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雑記帳
2009.04−2009.06
2009.06.27:匠拓

“しょうたく”と読む。 寺澤秀忠さんが主催する建築設計事務所の名称である。 「匠の技術を用いて時代を拓いていく」という意味が込められているということを、最近知った。
その寺澤氏が設計した住宅の竣工現場見学会が催されたので、お邪魔した。 @niftyが縁で結構昔から見知っているのだけれども、会うのは久々だ。 広義では同じ業界の人間ということになるが、その立ち位置は大きく異なる。 彼は若い頃から独立して建築家として活動し、華麗なる受賞歴も保持するプロ。 片や私は、寄らば大樹の陰でヘラヘラと時間を浪費してきただけの単なる怠け者。
端的に言うならば、そのくらいの違い。

何度か現場見学会にお誘い頂いている。 いずれも木造。 しかも、現在一般化されている構造形式ではなく、伝統構法に拘った木造である。
日ごろの業務において全く縁の無い分野なので、いつも勉強するつもりで観に行っている。 とはいっても、何を見ればよいのか、何を学べばよいのかも判らず、毎回、圧倒的な軸組みにただただ圧倒されているだけなのだが・・・。
しかし、今回の現場はRCと木造の混構造。 これならば少しはツッコミどころがあるかもしれないという少々の期待(?)を持ちつつ、現地に向かう。

住宅密集地に建つその住まいの外観についての第一印象は、「柔らかだな」といったもの。 周辺の雑然とした様相に穏やかさを添えるような、そんな雰囲気であった。 一方で、ベランダの手摺や面格子にアルミ型材の竪格子が多用され、穏やかな外観を引き締める要素になっている。
中に入ると、分厚い無垢板を張った床に柔らかいテクスチュアの壁と天井。 ホッとする設えだ。 玄関脇の下足入れは既製品ではなく建築工事で造られている。 収納用途をしっかり考えた造りに感心するが、それはこの住まいの全ての収納に共通していた。
そして正面には納戸。 内部にはちゃんと外気を取り込む小窓が設けられているけれども、これは正解。 ためしに開けてみると、風が納戸内部に流れた。
階段を昇り二階へ。 昇り切って視線をずらすと、七寸角の立派な檜の大黒柱が目に留まる。 RC造だから構造的には不要なのだが、ここはやはり寺澤さんの拘りなのだろう。 しかしながら、もしも木軸の造作が一切無い中にポツンと立っていたら、取って付けたような存在になったのではないか。 ここでは、階段側面に設えられた木製竪格子があるために、唐突な印象に陥ることを免れている。 外観で確認された竪格子は、内部でもデザイン要素として巧く配置されているという訳だ。
写真1の奥に見えるダイニングルームは、法的制限によって生じた勾配屋根を活かした吹き抜けが設けられている。 内部に設えられた小上がりは、ゴロリと横にもなれる、居心地の良い場所。 こういった場所を計画することは、住宅ではとても大切だと思う。


写真1:
二階内観.1
撮影と、そしてこの場への掲載の承諾を得て撮った。
左手に大黒柱。その右手に階段部分を仕切る木製竪格子。 その間の奥にダイニング。手前がリビング。
  

写真2:
二階内観.2。
食事室の中の小上がりからリビングを見る。 右手の棚の上部開口の向こう側がキッチン。 空間が緩やかに連携する。

そのダイニングの正面に見える階段で更に三階に昇る。 この際、各階の気配が格子越しに伝わってくる。 壁で仕切らずに格子で区切ることで、昇降の際の空間体験を楽しくする。あるいはメリハリを与える。 そんな工夫が面白い。 日常生活において昇降の機会が多い計画では大切な配慮だろう。
思えば、寺澤さんの設計した住宅は、階段に関わる空間体験が印象的だ。
階段を昇るにつれ、二階の豪放な小屋組みが徐々に視界に広がる「朝霞の家」。 骨太の柱の回りを巡るように昇降する折り返し階段が「木の住まい」であることを実感させると同時に安心感と安定感を与える「千駄木の家」。 力強い大黒柱を伴う開放的な空間が展開する二階も秀逸だ。 そして、実物は拝見していないけれども、吹抜けを伴うリビング階段を昇降する際の動的な視覚体験が新鮮そうな「岩槻の家」。 でもって、格子越しに各層の気配を感じる今回の住宅。
いずれも、全く異なる手法を用いながら、単なる昇降のための用途という次元を超えた魅力的な階段を実現している。


写真3:
三階個室の出入口引戸の向こうに、階段室を見る。 ここにも、竪格子のデザインが活きている。 階段部分に使われているスポット照明は、電球色のLED。
  

写真4:
キッチン部分。 水屋も含めて全てオリジナル。 作業性を鑑みてシンクの下に敢えて収納を設置しない等のきめ細かな配慮は、オリジナルならでは。

・・・と、だらだらと印象を書き綴っていて改めて思ったのだが、見知っている人の仕事について述べるのって、なかなか難しいものだ。 何といっても、気になったことが書きにくいではないか。 でも、それではツマランという声が聞こえてきそうなので、恐る恐る何点か付記しておこう。

今回の住まいには地下室も計画されている。 地上部分と同様、両面断熱による一枚の躯体で施工されているのだけれども、非居室用途の地下室を躯体一枚でやって何度か痛い目に遭っている私としては、どうしても一抹の不安を持ってしまう。 地下水位は十分低いらしいが、季節変動もある。 今回用いられた断熱材は、吸放湿性に優れるらしい。 吸湿はともかく、放湿性のある部材を外断熱層に用いるのは、通気層を持たぬ密着工法では重要なことだ。 しかしそれが地中の場合、どんな影響があるのかも良くわからない。

もう一点。
二階の小上がり付きダイニングルーム。 写真1では、奥に縦長の小窓がある。 ここにはガラスブロックが嵌め込まれている。 そして、写真には写っていないが、その左側に突き出し(だったかな?)の連窓、上部に排煙窓が付く。 更には、台所との間仕切りの上部にも、吹抜け天井勾配に合わせた三角形のFix窓がある。 ということで、そんなに広くはない空間が、形も機能も様々な開口によって囲まれている。 それぞれの開口は、個々の制約の中で要求される機能に逐一対応している。 しかし、もう少し形態や配置に配慮があると、より落ち着いた空間になったかもしれない。

