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雑記帳
2011.03−2011.04
2011.04.29:雑記の雑記

建築の側面のページに東京都物件を追加した。
再開発工事が進行しているさなかの東京中央郵便局に期間限定で発生した側面の状況。 但し、載せた写真の撮影時期は2009年12月。 既に現場は全く異なる状況になっていることを、念のためこちらに申し添えておく。
今現在、現場は高層棟が徐々にその姿を見せつつある。 東京駅の丸の内側広場に面するファサードは、折り紙をイメージしたと言うカーテンウォールが徐々にその姿を見せ始めている。
なるほど確かに微妙に折れ曲がったガラス面の表現は、見方によっては折り紙を想起させる。 更には、左右出隅の形態処理も、紙のイメージを補完する。
保存される低層部分のファサードとのバランスがどんな印象をもたらすのかといったことも含め、完成形が気になる超高層建築物だ。

話は変わって、今年の初めから不定期に書き散らしている「住宅メーカー私史」について。
いままで14回書いてきた。 初期のプロットでは、ここまでが一応の第一部。 興味を持ち始めて以降、それらに接することが楽しくて楽しくて仕方が無い小学生から中学生にかけての時期のエピソードをまとめた。
以降は、第二部になる。 別に一部、二部などと区切るほどの内容でも無いが、ちょっとだけ毛色が変わることになる予定。
それにしても、書き綴っている内容は、30年近く前の話。 鮮明に記憶しているつもりでいたのだけれども、改めて文章にまとめようとすると結構時系列が怪しいことに気づく。
そんなおぼつかない事項を、入手し得る当時の資料等を見ながら確認する機会という点では、個人的には意義はある。 しかし、住宅メーカーというジャンル自体が、そもそも趣味の対象としてあまり一般的なものでは無い(と、断言してしまおう)。 だから、それに関わる個人的な遠い過去の記録を載せたところで、面白くも何とも無いのかも知れぬ。 でも、ここは私設の個人サイト。 好き勝手にやらせて頂くということにしておこう。



2011.04.28:住宅メーカー私史14
−いま売れている住宅
※1

書名:
住まい文化の創造をめざして 積水ハウス30年の歩み
著者:
積水ハウス社史編纂室
出版日:
1990年8月1日

表題は、住宅メーカー年鑑といった体裁の書籍の名称。 日本プレハブ建築研究所から出版されている。
28年前、同書の1983年版を長岡市内の書店で見つけ、内容を少し立ち読みして驚いた。 凄まじい情報量である。 2500円という値段は当時の自分にとっては少し高めであったが、即購入。

同類の書籍と趣きが異なるのは、広告料を一切とっていないということ。 だから、掲載する各メーカーのモデルに対して歯に衣着せぬ評論を行うことが可能で、そのことを売りにし、且つ類似書籍との差別化を図っていた。
なるほど確かに編集者の独断ではあるが、良いものは良い、悪いものは悪いとはっきり書いている。 それに、地方のビルダーに関しても優れた事例を積極的に発掘し、紙面に紹介する姿勢にも好感が持てた。
更には、北海道のハウスメーカーの取材に注力していたというのも特徴であった。 気候風土の厳しい北海道だからこそ、独自の技術開発に積極的なメーカーが多く、本州以南のメーカーでも参考にすべき点は多いとする編集者の視点は、鋭い。

一方で、著名建築家が設計した住宅作品については、徹底的に批判を展開していた。 確かに、槍玉に挙がっているのは、一世を風靡したアバンギャルドな事例ばかり。 そういったものばかりをあげつらって全ての建築家の住宅設計を否定するのもどうかと、今ならば思う。 しかし読んだ当時は、「建築家っていうのはとんでもない職業だ」と信じ込むには十分であった。
実際、編集方針もその辺りのことは徹底していた。 つまりは、住宅に関しては、大手ハウスメーカーが王道なのだということ。 その思想が、書名そのものにも如実に現れている。 住宅は、買う商品なのだという主張が露骨に表れたタイトル。
あまりの露骨さに、かの西山夘三も、積水ハウスの社史※1に特別寄稿した文章の中で、この書籍について言及している。 「他人が買っているからあなたも買えというのか」と。

