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2008.12.27:今年の漢字
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一年間の世相を示す「今年の漢字」に「変」の字が選定されたことは、二週間ほど前の新聞等で報道された。
選定理由は、政治の変革や経済情勢の変化が挙げられているという。
政治の方は、少なくとも国内に関しては「変革」というよりも「ドタバタ」という気がしなくも無い。
しかし、経済環境の方は激変といってよいのだろう。
さて、個人的な「今年の漢字」を選ぶとなると、これはもう「久」しかない。
この雑記の場でも書いたが、本当に久しぶりという出来事が幾つかあった。
例えば、18年ぶりに観覧できた「長岡花火」。
あるいは28年ぶりに再見できた、ミサワホームの希少企画住宅「ミサワホームG型」。
いずれの機会も、人から頂いたものだ。
前者の方は、観に来ないかと誘って頂いたものだし、後者は、その実在情報を教えて貰ったことで実現した。
大感謝である。
他にも、13年ぶりにメインで使っている眼鏡を替えたというのもある。
「長岡花火」を観に長岡へ行った際、高校時代の同級生が経営する眼鏡店を訪ねたことがきっかけとなった。
それまで掛けていた眼鏡は既にフレームがガタガタになっていて、買い換えなければと思っていた。
しかし、なかなかピンとくるデザインのものが見つからず、騙しだまし使う日々が続いていたのだ。
でも、プロである同級生の見立てで良い買い物が出来た。
つまりこれも、人から与えられた機会ということになる。
ありがたいことだ。
それにしても、自分の人生の中に18年とか28年といったタイムスパンが存在するというのは、何とも複雑な気分ではある。
それだけ歳をとっているのだから当然と言えば当然のことなのだが・・・。
しかしうっかりしていると時間なんてあっという間に流れ去ってしまうものだと、つくづく思う。
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2008.12.20:丸の内雑感_2
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復元工事が行われている「三菱一号館」の足場が一部取り外され、外観を観ることが出来るようになった。
歴史的建造物なのに真新しいというのは、なかなか不思議な様相だ。
テクスチュアに渋みが付与され、深みのある外観に醸成されるためには、まだまだ長い年月が必要であろう。
林立する超高層ビルの足元とはいえ、歴史的建造物が何らかの形で物理的に散在するという点において、この丸の内地区の再開発事業は、他の地域のそれとは全く異なる景観を作り出しつつある。
なんといっても、そぞろ歩きをしていて楽しい。
同様に復元工事が進む東京駅がそこに加わることで、更に景観に深みが増すのであろう。
そして、東京中央郵便局の再開発がどうような雰囲気をもたらすのか、気になるところでもある。
それにしても、この「三菱一号館」の復元とセットで建設が進む「丸の内パークビルディング」の西側低層部は、思いっきりコテコテのデザインだ。
ここまでやるか?と言いたくなってくる。
「三菱一号館」とのバランスが気になるが、しかし基本的に私は装飾過多な建築は嫌いではない。
同じエリア内では、「住友信託銀行東京ビル」に、建築計画のお知らせ看板が掲げられていた。
隣接する二棟の中層建築と一体の再開発により、地上27階、高さ約155mの超高層ビルに建て替えられるようだ。
こんなに超高層オフィスを建てて、供給過多ではないのかと余計な心配の一つもしたくなる。
しかし最近のデータでは、この界隈のオフィスビルの空室率は平均で0.15%。
賃料も値上がりしているという。
ポテンシャル的には全く問題が無いのだろう。
この再開発で生み出される街区も、かなりの高容積。
1988年1月に三菱地所から発表された通称「丸の内マンハッタン計画」のことを、当時は絵空事だと思っていた。
しかし、そこで示された超高層ビルが林立する風景が、僅か20年余りで現実のものとなりつつある。
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2008.12.13:一番目の家
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「住まいの履歴」のページには、一番最初に住んでいた家を登録していない。
