かい側にも同様の経路が続く。
幅員はより狭く、天井も低い。 途中までは飲食店が連なるが、それより先は薄暗い通路のみとなる。 その様子は下の写真の通り。 こういった空間が、大都会の真ん中に現存するところが、なかなかうれしい。
この通路は有楽町駅の手前で一旦途切れるが、有楽町駅の東京駅側で再び同様の空間に出会うこととなる。 途中で道路を挟み、更に「有楽町高架下センター商店会」に接続し、東京駅間際の鍛冶屋橋通りまで続く。 つまり、新橋駅から東京駅まで、その高架下に三駅を断続的に結ぶようにトンネル状の空間領域が連なる。
そこは、一旦中に入ると外部からは孤絶した異空間。 今となっては希少な佇まいかもしれぬ。

この三駅の区間は、なんとなく散策してみたい雰囲気の界隈ではある。 散々彷徨して疲労した体を引きずって帰路に就く際は、この経路を利用することが時折ある。 人の往来は少ないし、信号待ちも少なくて済む。 雑踏にまみれて疲労を余計に増すことも無い。
こういった空間を多く知っておくことも、街中散策においては大切なことかもしれぬ。

2013.06.15:メーカー住宅私考_30
北海道のプレハブ揺籃期

※1

北海道における大和ハウス工業の初期戸建て住宅建築事例。
外観に用いられているパーツ類は、同時代の本州以南のものとほぼ共通なので、同社のものと判別可能。
旧態をよく残し、丁寧にメンテナンスが施され住み続けられている。

前川國男のプレモスや、田辺平学のプレコン。国内のプレハブ住宅の歴史を紐解くと、これらの名称が必ず出てくる。
双方とも、北海道において何棟かの建築実績があった。 前者は終戦後に茅沼炭鉱や庶路炭鉱に。 そして、後者はほぼ同じ時期に美唄市内に、いずれも炭鉱職員住宅として建てられたという。
現存の有無は確認していない。 しかし、プレコンの方は外装として全面にモルタル塗りが施されていたというから、万年塀の組み立てにも似たPCa構法の特徴を外観にて確認することは出来ないのであろう。
いずれも建築戸数は限定的なものに留まった。

その後、北海道において公営住宅を除く戸建住宅にプレハブ構法が採用されるのは、10年近くのブランクを経た1960年代。
1958年から仮設の「パイプハウス」を道内でも販売していた大和ハウス工業が、1960年より一戸建て住宅の事業を始める。 同年の秋頃、積水ハウスも同社の最初期モデルであるA型をベースとした平屋建て53平米の試作住宅を札幌市内に建設している。 その後、ミサワホームも1965年に進出。 同年、ナショナル住宅産業(現、パナホーム)も札幌市内に試作住宅を建設するなど、プレハブ住宅メーカーの進出が相次ぐ。
その中でもダントツの販売実績を誇っていたのは、先鞭をきった大和ハウス工業※1。 1970年までの10年間に累計で1400棟を達成。 ほぼ同じ時期に参入したはずの積水ハウスの累計が同じ1970年時点で38戸。 そして約5年出遅れたとはいえ積極的な営業展開を図っていたミサワホームが186戸というから、桁が異なる。
大和ハウス工業の社史を読むと、寒冷地で実績を積むことが技術力の向上につながるという明確な意図を持って北海道に進出した旨が書かれている。
それはミサワホームも同様であったらしいが、あまり振るわなかったのは当時の企業力の差であろうか。
積水ハウスは対照的で、あまり前向きでは無かったようだ。 販売展開は商社への業務委託であり、更に数年で事業を中断した経緯がある。

この時期における大和ハウス工業の展開については、また別の機会に。
また、北海道におけるプレハブ草創期の特徴として、官民共に木質系工法の開発が盛んであったことが挙げられる。
例えば、国策木材の“国木ハウス”や材木に鉄芯を挿入して構造体をパーツ化した丸高木材工業の“丸高ハウス”等。 他にも、いくつかの製材メーカーや合板メーカーが事業化ないしは商品化の検討を進めていたようだし、北海道立寒地建築研究所(現、北海道立北方建築総合研究所)においても研究が進められていた。
この辺りは、産業構造を含めた地理的特性があったのかもしれぬ。 調べてみる価値はありそうだ。

