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2010.01−2010.03
2010.03.28:落下物防護

日経アーキテクチュア誌3月8日号の特集は、「建材落下はなぜ続く」。 建物の高所からの建材落下事例を幾つか紹介し、落下対策の重要性について警鐘している。
事例の一つ、静岡県のコンベンションセンター「グランシップ」は、竣工時に行われた内覧会にて私も内外を見学した。 それから約十年、その外壁に多用されているスレート材が落下する事故が多発するとは、想像も出来なかった。
同誌にも掲載されているが、開口部周囲にこのスレートの固定方法のディテールを確認できる箇所がある。 内覧会開催時、私もこの納まりを確認している。 金物固定なので、落下については恒久的に問題は生じないのだろうと思っていた。
現在、原因は調査中らしいが、固定部分ではなくスレートそのものの層状剥離が原因ではないかという指摘もあるようだ。 対策も含め、早急な検証が必要だろう。


写真1:
グランシップ全景。巨大な公共建築物だ。曲面の壁部分全面にスレートが張られている。

写真2:
開口部際から確認できるスレートの取付け状況。固定金物が見える。

記事によると、落下したスレート材の重量は10gから2.8kgまで様々。 落下距離にもよるが、2.8kgの建材の落下というのは結構な衝撃力だ。
最近、中高層建物の上部からの落下物に対し、直下に居る人を守ることを目的とする落下物防護庇の強度試験を実施した。 目標性能は、高さ30mから5kgの物体を自由落下させた際、防護庇がそれをしっかりと受け止めること。 受け止めることさえ出来れば、その庇自体の破損は不問とする。 とにかく、その庇の直下にいる人に落下物が当たらないこと。
5kgというのは、例えば建築物によく据えつけてある消火器の重さだ。 かつて、中層マンションの共用廊下から消火器がいたずらで落とされ、たまたま下に居合わせた人に当たるという事件が発生したことがある。 その事件を受けて、落下物を下部で受け止める部材の必要性を感じ、開発を行った。
以降、何度か製品の改善やメーカーの変更等々を行っているが、そのたびに強度試験を実施している。 今回は、試験場所の都合で落下距離が12mとなったが、同様の衝撃力が試験体に加わればよいということで、12.6kgの錘を落下させた。
結果として、目標性能を満たすことを確認できたが、この試験は何度立ち会ってもその凄まじい衝撃力に戦慄を覚える。 対策は必要だが、これが必要とされる事態が起きないことを願うのみだ。

今回試験を行った部材は、外装材の剥落対策としてもある程度有効に機能するとは思っている。
しかし、外装材も色々だ。 街中を歩いていると、巨大な石を張ったオフィスビルをよく見かける。 それらの殆どはPCa打込みであったり、乾式固定であったりするのだろう。 しかし中には、何やら怪しそうな石張りも散見される。
悩ましいのは、落下事故がおきても、その原因の特定が難しいこと。 実験室で再現しようにも、なかなか同様の状況を確認できない場合が多い。
外装材の落下とは違うが、昨年、マンションの外周に取り付く共用廊下がまるごと崩落するという事故が沖縄の方で発生した。 コンクリート自体の品質の問題もあった様であるが、危険を事前に把握するメンテナンスの有無も問われるところだ。
都市は、築年数を経た中高層建築物で溢れかえっている。 せめて、適切な修繕や点検により、落下物の発生事故を抑える対策が重要だろう。

2010.03.25:白井自邸

白井晟一の自邸「虚白庵」が解体されることになり、見学会が開催されるので参加しませんかというお誘いを受けた。 ありがたい話である。
ところが、開催は平日。 しかも開催時間帯には、外せない会議が二件、既に予定に組み込まれている。
しかし、どちらが大切かといえば、なんら悩むことではない。 悩むことといえば、会議欠席の連絡をどうやって入れるかという些事のみ。
ということで、私用外出を決め込み、案内して頂いた集合場所に出向く。

虚白庵というと、藤森照信の著作、「藤森照信の原・現代住宅再見 2」にてその概要を見知っているに過ぎぬ。 その印象では、随分と内向的な佇まい。
もともとの作風がそうだからと言ってしまえば単純だが、しかしそれは後期の作品群ではないか。 初期の作品はむしろ外部へと流れるような設え等々、なかなか一筋縄ではいかぬ。
それに、畳の上に直接立つ床柱とか、唐突な隅角部の付柱の納め等々、素直には理解しがたいディテールも散見される。
ということで、なかなかに捉えどころが無いという中途半端な心構えのまま、自邸を訪ねることと相成った。

主催者側の意向に従い、撮影した画像はこの場には公開しない。 もとより、公表できるような写真を撮ることも出来なかった。
とにかく室内が暗い。 とりわけ、私室は半端ではない。 暗すぎて、私の手持ちの安物コンパクトカメラでは、何も写らない。 そのくらい暗かった。
そんな闇に支配された空間の要所要所に配置された点光源の仄かな照明に浮かび上がる壁面や天井のテクスチュアは、どこまでも深く、厳粛で、そして静謐だ。
心地よい闇というのは、昨今の建築が忘れてしまった設えではないだろうか。 そんなことを改めて考えさせられる機会となった。

2010.03.20:コストコントロール

少し前に、個人住宅の設計料全額返還請求に係る訴訟のことが話題になった。
訴えられたのは何度かお会いしたことのある建築家。 だから裁判の行方は気になっていたが、原告である施主側の主張が全面的に認められる判決が確定したのは半年前。

最近、建築家御本人の手記が建築専門サイトに掲載され、それに対する様々なコメントも掲示された。
どちらかというと建築家側に落ち度有りと指摘する内容が多いという印象。 なかなか難しい問題なので軽率なことは言えぬが、しかし程度の問題も有ろう。 設計者が契約書に記した予定工事金額4500万円に対し、工務店の積算工事費が7700万円以上であったというのは、どうなのだろう。
短絡的には、コストコントロール能力について施主に疑われても仕方が無いと捉えられそうだ。 しかしながら、数字だけをあげつらった議論は不毛だ。 このような状況に至ったプロセスこそが十分に検証されねばならぬ。