ともあれ、住宅産業関連の書籍としては異彩を放っていたことは確かである。
それでもまだ1983年版はバランスが取れている。 しかし次の年、1984年版の発刊は、ちょっとした事件であったといってよいかも知れぬ。
名は伏せるが、ユニット工法の先駆メーカーS社(と書くと、大体判ってしまうか・・・)の欠陥を告発する住人からの投稿に端を発し、同メーカーに対する徹底批判が、この号で展開された。 告発文の全文掲載に始まり、同社の当時のラインアップが完膚なきまでに酷評された。 それこそ、広告料をとらない替わりに歯に衣着せず論評する編集方針を強くアピールする絶好の機会と捉えんばかりの様相を呈していて、読んでいる方が何とも痛々しい気分になってくる。

しかし、そのことを差し引いた場合、住宅メーカーに関して体系的にまとめられたその情報量は、当時の類似書籍の中では随一。 だから、怒涛の如く掲載される掲載画像や図版に目を通すだけでも、十分に価値のある書籍ではある。
ちなみに、1985年版ではS社の製品は好意的な論評に変わっている。
私が所有しているのは、この1985年版まで。 それ以降も年に一回〜数回のペースでこの書籍は発刊されている。 しかし、ハウスメーカーの動向への興味はその頃を境に途絶えてしまったため、購入していない。



2011.04.25:【書籍】月刊ビル
書名:
月刊ビル
著者:
BMC
発売日:
2010年10月28日

※1

月刊ビルの3号と、恵文社の包装紙

大阪に数日間遊びに行っていた知人から、お土産を頂いた。 “keibunsha”というロゴの入った小洒落た包みを開けて、思わず「おぉ!」っと声が出る。 手渡してくれた知人は、そんな私を見て、してやったりといった表情。
中に入っていたのは、「月刊ビル」という小冊子の第3号。 出版元は、BMC。 「ビルマニアカフェ」、略してBMCである。
その名称からして一筋縄ではない。 1950〜70年代に建てられたビルをこよなく愛する仲間内で構成されたユニット。 詳しくは、そのサイトを見て頂くのが良いだろう。
以前から気になっていて時折拝見していた。 そしてこの小冊子の存在も知っていたが、販売は基本的に関西方面に限られているため、入手出来ないでいた。 それを、このようなかたちで読む機会に恵まれるとは、ちょっとしたサプライズ。 とっても気の利いた知人の計らいに大感謝である。

第3号の特集は、大阪写真会館という事務所ビル。 そこで長年にわたって管理業務に携わってきた方のインタビュー記事が組まれている。
建物に対する深い愛着と誇りが伝わってくる内容。 ストックという言葉がはやり出す遥か以前から、建物を適切にメンテナンスし大切に維持することを当然の様に行ってきた人が、そこにはいらっしゃった。
表層デザインだけではなく、この様なことにもスポットをあてた記事を掲載するこの小冊子、なかなかに侮れぬ存在である。

ところで、そういった管理者の存在は、何もこの建物だけの特殊な話ではない。
例えば、札幌の大五ビルや東京の近三ビル(旧森五商店東京支店)。 そこでも、同じく建物に対する愛着と誇りを持って管理業務にあたる人たちの姿を確認することが出来た。
スクラップアンドビルドという視点のみで眺めてしまいそうな都市の只中に在って、そういった人々によって支えられる建物は確実に存在し、そしてそれらは例外なく優れた佇まいを醸成している。



2011.04.22:住宅メーカー私史13
−ハウス55がやって来た
※1

県内初のハウス55の建設を報じた新潟日報の記事。
掲載写真は、ユニット工法による施工の特徴が良く捉えられている。

※2

1975年に建てられた第2号実験住宅。
全層スキップフロアの形式は、後に商品化されたミサワホームLX3の原点か?

