日本の佇まい
国内の様々な建築について徒然に記したサイトです
町並み紀行
建築探訪
建築の側面
建築外構造物
ニシン漁家建築
北の古民家

間取り逍遥
 
INDEXに戻る
住宅メーカーの住宅
百万円住宅の冒険:ミサワホーム・ホームコア
1.概要

1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の会場の一角に、奇妙な集合住宅が建てられた。 高さ16mの4本の鉄柱を一組とした支柱を中心に据え、そこから階層をずらしながら四方に突き出す様に、複数の住戸ユニットが取り付く。


写真1:*
ミサワホーム・ヘリコ外観

一つの住戸は、三つのカプセルから成り立っている。 中央にオレンジ色のカプセルを配置し、その両側を紺色のカプセルで挟み込む。 紺色のカプセルには窓が二箇所穿たれ、そのことが唯一、これが住居であることを示唆する。

その住戸ユニットが支柱を中心に螺旋状に連なることから、エスペラント語で「かたつむり」を意味する「ヘリコ」と命名されたこの変則的なパビリオンは、ミサワホームが製作した。 実際には場内の休憩場を覆う屋根の用途でしかなかったが、屋根としての機能のみを担った各住戸ユニットには、同社が草創期から開発を進めていたホームコアの理念が込められていた。

2.開発過程

ホームコアの開発が始まったのは、1964年のこと。 ミサワホームの前身である三澤木材プレハブ住宅部の時代に遡る。 広さ3DKで百万円の住宅を商品化することを目標とする取り組みであった。
当時の標準的な建設コストからすれば、半額に近い目標コスト。 無謀とも思えるこの計画の実現には、住宅生産に関わるあらゆる要素の徹底した再検証と合理化を必要とした。 例えば、工種と材種の削減、工場生産率を極限まで高めること、あるいは徹底した部材の標準化等々。 具体的には、主要構造体の大型パネル化や住設機器類のコア化など、その後の同社の技術開発の基礎となる各種開発が検証された。

当初は、完全に工場で作りこんだ住宅の完成品を建設地まで空輸してしまおうという発想まであった。 この空輸は、初めての試みではない。
話は少し遡るが、同社では、1962年の10月28日から11月2日の間に開催された日本大学の工学祭に、6坪のモデルハウスを出展している。 1959年1月設立のプレハブ住宅部発足以来開発を進め、その後同社の基本構造形式として現在でも採用され続けている木質パネル接着工法による試作住宅の初の一般公開である。 会期終了の翌日、今度は後楽園で行われるサンケイ新聞主催の第六回住宅展に出展することになった。 そこで、どうせならそのままヘリコプターで輸送してしまえという発想が浮かんだが、当時の運輸局の許可が降りずに構想は実現せず。
しかし、完全プレハブの理想形として、空輸の夢は消えなかった。 このホームコアでも、という想いがあったが、やはり許認可の壁は高い。 それでも諦められない開発者達は、1969年2月、各務ケ原飛行場跡地にて空輸実験を敢行する。
総重量2トンのカプセル化された住宅を、エアーリフト社製の大型ヘリコプター「シコルスキー」にて空中へと吊り上げ、構造強度を実証。 更に地上10mの高さからの落下試験にて、その強靭さを実証した。
この実験時、シコルスキーの胴体には同社のマークがデカデカと掲げられ、試験の一部始終が8mmフィルムに収められた。 そしてその時の画像は、今日の同社の技術アピール関連資料にも堂々と掲載されている。 単なる実証試験に留まらず、広報戦略の一環として、この実験が位置づけられた。


写真2:*
空輸実験

写真3:*
試作展示された概念モデル
広報戦略という意味では、1967年に、まだ商品としては未完成であったこのホームコアの実物大概念モデルを作って展示するということも行っている。 会場は、新宿の小田急ハルク。
開発途上の商品を一般公開することは、今でこそ珍しくも無いだろう。 しかし、当時としては大胆な試みだったのではないか。
3.百万円住宅の完成
※1
同社では初期から910mmモジュールを用いていたが、ホームコアに関しては900mmモジュールが使用されていた。 他のモデルとの互換性の無い寸法系を採用した事情は、今のところ分からない。
発想から約5年の開発期間を経て、ホームコアの開発が完了。 1969年7月31日の朝日新聞の夕刊にて広告発表。 翌8月に販売が開始された。
平面プランは1タイプのみ。 梁間方向7.2m、桁方向約7.1mのほぼ正方形の平屋建て。
スペックは二種類用意された。 一方が本体工事一式100万円のC100タイプ。 そしてもう一つが、C100に雨戸と給湯設備を追加した135万円のC135タイプ。