プロセスということになると、家づくりに関する二つのテレビ番組が思い浮かぶ。
一つはテレビ東京の「完成!ドリームハウス」。 もう一つは、テレビ朝日系列の「大改造!!劇的ビフォーアフター 」。
毎回観ている訳ではないので的外れな印象かもしれない。 しかし、「完成!ドリームハウス」では、大方のプロジェクトにおいて、予算を上回ってしまった工事金額に対する減額調整プロセスが紹介されているように思う。 つまり、施主と設計者、そして施工者の間で、建築費を当初予算に近づけるべく、密な打ち合わせを行っている。 結果、採用する仕様の調整や予算の上積み等々を実施したうえで、三者納得の上で工事に取り掛かる。
家づくりの過程としては、よくある流れだろう。 今回裁判に発展した案件では、このプロセスが何らかの理由で頓挫してしまった様だ。
もっとも、ハウスメーカーによっては、独自の概算システムを駆使して当初予算と見積もり金額の差異を数%に抑えるノウハウを構築しているところもある。 当然のように思われる減額調整のプロセスも、その差異が多き過ぎれば、快くない印象として受け止められる場合もあろう。

それは、もう一方の番組「大改造!!劇的ビフォーアフター 」を観ていても明白だ。
“匠”なる奇妙な職能名称を冠せられた建築士が住宅改修を手掛ける番組であるが、その終盤に示される工事金額が施主提示予算を上回ることは絶対に無い。 ギリギリのところでしっかりと予算内に抑える。 その内情は知る由も無いが、よくもまぁこれだけの工事をこの予算内に納めるものだと、いつも関心して視聴している。
しかし、その“正確無比”なコストコントロールこそは、世間の一般常識であり、当然のこととして要求されている能力なのだという前提が、まずは認識として必要なのかもしれない。 あるいは、そんな価値観の蔓延に、このテレビ番組が大きく影響しているともいえよう。

石山修武は、GA JAPAN 誌の49号に「建築家が住宅に関与する価値」という論文を載せている。 その中に、以下の記述がある。

(以下、論文の一部引用)
建築家の可能性はデザインには無い。 あってもそれは枝葉の問題であり、主幹の問題ではあり得ない。 建築家の可能性は住宅の価格の合理化にあり、それ以外にはない。 建築家は住宅を安く作ることができる立場にある。 そして、合理的な価格を作り出せる力も本来持っているのである。 設計図は、デザインの型紙ではない。 価格の、流通の指示書であり、システム図でもあるのだ。
(引用終わり)

九年前の文章である。 しかし、住宅作家の存在意義をデザイン以外に求める視点は新しく、そして鋭い。
そして今回の件は、そんな視点が現実のものであることを意味しているのかもしれない。

2010.03.17:円形建築

知人のブログに円形校舎のことが記されていた。
文字通り円形の平面形態をもつ校舎建築。 全国各地に現存するが、大方の建築時期が昭和30年代。 そろそろ建て替えの時期に迫っているものもあるかもしれない。

私が初めて観た円形校舎は、小学生の頃。 母親が購読していた雑誌(「暮らしの手帖」だったと思う・・・)の中に掲載されていた文化服装学院の円形校舎(現存しない)の写真が最初だ。 こんな面白い建物もあるのかと、妙に印象に残った。
程なくして、当時住んでいた新潟県長岡市内にて、円形の建物を実際に観ることになる。 当時の市立図書館の向かいに建っている立川綜合病院がそれだ。 学校ではなくて病院だが、四角い建物が建ち並ぶ中で異彩を放っていた。 図書館に行くたびに、この建物を眺めていたので、馴染み深い。


写真:立川綜合病院外観

写真は、2005年の春先に撮ったもの。 外壁面のみならず、各階の外周を巡る庇も円形。 更に、外壁から離して取り付く外部階段も同心円状というこだわりが美しい。
同病院のサイトを見ると、今は別の場所に施設を移している模様。 果たしてこの建物は現存するのだろうか。 今度長岡を訪ねる機会があったら確認してみようと思う。

2010.03.13:ペデストリアンデッキ

新潟県長岡市在住の方のブログにて、JR長岡駅西側の大手口広場にペデストリアンデッキが建設中であることを知った。 市のサイト内に公表されている資料を見ると、線路を跨いで逆側の東口とを結ぶ既設自由通路を延伸させ、東口と大手口を一直線に結ぶデッキが架設されるらしい。
既設の自由通路が設置されたのは1980年。 その時既に、今回のデッキ設置の計画が策定されていたかの如く、見事に一直線の経路が出来上がる。
現状の東西の連絡が、既設自由通路を介して駅構内を迂回するような経路であることや、あるいは1955年に作られた殺風景な地下道であることを考えれば、画期的なことだ。

駅周辺の利便性が高まるのだろうなと思いつつ、しかし一方で一抹の寂しさも感じる。 遠隔地に住む元市民の勝手な想いなのだが、「長岡も随分変わることになるね」という感情である。
既に駅前周辺では、商業地としてのポテンシャル低下を食い止めるべく幾つかの大規模再開発事業が着々と進行中だ。 更にそれ以前にも、丁字路※1の直線化やアーケードの改修など、様々な再整備が行われてきた。
いまさらかつて市内に在住していた頃の景観を懐かしんでも仕方が無い。

とはいえ、今回のペデストリアンデッキ架設はどうだろう。
長岡の特徴は、街の規模に比してとても立派な駅前通りが形成されていることにある。 大手通りと名付けられたその幅広の目抜き通りを真正面に見据えた時、長岡に帰ってきたという感慨が沸く。


写真1:
歩道上のアーケードが改修前の時代の大手通り。
突き当りが長岡駅。

そんな都市景観が、ペデストリアンデッキによって遮られてしまうことは無いか。
いやいや、「遮られてしまう」などという言い方自体が、後向きな懐旧の念以外の何物でもあるまい。 とりあえずは、魅力的な景観が新たに形成されることを期待しよう。

2010.03.06:京葉工業地域
写真1:

中央の小路の突き当たりが、交通量の多い表側の道路。 その小路を挟んで両側に蔵。
写真2:

写真1手前の道路を左手に進んだところ。 背の高い槇塀が連なる。

仕事で京葉工業地域に行く。
工場施設鑑賞フリーク御用達のエリア。 極めつけは、JFEスチールの東日本製鉄所ということになるのであろうか。
私も一度、仕事の関係で同施設内を見学したことがあるが、そのスケールの巨大さと極上のテクノスケープに存分に酔いしれた。

しかし今回の訪問先はここではない。
まず午前中は、JR姉ヶ崎駅近傍にある某ガラスメーカーの工場。 一般名称で記述するならば「真空ガラス」と呼ばれる建築用ガラスの物性試験立会いのために赴いた。
ガラスに関する試験は、危険が伴う面がある。 立会いにあたっては、ヘルメットは勿論のこと、防護眼鏡の着用も求められた。 それらをいそいそと身につけて、試験場に向かう。
アルミサッシに取り付けた真空ガラスに対し、水密性試験や耐風圧試験を実施。
水密性試験は、密閉された箱にサッシを取り付け、その箱の内側からサッシに規定の風圧を掛けつつ散水を行い、外部への漏水の有無を確認するもの。 2秒周期の風圧の変化に応じてビクビクと動く試験体は、まるで脈動する生物のよう。 なにやら不思議な感覚に襲われる。