他には、インターホン親機はもう少し大黒柱から離れていた方が良かったかなとか、キッチンセットの引き出し表面仕上げの耐汚性は如何程か等々、単なる好み、あるいは枝葉末節な話になる。
建築中のプロセスは御本人のブログにてリアルタイムに紹介されているので、そちらを御参照願いたい。
見学会にお誘いいただいた寺澤さんに感謝します。



2009.06.20:住宅の昭和40年代

滋賀県草津にて建設中の松下電器(当時)の社宅。
ナショナル住宅産業(現・パナホーム)と新日本製鐵が共同開発したSNSU工法が用いられている。 人工大地と呼ばれるスケルトン部分に住戸ユニットが挿入される様子が窺える。
現在提唱されているSI住宅の概念が、40年近く前に既にラディカルに実行されていた事例と言えよう。 こういった、一見して凄みが伝わってくるような試みというのは、現在の住宅産業界には無い。
<出典:新日本製鐵>

住宅メーカーに対する私の興味の対象が昭和50年代に偏っていることは、この場で幾度も書いている。 当時、リアルタイムでのめり込んでいた。
ところが、「住宅メーカーの住宅」のページを作るために改めて当時のことを振り返るうちに、それ以前の時代、つまり昭和40年代についても興味が沸いて来た。 当時の資料は手元には殆ど無い。 しかし、古書店にて書籍を入手したり、あるいは図書館で閲覧の機会を得たりといったことで、細々とではあるが色々と調べているところである。

昭和40年代は、日本における工業化住宅の揺籃期だ。 どんな事象であれ、揺籃期こそ個性的なモノが開発される。 成熟期には無いパワーがある。 住宅産業とて例外ではなかろう。
もっと大きなスパンで見ると、日本の住宅は四百年ごとに革命が起きているのだそうだ。 これは三澤千代治氏の説。 西暦元年頃までの竪穴式住居、西暦400年頃の高床式、その後も寝殿造り、書院造り、そして数寄屋造りという様に四百年ごとに変化してきているのだという。 この流れから行くと、西暦2000年前後という今の時期も、大きな変革の中にあるということになるのだそうだ。 しかし、ここ百年あまりの間、日本の住宅は激変といっても良い状況が継続してはいまいか。 その全てを400年スパンごとの現象の流れと捉えるのは難しいかもれない。 と同時に、昭和40年代からの一連の住宅の工業化の流れも、その一部にあたるのかもしれない。

もう少しで半世紀前の出来事となりつつある昭和40年代。 個人で出来ることは僅かであるが、可能な範囲で色々と調べてみたいと思う。



2009.06.13:カーボンオフセット

6月6日のNHK-BS2「BSサタデーライブ」にて、「坂本龍一ジャパンツアー2009 〜Ryuichi Sakamoto Playing the piano 2009」が放送された。 ここ一週間、その録画を繰り返し見ている。 演奏を記憶させた自動伴奏ピアノと御本人のピアノによる連弾を基本にした構成。
最新作「out of noise」収録の作品も演奏されたが、「hibari」まで弾くとは驚いた。 短いフレーズによるフェイズ・シフティングの作品だから、もう一つのパートに引きずられそうなところ。 でも、そんなこともなく、しっかりと演奏されていた。 同じく、加算プロセスの手法を用いた「compotision 0919」も、ソツなく披露。 どことなく、スティーブ・ライヒの「Six Pianos」を連想させるが、それ以上に躍動感のある曲調とコードが心地よい。 以降、時代を遡るような曲順で次々と演奏が繰り広げられる。
熱狂的なファンという訳ではないので全ての作品を知っている訳ではない。 しかし、聴き覚えのある曲が二台のピアノに見事に翻訳されて叙情的に演奏される様は、十分聴き応えがある。

この番組の冒頭で、今回のコンサートで排出されるCO2のオフセットについて表示された。
「out of noise」のジャケットにも、カーボンオフセットについての表示がある。 当該CDのライフサイクルCO2の推定値0.67kgを、フィリピンのキリノ州で行われている植林プロジェクトによって相殺するのだそうだ。

ところで、樹木によるCO2吸収というのは、その効果や計量化の手法が定まっていないのが現状だ。
「吸収」という言葉を用いたが、実はこの手の概念には、「吸収量」と「固定量」がある。 文字通り、単純にCO2を吸収する量という考え方と、吸収したCO2から炭素を抽出し自らの組織に定着させる量という考え方。 どちらの概念を用いるかで、CO2削減効果の算定結果も大きく変わる。 しかも、それぞれの計量化の手法も様々なようだ。 更には、固定量の場合、街路樹のように剪定が頻繁に行われる樹木では、その剪定や処分によって排出されるCO2も考慮しなければならない。 市販のシミュレーションソフトの中には、「剪定係数」なるものを設定しているものもあるが、その係数は開発会社独自の考えに基づくもので、公的な基準は定まっていない。
果たして、何をもってカーボンオフセットとするのか。 あるいは環境配慮といえるのか。 なかなかに微妙というのが現状ではあるが、もちろん、こういった状況に手をこまねいている訳にもいくまい。



2009.06.06:桐生彷徨

町並み紀行のページに栃木県桐生市の本町通りの町並みを載せた。 町並みといっても、古民家等により構成された歴史的景観ではない。 昭和半ばに再開発された商店街の風景だ。 しかしそれとて今や歴史の一部かも知れぬ。 なにせ、バブル期の建物さえ建替えの対象となる昨今。 それほどに日本の建築ないしは街並みの変貌は速くて激しい。

ということで、この本町通りの群景を載せてみた訳であるが、桐生を訪ねた元々の目的は本文にも書いた通り、のこぎり屋根の工場であった。 そちらに関しても、興味深い事例に幾つか出会えた。 機会を見て、第二部として町並み紀行のページに載せたいと思う。
しかし、桐生の魅力はそれだけではない。 レンタルサイクルで市内を気ままに巡ったが、興味をひく要素がとっても多い町だ。 例えば、写真1。