2013.06.08:メーカー住宅私考_29
建築家の参画

※1
ネットで調べると、同じ名称の会社が幾つかある様だ。
ここで取り上げるのは、1965年に設立し、名古屋を本拠地に2001年まで事業を展開していたメーカー。
プレタメゾンというブランド名を冠したコンクリート系プレハブ住宅の他、ツーバイフォー工法も手掛けていた。

草創期のコンクリート系プレハブには2種類の構造形態があった。
一つがコンクリートパネル製の床・壁・屋根を組み合わせて、住宅を作る工法。 代表格といえば、大成建設のパルコンになろうか。
もう一つの工法が、壁パネルの頂部に臥梁(がりょう)と呼ばれる構造体を廻して支持する工法。 臥梁から派生する片持ち梁を軒先のデザインに組み込むことで、外観のアクセントとしていた。
かつては様々なメーカーがこの臥梁を用いた工法を採用していたが、最近はあまり事例を見かけない様にも思える。 しかし例えばレスコハウスなどは、その工法を用いたモデルハウスを二十年以上に渡って現役で公開している。

コンクリート系プレハブ草創期においては、この二種類の工法区分に従い、外観も概ね二種類に集約されていた。 つまり、パルコン系とレスコハウス系である。
そんな中にあって、大栄住宅※1が1976年に発表した大栄プレタメゾン930は異色だ。 属性としては、パルコンと同様の臥梁を伴わないコンクリートパネル組み立て工法である。 しかしその外観は、パルコンのそれとは大きく異なる。
草創期から1980年代初めあたりまでのパルコンは、生産性を高めるため、工場で製造するコンクリートパネルの種類をなるべく集約する様に形態が組まれていた。 だから、同じ規格の窓が無機的に外壁面に並び、屋根庇の表情も単調。 ちょうど、1950年代を中心に公団が怒涛の如く建設した規格型団地の住棟の一部を切り取って戸建住宅にした様な、そんな変化に乏しい外観が基本となっていた。
ところが、大栄プレタメゾンは違う。 様々な形態の窓が取り付けられている。 更にオーバーハングさせた袖壁があったり、立面によって屋根庇を出したり出さなかったりといった形態操作を行い、変化のある小粋なデザインを実現していた。
その変化に富んだ外観デザインそのままに、屋内にも吹抜けを設ける等、同時期の他社では実施していないプランニングを可能としていた。
構成するコンクリートパネルが比較的小型であったことが、設計の自由度を高めたのかも知れぬ。 そして、設計監修として建築家・山下司が参画していたことも、大きかったのであろう。
建築家と住宅メーカーのコラボレーション。 今ではそんなに珍しいことでは無いが、ひょっとしたらその先駆例であったのではないか。

ちなみに、同社が本社ビルとして1973年に建てた「大栄ビルヂング」は、ポール・ルドルフが日本で初めて手掛けた実作だ。
新建築誌の1973年11月号に同作品が掲載されているが、共同設計者として山下司の名前も載せられている。 大栄プレタメゾンの監修は、そんな繋がりから実現したことなのかもしれない。

2013.06.02:【書籍】チャンネルはそのまま

単行本の1〜4巻を古本屋で購入。
今のところ5巻まで出版されているのだけれども、在庫が4巻までしか無かった。 まぁ、最終巻を含め、楽しみは後々にとっておくことにいたしましょう。
なにやら通常のコミックよりもサイズが大きいし、装丁も浮出し印刷が施されていて豪華な装い。 その分、定価が高いということなのでしょうね。

5月19日の雑記にも書いた通り、札幌市に拠点を置くテレビ局を舞台にした作品。 だから、かつて私が札幌市内に住んでいた際の居住地近傍が舞台に出てきたり、あるいは今現在の実家の周辺が仔細に描き込まれたコマが有ったりと、なかなかに愉しめる。
例えば、第2巻に収録された「二千円問題」のエピソードの中に、主人公と同期入社の山根一が市営地下鉄環状通東駅の1番出入口の地上部に立っているシーンがある。 その背景の描写は、実在する風景に基づいている。 アングル的にも正確。
そこにさりげなく描かれた商業施設併用マンションは、地下鉄東豊線の開通に合わせて建てられたもの。 同時期に周辺一帯で開発が実施され、風景が様変わりしたことを私はリアルタイムに観ている。
ということで、描写するロケーションについて、しっかりと現地調査を行っているという印象。 恐らく、他のコマの背景についても同様なのであろう。
それ以外にも、ジンギスカンや観楓会、あるいはウィズユーカード等々、ローカルな小ネタが満載だ。