試験自体は、一部試験体の不具合もあり、スケジュール通りには捗らず。 試験体の付け替えに大幅な時間を取られることとなったため、その待ち時間を利用して合せガラスの中間膜に用いるシートの物性についてメーカーの技術者と意見交換。
この中間膜は二種類あるのだが、その優劣の判断に困っていた。 専門家と話す機会は、そういった迷いを解決するのには一番手っ取り早いし確実だ。

午後は、八幡宿に移動。 某サッシメーカーの工場に赴く。
その工場には、今までも何度も試験等々でお邪魔している。 この八幡宿という場所は、以前から気になっていた。
まずは、その地名。 更には、駅近傍に鎮座する八幡宮の存在。 少し調べてみれば、かつては勝浦街道の基点に位置する宿場町が形成されていた場所。 今でもその名残が残っているかもしれないという微かな期待を持っていた。
今回は、午前中の試験立会いの都合上、少々の空き時間が生じた。 これを良いことに、八幡宿駅前界隈を散策して期待する佇まいの有無を確かめることにした。
主要道路沿いには何の痕跡も確認することは出来なかったが、何気なく折れた脇道の奥に、僅かな痕跡らしき佇まいを発見。 脇道の奥に直交する細い路地沿いに、土蔵や石蔵が連なる一角があったのだ。
そしてその蔵と路地の間には、槇の木を用いた槇塀と呼ばれるこの地域独特の垣根が散在する。

かつては、間口が狭く奥行きが深い短冊形の敷地が連なり、表の主要道路側に母屋を、そして裏側に蔵を配置する構造が成立していたのではないか。 そんな視点で辺りを見渡せば、同様の配棟が施された民家が僅かながら見受けられる。
たまたま見つけた風景なので、これがかつての八幡宿に広く分布していた都市構造の痕跡であるのか否かは、もっと調べてみる必要がある。 しかし、期待していた痕跡の可能性を確認できたことは大きな成果だ。

2010.03.02:警戒と平穏

日曜日、普段聴くことの無いサイレンが早朝から市内に幾度か鳴り響く。 続いて津波警報発令を告げる防災無線。

内海とはいえ、海岸近くに住んでいる身にとっては、少々気にもなる。
テレビを点ければ、NHKでは延々と津波関連の報道。 しかし、チャンネルを変えると、東京マラソン2010を中継中。 緊迫した津波報道とマラソン中継の並置に違和感を覚える。
しかもそのゴールは、東京湾内の埋立て地。 そんなゴールに向かって疾走する群集が、津波警報発令エリアの地図が表示された画面の中に映し出されているという状況も、なかなか不思議。
一方、近傍の市民グランドでは、何事も起きていないかの如く野球の試合が行われていた。 これもまた何とも妙な光景。

地元在住の方のブログに、警報発令中の防波堤で警戒にあたる数名の消防隊員を撮った写真が掲載されていた。
警報発令下での平穏な状況は、この様な防災体制があってのことということなのか。

2010.02.27:海外進出
※1

ミサワホーム・ハワイモデル。
アメリカの建築に関する基準に準拠したモデル。 日本国内でもリゾート用という想定で販売を行っていたようだ。 広さは205.34平米。1974年当時の販売価格は3422万円。
<出典:ミサワホーム>

2009年の国内における住宅着工戸数が78万8410戸であったことが先月末に国土交通省から発表された。 1964年以来の低水準であり、また100万戸を割ったのも1967年以来のことだという。
新聞各誌には、「低水準」「厳冬」「記録的落ち込み」といった言葉が並ぶ。 しかし、国内に存在する住宅の戸数が世帯数をうわまって久しい。 にもかかわらず、過去40年以上にわたって毎年100万戸以上というおびただしい量の住宅が建てられ続けてきたというのは、実は凄く異様なことなのではないかとも思う。
勿論、業界側から観れば、100万戸割れという事態は深刻だ。 それだけではない。 住宅建設が日本経済を牽引する役割の一部を担っている(来た)ことは改めて述べるまでも無い。 その仕組みにまつわる現実を、隈研吾は「住宅私有本位制」と表現しているが、極めて的確な言葉。 経済指標として示される年間住宅着工戸数が100万戸割れという状況が住宅私有本位制資本主義にもたらす影響は、計り知れない。

ところで、「ハウジングトリビューン誌」のVol.377及びVol.380に、「海を渡る工業化住宅」という記事が掲載されている。 積水化学工業がセキスイハイムによる住宅事業をタイで展開するという内容の記事だ。
不勉強だったので初めて知ったが、最近、住宅メーカーの海外進出が相次いでいるようだ。 積水ハウスがオーストラリア、大和ハウス工業が中国、住友林業がアメリカや韓国等々。

昭和40年代にも、海外進出の試みはあった。
積水ハウスが1971年に西ドイツで「セキスイシステムバウ」に経営参画。 ミサワホームが、1973年8月に「ミサワホームズ・オブ・カナダ」を設立。 大和ハウス工業も同時期に「ダイワハウス・コーポレーション・オブ・アメリカ」をアメリカに設立している。

しかし、継続的事業として成立したのか否かは、定かではない。
積水ハウスのドイツ進出に関しては、同社の三十年史に「私の経営上の唯一の失敗」という当時の社長のコメントが載せられている。 そんな同社が、再度海外進出を展開しているというのは、興味深い。
ミサワホームでは、幾つかの国にホームコアを輸出している。 また、海外向けのモデルも同時期に幾つか発表している※1
更に、1968年から現在に至るまで脈々と続けている南極での事業(昭和基地の施設建設)は別格ということになろう。

「衣・食・住」などと呼ばれるが、この三つほど土着的なものは無い。 冒頭にあるような国内市場の閉塞感から海外へという発想では、なかなか思うようにはいかないのではないか。
ハウジングトリビューン誌の記事にも、「海外市場は日本市場の"代わり"ではない。」とある。

それに、海外という視野を鑑みた場合、昨今の日本の住まいの在りようは、果たして世界の中でどの程度の水準なのか。
共通の尺度で考察して水準を判断できるほど、「住文化」というのは単純なものではない。 当然ながら、単純に「ハコ」だけの問題でもない。 その包括範囲は極めて広い。
そう考えた時、素直に肯定的な解釈が出来るほどの実感は、今の私は持ち合わせていない。