写真1:

この価値は、判る人にしか判ってもらえないだろう。
普通の民家の外壁に掲げられていたものだが、ミサワホームの広告看板だ。 そこに描かれている外観パースは、昭和四十年代の同社の住宅によく見受けられるデザイン。 ということは、取り付けられてから四十年前後にわたって風雨に晒され続けて来たであろう看板ということになる。 それにもかかわらず、退色も破損も殆ど無く残存しているのは奇跡に等しいではないか。 よくぞ私が発見するまで残っていてくれたと、思わず感動した。 自転車に跨ったまま暫しこの看板を凝視していたのだが、そんな私はハタからみると相当怪しい存在であったに違いない。

閑話休題。 勿論、桐生の別の魅力とは、このことだけではない。 スパニッシュ・コロニアル様式の「桐生倶楽部会館」や、セセション風の「金善ビル」。 折板構造の「桐生市庁舎議会棟」や、楕円体が宙に浮かぶ「桐生市市民文化会館」等々。 再び訪ねたいという気にさせる要素が目白押しの町だ。


写真2:
桐生倶楽部会館
  

写真3:
金善ビル

ところで、町並み紀行のページに載せた本町通りの写真は、車や人が写っていないことにお気づき頂けようか。
悪い癖だし、拘ることでもなかろうと思う。 けれども、どうしてもそれらを可能な限り画像の中から排除したいと考えてしまうのだ。 建築や街並みの写真を撮り始めたばかりの頃は、そんなことは全然お構いなしだったのだけれども、歳をとるごとにだんだん気にするようになってしまった。 だから、カメラを構えたまま、それらが途切れる瞬間を狙って直立不動で通り沿いに佇むという、これまたハタからみると十分に怪しい行動に及んでいる訳である。
そしてそんな写真を載せてしまうがために、「実際はこんなに閑散としてはいませんよ。もっと人通りがあって活気がありますからね。」などと余計なフォローをこの場で書く羽目になる。 まぁしかし、建築写真を撮る人ならば、この気持ちは少しは判ってもらえるのではないか。



2009.05.30:ポスト・モダン
※1
つくばセンタービル東面開口部詳細

いまさら全景写真を載せるまでもないだろうということで、ディテール写真。 楕円窓の廻りは、石によるモールディングが施されているが、下の部分が剥落している。 危ないなぁ・・・と思ったが、改めて図面を確認すると、最初からその様にデザインされたものであり、経年劣化で剥落したものではないようだ。 この開口部の下には地下駐車場への出入り口が設けられていて、車の出入りが頻繁。 主要動線上に、一瞬ヒヤリとさせられるデザイン。 これも何かのレトリックなのか?

所在地:
茨城県つくば市吾妻一丁目10番地1
設計者:
磯崎新
建築年:
1983年6月


※2
書名
建築のパフォーマンス―<つくばセンタービル>論争
編集
磯崎新
出版社
Parco出版
発行
1985年6月

別にこの場で「ポスト・モダン建築とは」などと大上段な命題について能書きをたれるつもりは無い。 もとより、そんな知識も持ち合わせてはいない。 単に、久々に国内におけるポスト・モダン建築の代表作との誉れ高き、磯崎新の「つくばセンタービル※1」を観たので、少し書いてみようかなと思った次第。

「ポスト・モダン」という言葉を初めて見知ったのは、1985年にTBSで放映された「日立テレビシティ「四角いビルはもう古い!?−現代アメリカ建築の表情」」という番組であったように記憶している。 アメリカで当時次々と実現したポスト・モダン建築を、建築家石井和紘が紹介するという内容。 小難しい解説を最小限に留め、個々の建築の魅力をじっくりと映像で見せる構成には好感が持てた。 心地よい環境音楽をバックに、対象建築物の内外を舐め回すように捉えた映像の美しさは、まだ十代であった私の目線を画面に釘付けにするのに十分であった。
録画したビデオを改めて観てみると、さすがに時代の流れを感じる。 と同時に、80年代初頭からバブル経済崩壊までの期間に興隆したあの熱気は何だったのかとも思う。 付加価値や差異化といったバブル期の市場ニーズと、表層の形態操作というポスト・モダン建築のデザイン潮流が合致して、異様な活況を呈していた。

つくばセンタービルに関しては、竣工当初からメディアへの露出が多かったせいか、初めて実物を観た時も、大した感慨は沸かなかった。 最近改めて観た際も、80年代の宴の後といった雰囲気。 でも、その宴の只中の楽しさは十分伝わってくる。 西洋の古典建築の規範を引用・形態操作してちりばめたディテールを目の前にすると、それをデザインしている時の設計者は、さぞかし楽しかったことであろうなと思う。 そして、その宴の享楽は、設計者の著作「建築のパフォーマンス※2」に収録されている。
そこには、当該建築を巡る多数の識者による論争が記録されている訳であるが、改めて読むと、執筆者の一人である西澤文隆のコメントが妙に印象に残る。 他の執筆者が、ポスト・モダン建築の概念を巡る喧々諤々の議論を展開しているのに対し、西澤文隆だけは、ディテールやテクスチュアといった施工状況に特化した言及を淡々と行っている。 宴の熱気に巻き込まれて浮き足立つことなく、冷徹に建築そのものを観察し、評価しているという印象。 その上で、ポスト・モダンとはという問いかけを行う姿勢には、とっても共感できる。
また、幾つかの対談も収録されているが、川添登と松葉一清のものがとても面白い。 特に、川添登のポスト・モダン批判は、今改めて読むと実に的を得ている。 そして肯定派の松葉一清との噛み合わぬ会話は、なかなか笑える。

巨匠・丹下健三をして「ポスト・モダンに出口は無い」と警鐘させた当時の活況は、バブル崩壊と共に敢え無く消散したことは周知の事実。 いや、単に安易なヒストリシズムが退場しただけであって、今こそが本質的なポスト・モダンなのだという意見も有るのかもしれない。 あるいは、「ポスト・ポストモダン」なんていう言葉を持ち出す評論家もいるが、そこら辺の話になると、私にはもうよくわからない。