その理由については、二番目の家Phase-1のページや、2006年12月2日の雑記でも述べている。
しかし、既に除却されてしまい、詳細の確認が不可能と思っていたその一番目の家が、まだ現存するらしいということが判った。
つい最近撮影された建物の外観写真も入手できた。
アルバムに保管している昔の写真と見比べると、同じ建物である可能性が極めて高い。
外装はこまめにメンテナンスが施されているようではあるが、築年数からすると、いつ建て替えられてもおかしくない。
これは急いで確認のために見に行かなくてはなるまい。
といっても、所在地は現居住地から遠く離れているので、そう簡単にという訳にはいかない。
それに、確認できるのは外観だけで、そこから正確な内部プランを導き出すことも不可能であろう。
ついでに述べると、六番目以降の家の紹介も遅々として進んでいない。
六番目以降のしばらくの期間は、ワンルームマンションを転々としていた。
しかし、この形式の住居については書くネタがあまり無いのだ。
とはいっても、どれも同じに見えるワンルームマンションも、微妙に違いがあった。
それぞれの比較検証くらいは可能かもしれない。
そういえば、四番目の家のページもまだ作っていない。
まぁ、敢えて公表する様な凄い家に住んでいた訳ではない。
むしろ、今現在も含めて、公表することがはばかれる様な家ばかりである。
急いで作る必要も無いということにさせて頂こう。
それよりも、メインコンテンツの方を充実させる方が先だろうし。
ところで、2006年12月2日の雑記で一つ訂正が必要であるようだ。
その時の雑記では、一番目の家の間取りを推察した。
そこで、南北に隣接する和室同士が壁面で完全に分割されているのは、耐震壁の配置のためであろうと書いた。
しかし、この間仕切りの意味は、どうもそうではないかもしれない。
解く鍵は、この一番目の間取りの原型になったと思われる「一九五一年度公営住宅標準設計」、通称「51C」の間取りにある。
これに関しては、機会を改めて書いてみたい。
それにしても、間取りというのは本当に面白いし奥が深い。
考えてみれば、「佇まい」とは何も実在環境の様態に対する視認のみによって知覚されるものではあるまい。
間取りだって「佇まい」の形成要素だ。
いずれ何らかの形で間取りについても書き綴ってみたいと思う。
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2008.12.06:都心逍遥
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穏やかに晴れ渡る初冬の休日。
家の中でじっとしていることが出来ず、早朝から外出。
そういえば、久しく東京都心部を散策していなかったな、ということで、東京メトロの一日乗車券を購入。
都心逍遥を決め込むことにした。
まずは有楽町線の月島駅で下車。
それって都心か? というツッコミは無し。
勝手気ままな散策である。
思い立ったところで降りることが出来るのが一日乗車券のメリット。
「もんじゃストリート」と名付けられたメインの通りに直交する幾筋もの路地裏空間を堪能。
身体にぴったりと寄り添うD/H比※1が心地よい。
しかし、地上げされてごっそりと更地となった区画も目立つ。
視線が抜けるその更地の向こうに高層マンションが建ち並ぶ。
一時間ほど散策して月島駅に戻る。
でもって、一つ隣の新富町まで移動。
地上に出ると、そこが日比谷線の東銀座駅からそんなに離れていないことに気付き、その方面に歩を進める。
途中、写真1の建物に出会う。
高層マンションにコの字型に囲まれながらも健気に建つこの古民家には、「酒蔵秩父錦」という看板が掲げられている。
今現在に至るまでには色々なドラマがあった建物なのだろうなと思う。
後で調べてみると、どうやら居酒屋として活用されている模様。
そしてそのまま銀座界隈を散策し、新橋に至る。
実をいうと、この辺りは「建築の側面」のページに載せている物件の多くが建っている(いた)場所。
今回も、写真2の様な側面に新たに出会えたが、これは、同ページで紹介している東京物件No.08と類似するパターンだ。
写真1:
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写真2:
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新橋で昼食をとり、銀座線で表参道まで移動。