2010.02.20:【書籍】Casa BRUTUS

2010年02月号は、「最強・最新!住宅案内2010」と銘打ち、個性的な住宅28例を掲載している。 いずれも、あまりにも個性的過ぎて、すっかり保守的になってしまった私などは消化不良を起こしかねない。

例えば、中山英之による京都市の「O邸」は、意表をつく階段の計画を中心とした空間構成に驚きつつも、その外観には景観条例の限界を思い知らされる。
あるいは飯塚拓生の「キッチンの無い家」は、文字通り台所の無い狭小住宅。 今後はこういった住宅が増えるのかもねと思いつつ、しかしそれで良いのか?とも思ってしまう。

ともあれ、全ての掲載事例に共通するのが、平面プラン情報の少なさ。 一部のフロアプランしか載せられていなかったり、あるいは簡単な断面図が付記されているだけだ。
欠落している情報は、掲載されている内外観写真を参照しつつ読み解くしかない。

しかしながら、いずれの事例も平面図だけではその空間情報を伝えきれなくなっているのかもしれない。
例えば、藤本壮介の「HOUSE H」。
平面図だけを見れば、単純な田の字型プラン。 整形な二行二列に区切られた諸室が並ぶだけで、各室の間にランダムに階段が取り付いてることが、少々普通で無いといった程度。 しかし、これが断面構成になると、思いっきり複雑になる。 そしてその緻密な構成を平面図だけで表現することも読み解くことも困難だ。
また、小嶋良一の「サンドイッチハウス」も、その大胆な空間構成は平面図だけでは判読できそうに無い。

脱nLDKという言葉がある。 2LDKとか3LDKといった平面形式から脱却し、あらたな住まいの様式を提言しようという動きと解釈してよいのだろう。
私は、この脱nLDK論を積極的には支持していない。 むしろ、その理論から生み出された個室群だけで構成された住宅とか、巨大なワンルーム形式といった事例が、決してnLDKを超える手立てとは思えない。
しかしもしかすると、nLDKを超える具体的な手法は、そういった平面の組み換えではなく、断面の操作にあるのかもしれない。 そんなことを感じさせる事例を幾つか確認できたというのが、今回の特集の印象。

特集以外では、忍路のドームハウスが気になった。
「忍路(おしょろ)高島及びもないが、せめて歌棄(うたすつ)磯谷(いそや)まで 」と、何とも物哀しい江差追分の一節に唄われた、北海道の忍路に立地するドーム形状の住宅だ。 かつて、一人の製作者によって周辺に同様のドーム住宅が幾つか造られていたということは、初めて知った。
正三角形による多面体で球を近似したドーム形状の住まい。 その内観は、結露か漏水の跡が目に付く。 季節や気象条件によっては、なかなかに厳しい居住環境であるようにも思えるが、しかしそれ以上の豊かさが空間に満ち溢れている。

2010.02.13:距離の喪失

いつの頃からか、各図書館が開設しているサイトの蔵書検索システムを利用することで、自宅に居ながらにして目的とする書籍を全国各地の図書館から探すことが出来るようになった。 便利な時代になったものだと思う。
幸いにも目的の書籍を探し当てることが出来た場合、どんなに時間がかかろうとも、閲覧するべくその図書館へと足を運んでいる。 その際に生じる物理的な移動距離という問題は、「読みたい」という煩悩の前には全く障害にはならない。
これは例えば、建築鑑賞を趣味とする方々ならある程度判って頂けよう。 目的とする建築を観るためには、どんな困難さえもモノともしない。 「観たい」という欲求の充足が全てに優先する。 それと同じである。

ところで、知人が御自身のブログ上で「電子書籍図書館構想」というアイデアを語っていた。 電子書籍化された蔵書をオンライン上でダウンロード出来るサービスということであるが、とっても面白い。 実現すれば、時間や金を浪費して書籍に逢いに出向く必要が無くなる訳だ。 このメリットは計り知れない。
学術論文などは、国立情報学研究所の論文データベース・サービス「サイニィ」にて多くのPDFデータを閲覧することが出来る。 同様のことが、図書館の蔵書に対しても行われれば良いなと思いつつ、今日も目当ての書籍に目を通すべく、時間と交通費を消耗して国会図書館へと出向いたのであった。

2010.02.11:御近所徘徊_2
※1

旗竿地の例。 緑色の敷地の様な接道形態を、一般的にこの様に呼称する。
昭和四十年代のプレハブ住宅を探しての居住地近傍徘徊。
これを期に気付いたのが、近所一帯には旗竿地※1が結構多いということ。
敷地の周囲の殆どが隣地に囲まれ、一部が路地状に伸びて辛うじて道路に接続する形の敷地のことを、この様に呼ぶ。 昨今のミニ開発戸建などで、一つの敷地を極限まで分筆して複数の住宅を建てる際によく見受けられる形態だ。
近所に散在する旗竿地は、その様な経緯によるものではなく、宅地として造成された当初からの区画割りだ。 そして傾向として、この旗竿地に昭和四十年代プレハブが現存しているケースが多いようだ。
単なる偶然かもしれない。 しかし、周囲を隣接建物に囲われる状況下では建替えが難しいために残存している可能性もある。
旗竿地に絡む問題の一つなのかもしれない。
2010.02.07:百貨店
※1

大和デパート長岡店の階段を六階から見下ろしたところ。
五階以下の通常の折り返し階段が、吹抜けを介して見通せる。
その魅力を撮り納めるには、視野が狭すぎる。 今度デジカメを買うときは、もっと広角のものを買うことにしよう。

NHK教育の番組「美の壺」。 テレビを殆ど見ない私が視聴する数少ない番組の一つ。
2月5日放映のテーマは「百貨店」。
百貨店をアートの対象として鑑賞するというのは、正解。 陳列されている商品を買いあさるだけが百貨店じゃない。 といっても、全ての百貨店建築が、鑑賞の対象となり得る訳ではない。 番組でも紹介された事例が示すとおり、大正時代から昭和初期辺りにかけて建てられた百貨店建築が、対象の中心だ。

この番組は、様々なアートに対して、それらを鑑賞するためのツボを何点か紹介するという構成で作られている。 今回も、三つのツボが紹介された。 しかし私には、番組で紹介されたものとは別の、もう一つの鑑賞のツボがある。
それは、「階段」。
階段が、かつての百貨店建築における意匠の要の一つであることは、2008年5月17日の雑記でも触れた。 大規模な改修が施されてしまった歴史のあるデパートでも、階段部分だけは小粋な意匠が残っている場合が意外と多い様に思う。