2009.05.23:建築の復元

5月22日,23日の二日間、UR都市機構(旧住宅都市整備公団)の技術研究所の一般公開が行われた。
毎年開催されているが、私が訪ねたのは14年前。それ以降、行っていない。今年もスケジュールがあわず断念。

14年前に訪ねた時は、施設内の「集合住宅歴史館」が印象に残った。
同館には、同潤会代官山アパートと晴海高層アパートが部分的に移築復元されている。 保存方針として興味深かったのが、移築直前の雰囲気を残すことを配慮して移設が行われたこと。 だから、柱の傷や住設機器のくすみもある程度残した状態であった。 晴海高層アパートのエレベーターなどは、カゴ内部の落書きまで残されていた。
今もそのまま残っていたら凄いと思うが、こういった建築の保存手法は、とても好ましいと思う。 一般的に、建築の静態保存は、あまりにも綺麗に復元され過ぎるという嫌いがある。 可能な限り原初の様態に戻すことが学術的な原則ではあるが、歴史を経てきた筈のものが真新しい状態で建っているというのは、何だか嘘っぽい印象を持つ。 堆積してきた時間の作用をさっぱり消去してしまうことが、その歴史的建造物にとっての本当の価値保全になるのだろうか。
保存目的や用途にもよるだろうが、14年前に同館の保存手法を観て、その思いを強くした。

代官山アパートについては、建替えのために取り壊される直前に、その内部を観る機会に恵まれた。 どこかの大学(東京理科大だったと思う)が実施する躯体劣化調査に同行するという名目で見学させてもらったのだ。 入居者が全員退去して間もないタイミングであったために、まだ生活感が残る団地全体を、くまなく巡ることが出来た。
そして、晴海高層アパート。 この建物も、晴海に現存していた頃に何度か観ているのだけれども、その当時はあまり興味が沸かず、写真にすら撮らなかった。 今にしてみれば、何とも惜しいことをしたと思う。 歴史館に部分保存された住戸は、とっても良い雰囲気。 とりわけ、「非廊下階住戸」と呼ばれる住戸は、実際に住んでみたいという気にさせる魅力があり、数刻、その場に佇んで和んでしまった。
同施設のサイトによると、その後さらに蓮根団地と多摩平団地の一部が移設されているようだ。 機会あらば観てみたい。

ちなみに、代官山と同じく同潤会が建てた表参道のアパートは、表参道ヒルズ内に一棟のみ復元されている。 その外壁に、取り壊し前の風合いは無い。
同潤会アパートに用いられた外装材は「リソイド塗り」とよばれるものだということを、代官山の調査同行時に教えてもらった。 20mm程度に厚塗りされたその外装材が、何十年にもわたって雨風にさらされることで、あの風合いが醸成されたのだそうだ。 言わば、「リソイド厚塗り天然洗い出し」。 長い時間の堆積のみがなせる技。
表参道の復元建物の外装材選択のプロセスについては、それなりの苦労があった様ではあるが、結果は現況の通り。 竣工当時の状態の再現を目指したとのことであるが、これが経年の作用でかつての様な味のある風合いを獲得するのであろうか。 そのことを確認することは、今の私の年齢ではもう無理だろう。


写真1:
現地調査同行時に撮った代官山アパートの住戸内部写真。 二戸一形式の二階建て住棟の室内。
床には「コルク畳」が敷かれている。
コルクの板に薄縁を敷いたもの。
奥に見える引違い窓の格子の最上段右から三つ目の桟が太いのは、その部分が換気小窓になっているため。
  

写真2:
爆裂箇所周辺の鉄筋の状況を調べるために剥がした外壁の表層の断片を拾って写したもの。
下側が仕上げ面。
雨水等に洗い出されて細かい骨材が表出している。
断片の小口の中央部分に見える少し濃いグレーの層までがリソイド塗り。
厚塗りであることが判る。



2009.05.16:震災復興建築

東京都内に現存する関東大震災後に建てられた復興建築を観て廻るイベントに参加したことは、少し前に書いた。
特に中央区はその現存数が多いとのことであったが、巡った順路の中には、これもそうだったのかという公共建築もあった。 例えば、東京駅八重洲口のすぐそばに建つ区立城東小学校。 柱型の出隅に施された三段のくり型に僅かなデザイン性を見出す以外には、年季の入った普通のRC校舎という印象であった。 しかし、これも復興建築であることを、このイベントで知った。 今でも現役で小学校として利用されている。

巡った中で特に印象に残ったのが、八丁堀の三福ビル。 地下一階地上四階建ての小振りな賃貸オフィスビルである。 周囲には、そのボリュームにおいて遥かに圧倒する建物が建ち並ぶが、存在感において決してそれらに劣ることはない。


写真1:
三福ビル外観。
4月25日に初めて訪ねた時は土砂降りの雨だったので、後日改めて訪ねて撮影。
  

写真2:
外壁詳細。
開口部上下の壁面に施されたくり型と、細い水平目地によるデザイン。

柱型と壁面の構造断面の違いをそのまま現した外観。 そこにダキの深い開口部が配置される。 このダキの深さが、構造体の厚さを外部からも容易に視認させる。 震災復興建築として高い耐震性を目指した結果の顕れであろう。
現状では一階に入居している店舗の看板のために見えにくくなっているが、その看板の上下にコーニスが廻っている。 更に一階部分の外壁には化粧の馬目地。 これらによって基壇としての構えを構成している。
そして2階から4階までは、腰壁のくり型と外壁面出隅に施された曲面といったデザイン操作が見受けられる。 更には、開口部の上下とその中間に水平目地が設置されている。 上下端のものはクラック防止の機能も持ち合わせるから、単なるデザインではない。 中間に設けられている目地は、画像では不鮮明だが、開口部の建具の中桟位置にぴったりと合わせてある。 これらの目地の配置により、壁面に石造のような雰囲気を醸し出しているようにも見える。
僅かな形態操作で、しっかりとした建築デザインを表現。 久々に健全な建築を観た気がした。