地上に出ると、隈研吾の「ONE 表参道」が目に入る。
特徴である外壁面の木ルーバーは灰褐色に退色し、地上からの視線では木と判別するにはなかなか微妙なテクスチュアと化している。
その先に建つ安藤忠雄の表参道ヒルズは、やはり何度観ても参道側よりも裏側の方が良いと思う。
この表参道ヒルズの裏表を貫通するピロティ空間と、向かいに建つ黒川紀章設計の「日本看護協会ビル」の低層部ピロティがほぼ同じ軸線上にあるのは、知る人ぞ知る事実。
偶然か意図したものかは定かではないが、異なる設計者による建物同士の呼応が楽しい。
人でごった返す表参道を避けて脇道に入り、明治通りと青山通りに挟まれた一帯を歩く。
この辺りは、起伏に富んで迷路じみた小路が連なる。
そして戸建住宅が建ち並び、一瞬ここが都心か?と疑いたくもなる。
そんな界隈を散策しつつ、渋谷駅に向かう。
とはいっても、渋谷はあまり好きな街ではないので、開業したばかりの副都心線渋谷駅を観るに留め、隣接する半蔵門線に乗って、そそくさとその場から離脱。
神保町で下車し、南洋堂書店に向かう。
建築関連の古書や新刊を取り揃えた専門店だ。
「都市住宅」という雑誌のバックナンバーを見ていたところ、「不法占拠」という特集が組まれた73年6月号が目に留まる。
値段を見ると200円。
十分価値があるものの筈なのになぜ、と思ったら、裏表紙に元の所有者のものと思われる押印があった。
なるほどと思い、大して気にもならなかったので、購入。
まだ良く読んでいないが、不法占拠に伴う興味深い都市論が掲載されている。
その後、同じく半蔵門線で大手町に移動。
変貌著しい周囲一帯を散策。
最後に、新丸ビル7階のオープンデッキにて、夕日を眺めつつ暫し休憩、帰途についた。
低予算で結構遊べた一日であった。
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2008.11.29:古民家調査
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※1:
今回調査を行った民家の外観。左手に立派な長屋門を従えている。
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久々に古民家の現地調査のお誘いをうけ、参加した。
場所は茨城県龍ヶ崎市。
この地を訪ねるのは初めてなので、集合時刻の一時間前に現地入りし、駅の周辺を散策した。
駅から続く一本の道路沿いに、かつては平入り形式の民家が軒を連ねていたのであろう町並みの名残を所どころに確認する。
その後、他の参加者と合流し、対象民家へ向かう。
参加者はリーダーを含め十名。
調査項目は、平面、断面、展開の三つ。
私は断面調査の責任者を仰せつかり、若い女性二名とともに早速調査に入る。
といってもこのお二人、普段の仕事で木造建築には馴染みが無いし、手書きで図面を書いたことも無いと言う。
そりゃ私だって似たようなものだ。
そんな自分に危機意識を持って、この様なボランティア活動に時折身を投じる訳だ。
とりあえず、お二人には各部位の採寸をお願いし、それを私が図面化することにした。
慣れぬ作業に悪戦苦闘すること約四時間。
一応の図面を仕上げ、調査終了。
でも、やはり手で図面を描くというのは、CADによる作図には無い楽しさがある。
線を引く過程で、かつてこの家を造った職人の心意気のようなものが伝わってくる気がする。
また、調査の中で、職人達が所どころに遺した小粋な遊びを見つけ出すこともある。
それはたとえば、日常生活では殆ど目に留まることも無い箇所に施された丁寧な几帳面取りや雛留めの類にとどまらない。
何の変哲も無いように見えて、しかしよくよく考えると、どうやって造ったのか頭を捻らずにはいられない造作などに遭遇するのも、楽しい。
誰にも気付かれないかもしれないところに謎かけを用意しておく職人の遊び心が良いではないか。
「お前らに見つけ出すことが出来るか?」そして「見つけ出せたとしても、その納りを理解出来るか?」と、時代を超えディテールを介して語りかけてきている訳だ。
それに応えて一つ一つ解き明かすことも、調査では大事なことだと思う。
しかし、そんな職人の心に触れるにつけ、昨今の住宅に施される造作の何と貧相で薄っぺらで安易なことかと、少々寒々しい気分になるところ無きにしも非ずである。
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2008.11.22:GALLERY・MA