※3

1979年、筑波学園都市に建てられた第7号実験住宅。

※4
高品質で低廉な住宅を供給することを目的に、旧通産・建設両省共同で実施されたプロジェクト。
名称は「新住宅供給システムプロジェクト」(通称「ハウス55プロジェクト」)。
延床面積100平米の住宅を、1980年(昭和55年)時点で500万円台の価格で大量供給可能な住宅生産システムを構築することが目標に掲げられた。

※5
2007年11月11日の雑記参照。

長岡に在住中、家では新潟日報というローカル新聞を購読していた。 地元のことが詳しく報道されている方が良いだろうという判断で、このローカル誌を選択していたようだ。 実際、地元密着の情報量は、全国紙などよりも優れているのであろう。
そのことを端的に示す一例が、県内で初めて建設されたミサワホーム55のことが記事になったこと※1。 1983年3月21日付の紙面に、「「ハウス55」県内に上陸」という見出しの記事が掲載された。 内容を見ると、当時は販売対象区域外であったが、施主は東京に出向いて契約したという。

新しい住まい、新しい技術。 そういったものを熱烈に支持する人の存在。 県内第一号の施主もその様な人であったのかもしれない。
プレハブ住宅草創期にあたる昭和40年代においても、そういった顧客は存在した。
例えば、積水化学工業のセキスイハイムM1の最初の購入者は、1970年に東京晴海で開催された第一回東京国際グッドリビングショーに同社が出展したプロトタイプを観て、即決したという。 その後も、後継モデルのMRタイプに建替えたり、賃貸アパートをセキスイハイムで建てたりと、一ファンという立ち位置を超えて同社のモデルに惚れ込んでいた様だ。

ところで、このミサワホーム55に関しては、発売当時は私はあまり良い印象をもってはいなかった。 端的に言えば、内外観ともにあまりイケていないといったところ。
それは、発売に至るまでの長期にわたる開発期間の過程で、同社の広報誌「ホームイングニュース」などで紹介されたプロトタイプモデルの先進さに、期待を膨らませ過ぎたことが大きな要因だ。 「こんな斬新な住宅が商品化されるのか」と、心をときめかせていたものだ。
しかし、プロトタイプはあくまでもプロトタイプ。 開発した新技術の理想を一杯詰め込んで建てられる場合が多い。 実際の商品化のプロセスにおいて、そういった理想は少しずつ削がれていく。 それは例えば、量産化が難しかったり、コスト的に厳しかったりと、事情は様々である。
ともあれ、そんなプロトタイプモデルの一例を同社の関連資料から引用すると、左記の通り※2※3
外装に用いる新素材や、ユニット工法を基本とした施工方法の開発を始めたのが1971年。 五年後の1976年に開催されたハウス55の事業コンペ※4に当選し、国からのバックアップを受けての開発期間が更に五年。 1981年1月の商品化まで、足掛け十年に及ぶ新しい住宅の開発。 なかなかに凄いことではある。
その間に建てられたプロトタイプモデルは、同社の資料で確認する限りでは11棟。 そのうち、商品化される二年前に建てられた8番目のプロトタイプは、私のかつての居住地近傍に現存し、開発に携わった同社の関係者が居住中である。
そして、新潟市内に建てられた県内第一号のミサワホーム55も、用途が飲食店に改められつつ現存する※5



2011.04.16:非在の強度_2

※1
それ以前に、過去二度の焼失のたびに異なる様式で再建されており、天平創建時のオリジナルは失われている。

城の無い城下町という長岡市の状況について、1月22日にこの場に書いた。
少々心に留まる言葉でもあり、その後いろいろと考えてみた。 それは、逆に城が有る城下町が、果たして城下町足り得ているのかということ。 城が有るといっても、その多くは、再築である。 しかも昔と同じという訳ではない。
例えば、大阪城の天守閣は、1931年に改めて建てられた鉄筋コンクリート造のモノだ。 これだけではない。 全国に散在する多くの城郭のうち、木造のものは再建も含めてかなり限られる。