この番組は、様々なアートに対して、それらを鑑賞するためのツボを何点か紹介するという構成で作られている。 今回も、三つのツボが紹介された。 しかし私には、番組で紹介されたものとは別の、もう一つの鑑賞のツボがある。
それは、「階段」。
階段が、かつての百貨店建築における意匠の要の一つであることは、2008年5月17日の雑記でも触れた。 大規模な改修が施されてしまった歴史のあるデパートでも、階段部分だけは小粋な意匠が残っている場合が意外と多い様に思う。

いや、大正時代や昭和初期のデパートだけではない。 昭和中期に建てられたデパートにも、面白い例がある。
ローカルな事例になってしまうが、例えば1958年10月に開店した新潟県長岡市の大和デパートの階段※1

地下一階から五階までは通常の折り返し階段であるが、五階から六階、そして屋上に至る部分が、吹抜けを囲う廻り階段となっている。 かつて長岡市に住んでいた頃、このグニャリと曲がった階段を昇って屋上に行くことが結構楽しかった。
近年長岡を訪ねた際、この階段の昇降を再度体感してみたくて同デパートを訪ねたが、残念ながら屋上に至る部分は閉鎖。 その下の部分の階段しか昇降することが出来なかった。
階段の手摺の笠木は木製。 床のタイル張りのパターンに味がある。

・・・と、大和デパートのことを書くにあたってウェブ検索をかけていたら、今年四月に閉店する予定であることが分かった。 最盛期、駅の西側に広がる商業地には、六つのデパートがあった。 それが今では、この大和を含め二店舗。 だから、元長岡市民としては結構衝撃的なニュースだ。
郊外型大規模商業施設の興隆等々の影響による既存駅前商店街の商業地としてのポテンシャル低下は、全国津々浦々にて観測される事態。 閉館に伴って、施設が大規模に改修されたり、あるいは除却されてしまう前に、大和デパート長岡店の階段の様な小粋な意匠の存在を確認して廻ってみたいとも思うのだが・・・。

2010.02.06:御近所徘徊
※1
「じゃあ、ニシン番屋はどうなのよ?」と突っ込まれそうだが、ニシン番屋は一般的には町中に建っている物ではないので例外ということにさせて頂こう。

休日。あまり遠出をする気にもなれないけれども、しかし外はすこぶる良い天気。 関東の、酷薄なまでに冴え渡る冬枯れの青空のもとでは、家の中でゴロゴロしているのも勿体ない。
そんな時は、愛車(昨年、派手に転倒した際にひしゃげてガタガタになったままのママチャリ)に跨り近所をあても無く徘徊するに限る。

とはいえ、自転車での行動範囲などたかが知れている。 同じ場所に十年以上住み続けていては、近場を徘徊するといっても、既に散々見てきた風景ばかりではないか。
いや、しかし視覚というのは不思議なものである。 興味の持ちようによって、視認される風景はたとえ同じエリアであっても異なってくるものだ。
それこそ、中村良夫がその著「風景学・実践編」の冒頭に記している通り、「風景は人にかかわりなく在るものではない。人の在り方に応じてさまざまに立ち現われるものである。」ということなのであろう。

最近の私の興味の対象が昭和40年代のプレハブ住宅であることは、この場で既に何度も書き散らしている。 興味を持ったからこそ、この場に書く機会も増える訳であるが、それに伴い風景の見え方も変わってくる。
今住んでいる場所は、昭和40年代初頭から宅地造成や住宅の建築が始まった。 だから、昭和40年代に建てられたと思しきプレハブの戸建住宅が結構現存している。 興味を持っていなかった頃には気付くこともなかったそれらの住宅が散在する風景が、何気なく徘徊しているいつものエリアの中で見えてくる様になった。
興味を持ち始めたばかりだから、それぞれがどのメーカーのどのタイプなのかということを断定出来るまでの知識を持つには至っていない。
当時のプレハブ住宅メーカーというと、主要構造体を軽量鉄骨とするものが、まずは先行していた。 それらの特徴はほぼ共通しているというのが、今現在の印象。 軒の出が深い緩勾配の切妻屋根かフラット屋根。 概ね三尺ピッチで入る乾式外装パネルの目地。
既に半世紀前になろうとしているプレハブ住宅草創期の事例を確認することが出来るのは、今の私にとっては極めて貴重な体験だ。

思えば、私の町中散策における興味の対象は、随分と変わってきた。 正確には、変わった面と追加されてきた面の両方がある。
昭和50年代は、完全にミサワホームであった。 休日になると、当時同社から発表されていた住宅が実際に建っているところを自転車で巡っていた。
学生の頃は、その頃住んでいた札幌市内に散在する古民家を、やはり自転車で巡っていた。 その際の古民家とは、文化財に指定されているような立派で学術的に高い評価を受けているものではない。 市中にひっそりと建つありふれたものが中心であった※1

七年ほど前に、昭和50年代の住宅メーカーに対する興味が復活してからは、かつての様に、訪ねる先々の街にてそれらの住宅を捜し求めて徘徊する機会が増えた。 ただし、その視線はかつてと同じではない。 時を経ることで生成されている変化を確認したり、あるいはとりあえずは建設業に身を置くからこそ見えてくるディテールに注視してみる。
そして四年前からは、建築の側面(あるいはメインではない立面)に視線が向くようになった。
更に昨年からは、昭和40年代の住宅。

脈絡が無い様で、しかしこれらの対象には共通点がある。
それはつまり、村松秀一がその著「「住宅」という考え方」で述べている「英雄的な建築作品の世界からはみ出した」ような建物ということになりそうだ。
ありふれた古民家を愛でることも、ハウスメーカーの住宅を捜し求めることも、私の中では同義なのだ。 恐らくこれから先、別の対象に興味が向いたとしても、その対象の根底にあるのは、この様な住宅ないしは佇まいということになるのではないかと思う。

こう考えると、町中に広がる風景は、追求すべき要素で溢れかえっている。 自らの居住地近傍にエリアを限ったとしても、そこに在るありとあらゆる要素が、興味の対象になり得る。
哀しいことに、その全てを知覚し堪能するだけの眼力と好奇心と情報処理能力は、私には備わっていない。 しかし、だからこそ、その時々に興味を持った対象を知覚することで、同じ景色を何度も愉しむ。
そんな風景との接し方も、また面白いのではないか。