いや、この三福ビルだけではない。 今回廻った多くの復興建築に共通して、限られたデザイン処理で空間に奥ゆかしさを与えている事例に多く出逢えた。 例えば、出隅のちょっとした面取りのこだわりだけで、雰囲気がすこぶる変わるものなのだということを、改めて教えられた。
三福ビル近傍にある、京華スクエア(旧京華小学校 )も復興建築だという。 今回特別に地下の旧給食室を見せてもらった。 コンクリート製の流し台や昔の蛇口、剥げ落ちたタイル・・・。 写真家・猪瀬光の作品「ドグラ・マグラ」シリーズを髣髴とさせた。


写真3:
地下通路部分。
「ドグラ・マグラ」に倣って、モノクロに色調変換してみた。
  

写真4:
流し台部分。
手前のテーパー部分は、洗濯板の様な金属板が埋め込まれている。



2009.05.09:

  

8日の夕刻、虹がかかっていることに気付く。
それ自体は、時折見かける現象であり、特にどうということもなかろう。 但し、見た場所が、ちょうどレインボーブリッジとオーバーレイするような位置であった。 これはなかなか珍しいと思いカメラに収め、そして暫し眺めていた。
この時の脳内音楽は、「to stanford」。 坂本龍一の「out of noise」に収録されているピアノ演奏で初めて聴いた曲であったが、穏やかで不思議な小品だ。

9日。連休中に録画しておいたBSフジの「堂々現役〜巨匠からのメッセージ」を観る。 別に、いつも観ている番組という訳ではない。 ミサワホームの創業者である三澤千代治が出演するということで興味を持った。 恐らく、今までの経歴を語ることになるのだろうから、当然、昔のミサワホームの映像なども出るだろうという若干の期待もあった。

冒頭で、いきなり御自宅が映し出される。 庭園も自宅も見事な和風の設え。
別棟のゲストハウスを覆う屋根は、1988年5月にミサワホームが発表した試作住宅「フューチャーホーム2001(写真2)」のものと同型。 屋根の大部分を覆う複層ガラスの間に、プラスチックビーズを吹込んだり除去したりすることで、遮熱や遮光をコントロールするシステムも映像に流れた。 まさか御自宅で実用化しているとは知らなかった。

  
写真2:
フューチャーホーム2001外観。
四面全てに同じファサードが採用されているのは家全体が回転するため。 印象としては、「住宅メーカーの住宅」のページに本日アップした「ミサワホーム・エイト」をラディカルにした様なデザインだ。
<出典:ミサワホーム>

話の内容や、出てくる画像は、既に見知っていることが殆ど。 しかし、それでもやはり面白い。
この人は、穏やかな口調で厳しい内容のことをゆっくりと話す。 でも、聴いていても不愉快になることはない。 何か、自分もがんばらなくてはという気にさせられるような、そんな語り口なのだ。 自らが創業した会社を退任せざるを得なくなった時のことについても、淡々と語っていた。
その後の動向については、この雑記の場でも何度か書いている通り。 本当に、住まいのこと、あるいは家造りのことが好きな人なのだと思う。
そのことが、よく伝わってくる番組であった。



2009.05.08:室蘭

連休中、北海道の実家に帰省。

5月2日。親を連れだって室蘭を訪ねる。
私の出身地であり、「住まいの履歴」のページの表記に従うならば、「1番目の家」を過ごした場所だ。 とはいえ、住んでいたのは生後僅かの期間であり、程なく新潟県の長岡市へと引っ越した。 従って、家やその周辺についての空間体験の記憶は一切無い。 更には、その後この地をゆっくりと訪ね歩くことも無く今日に至っていた。
このサイトを開設して、「住まいの履歴」のページを作成したことをきっかけに、この「1番目の家」のことが気になりだした様に思う。 アルバムに保管されている写真に写っている家の内観や親へのヒヤリングから、間取りの推測を試みたことは、以前にもこの場に書いた。 そして、築年数的に既に除却されてしまったであろうと思っていたこの家が、まだ現存することを昨年知ったことも、書いた。 ということで、その一番目の家をこの目で確かめることを第一の目的に、この地へ赴いた次第。

おおよそ40年ぶりの対面となるのだけれども、想い出がある訳でも無ければ、それ以前に記憶すら無いということで、何らかの感慨が沸くということは無かった。 但し、今まで移り住んできた幾つかの住居が既に除却されてしまっていることを考えれば、よくぞ取り壊されずに現存してくれたという想いは起きる。
勿論、住戸内にまで立ち入れないので、間取りの詳細を確認することは出来なかった。
ちなみに、床下換気口の格子には、「M」の文字を図案化したようなデザイン。 「室蘭」のイニシャルを取り込んだといったところであろうか。


写真1:外観
1フロアに4住戸が収まった3階建てWRC造の“団地”。
調べた範囲では、1960年から1965年の間に建設された様だ。
  

写真2:床下換気口
中央下端のツマミの操作で格子を開閉出来るようになっている。

その後、市内を散策。これが第二の目的。
かつての僅かな在住期間中、殆ど出歩くことが無かったという母親に、この地のことを改めて観て廻って貰いたいと思ったのだ。 市内の観光案内所で観光タクシーを紹介して貰い、方々を巡ることにした。 一昨年の富良野の時と同様、観光施設の類ではなく風景をたっぷりと観たいという要望のみを伝え、あとは運転手さんに全てお任せする。
個人タクシーであったが、観光案内に相当拘りを持った人であった。 約2時間半かけて、室蘭八景と呼ばれる景勝地を巡っていただく。 とっても良かった。 また機会があったら、宜しくお願いします > 「さとるタクシー」さん。

母親だけでなく、私も産まれてから何十年も経って初めて、生誕の地をじっくりと巡る機会となった。 「境遇」というほど大袈裟なものでもないが、しかし出身地とのこんな関係というのは今時珍しいことかもしれない。
全く土地勘も無いのでよく判らないが、室蘭には二つの拠点がある様だ。 一つはJR東室蘭駅界隈。そしてもう一つが四駅離れた場所にあるJR室蘭駅界隈。 個人的には、室蘭駅側の方が興味深い。 高度成長期における鉄鋼を中心とした製造業の興隆の面影が今に残る。 そんな町並みがなかなか味があるという印象ではあった。 しかし、故郷という実感は特に持てずじまいである。