苛烈な外部条件に拮抗して存在する建築が、旧態を留め続けることは至難なことだ。 従って、その時々の技術によって適切に修繕、改修を施した上で物理的な存在が継承されていくということにも意義はあろう。
実際、歴史的建造物の殆どは、経年において何らかの手が加えられている。 例えば、奈良東大寺の大仏殿などは、明治の修繕時に小屋組を鉄骨トラスで補強した上で天井板で隠蔽している※1。 この程度ならば、まだ良い。 いや、逆に創建時の技術では瑕疵となっていたものがその時々の技術で補完されることには意義もあろう。
しかしそれにも度合いというものがある。 飛鳥時代の建築様式を伝える大阪市の四天王寺などはどうか。 その中心伽藍は、実は鉄筋コンクリート造で再建されたもの。 単純には、観光目的で歴史的建造物を訪ねてそれが現代の技術で建替えられたものであることを知らされると、興ざめしてしまう面があるではないか。
あるいは、とある城郭などはその内部に御丁寧にバリアフリーを考慮してエレベーターが設置されていたりする。 こうなると、ここはテーマパークか?などと思ってしまったりもする。
そんな事例を鑑みると、オリジナルと異なる構法とデザインで再築された歴史的建造物(=城)の有る城下町が、果たしてそんなに有り難いことなのだろうかという気にもなってくる。 フェイクによって物理的に歴史を継承しているイメージを視認させること。 それが今日の佇まいの在りようであるとするならば、少し寂しいことではないか。

一方で、長岡はそれとは別の道を選んだ。
以前書いたことの繰り返しになるが、擬態による物理存在での継承ではなく、市域の中心性という地勢を別の形で踏襲し発展して来たという歴史。 そんな解釈をするならば、城の無い城下町という状況は、「誇り」として捉えても良いのかも知れぬ。



2011.04.09:住宅メーカー私史12
−巨大住宅展示場
※1
北海道内の各地に設けられている規模の大きい住宅展示場。 現在の札幌会場(豊平会場)は、1979年8月11日に開設。
豊平会場が出来る前は札幌駅北口近傍に立地し、そちらの開設は1973年8月11日まで遡る。
北口会場開設当時の広告を見ると、ミサワホームのハイリビングや、大和ハウス工業の「風雪」といったモデルが確認できる。 道内メーカーに関しても、イワクラホームや住まいのクワザワ等が出展していた。

公式サイト


※2

住宅専門誌掲載の同展示場の広告に載せられていた場内の画像。 雪景色であるところが何とも北海道らしい。
左手前が大成建設のパルコン。資料によるとモデルの型番は、420-DKE。
その右隣に、道内ハウスメーカー、アサヒ住宅の「ひまわりHS-3626」。
更にその右隣に、ミサワホームG型寒冷地タイプ。
その向こうに、同じくミサワホームの道内限定モデル「FS-5407SR-30」。 私が初めてこの展示場を訪ねた際には、既にこのモデルは無く、無落雪屋根仕様のO型に建替えられていた。

※3

G型の向かいに建てられた、同じミサワホームのモデルハウス。
中央に共用のファミリールームを設け、その左側に親世帯、右側に子供世帯の空間を配置したモデル。 南富良野に、全く同じ外観のペンションが建っているのを見かけたことがある。 なるほど、そんなロケーションが似合う外観デザインだ。
後にこのモデルは「センチュリーM2 − 大ホールと暖炉のある家」という名称で再度ラインアップされた。

長岡に在住していた頃、毎年夏休みになると、札幌にある祖父母の家に帰省していた。
住宅に興味を持って以降、訪ねた際に必ずやることがあった。 それが、新聞のチェック。 廃品回収に出すためにストックされている過去数か月分の新聞から住宅関連の記事や広告を探し出すのだ。 それらをチェックしたり、あるいは切り抜いたりしていた。