写真4:*
外観

図1:*
平面図

図1が、ホームコアの平面プランになる。
中央に、玄関,納戸,サニタリースペースといった非居室用途が一間よりやや狭い幅で一直線に並ぶ。 各用途の間仕切りは基本的にアコーディオンカーテンという徹底したローコスト化が図られている。 浴室は今でこそ普通であるが、当時としては珍しい完全なユニット化が図られていたようだ。
この非居室ゾーンを両側から挟みこむように、居室ゾーンが配置される。

広さが3.6m×2.7m※1の居室が二部屋ずつ、計四室を配置。 一方の居室ゾーンは続き間となり、主に居間とダイニングキッチンの用途にあてがわれる。 非居室ゾーンのサニタリー部分に接して、キッチンセットを配置。 家事動線と共に、設備配管類の接続の効率化が図られている。
もう一方の居室ゾーンには、個室が想定されている。 奥の方の個室は、サニタリースペースを介してアクセスするという割り切り方。 居住性よりも、ローコスト化のための生産性や効率性が優先された結果なのだろう。

内装は、壁面がリシン吹付けである。 通常、外装に用いられる仕上げ材が内装に持ち込まれた。 これも、工種削減によるコストダウンを目論んだ結果だ。
畳も、その基材にボード状発泡材を採用。 軽量化と薄型化とコストダウンが図られた。 今でこそ、伝統的な藁床畳とは別に、様々な建材を芯材に用いた畳が商品化されているが、そんな建材床畳の最初期の事例といってよかろう。

ローコスト化に向けた思い切った割り切りと技術開発の結果として編み出されたその基本構成には、冒頭のヘリコとの類似性が見出せる。
つまり、ヘリコの紺色のカプセル部分が、ホームコアの居室ゾーン。 そして、紺色のカプセルに挟まれたオレンジ色のカプセルが、玄関やサニタリーといった非居室部分に対応する。
しかしながら、ホームコアに、ヘリコほどのラディカルさは無い。 実際に販売する商品としての現実性と、当初より課せられていたローコスト化という制約の狭間にあって、当該モデルの形に落ち着いたといったところか。
逆に、その過程における様々な試行の理想的な具現形として、ヘリコが位置づけられよう。

4.その後のホームコア

発売に前後して、東京晴海で開催された69'ホームフェアへの出展や、TBSの番組「圭三訪問」での紹介等々の広報戦略が展開された。
「圭三訪問」は、1969年12月15日に放映。 そこでは、日本建築センターでの公開実験を中継するという前代未聞の試みが行われた。 実施した試験は、組立てと解体の施工性、耐風圧性能、積載加重、そして耐火性。 特に耐火性に関する試験は、実際にホームコアを燃やすという大胆なもの。 その一部始終を高橋圭三が実況し、住宅としての高い性能が広くアピールされた。

社名を貼り付けた大型ヘリコプターでの空輸実験や、テレビのワイドショーとのタイアップ企画。 そこには、その後の同社の派手な広告戦略の萌芽を見て取れる。
しかし、いまだベンチャー企業の域を脱していなかった当時の同社にとって、こういった機会を持つことで品質や技術力について広く一般にアピールすることは必要なことであったのだろう。

これらの広報と、そして何よりも百万円という話題性によって、ホームコアは生産体制を大きく上回る受注実績を記録。 パーツの工場生産が追いつかないため、契約してもなかなか着工出来ないという状況を生じた。 高いプレハブ化率による短い工期を謳いながら、実際には引渡し迄に長大な期間がかかるという現実を是正するためには、早急な生産体制の強化が必要となった。
また、仕様についても厳しい評価が向けられた。 例えば外壁と同一の内装仕上げ。 あるいは、通常よりも薄い畳。 これらは、ローコスト化のために開発した技術であったり、採用した仕様であったが、当時の慣例的な住様式とのギャップがあまりにも大き過ぎた。
また、キット化された設備配管も、行政により微妙に接続部の規格が異なるため、現場調整を余儀なくされる事態も発生した。
高度なプレハブ化を志向する理想と現実とのギャップ。 そんな状況に、このモデルは置かれることとなった。