2009.04.29:自然エネルギー利用
※1
ミサワホームの月刊広報誌「HOME CLUB」2004年2月号〜6月号に掲載された連載「住まいづくりの挑戦者たち Vol.11〜15」による。
※2
続々続々 匠の時代−ミサワホーム「木と家と人」物語−の記述による

著者:
内橋克人
出版:
サンケイ出版
発行:
1980年


※3
東芝住宅産業のソーラーメイゾン外観。

住宅専門月刊誌「ニューハウス」に掲載された同社の広告より引用。
基本的に自由設計なので、外観は様々なパターンが有った様だ。
資料によると、写真のものは所沢市内の住宅展示場に建てられたモデルハウスらしい。

ミサワホームから、「SMART STYLE-ZERO」というモデルが正式発表された。 謳い文句が、「ゼロCO2・ゼロエネルギー住宅」。
バブル崩壊後の艱難辛苦を乗り越え、ようやく僅かな日差しが見えてきたかと思った矢先の世界同時多発経済危機で、一気に冷や水を浴びせかけられてしまった昨今。 しかも、百年に一度と連呼されるに及んで、頼みの綱は、兎にも角にも環境配慮である。 猫も杓子も口をそろえて二言目にはECOだカーボンオフだの大合唱。 問題意識としては勿論大切なことなのではあるが、その発露が不況打開策の限られた選択肢という面が往々にして無きにしも非ずという状況が何とも哀しい。

話が逸れた。
「SMART STYLE-ZERO」が、そんなひっ迫した状況を背負っての登場なのか否かは判らない。 むしろ、そんな時流に乗る形で、同社がこれまで独自に培ってきた様々な環境配慮技術を組み合わせて商品化したという印象だ。
例えば、外観の特徴として、急勾配の屋根全面に太陽光発電システムを搭載している。 この技術は同社にとっては目新しいことではない。
その開発の歴史は1988年まで遡る。 以降、様々なプロセスを経て、1992年秋に試作棟完成。 1996年春に、その技術を標準装備した「太陽の家」の試行棟作成。 当時の社長であった三澤千代治は、この試行棟の内外装をことごとく酷評したという。 そしてようやく1997年4月4日に正式発表※1。 更に1998年7月には、その当時、住宅産業への興味を全く失っていた私ですらその存在を見知るに及ぶ「HYBRID-Z」というモデルが発売されるに至り、そして今日まで様々なモデルに受け継がれる。
なかなかに息の長い技術開発は、ミサワホームならではのことであろう。 かつて、同社でセラミック系新素材の開発を着手する際も、三澤千代治は「十年、孤独になってくださいよ」と担当者に伝えたという※2。 実際、1971年頃から始まったその開発が1976年に旧通産・建設両省主催の技術提案コンペにて選出され、更にミサワホーム55という商品の形で実を結ぶのは1981年1月のこと。
住宅産業界における技術のトップランナーとして立場は、創業時から脈々と続く開発への拘りと執念、そして長期に及ぶ技術開発を厭わぬ伝統によるものであったという訳だ。

ところで、屋根全面を自然エネルギー取得用途とする試みは、更に先例がある。
1983年9月に東芝住宅産業が発表したソーラーメイゾンが、それだ※3。 但し、こちらは発電システムではなく、空気を媒体とした給湯システムとしての集熱板。
それでも、当時の主流であった水を直接循環させてお湯をつくる方式ではなく、空気を利用したところが先進技術であった。 急勾配屋根の全面をその機能に充てるところも、「SMART STYLE-ZERO」に至るミサワホームの一連のゼロ・エネルギー指向住宅に通じるものを感じる。
そんな点においては興味深いモデルと言えなくもない。 実際、当サイトの「住宅メーカーの住宅」のページに載せるべく文章を書き掛けたこともあった。 しかし、途中で挫折。 魅力が自然エネルギーの積極利用ということのみで、プランとか内装については極々普通という印象なのだ。 実際、このモデルが建っているところを見たことは無いし、いつ頃まで販売されていたのかも情報が無い状況である。



2009.04.25:富山/石川/東京

24日。富山に日帰り出張。 飛行機で小松空港まで移動、そして小矢部に向かうというルートで目的地に赴く。 富山への出張は昨年の6月以来。

前回の出張の際、小松空港近傍にて異様な構造物を確認している(写真1)。 JR小松駅と空港を結ぶシャトルバスの車窓から、その物体が見えたのだ。 その時は、空港到着後に徒歩でその物体を目指して引き返えした。 それほどに気になる存在であったのだが、時間が無かったので詳細の確認もそこそこに空港に戻らざるを得なかった。
潜水艦のような形をした異様に頑強なコンクリート躯体。 風化具合から、相当前に建てられたことだけは明らか。 戦争遺跡であろうことは想像がついたが、調べた範囲では、この物体を紹介した資料を見つけるには至らず。 但し、類似形状の地上式防空壕の存在は確認出来たので、同様の用途であった可能性はありそうだというところまでは掴んでいた。
今回も時間に余裕は無し。 しかし、意地でももう一度観てやろうということで、バスではなくタクシーを利用し、駅へ向かう途中寄り道してもらう。 写真撮影中、運転手さんが気を利かせて近隣の人に聞いてくれた。 それによって、戦時中に造られた弾薬庫であったことが判明。


写真1:
尋常ではない強固な躯体は、耐爆を目的としたためであろう。現在、周囲は駐車場になっている。
  

写真2:
高岡駅前ビルの内部。ツインコリドーが形成するヴォイド空間が、地下一階から地上三階までを貫く。

でもって、出張の目的であった建築部材の性能試験立会いは滞りなく終了。 数時間の余裕が出来たので、その間を自由行動とさせて頂く。
とりあえず高岡に移動。 前回の出張でも高岡を訪ねたのだが、駅前に建つその名もずばり「高岡駅前ビル(写真2)」が気に入ったので再度観たいと思ったのだ。 何が気に入ったのかと問われても困ってしまうのだが、まぁ、好みの問題ということ。 塔屋がカッコイイ。内部のヴォイド空間がとっても妖艶。いい塩梅に煤けた外観が超クール。 とりあえずは、そんなところ。 暫しその風貌を堪能した後、駅前周辺を散策。
高岡は探訪心をくすぐる要素が沢山有り、個人的にはとっても魅力的な街だ。 機会あらば、またじっくりと市内を巡ってみたい。