2010.01.30:撮影用モデル_2

とあるマンションのプロジェクトにおいて、販売会社から、計画に携わった人をクローズアップしたパンフレットを作りたい旨、申し入れがあった。
そういった目先の変わった販売資料を作るのも、たまには良いんじゃないなどと他人事の様に思っていたのだけれども、なぜか私にも声が掛かってしまった。 間接的に僅かな部分で携わっていたものの、パンフレットに載る立場などでは無い。 それ以前に、どうせ載せるなら、もっと面構えの良い人を選ぶべきだ。
しかし、プロジェクトの責任者は一言、「顔で選んだ訳じゃありませんよ」。 それはそれで物哀しいが、いずれにせよ拒否するための口実も思いつかぬ。

後日、パンフレット掲載用の写真撮影を行うからと、場所と日時の連絡が入る。
プロジェクトに携わった技術陣の集合写真と個別写真、それと若干の取材を行うという。 取材に関しては、個々人にテーマが与えられた。
なぜか私に与えられたテーマは「快適性」。
何なんだ?「快適性」って。 住宅において、これほど抽象的で感覚的で個人差の大きい判断指標は無い。 他の者に与えられたテーマは、「耐震性」とか「更新性」とか「耐久性」等々。 これだったら、分かりやすい。 何でよりによって、私が「快適性」なんだ?
自分の携わった仕事の内容と全然関係ないじゃないかと思いつつ、しかし考えてみれば、住まいに関わる技術の目的は、その多くがこの快適性の実現に向けられている。 快適さという抽象的で感覚的な概念に対し、公的基準や学術的根拠を参照しつつ数値化や定量化を行い客観性を与える。 そして客観化した目標値をクリアするべく各種技術検証を実施し、より良い住まいをお客様に提供する。 それこそが、技術者に課せられた役割です・・・みたいなことを言えば良いんじゃないか。 どうせ、広告代理店のほうで大体のストーリは作っているのだろう。 その規定路線に則っての取材なのだろうし、まぁ、この程度のネタを用意しておけば何とかなるだろうなどと高をくくりつつ、とり

当日、指定された場所に出向くと、プロのカメラマンや広告代理店のスタッフが大勢スタンバイしている。 何だかイメージしていたよりも遥かに事態が大掛かりになっていて、うろたえる。
まずはプロジェクト関係者の集合写真を撮るが、後で合成するとのことで、数人ずつに分けて撮影。 私も含め、被写体の方はいずれもこんな機会は初めての者ばかり。 皆、表情はカチカチ。 「皆さん、固いですよぉ!」「もっと笑ってくださ〜い」などと、カメラマンが声をかけてくる。 何とか和やかな表情を撮ろうと、シャッターを切りながらギャグを連発してくるが、こちらはいびつな笑みを浮かべるのが精一杯。
その後、個別の取材を受けつつ、その様子も撮影される。 取材はとっても真面目なもので、ヤラセではなかった。 ネタをある程度用意しておいて良かったなと内心思いつつ、十数分間にわたってインタビューを受ける。

後日、校正用のゲラが届く。
A4横サイズの1ページに、「快適性」に関して私が述べたことが平易に変換された短文が載せられている。 ヤラセも規定路線もない。 当日の取材内容がそのまま、巧くまとめられていた。
そしてその文章の横に、私の半身がモノクロで載せられている。 身振り手振りを交えつつ、快適性についてぎこちない笑みを浮かべながら喋る私の姿がそこにはあった。
人間、ある程度歳をとると、それまでの人生が表情に現われるものだと言われるが、まさにその通り。 ヘラヘラと生き長らえて来ただけの安っぽい人生が、ありありと滲み出ていて厭になる。 しかしそれは、自分自身に他ならない。
「自分のツラが曲がっているのに、鏡を責めて何になる」
せめてこれからは、良い内面が渋く滲み出た面構えを獲得すべく、精進することにしよう。

いや、もう手遅れか・・・。

2010.01.23:撮影用モデル
※1
写真1

SW型の右手下屋無し版外観写真。 当時の広告を調べる限り、こちらの方が最初のテイク。 そして実際の正式な外観。
(画像の出典:ミサワホーム)

本殿(左側)に近接するマンション。
数種類の竪桟をランダムに並べることで和風を醸し出す手摺が特徴。
※2
なぜ撮影が行われたモデルだと断言出来るかというと、画像に写っている周囲の様子と現地の状況に一致する条件が極めて多いのだ。
そして、撮影時と殆ど変わらずに維持されたエクステリアの設えも決定的であった。
千葉県とミサワホームは結構縁があるのだろうか。 例えば、ミサワホーム55開発途上の居住性実験用試作モデルも、浦安市内に現存する。

昨年末、住宅メーカーの住宅のページにミサワホームのS型NEWとSW型を載せた。
S型NEWは、掲載した外観写真よりも実物の方が良い印象。 勿論、見る角度にもよるが、どっしりとした味わい深い外観は、表層をサイディングで仕上げた昨今のハウスメーカーの住宅には望むべくも無い。
それに比べて、SW型の方は写真ほどには美しく無い。 いや、こちらも決して悪い訳ではない。 斬新なデザインが多かった当時のラインアップの中では相対的に保守的な傾向にあるその外観は、むしろ受け入れやすい面もあろう。 また、過去から受け継がれてきた商品体系の変遷を見れば、その洗練度には目を見張るものがある。
だから、実物に対する評価は、あくまでも広告等に採用されている外観写真と比べた場合ということになる。 そしてその様な印象を持つ理由は、掲載した画像が写真撮影用のモデルだからだ。
住宅メーカーの住宅のページに引用した当モデルの外観写真の画像をみて頂くと、二階建て部分の左右を下屋で挟んだ構成になっている。 しかし実際には、向かって右手の下屋は標準プランバリエーションには無い。 そしてこの右手の下屋の存在が、外観を美しく調律している。

写真1※1の右側下屋無しテイクの画像を見れば明白であろう。

ところで、S型NEW及びSW型のページに掲載した外観写真には、それぞれの撮影地も記載した。 これは、リクルート(当時は、リクルートセンター)から発行されていた「季刊ハウジング情報(現:月刊ハウジング)」創刊号の掲載情報による。
このうち、S型NEWの方は習志野市となっている。 私は偶然、この撮影に使われたS型NEWと思しき住宅を実際に習志野市内にて発見した※2
もう5年近く前のことになるが、建物も外構廻りも撮影当時と殆ど変わることなく維持されていた。 変化は、駐車スペースに既製品の金属製屋根が設けられたことと、敷地の南側(画像の向かって右側)の隣地に住宅が建っていることくらいだ。 撮影時から二十年以上経過していることを鑑みれば、奇跡的なことだ。
この界隈は、同社が大規模に開発した場所らしく、当時の同社の企画住宅が大量に建設されている。 実際の建設状況や経年変化を確認するには、なかなか貴重な場所だ。