勿論、だからといって地元ウケばかりを狙うに留まった作品という訳ではない。 「バカ枠」にて入社した主人公、雪丸花子の破天荒な振る舞いが引き起こすエピソードを、テレビ局への綿密な取材を織り交ぜながらリアルに描いている。
この「バカ枠」なるものが何なのかは、ここには書けない。 能書きを垂れるほど明瞭に理解するには未だ至っていないためだ。
5巻以降の最終話までのストーリーの中で、その真髄がしっかりと組み立てられていくのであろうか。 興味を持たれた方は当該作品を読んで御確認頂きたいところではあるが、なかなかに深遠な組織論がテーマとなっている様にも思う。 組織に活力をもたらす点において「バカ枠」が侮れぬ立ち位置に在ること。 そんなことが、4巻までのいずれのエピソードにも通底している。
もしかすると、ある程度の規模をもつ現実のあらゆる組織において、「バカ枠」が何らかの形で必ず存在するのではないか。

え、実はお前自身が「バカ枠」なんじゃないかって?
それは無いです。
だって、私は「バカ枠」にも至らぬ単なる「ダメ枠」ですから・・・。

2013.05.28:ランドマークの色彩

さっぽろテレビ塔が、全面塗装工事のために仮設足場で覆われている。
高さ約150mの構造物のほぼ全体がすっぽりと養生シートに包まれた非日常的風景は、それはそれで面白い。 しかし、どうせならクリストの如く壮麗に梱包すれば、期間限定の観光資源として今回の全面改修を有効活用出来たのではないか。 予算等いろいろと制約があったのか、あまり美しいとは言えぬ仮設に留まっているところがちょっと残念。

今回の工事にあたっては、その塗装色をどうするか議論が有ったらしい。
地元メディアには、現況を踏襲しつつ部分的に新たな彩色を取り入れる案と、装いを新たに白一色とする案が紹介されていた。 結局、前者に落ち着くこととなったが、後者の案も捨てがたい魅力があった。
現況の赤色塗装の選択は、改正前の航空法の制約が大きく関わっていたに過ぎないし、いかにも東京タワーの矮小版的だ。 それに、近年塗装された低層展望フロア外壁部分のどぎつい緑色も、下品以外の何ものでも無い。 もしもそれらが清楚なスノーホワイト色に改められたならば、個性の無い退屈な札幌の市街地の中にあって、いかにも北の都らしい美しい景観が創出されたかもしれぬ。
白一色案を否定する理由の一つに、降雪期における構造体の視認性が挙げられたそうだ。 しかし、雪の降り方によってそれと同化したり、あるいは忽然と立ち現れる光景もまた北国ならではの風情ではないか。

都市のランドマークとして位置づけられている構造物の色というのは、とても難しい。 長年同じ色のまま推移し、その色を含む景観が馴染み深い風景として定着している場合は尚更だ。 それをガラリと変えることには、相当の覚悟と決断が必要ということなのであろう。
とはいえ、テレビ塔が優れたランドマークに該当するかというと、微妙なところ。 全長1.5kmにわたって都心部を線形に貫く大通り公園の東端に位置するというロケーションに救われて、何とか馴染み深い風景として認識されているだけという感が無きにしも非ず。 それ自体は、特に優れた外観を持ち合わせているとは言い切れぬ凡庸な構造体でしかない。
その周囲には、同様の高層建物が次々と完成、あるいは計画が策定中であり、必ずしも突出した存在感を堅持出来る状況でもない。 今回の全面塗り替えは、そんな立ち位置を色彩によって改める良い機会だったのではと思うのだが。

2013.05.23:さくらアパートメント

私の現在の居住地近傍に建つBFA型の事例。
外観目視の範囲では空き住戸が目立つ。

表題の名称を冠したプレハブアパートのリノベーション現場が公開される旨、知人から案内を頂いた。
残念なことに平日開催。 仕事の予定が入っていたため、赴くことは出来ず。
まぁ、改修工事が実施される前の状態を観ることが出来るとか、あるいは構造体が剥き出しになった施工中の状況を拝めるのであれば、予定を蹴ってでも現地に向かったことでしょう。 しかし、工事がほぼ完了した状態ならば、敢えて観る必要も無いかなということで断念。