小一時間程度散策した後、小松に移動。
途中、電車乗り換えの待ち時間を利用して金沢駅東広場「もてなしドーム(写真3)」を観る。 動きのある曲面によって構成されたガラスの大空間を軽やかに実現したトラス構造と、「鼓門」と称するどっしりとした木造部分とのコントラストが美しい。 あまり期待していなかったのだけれども、意外と良かった。


写真3:
「鼓門」とトラス構造のガラスホール(背後)の組合せ。鼓門部分には、防鳥ワイヤやスプリンクラーがさりげなく納まっている。
  

写真4:
竜助町界隈。竪繁格子や二階両袖の卯建といったかつての都市装置が、現代の町並みの中に自然に溶け込んでいる。

小松では、空港シャトルバスの待ち時間を、駅前周辺散策に充てる。 中核都市の主要駅からさほど離れていない界隈に、結構良い雰囲気の町並みが辛うじて残っている(写真4)。 しかし、緩慢ながらも確実に進行する都市の更新の渦中にあって、その風情は穏やかに喪失しつつあるという印象。 北陸新幹線が開通すると、その変化の速度は更に速まるのだろうか。 そんな想いに駆られつつも、面的に残るその町並みを暫し探索。 東京への帰途に就いた。

25日。東京都内に現存する関東大震災後の復興建築を観て廻るというイベントに参加した。 土砂降りの雨の中、みっちり7時間、中央区内の復興建築を巡る。 こういった視点で都市を散策するのは今回が初めて。 なかなかに刺激的な体験となった。 東京には、まだまだ未知の領域が一杯ある。



2009.04.21:過激なトーク

勤務先の近所で安藤忠雄の講演会が開催されたので聴きに行った。 主催者の意向で、講演テーマは「木」。 コンクリート打ち放しの代名詞みたいな人であるが、木を用いた作品や活動も多いことは、今更述べるまでもない。
講演内容は、概ね予想した通りの木造建築作品や植樹活動のネタが出てきたが、それで収まらないのが氏らしいところ。 オリンピック招致委員会絡みの裏話や、所員の教育に関する話、果ては日本の将来に至るまで、話題はどこまでも広がる。 もっとも、日本の将来については、「終わってますワ」の連呼であったが・・・。

世の中、何を言っても許されてしまう人というのが居る。 それが支離滅裂な発言であれば単に一笑に付されて終わりのところだが、正論で何を言っても許されるというのは、得な個性だと思う。
安藤忠雄は、典型的なそのタイプの人間だろう。 時間が経過するにつれて、発言内容の過激度はどんどん増す。 それに従って場内に巻き起こる爆笑の数も増える。
そんな、いつも通りの安藤忠雄らしい講演会であった。

それにしても、発想したことを実現するための行動力には凄まじいものがあると、改めて感心した。



2009.04.18:転倒

自転車で走行中、思いっ切り転倒する。 歩車道境界に設けられている車止めチェーンに前輪を掬われてしまったのだ。 夜間だったので気付くのが遅れ、チェーンの存在を視認した直後にブレーキを掛ける暇も無く前方に投げ出された。 幸い、数箇所に擦り傷を負う程度で済んだが、皆さんも気をつけてください。
絆創膏でも貼っておこうかと、家に戻って救急箱を開けるが、いつ買ったものかも定かではない年季の入ったものばかり。 仕方がないので、転倒の衝撃で前カゴが歪んだ自転車に凝りもせずに跨り、近所のドラッグストアに新品を買いに赴く。 最近は、随分といろいろな商品があるので驚いた。 とりあえず、ゲル状物質によって傷口を保護するタイプのものを買ってみた。
一番ダメージが大きかったのが左手の小指なのだが、あまり使うことも無いだろうと思ったら大間違い。 キーボードのショートカットキーを叩く時、頻繁に使う。 普段のパソコン作業でこれほど使用していたのかと思うほど、頻繁にctrlキーを小指で叩く。 その度に痛みが走るので、そのことを認識できた訳だけれども、まぁ、五体満足の有りがた味をささやかながら実感する。

かつて、勤務先で設計したマンションの住人から、同様の転倒事故のクレームを受けたことがある。 事後対応として、注意を促すよう、車止めチェーン周辺の路面に明瞭なパターン分けを施すことにしたが、その時は内心「単なる不注意だろう。浅はかなクレーマーだな」などと思ったものだ。
しかし、いざ自分がそれを経験する立場になると、なかなか複雑な気持ちではある。 設計上における安全性確保は、十分に配慮しても過剰ということは無い。 そのことを身をもって体験したという次第。 私がぶつかった車止めチェーンだって、支柱部分に反射テープ等が付いた仕様のものであれば、こんなことにはならなかったかもしれない。

十年程前にも、公園内の下り坂の通路を自転車で走行中、派手に転倒してしまったことがあった。 通路を横断していた散水用の径の太いホースに後輪を掬われてバランスを崩し、この時も前方に思いっ切り放り出された。 右手首の豆状骨を骨折。全治四週間と相成った。
もっとも、最初に行った病院では打撲と診断され湿布を渡され終わり。 しかし痛みと微熱が治まらず、別の病院へ行ったら骨折と判明した次第。
二度あることは三度あるともいうし、気をつけなくてはならないと思う。



2009.04.11:ダム

録画しておいたフジテレビ50周年記念ドラマ特別企画「黒部の太陽」をようやく観る。 ・・・などと書くと、ハァ? と思われてしまうことだろう。
3月下旬に放送された番組だ。 何を今更ということになろうが、反論の余地は無い。 単にズボラなだけだ。
悪い癖というか、録画してしまうと何時でも観ることができると思ってしまい、結局観ないで放置してしまう。 そんなビデオによって、テレビボードの引き出しの中は一杯だ。
録っても観ない → 録らなくなる → テレビを観なくなる・・・という流れで、すっかりテレビ離れが常態化している感が無きにしも非ず。 実際、平日などは、朝の出勤前に時計がわりにテレビを点けておく程度という状況だ。