発売から一年後の1970年8月、マイナーチェンジを実施。 仕様の変更や調整の結果、128万円の「コア128」と、160万円の「コア160」へと商品体系をシフトする。 つまり、百万円住宅の実現は一年限りということになった。
しかしコスト改定後の方が販売実績は伸びたという。 物事全て、一般に受け入れられる適正価格の下限があるということなのだろう。
1973年には「ミサワホームコア3」、1974年には「ホームコア74」という具合に一年ごとにマイナーチェンジが実施された。 ちなみに、「ホームコア74」の価格は、200万円と240万円の2タイプであった。

5.継承される各種技術
※2
1970年台のライフスタイルの先導的モデルとなる住居を、低廉且つ大量に供給する生産技術の提案を募ったコンペティション。
旧通産省・旧建設省・日本建築センター共催で1970年に実施。

※3

ホームコア81の外観*

※4
延床面積100平米の住宅を、1980年の時点で500万円台の価格で大量供給する生産体制の開発プロジェクト。
これも旧通産・建設両省共催によるもので、技術提案コンペティションが行わ、三社が選定された。

ホームコアでの様々な技術開発の取り組みが、大阪万博のパビリオン「ヘリコ」としてラディカルな形で実現・公開されたことは前述の通り。 しかし、現実路線においても、その後さまざまな形で引き継がれたと考えられる。

例えば、パイロットハウス※2での提案モデル「コア350」では、サニタリースペースやキッチンが、より完全なコアとして整備された。 居室部分についても、大型パネル工法による現場施工の効率化が進められた。 そしてその流れは、ホームコア75やホームコア切妻を経て、昭和50年代の同社のS型系列のモデル群に平面プランの骨格として受け継がれたことは、それぞれのモデルのページに記載したとおり。
一方で、平屋の廉価モデルという形態そのものは、後継モデルであるホームコア81※3を介して、同じくA型の平屋建てモデルへと引き継がれる。
中央に非居室用途を集中させ、それを両側から居室ゾーンで挟みこむプランの骨格は、A型二階建てに引き継がれたと読み解くことも出来よう。 同じA型という商品体系ながら、形態的な関連性が全く認められない平屋モデルと二階建てモデルは、実は同じ親を持つということになる。

また、内外装仕上げの工種を兼ねるという試みは、多機能素材の開発へと繋がり、ハウス55プロジェクト※4への当選を機に、後のセラミック系の製品群に繋がったと読み解けよう。
設備のコア化という発想についても、S型やA型を含め、昭和50年代の同社の企画商品群に共通する水廻りの集中配置という設計思想に引き継がれた。 更にコア化自体も、1980年開催の第9回東京国際グッドリビングショーに出展された「ハートコア(写真5)」や、1987年に開催された国際居住博覧会の出展モデル「フューチャーホーム2001」に搭載された「ハイテクコア」へと進展。 そこでは、パソコンの筐体に必要なデバイスを装着するかの如く、カプセル化された設備ユニットを住宅に組み込む、あるいは交換することで、住宅建設の生産性や機能の更新性を獲得しようと構想された。 そしてその流れは、1989年発売の「NEAT INOVERTER」に標準装備の「ハイテクバスロボ(写真6)」に結実した。

この様な流れを鑑みると、同社の様々な技術開発や企画型モデル群の原点として、このホームコアが位置づけられることになろう。



写真5:*
ハートコア。
下層の手前にキッチンユニット、裏面にはランドリーユニットを配置。 上部には、浴槽,洗面化粧台,便器をレイアウトしたサニタリーユニットが見える。
写真6:*
ハイテクバスロボ。様々なサニタリー機能が完全にカプセル化された。


INDEXに戻る
*引用した図版の出典:ミサワホーム

2010.02.20/記