事業者である株式会社ブルースタジオが開設するサイトに載せられている外観写真やスケッチを見て、元々の建物が積水ハウスの低層アパート、BFA型であることは即時に判った。
同社が1975年2月に発表したアパート。 今回のリノベ物件は築38年とあるから、発表されて間もない頃の建築事例ということになろう。
場所は東京都世田谷区の経堂。 閑静な住宅街の一画である様だ。

サイトを観ていて面白いと思ったのは、70年代プレハブであることを強調している点。
築年数を経た物件を取り扱う場合、それが希少性の高いいわゆる“ヴィンテージマンション”と位置づけられるものでも無い限りは、古さを宣伝材料にすることはあまり無かろう。 ましてや、凡庸なプレハブアパートとなれば、尚更だ。 しかし、当該プロジェクトにおいてはそれを敢えてやっている。
築年数の経過を、不動産価値の目減りではなく付加価値として積極的に捉え、そのことを補完すべく建設当時の世相などもページ上で紹介しながら、70年代プレハブの魅力付けを図っている。

この様な広報戦略を用いる場合、リノベーションを進めるにあたっては、今現在の平準的な居住性能の確保を鑑みた適切な改修の実施は勿論のこと、それに加えて旧態のデザインに込められていた思想や指向も十分に継承する必要があろう。 そういったことが如何ほどに実践されているのか。 その度合いによっては、通常の賃貸アパートの模様替えとなんら変わらないということにもなりかねぬ。
あ、やっぱり確認すべく内覧会に出向くべきであったかな・・・。

今回の手法は、賃貸事業としてどの程度の効用をもたらすのだろう。 その成果次第で、全国津々浦々に数多存在する同様の既築アパートの活用に向けた一つの手法として定着することも期待されよう。

2013.05.19:画像の中の風景

5月12日に朝日放送の日曜洋画劇場にて「探偵はBARにいる」の第一作目が放映された。 第二作目の映画公開に合わせた宣伝の一環としてはよくあるパターンですね。
北海道を舞台にしたこの御当地映画のことは、元札幌市内在住者として少々気にはしていた。 けれども、結局映画館に足を運ぶには至らず。
で、この際だからと録画し、一週間経ってようやく視聴と相成った。

映画とかドラマは殆ど見ないので良く判らぬが、しっかりと練られたストーリー展開だなと思った。 主演の大泉洋も小雪も、ハマリ役という印象ではある。
でも、途中に出てくるレンガ積み外装の長屋住宅に住んでいるオバサンの境遇が、あまりにも不憫。 フィクションとはいえ、思い出すたびに気が滅入ってしまう。 その理不尽且つ凄惨極まりない最期は、映画の終盤に待ち構える哀しい復讐に向けて物語を収斂させていくためには無くてはならぬプロセスの一部と位置づけられるのだろう。 しかしそうであったとしても、公開中の第二弾を観に行くか否か逡巡させてしまう程に悲惨。
こんな気の小さい私に、ハードボイルド(?)はちょっと無理ですかね。
とはいえ、録画した映像の中には懐かしい風景も満載であった。
しょっちゅう北海道に帰っているのだから懐かしいも何もないけれど、でも例えば西田敏行扮する財界人の殺害現場は今は更地になっていて、映画と同様の風景は現存しませんよね。 そういったことを映像の中に見つけ出すことが出来る辺りも、御当地映画の楽しさではあるのでしょう。

御当地モノというと、「チャンネルはそのまま」という漫画もありました。
週刊ビッグコミックスピリッツに連載されていた、札幌のテレビ局を舞台にした作品。
前にも書いたけれど、漫画週刊誌の類いは定食屋等に入った際にたまたま置いてあるモノを気まぐれで読む程度。 だからこの漫画も数回しかお目に掛っていないのだけれども、ところどころにローカルネタが出てきて心和む作品。
確認のためネットで調べてみたら、最近最終回を迎えたそうで。 改めて読んでみるべく、古本屋で単行本を探してみようかな。

2013.05.16:歌舞伎座

三原橋交差点から眺めた外観。
右手に歌舞伎座。背後に歌舞伎座タワー。異種のぶつかり合いはこれだけではなく、左に建つ近隣既存建物(実は一棟ではなく二棟建っている)も異物な要素として風景の中に収まっている。

この近隣建物のうちの一つ、「日章興産ビル」は窓廻りにどことなく村野藤吾っぽいディテールを纏っているという雰囲気で前から気になっているのだけれども、設計者は今のところ、まだ調べきれておりません。