恐らく、SW型も佐倉市内のどこかに似たような条件で建てられたのかもしれない。
しかし、佐倉市も広い。 S型NEWと同様、偶然に頼るしか無さそうだが、もしも現存するのであれば、現況を確認してみたいものだ。

2010.01.16:新潟市逍遥
写真1:

二,三階の正面タイル張り仕上げの壁面の両端に、微妙な反り。 その壁面の所々に見える不定形な白い部分は、タイル剥落箇所。
写真2:

左の写真の右上部分を拡大したもの。 僅かな曲率を伴う微妙な反りが施されていることに注意。

県庁所在地であり、県下第一の都市。 規模としては二番目となる長岡に住んでいた頃の私にとっては、やはり都会であった。 駅前に降り立つと、長岡市には無いスケールの建物が連綿と連なる。 その都市景観に圧倒されたものだった。
と同時に、とらえどころの無さも抱いていた。 長岡市が、駅前を中心にコンパクトに商業地が形成されていたのに対し、新潟市は違う。 何か、緩慢な印象があった。
とはいえ、長岡在住中は、そんなに新潟市に出向く機会は無かった。 だから、都市の構成みたいなものを把握出来ていた訳でもない。
初めて新潟市内をじっくりと散策したのは、2002年の秋。 日本民家再生協会で開催した一泊二日の市内散策イベントに参加した時のことだ。 多数の寺院が線形に連なる寺町。 路地状の区画割が陸続と形成されている都市構造。 そこに連なる町屋。
初めて知る新潟市の姿がそこにはあった。

以降、新潟県を訪ねるたびに新潟市内も散策することになるが、その際は、駅前にあるレンタルサイクルのサービスを利用することにしている。
都市を彷徨するのに自転車はうってつけの道具だ。 出発地と目的地を結ぶだけの車であるとか公共交通機関とは異なり、思いつくままに方々を周遊することができる。 あるいは、徒歩の場合に比べ、適度なスピード感を持って巡ることが出来る。
そしてその際は、メディアに散々露出している著名建築やスポットも一応は確認する。 しかしそれよりも、町中にひっそりと建つ建築や風景の中に琴線に触れる佇まいを見つけ出すことが、無上の楽しみである。

そんなこんなで巡る先で目に留まったのが、建築探訪のページに先週載せた「三業会館」。 有名な建物なのかもしれないが、私はその存在をあらかじめ知っていた訳ではなかった。
閉鎖的な量塊を地面から切り離して配置する様なデザイン手法は、どこか白井晟一を髣髴とさせる。 開口が殆ど無い壁面の一部に絶妙にスリットを穿ち、それをファサードの表情としつつ内部への採光の用途に充てる辺りも、白井的だと読み取れはしないか。
ということで、初めて見た時から、とても気になる存在の建築となっている。

当然のことながら、新潟市を訪ねるたびにこの建築を拝んでいるのであるが、そんな折、三業会館に通ずるデザインの建物を同じ市内にて見つけた。 それが、左の写真。

これのどこが三業会館と共通するのだ?と思われるかもしれない。 確かに、内部用途のみに応じてバラバラに穿たれた開口は少々デザイン性を貶めている。
しかし注目は、全面的に施釉タイルが張られた壁面の両端だ。 僅かな曲率を伴って、手前側に微妙に湾曲していることが確認していただけよう。 仕上げのタイルは、通常の二丁掛けのウマ張りであるが、どことなくカラースキームが三業会館に通ずるものがある。 両端に反りを伴った分厚い壁面をファサードに据え、その背後に通常の建物ボリュームを配棟するところも、三業会館的だ。 経年劣化で剥落したタイル部分の補修が、それなりにファサードに表情を添えているあたりも、相通ずるものがある。
一方は花街の拠点的施設。こちらは店舗兼事務所であろうか。 成り立ちは全く異なるが、ひょっとしたら何らかの関連性が有るかもしれない。
例えば設計者が同一か、関係者。 あるいは三業会館に感化されて作られた建物である等々。
個々の建物について、そんなことを好き勝手に邪推してみるのも、都市を逍遥する上での愉しみ方の一つであろう。

2010.01.11:千城台散策
※1
セキスイハイムM2外観

これは、千城台に実際に建っているものではなく、積水化学工業の広告に載せられてたもの。
しかし、これとほぼ同型のものが現地に建っている。
当時の広告のキャッチコピーは、「国際水準の新型」。
出幅900mmの深い軒が、外観に端正さを与えている。
(画像の出典:積水化学工業)

突然降って湧いた住宅版エコポイント制度。 先行実施された家電での成果を踏まえたのであろう緊急経済対策といったところか。
官製不況と金融危機に疲弊する住宅市場の救世主とばかりに、業界は色めきたつ。 私のところにも、「どんな制度なんだ?」「何か情報は?」と、質疑の電話が頻繁に入る。
とはいっても、私も国土交通省のサイトで公表されている情報や、住宅性能評価機関にヒヤリングした内容以外の情報は何も掴んでいない。 全国各地で国交省主催にて開催される説明会も、年が明けて始まったばかり。
1月20日に渋谷で開催予定の説明会に参加しようかと思っていたが、そこまで待っている余裕は全く無さそうだ。 ということで急遽、8日に千葉市で開催の説明会に参加することにした。

場所は、千葉市若葉文化ホール。 市内の若葉区千城台にある公共施設だ。 アクセスには千葉モノレールが便利ということで、久々に乗車。
このモノレール、懸垂式としては世界最長の営業距離を誇るのだそうだ。 しかしこの懸垂式というのは、随分とインフラが大掛かりだという印象がある。 巨大な高架がビルの谷間や住宅街を縫う沿線周辺の風景は、壮観であると同時にどこか異様だ。 路線の途中にある車両基地も、まるで未来都市かSFの世界の秘密基地。 ともあれ、そんなモノレールの終点まで乗るのは、今回が初めての機会となった。

この千城台は、以前から気になる場所でもあった。 何度か車で通ったことがあるが、車窓から見える風景の中に、明らかに昭和40年代のものと思われるプレハブ住宅が散見される。 調べれば、その頃に造成された住宅団地でもあるようだ。 何か臭うという気がしていたので、説明会開催時刻よりも早く現地入り。 これを機に、周辺を散策することにした。
といっても30分余りの散策。 大した成果は得られなかったが、「セキスイハイムM2※1」の実物を見ることが出来た。
発売以来四年間で一万戸以上の販売実績を記録するに至った先行モデル「セキスイハイムM1」の次の一手として1974年5月に発表されたモデル。 ユニット住宅的なイメージの払拭に努め、高額路線を志向した。 軒の出の深いフラットルーフと引戸形式の雨戸の採用により、確かにそこにはM1には無い住宅らしさが備わっていた。
しかし、このM2はM1の様には売れず、その販売期間も短命に終わった。 M1は、あえて住まいらしさを削ぎ落とすことで成功した面があるが、M2はその意味では中途半端だったのだ。 デザインの自由度に関して、軸組み工法やパネル工法に比べると制約が多い中で、それらと同質のデザインを実現することは、当時の技術ではまだ難しい面があった。 かといって、M1の路線に安穏として良い訳ではないという意識もあったのだろう。 その狭間で産み出されたM2は、時代の潮流にはまだ早すぎた。
当時はまだユニット住宅は新進の工法であり、市場が求めたのは、その新進さに見合ったデザインとコストパフォーマンスだったの