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※1:
住宅設備機器メーカーTOTOが運営するギャラリー。
1985年10月オープン。
サイト:
GALLERY・MA
※2:
期間:
2008年10月3日〜 2008年12月20日
※3:
「セクションズ」
期間:
1998年9月19日〜 1998年11月14日
サイト:
齋藤裕展
個展に併せて開催された講演会にも参加した。
1998年11月13日に開催された「日本建築の真・行・草」という講座は、目からウロコであった。
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乃木坂にあるGALLERY・MA※1で開催中の「安藤忠雄建築展2008 [挑戦―原点から―] 」※2を観に行った。
安藤忠雄の個展を観るのは、今は無き池袋のセゾン美術館で1992年に開催された大掛かりなもの以来。
更に、GALLERY・MAを訪ねるのも、齋藤裕の個展※3以来だから、十年ぶりになる。
もうそんなに経ってしまうのか・・・。
無為の日々を惰性で過ごしていることに気付き、愕然とする。
今回の目玉は、「住吉の長屋」の原寸大模型であろう。
プレキャストコンクリートとベニヤ板を用いて組み上げたその模型は、内部も再現されていて、その空間性を疑似体験出来る。
内部に入った瞬間の印象は、「意外に広いな」であった。
狭く絞られた玄関を通過することによって生じる感覚か。
あるいは、中庭を介して建物の奥まで一気に視線が開けているためであろうか。
または、連続する中庭によって、空へと抜ける気配が感じられるせいかもしれない。
居室の天井は、私が靴を履いた状態で直立姿勢で腕を上部に伸ばすと、ちょうど指が天井に触れる高さ。
一般的な住宅のスケールからすると低い。
しかし、圧迫感や窮屈さは全く感じられない。
部屋の広さと天井高さの関係、あるいは中庭の大きさとの関係等々、どれをとっても、全くスケール感に破綻が感じられない。
これが名作の名作といわれる所以ということか。
都市に埋設された一つの狭小住宅によって一人の建築家をスターダムに押し上げた伝説が、単なる奇跡や偶然では無いことの一端に触れることが出来た様な気がした。
それだけでも、この原寸大模型は十分意義がある。
いや、それ以上に、会場であるGALLERY・MAは、「住吉の長屋」を安置するために造られた場所だったのではないかと思わせるほどに、この模型はギャラリーに完璧に納まっていた。
そして、この原寸大模型を核とした各作品の鑑賞経路の設定も秀逸。
単なる作品展示のレベルを超えた、物語性のようなものが形成されていた。
順路を巡り、最後に辿り着くブースの演出は、感動的ですらあった。
展示作品の一つである現在進行中のプロジェクト「バーレーン遺跡博物館」の説明文に、以下の言葉があった。
「最大の展示物は場所の風景そのものである」
美しい言葉だ。
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2008.11.15:【書籍】手すり大全
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タイトルの通り、手摺についてまとめられた書籍である。
その内容は、デザインから技術面、法務面まで多岐に及ぶ。
大全の名に相応しい。
法務面では、安全性に関連し、その基準となる法体系や実際の訴訟事例が数多く載せられている。
その内容を読んでいると、能天気にデザインなどやっている場合では無いなという気にさせられる。
そう、手摺とは本来、人体の安全に供する部材だ。
転落の防止、あるいは歩行や動作の補助。
だから、財団法人ベターリビングの認定基準書では、バルコニーや開放廊下に用いる手摺を「墜落防止手すり」、内部廊下やトイレ等に設ける手摺を「歩行・動作補助手すり」と呼称している。
一方で、巨匠がデザインした階段手摺の写真などは、本当に美しい。
とりわけ、これでもかと紹介される村野藤吾の大量の事例は、一日中見ていて飽きない。
一つひとつ、手を抜くことなく丹精にデザインされた美しいディテールは、驚異的だ。
安全性とデザイン性。
手摺はなかなかに奥の深い建築部材である。
さて、デザイン面で私が好きな手摺というと何になるか。
例えば、階段手摺の場合は、手摺単体の美しさのみでは評価できない。