木挽町通り側外観

歌舞伎座の建て替え事業が完了し、様々な専門誌に紹介されている。
このプロジェクトに関する個人的な興味は、意匠統括を担当した隈研吾が作品に対してどの様な言説を展開するかということのみにあった。 で、早速新建築誌の5月号の巻頭言を読んでみるが、なんだか拍子抜けであった。 氏にしては随分と精彩を欠いているナ、などと畏れ多くも持ってしまう。

最初に述べておくと、完成した建物全景を見渡した際の私の第一印象は、とっても面白いネという肯定的なものだ。 恐らく後世の建築史家は、二十世紀末から今世紀初頭における国内の都市的状況を議論する上で、事例としてこの作品を第一に掲げることになるのではないか。
それなりに歴史を重ねてきた建造物のイメージ再生を含む再開発計画と、その事業を資金面で可能とするための不動産事業スキームに纏わるテクノロジーとのあからさまな融合、ないしは対峙。 既に多数存在する同様の開発事例の中にあって、今回の歌舞伎座の鮮烈さは突出している。 如何物和風RC建築の忠実な踏襲を必須条件としつつ、その背後に超高層ビル配棟する。 そんな無茶な計画におけるデザイン処理の整合性を実現させる魔法の杖など、存在しよう筈もない。 つまりは、最初から不幸をドップリと背負ったプロジェクトであった。 そしてその不幸がそのまま露呈した様態は、こんにちの都市建築の立ち位置そのものを直截且つ雄弁に物語っている。
そんなところが、「面白いネ」という第一印象に繋がる。

だから、新建築誌の巻頭言ではそのことをもっと掘り下げて論述して欲しかったとも思う。 それでこそ、サブタイトルに付けている「アゲアゲアーバニズム」について、その本質を明確に提示することが出来たのかもしれぬ。
ところが実際の文章は、最初の1/3はひたすら弁明に終始している感がある。 しかも槇文彦の「漂うモダニズム」という論文を引用の域を超えて大量に用い、その所見を漫然と述べるのみの退屈な展開だ。 挙句に、「モダニズムの大船はどこにも存在しない」から誰も「歌舞伎座を批判することはないだろう」と言われても、単なる開き直りとしか思えぬ。 それこそ、今まで破竹の勢いで展開してきた氏の言説や作風からは遠く離れた今回の作品についての言い訳とそのプロセスにおける逡巡の吐露でしかない。 そんなことのために自らの論文を大量に引用された槇文彦も、迷惑千万なのではないかなどと余計な心配をしたくなる。
後半の1/3も同様。 ヤンキー建築論なるものの提示があまりにも唐突。 そしてそこでも槇文彦が登場し、ヤンキーっぽいなどと論評されてしまっているが、これも御本人としてにとっては余計なお世話以外の何物でも無かろう。
ということで、弁明のために3.11だのヤンキーだのアゲアゲだの大船などと、色々なタームを論って長文を書き連ねているようにしか受け止められず、どうも腑に落ちぬ。

しかしそれとは別に、文章中盤の1/3部分はとっても面白い。
歌舞伎座の一期から先代にあたる四期までのデザイン的変遷に対する所見。 それは、単にキッチュとしか映らなかった当該施設に対する新たな視線をもたらしてくれた。
恐らくこの文面の個所を引き継ぎつつ、第五期の立ち位置やプロジェクトの背景についてしっかりと掘り下げれば、明晰な巻頭言になり得たのではないか。 つまり、巻頭言とは別に同誌5月号の53ページに掲載された御本人の歌舞伎座についての文章をさらに拡張したものとのミックスだ。
とはいえ、53ページの文章も少々腑に落ちぬところがある。 S造にしたから脱工業化社会を表現出来たって、安直過ぎませんかね。 構法的にはそうであったとしても、閉鎖的であったと指摘する木挽町通り側のファサードは、RC造の頃の居住まいが規模の拡大を伴いつつ踏襲されているのだから。

まぁ、こんなこととは別に、休日に現地に赴いた際、周辺一帯は建物見物を目的とした訪問者で溢れかえっていた。 建物に向かってカメラを構える群衆や、スケッチに勤しむどこかのカルチャーセンター御一行様と思しき団体等々。
そこに在るのは、剥き出しの「アゲアゲアーバニズム」への共感なのであろうか。