それでもこのドラマを録画し、少し時間が経ったとはいえキチンと観たのは、建築に近い「土木」がテーマであることに新鮮さを感じたためだ。
大して期待もせずに見始めて、その出来に驚いた。 いや、ドラマをよく観る人達にしてみれば、突っ込みどころは色々あるのかもしれない。 しかし、そこら辺について全くの素人である私は、単純に面白く、そして飽きることなく最後まで観ることが出来た。 臨場感溢れる施工現場も、時折表示される専門用語の解説も良かった。
しかしそれ以上に、出演者の演技が素晴らしいではないか。 小林薫とか泉ピン子などは、ちょっとした表情や仕草だけで、その人物の内面を実に豊かに視聴する側に伝えてくる。 凄いとしかいいようが無い。

険しい自然と対峙する施工現場。 そこには、想像を絶する困難・・・というよりは、無茶や無理があったのだろう。 しかし、それを凌ぐ不屈の精神の様なものが、画面からヒシヒシと伝わってくる。
今では技術も進歩し、マニュアルの類も多岐に渡って整備され、もう少しスマートなのかもしれない。 しかし、ドラマに登場してきた多くの人達の様に、それぞれが使命感や誇りを持って現場に挑むといった気概は、相当減退してきてはいまいか。 自らの反省も含め、そんなことを、このドラマを見て感じた。

ダムは、建築と違ってなかなか日常的に観ることができるものではない。 私が見た大規模なダムというと、奥只見のものになる。 とはいっても、小学生の頃のことだ。 雪の研究者であった父親が開発・設置した積雪観測設備を観に連れて行って貰ったのだ。 なので、単なる観光では立ち入り出来ない場所にも案内された様な記憶があるが、よく覚えていない。
アクセスルートである通称奥只見シルバーラインは、その多くがトンネル。 黒部と同様、難工事であったのだろう。
訪ねた時はちょうど紅葉真っ盛り。 その美しい光景と壮大なダムのコントラストが素晴らしかった。
大自然と対峙する土木構築物に与えられるそのダイナミズムは、建築の分野では決して獲得出来ぬものであろう。



2009.04.04:7番目の家周辺彷徨
※1
創元推理文庫「時間都市」所収

著者
J・Gバラード

宇野利泰
発行
1969年05月

4月3日。 大沢匠氏の鎌倉のアトリエで開催された黒沢隆氏の二回目の講義に参加。 テーマは、日本建築のディテール。 間取りに関心を寄せる点で日本は特異な住文化を持っているという指摘が興味深かった。
講義終了後の会食では、七ヶ月間シルクロードを彷徨し、最近帰国したという講義参加者の体験談を聞く。 あまり異文化を愉しむことが出来ない性格の私には、羨ましい限りのお話。
散会後、鶴岡八幡宮の参道“段葛”の桜並木をそぞろ歩き。 提灯の仄かな光の列に浮かぶ夜桜を堪能。

本日は、昭和の暮らし博物館で開催されている土曜夜間講座「火鉢を囲んで建築の歴史」の最終日。 講義終了後、東急多摩川線で二つ隣の矢口渡駅にて下車。周囲を散策した。
十五年程前にこの地に住んでいたことは、以前もこの雑記の場に書いた。 「住まいの履歴」のページの表記に従うならば、7番目の家である。
ワンルームマンションであるが、東向きのため、日照は午前中に限られた。 更に、隣接する戸建住宅との離隔は、条例上の窓先空地規定寸法ギリギリで、窓は網入り型板ガラス。 居住期間は二年弱であったが、それ以上住んでいたら、精神的に鬱になったかもしれない。 まぁ、私も過剰な南面信仰、ないしは日照への偏執的な拘りを持つ平準的な日本人だということ。

日照は乏しいけれども、周囲は閑静な住宅地。 幹線道路からも離れているので、静かで落ち着いた環境ではあった。 逆に、コンビニやスーパー等々も離れていたし、飲食店も少なかった。 平日、仕事を終えて帰宅する頃には周囲は真っ暗。
そんな中、比較的に夜遅くまで営業している洋食屋があった。 店名は「コニシ」。 カウンター数席とテーブル席が三つのこじんまりとした店を、夫婦二人で切り盛りしていた。
当時も、既に結構御高齢でいらっしゃったので、ひょっとしたらもう店仕舞いしているかなと思ったけれど、ちゃんと営業していた。 ということで、十五年ぶりに店に入る。 お二人とも、以前と変わらず元気な様子。 そして、店内も時間が止まったかの如く、何一つ変わっていないように思えた。 内装はもちろんのこと、壁に掛けられている油絵などのアイテムまで、おぼろな記憶と一致する。
よく頼んでいたメニューを注文すると、出てきた料理も昔のまま。 帰り際の支払いの際に久々に御馳走になった旨を伝えると、「やっぱりそうでしょう。昔来て頂いていた方だと思っていました。」との返答。 どこまでリップサービスかは判らぬが、嬉しいではないか。
少し良い気分になって、一駅離れた蒲田駅までそのままそぞろ歩き。 この「コニシ」だけではなく、周辺一体があまり変わっていないなという印象。

穏やかな居住環境が醸成されているといえそうだが、しかし再度住みたいかというと少し微妙だ。
居住中、自転車で周辺一体を広範に巡ったが、どこまで行っても同じような風景が連なっていた。 私鉄の小規模な駅と、その周囲にこじんまりとした商店街、そして更にその周囲に戸建住宅と低層集合住宅が乱雑に連なるパターンが際限なく繰り返されているかの如き様相。
うまく言えないが、そのことが何となく気分を虚ろにさせた。 日が経つごとに、そこから抜け出したいという気持ちが強くなった。 そう、それは例えば、バラードの短編小説「大建設」※1において、超巨大都市の周縁を求めて彷徨う主人公のそれに近かったのかもしれない。

そしてそこから抜け出して次に棲みついた浦安は、うって変わって変化に富んだ街であった。 そこに住んでいた期間も数年程度であったが、なかなか興味深い街だ。
浦安の話は、また別の機会に。

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