階段自体のデザインとのバランス、あるいは、階段周囲のデザインとのバランスが問われる。
そういった意味では、ミサワホームO型の階段手摺は、素晴らしいと思う。
力桁形式のスケルトン階段とのバランス。そして階段脇に屹立する大黒柱とのバランス。
階段の最初の一段目に対して手摺端部を若干後退させた納り。
決して奇をてらったものではないが、しかし全く非の打ちようの無いデザインだ。
少し前に、中古のミサワホームOIII型に入る機会を得た。
そして約四半世紀ぶりに、この階段を昇降した。手摺にも触れた。
やはり良い。とっても良い。
ちなみに、この階段は、私が建築に興味を持つきっかけになったという思い入れもある。
幼少のみぎりに、この企画住宅のTVCMに映し出された階段のシーンに感銘を受けたことが、全ての始まりであった。
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2008.11.08:スムストック
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優良ストック住宅推進協議会という団体がある。
今年の7月29日に住宅メーカー9社が設立したものだ。
適切な維持管理がなされた中古住宅「SumStock(スムストック)」のブランド戦略により、良質な中古住宅市場の形成を図ることを設立趣旨としている。
ハウスメーカーが台頭し始めた昭和40年代以降、脈々と生産されてきたメーカー住宅の中には、優良なストックといえる物件も数多く存在する。
それらが適切な査定のもとで安全且つ安定した市場に流通することは、悪いことではない。
協議会の公式サイトには、メーカー別のSumStockが登録されている。
その中にはミサワホームも入っている。
70年代半ばから80年代半ば頃にかけて同社に興味を持っていた私にとっては、なかなか魅力的な情報が載せられている。
例えば、その期間に発表されていた商品も中古住宅として登録されているのだ。
そこには、当時のパンフレットに掲載されていたモノとは異なる実物件の外観写真や、正規のモノとは微妙に異なる間取りデータが掲載されている場合もあり、なかなか興味深い。
また、80年代半ば以降の私にとっての空白期間を埋め合わせる商品情報も散見される。
まだその量は僅かであるが、今後増えることを期待したい・・・って、これではサイトの設立目的とは全く関係の無い興味本位でしかないな。
ともあれ、大量生産路線で業態を拡大してきたハウスメーカーが、SumStockというストックビジネスに対してどのような展開を見せるのか。
そのあたりにも注目したいと思う。
200年住宅という語句をよく目にする。
しかしそれは何もこれから建てられる住宅のみがターゲットではない。
既に存在する住宅の長寿命化を図るための仕組みづくりも、重要な対象となり得るだろう。
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2008.11.01:丸の内雑感
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※1:
歴史的建造物の外壁のみを残し、新たな建物の表装にへばり付く様に取り付ける手法による建物の保存手法。
若干の揶揄の意味を含めた表現ということになろう。
※2:
左側が明治安田生命ビル。
右側の建物が、建設中の丸の内パークビルディング。
ここには写っていないが、この建物の足元で三菱一号館の復元工事が行われている。
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東京中央郵便局の建て替えに関し、デザイン・アーキテクトとしてヘルムート・ヤーンが起用されている。
線路を挟んで向かい側の東京駅八重洲口再開発のデザインも、この建築家が手掛けている。
つまりは、東京駅に隣接して同一人物による超高層が三本。
もう、首都の玄関口はヤーンによって制圧されたと言って良いかもしれない。
八重洲側のツインタワーは、外装全面に高透過ガラスを用いた透明性の高いデザイン。
東京中央郵便局の建て替えも、超高層部分は全面ガラス張りになるようだ。
線路を挟んでクリスタルな超高層が連なることで、ある程度統一された景観の醸成が期待できることになるのだろうか。
それにしても、東京中央郵便局の完成予想パースは、かつて「イリノイ州センター」でド派手なデザインを手掛けた人物の仕事とは思えない。