結果として、M2は僅か200戸程度の販売実績にとどまる希少モデルとなった。 そんな住宅を見ることが出来たのは、幸いであったということになろう。 そして、実際に観るM2の完成度は、決して低くは無かった。
少々良い気分になりつつ更に歩を先に進めると、連綿と続く戸建住宅の景観の向こう側に異様に巨大な給水塔が見えてきた。 その名も「千葉県水道局坂月高架水槽」。 「高架水槽」とあるが、これは立派に給水塔であろう。
私は決して給水塔マニアではないが、しかし異様な佇まいを見せる給水塔があると、やはりそこに足が向いてしまう。 後でWEB検索をかけてみたら、紹介しているサイトが多数あった。 やはり注目される給水塔の一つなのだな。 そのうち私も、「建築外構造物」のページに載せてみたいと思う。

ということで、少々道草をした後、説明会会場に向かう。 そして、制度の詳細策定にあたっている国交省の役人の説明を聴いた。
しかし、新たに知り得た情報は、今回の制度の立ち上げが余りにも拙速であるということくらい。 まだ決まっていないことが多すぎる。
一方で、制度はもう動き始めようとしている。 そしてその制度の中身以上に、業界が色めき立っているという印象も無きにしも非ずだ。

2010.01.09:図書館三昧

別に、一年ごとに何らかの個人的なテーマを意識的に設定している訳ではない。 しかしここ数年、自然にそんな流れが出来上がっている感がある。
例えば一昨年は、建設コンサルタントとして辣腕を振るった鎌倉時代の僧「俊乗坊重源」と、北海道で昭和30年代から40年代にかけて多数建設された通称「三角屋根」と呼ばれるコンクリートブロック造住宅。 両者に何の脈絡も無いところが、我ながら少々笑える。
去年については、最初の頃は「瀬戸内海」がテーマになるかななどと漠然と考えていた。 きっかけとなったのは高校時代の同級生のブログ。 二年前、長期出張で愛媛に赴いた時のことを情景豊かに書き綴っていた。
私は極めて単純な人間だ。 その文章を読んで、自分もそのエリアの雰囲気を体感してみたくなったという次第。 実際、「瀬戸内の町並み―港町形成の研究」という書籍を読んで色々と調べ、交通手段やそのタイムスケジュールまで策定し、機会を見て出かけようという段階までになっていた。
しかし、なかなか機会を作れなかったり、新型インフルエンザの流行やらで出鼻をくじかれてしまった。 それに替わって・・・という訳でも無いが、沸々と興味を持ち始めたのが、昭和40年代のハウスメーカーの動向。

瀬戸内海とハウスメーカー。 これらにも全く脈絡が無い。 一体何なのだと自分でも思いつつ、興味を持ってしまったものは仕方が無い。
当時の資料を求め、図書館や古本屋を渡り歩く休日が増えた。 数えてみると、関連図書を求めて訪ねた図書館は十数か所にのぼる。
図書館にも色々ある。 公立図書館、大学図書館、業界団体図書館、企業図書館、等々。 それらを廻り、蔵書を丹念に調べれば、求める情報や思いがけぬ資料に結構出会えるものだ。
その殆どは閉架書庫か外部倉庫に保管されているような希少本であり、館内閲覧のみ許可されていて貸し出しは不可。 書籍そのものの資料的価値を思えば当然のこと。 だから、図書館の開館時間内に必死に読み漁ることになる。 しかしながら、中には「こんな貴重な書籍を貸し出しちゃって良いの?」という寛大な図書館もある。 他の図書館で必死に読み漁り、そして必要箇所をコピーしていた書籍が、別の図書館で難なく借りることが出来てしまい拍子抜けなんていう体験も幾多。
まぁ、閲覧するにせよ借りるにせよ、いずれも今となっては個人購入などとても望めぬ貴重かつ希少な書籍。 その時その場限り、あるいは期限付きで、それらとの刹那的な戯れに興じているという次第。 当然のことながら、返却時には一抹の寂しさがつきまとう。
ともあれ、そういった書籍に目を通してみると、物事の草創期というのは面白いものだとつくづく思う。 と同時に、調べれば調べるほど、新たに確認したくなる事項が出てくるものである。 一年区切りという訳ではなく、暫くは個人的な愉しみとして継続するテーマになりそうだ。

ところで、建築探訪のページに載せている長岡市の「えり芳ビル」が、周辺一帯の再開発に伴い除却されてしまっていたことが分かった。 長岡でアトリエZenを主宰する方のblogに、周囲の近況が載せられていた。
来歴不明の、しかしとても個性的な建築であっただけに、少々残念である。

2010.01.04:年賀状
※1

正月、年賀状が届く。 一枚一枚に凝らされた趣向を堪能する年初のひと時。 日本の正月ならでは愉しみということになろう。
今年、私からお送りした年賀状の元ネタは、村野藤吾設計の森五商店東京支店(現:近三ビルヂング)。 そのエントランスホール天井に施されたモザイクタイルをコラージュしたもの。 自ら撮った写真※1を観ていて、ちょっと思いついてしまったのだ。 で、畏れ多いことと思いつつ、やり始めたら面白くてたまらない。 ということで、やってしまいました。

東京都選定歴史的建造物にも指定されている、由緒ある1931年完成のこの建物。 増築や改修を経て今日に至っているが旧態の雰囲気を良く留めている。
昨年の4月下旬に見学の機会を得た。 モザイクタイルは、その時に撮影した。
その際は、建物管理者の方にお話を伺うことが出来たが、この建物に対して愛着と誇りをお持ちであることが、お話の内容からよく伝わってきた。 建物にしても、設計者にしても、冥利に尽きるといったところだろう。

建物を仔細に見るのは初めてであったが、隅々まで見てやるぞという意識で観ないと気付かない様な細部まで、徹底的にディテールが練られている。 巨匠の凄みを改めて実感する機会となった。

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