2013.05.13:メーカー住宅私考_28
ラインアップの意味

四月下旬に、珍しくミサワホームのカラー刷り一面広告が新聞に掲載された。
年内に住宅を取得しようとする人をターゲットにしたゴールデンウィーク商戦の一環として、この時期には不動産関連の広告が増える。 この広告も、そんな流れの一つであろう。
紙面には、同社の設立45周年を記念した商品群として、GENIUS ViとGENIUS Ziという総称を冠した合わせて十数種のモデルの外観CGが載せられている。 どれどれ、どんな新商品なのだと思いつつ個々のパースを眺めるが、いずれも見覚えのあるものばかり。 そして宣伝文の中には“集大成”という語句がある。
45年なんて半端な数字だし、あるいは顧客にとっても会社が設立何周年かなんてどうでも良いことだ。 あるいは、45周年の広告に打つために新商品を掲げなければならぬ必然性は無い。 ましてや、ゴールデンウィーク商戦のためにわざわざ新商品を開発し発表しなければならぬ訳でも無かろう。
であるとしても、45年間の集大成が既発表モデルの寄せ集めとは、ちょっと寂しい広告展開ではありますかネ。

メーカー側が住まい方やデザインを先導するモデルを発表し世に問う時代は遠い過去のもの。 今は、個々の顧客が持つあらゆるニーズにソツなく応答する体制が求められている。
そんな状況下においては、メーカーの商品は商売に繋げるためのきっかけとしての参考アイテムに過ぎぬ。 せいぜい、過去の商品を“集大成”などと称し焼き直して宣伝していれば十分ということなのか。

勿論、今回の広告一つをとって、同社が、あるいはこの業界全てがそんな状況に在るのだなどと決め付けるつもりは毛頭無い。 それに、かのミサワホームO型の再来を期待するような世の中でもないことを、半ば諦めの感も含めつつ承知しているつもりではある。
それでもなお、住宅メーカーだから出来るテーマって多岐に亘っていると思う。 そしてそれに沿う商品体系の在り方も、様々考えられ得るのだと信じたい。

2013.05.06:連載後記

長岡の情報誌マイスキップでの「まちかど逍遥」と題する小さなコラムの連載を今月号をもって終了した。
当初から6回分というお話を頂いていたので、取り敢えずはその責務は果たせたと一安堵。 しかし、編集担当の方からは「ホッとしていないでどんどん書いてください」といった旨の恐ろしいお言葉を頂戴している。 まぁ、「二度と頼むか!」などと言われてしまうよりは良い訳であって、逆にありがたいお言葉と受け止めるべきなのでしょう。
それに、今回の連載や、あるいはそれ以前に関わった特集記事の原稿を書くことを通じて、長岡に対する認識や愛着もそれなりに深まった様な気がしている。 そういった点において、書くことは自分にとって有意であったのだと思いたいところではある。

ところで私の場合、椅子に腰掛けてパソコンに向かっても、あまり文章を作る気が沸いてこない。
例えば仕事における報告書や書類の類いは、退屈な会議に出席させられている時とか、社外打ち合わせのために移動中の電車の中などにおいて文節が思い浮かぶという場合が大半だ。 このサイトの文章なんかもそう。 街中をあても無く徘徊している時とか、あるいは通勤時の電車の中などで思いつくことが殆ど。 要は、書くという体勢ではない時に、頭の中に文章が浮かび、組み立てられる。
移動中の車内であれば、携帯端末で文章入力が出来るのではと仰る方もいるだろうけれども、私はモバイル機器を使うという生活習慣が希薄なのです。 それでなくとも、たまに電車の中を見回してみると良い。 揃いも揃って片手もしくは両手に端末を構えて一心不乱に操作・凝視している様子というのは、ナカナカ滑稽なモノでして。 何となく、そんな群集に同化したくないというキモチが働く。

ともあれ、そこで求められるのは携帯端末の機能を最大限に駆使したスピード。 ツイッターもフェイスブックも、そういった即時性を前提としているのですよね。 従って、私には使いこなすことが出来ません。
あいも変わらず、このサイトの様に手打ちのhtmlでホームページ作成なんていうことを細々とやるくらいがせいぜい。

ワープロの出現が、文章を書くことに革命をもたらした。 そして今、携帯端末の発達とそれに伴うサービスの充実が、書くという行為や、更には言語そのものについても大きな変革をもたらそうとしているのでしょうか。

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