勿論、当時はポストモダン全盛期。
時代や場所、そして用途が変わればデザイン手法も変わって当然といえば当然なのだが。
その丸の内側では、もう一つの再開発事業、「丸の内パークビルディング」の工事が着々と進んでいる。
特徴としては、ジョサイア・コンドル設計の「三菱一号館」の復元と、その外観との統一感を意識したと思しき表層デザインが施された超高層棟の並置であろうか。
美術館の用途に供せられる「三菱一号館」は、免震構造を採用する以外は、用いる工法も含めて可能な限り忠実な復元を目指していると聞く。
「東京銀行協会ビル」に見られる“かさぶた保存※1”に始まったこのエリアにおける歴史的建造物の保存・活用手法も、ここまで進展したかと思う。
以前も書いたが、この再開発事業には批判的な意見も出ている。
その批判に共通するのは、貴重な歴史的建造物を除却しておいて何をいまさら復元なのか・・・ということのようだ。
しかし、失われていたものが新たな用を得て復活するというのも、それはそれで良いのではないかと、私は考える。
もっとも、東京国際フォーラム側から見た際の、「三菱一号館」とその背後にそそりたつ超高層棟とのバランスは何とも微妙。
それに、隣接して既に建つ「明治安田生命ビル」との離隔距離の乏しさが気になるという面もある※2。
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2008.10.25:上海の朝
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※1:
1934年に建てられた上海アールデコ様式のホテル。
外観は旧態をとどめているが、内部は今風に改装されている。
ちなみに開口部は、樹脂サッシが一般的な中国では珍しく、YKK製のアルミサッシが取り付けられていた。
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10月22日から24日にかけて仕事で中国に出張する。
三日間で青島と上海と紹興を巡る慌しいスケジュールであった。
泊まりがけの出張の場合、赴いた土地を個人的に歩き回る時間を出来る限り作るようにしている。
とは言っても、そのような時間は早朝くらいにしか確保出来ない。だから、気合を入れて早起きをするのだ。
更にこの場合、ガイドブックに載っている観光スポット巡りは行わない。
街の中にひっそりと隠れた小粋な佇まいを見つけ出すべく、あてもなく黙々と徘徊するのだ。
そして、寝静まっていた街が徐々に動き始める、そんな時間のあわいの中で、その街の体温のようなモノを堪能することにしている。
ということで、最終日の早朝、宿泊に利用した上海大厦※1の周辺を二時間ほど散策。
歩き回ったエリアでは、密集する瓦葺煉瓦造の長屋を根こそぎ除却する現場に所どころで遭遇した。
二年後に開催される上海万博に向けて進められている都市の大改造の一環なのであろう。
策定された都市計画の早期実現のために、古い町並みは有無を言わさず除却される。
そこには懐旧や情緒の入り込む余地など一切ない。
部分的にとり残された長屋の街区の向こう側に、瓦礫の山と、超高層ビルを建設するためのタワークレーンの群体と、そして真新しい幹線道路が迫る。
そんな新旧が混在する狭間というタイミングに、この地を訪れることが出来たのが良いことなのか否かはよく判らない。
写真1: 武昌路界隈。左手の建物は解体のために足場が組まれている。背後に超高層ビル。
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写真2: 側面物件上海版。
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でも、とりあえず、「建築の側面」のページで紹介しているような事例には幾つか出会うことが出来た。
その一つが写真2。
状況的には、関東物件No.1に類似しているのであろう。
自主ルールに則り八文字のタイトルをつけるなら※2、「露呈された破砕面」とでもなろうか。
それにしても、上海の朝は早い。
現地時刻の午前6時前後には、もう街が動き始める。
朝食を提供する店や屋台に人が集まり、道路は信号や車線などお構い無しにバイクや車が疾走する。
それらが掻き鳴らすクラクションに追い立てられながらの散策となった。
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※2:
このサイトを開設した当初から、「建築の側面」と、「住宅メーカーの住宅」のページに登録している各コンテンツのサブタイトルは、全て八文字で統一している。
その理由というか経緯については、2007年9月22日の雑記参照。
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2008.10.18:長岡の近代建築を考える
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9月13日の雑記で、新建築誌9月号掲載作品の感想の様なものを書いた。
考えてみれば、あまりにも畏れ多いことであるが、なぜかスラスラと書けてしまったのだ。
しかし、10月号に関しては書く気が起きる作品が無い。
というか、どう捉えてよいのか判らないのモノばかりだ。
同誌の月評欄の担当者みたいに、コンスタントに適切な論評が書けるというのは凄いことだと思う。
でも、原広司の今月の月評は、私事ばかりで何だかなという印象。
ご多分にもれず、月評としての体裁を保とうという若干の配慮はしている様に見受けられなくもないけれど、個人的なゴタゴタからの繋げ方があまりにも無理矢理。
挙句の果ての文末は、呆れる以外に無い。
自らの権利保持のために都合よく「共有」の概念を持ち出すのは、シラけるからやめてほしい。
木々を大切にしたい気持ちは良く判るけれども、新建築誌上に書き散らすことではなかろうに・・・。
などと思いつつページをパラパラとめくるうちに、表題の記事が目に留まった。
長岡の市街中心部に鎮座している「長岡市厚生会館」が、新たな市役所建設のために取り壊されることを受けて同市で開催されるイベントだ。
写真1:
厚生会館の全景。
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写真2:
厚生会館の側面部分。
鍛え上げられた筋肉の如き力強い構造体の連なりは、昭和半ばの建築に多く見受けられる特長であろう。
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知らなかったのだが、1958年に竣工した体育施設を主用途としたこの建物の設計者は、かの石本喜久治なのだそうだ。
そういえば、屋根の曲線は分離派風のパラボラアーチの流れか?などという繋げ方はあまりにも無理矢理。
実はこの建物にはあまり良い思い出がない。
幼少のみぎりに、すこぶる運動音痴な私のことを憂慮した親によって、この施設で開催されていた市主催のスポーツ教室に通わされた時期があったのだ。
結果は惨憺たるモノで、すぐに辞めさせてもらった記憶が残っている。
そんなことがあったがために、どこかこの建物を避けたい気分を持ちながら今日まで至っている・・・って、これこそ私事だな。
ともあれ、長岡市は昭和半ば頃に竣工したモノを中心に、なかなか面白い建物が散見される。
とはいっても、建築的には決して主流となれる建物ではない。
傍流ではあるのだけれども、しかしそれはそれで味わいがある。
というか、現在の私の興味の対象は、この「傍流」にある。
そして、これは何も長岡に限ったことではない。
地方の中核都市に、人知れず建っている味わい深い昭和中葉の傍流建築は幾多とある。
しかし、中核都市に共通する既存市街地の空洞化や老朽化という状況下で、まだ観ぬそれらの建物の多くは除却の曲面にさしかかっている。
時間をかけてじっくりと見て廻りたい、あるいは発見すべく彷徨してみたいと思うが、なかなか難しいのが現実だ。
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2008.10.11:R231
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※1:
この地も、ニシンが大群で押し寄せる好漁場であった。
その郡来の際、海一面にカモメが飛び交うことから、アイヌ語で「カモメが多いところ」を意味する「マシュケ」という地名がつけられていた。
※2:
雄冬トンネル
国道231号が通る北海道西部日本海沿岸は、このような風景が連なる。
その中でも、浜益から増毛の間の地形は、この雄冬の辺りを中心にとりわけ険しい。
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先週、増毛町の駅を「建築外構造物」のページに載せた。
北海道の多くの地名と同様、これもアイヌ語が転じた地名らしい※1。
駅を出ると目の前に国道231号が横切り、その道路沿いに時代を経た建物が点在する雰囲気の良い町並みが広がる。
「日本海オロロンライン」とも呼称されるこの国道は、札幌から留萌までを日本海沿いに結んでいる。
その大半は日本海と海岸段丘に挟まれており、素晴らしい光景が展開する。
北上する際は、左手に海、右手に断崖を望む。
そして時折街並みが拓け、あるいは所々に廃墟然とした鰊番屋が佇む。
左の写真※2はこの国道の途中にある雄冬トンネルを撮ったもの。
この向こう側に雄冬の集落がある。
海に面して断崖絶壁がそそりたつ地形を視認して頂けよう。
開通が1981年。
それ以前の雄冬集落へのアクセス方法は、険しい山道か航路のみ。
文字通りの陸の孤島状態が、永らく続いていた。
国道の開通後も、冬期間の通行が緊急時に制限される状態が続き、通年供用となったのは1992年。
天候が崩れて海が荒れると孤立してしまう状況が解消されたのは、そんなに昔のことではない。
完璧なペーパードライバーなので、この国道の往来は、路線バスか徒歩ということになる。
その路線バスはもともと本数が少なかったが、最近更に減ってしまった。
従って、時間的な制約が増えたし、徒歩で移動するケースも増えた。
しかし、そこは風光明媚なロケーション。
いつもその風情を堪能しつ黙々と歩くことを愉んでいる。
個人的には、10月中旬から11月下旬の間の風情が気に入っている。
夏の間の観光客の喧噪も途絶え、凛と冴えわたった冷涼な大気に包まれながら彷徨するのが、なかなか良い。
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2008.10.04:【書籍】証言・町並み保存
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※1:
埋め立て前の小樽運河
この当時の幅は40m。
新たな幹線道路の整備用地としてそのうちの30mを埋め立てる計画が策定された。
しかし、保全運動の成果により、19.54mが残されることになり、更に5.5m幅の散策路も併せて整備され、今日に至っている。
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NPO法人全国町並み保存連盟の主催で年一回開催される全国町並みゼミに併せて企画された「西村幸夫町並み塾」の内容を収録した書籍である。
今でこそ、歴史的な町並みを積極的に保全する動向が全国各地に見受けられるが、本書では、その様な活動の初期の事例について紹介されている。
初期の頃というのは、まだ伝統的な町並みに対して、実際にそこに暮らす人々の関心は決して高くはなかった。
むしろ、そんな町並みを徐却して新しい建築に建て替えることが、日常生活の向上や地域活性化のためには必須という価値観が主流であった。
そんな時代背景の中で町並み保存を実施する過程においては、強力なリーダーシップのもと、その地域を牽引した人物が例外なく存在していたということを、この書籍で知った。
そういった人たちの慧眼や行動力には驚くしかない。
本書では、各事例の中で中心的な役割を果たした人物と、筆者の一人、西村幸夫氏の対談という形式で、それぞれの地域の町並み保全のプロセスが語られている。
そのプロセスおいては当然のことながら、地域住民の様々な想いや行政との軋轢等々、紆余曲折があったのであろう。
しかし、そのような苦労話や怨み節は、対談の中では殆ど出てこない。
建設的な見地で、どんなことが行われたのかが冷静に述べられている。
困難を乗り越え先駆者としてそれを成し遂げた者の余裕であろうか。
そして、幾つかの事例の中では、町並み保全と観光地化の問題にも言及している。
歴史的町並みの修景とテーマパーク化、観光地化ということについては、私もこの雑記帳や町並み紀行のページで何度か書いてきた。
現代社会の中で保全を進めるためには、それは極めて現実的な手法ではあろう。しかし一方で、観光地として消費され尽くしたあとにどうなるのかという想いも持つ。
本書の中の事例の一つ、小樽運河※1と観光の問題について、その保存運動の会長を勤めてきた峯山冨美氏は、それは一過性のものという考え方を示している。
そして「私は運河がもとの静けさになると信じています」とも述べている。
一過性の観光ブームのあとにこそ、それぞれの町並みの真の価値が見えてくるのかもしれない。
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