1980年の夏の帰省の際、北海道マイホームセンター※1札幌会場の広告が目に留まった。 出展されているモデルハウスは、32棟(当時)。 長岡にある住宅展示場とは比較にならぬその規模に驚いた。
しかし、会場への行き方は、当時の私には判らず。 何せ、札幌市内に関する土地勘は全く無かったし、祖父母の家ですら、それが札幌市内のどの位置にあるのかといった地理的な認識も全く無かった。
ということで、その年は行けずじまいで終わってしまった。

翌年の帰省時。 意を決して、そして一年越しの憧れを擁きつつ、展示場に赴いた。
路線バスを一回乗り換えてのアクセス。 今思えば、全く造作無いことなのだけれども、当時の私にとっては、見知らぬ大都会の見知らぬ場所に出かけることは、結構不安が付き纏った。 目的地と全く違う場所に着いてしまい、路頭に迷ったらどうしよう・・・等々。
しかし無事に最寄の停留所で降車すると、そんな不安は一気に消散。 展示場に向かう足は、自然に小走りとなり、やがて全力疾走になる。 息を切らしつつ立った正門の向こう側には、夢にまで見たモデルハウス群が大量に連なっている※2
しかしながら、最初に観るモデルハウスは既に決めていた。 そう、最初はミサワホームG型である。 新聞広告にて、G型のモデルハウスが施設内に建てられていることは掴んでいた。 訪問目的の半ばそれ以上は、当時の同社のフラッグシップモデルにして、現在でもヴィンテージモデルであるところの、このG型を観ることであった。
しかし、それだけ憧れていた住宅であったにも関わらず、内部空間体験の記憶は、なぜか殆ど無い。 緊張していたのか、興奮していたのか、あるいは夢心地の世界に浸ってしまっていたのか。 もっとしっかりと堪能し、記憶に留めておくべきだったと今更ながらに思いつつ、しかし30年前の出来事ではある。

G型を観た後、その隣に建つ、同じくミサワホームのO型のモデルに移動。 こちらは北海道独自の無落雪屋根型のO型。 従ってロフトが無く、二階ホールにやや圧迫感を覚えた記憶がある。 外観も今ひとつであった。
更にG型の向かいに建つ同社の自由設計モデル※3に赴く。 一つの展示場に同じ会社がモデルハウスを三棟も出展するのは、同社がディラー制の営業展開を行っていたためか。
こちらは多世帯居住提案モデル。 中央に設けられた、天井の高い共用室。 そして子世帯の方のリビングダイニングルームは、途中に茶の間を挟みながら流れる様な開放的な空間を作り出す。 こういった空間構成もあるのかと思いつつ、しかしどこか現実離れしているという印象を持った。
むしろ、庶民の暮らしのレベルを遥かに超えている筈のG型の方が、まだ現実的であるという気がしたものだ。

同社の三つのモデルハウスを観た後、時間の許す限り他のモデルも観て廻る。
独特のセンスが貫かれていた耐雪ハウス(後の、木の城たいせつ)。 北海道でも殆ど同じ内外観であることに驚かされた、大成建設のパルコン。 北海道らしい風情を取り込んだ外観が印象的な積水ハウスのノルデン。 ローカルメーカーとは思えない洗練された、土屋ホームやイワクラホーム。
ハウスメーカー三昧を徹底的に堪能出来た一時であった。



2011.04.06:住宅メーカー私史11
−Still crazy after all these years

高町団地での分譲住宅やオープンハウス等の見学を体験して以降、他の建築事例も観てみたいという欲求が出てきた。 で、休日になると自転車を駆って、建築事例探しを行うようになった。
居住地近傍から始まり、徐々にエリアが広がる。 事例を見つけると、何だか獲物を捕獲したような気分になったものだ。

中学の地理の授業で長岡市の白地図が配られた。
受け取るや否や、私はそれまでに確認した住宅の所在地を地図上にプロットした。 以後、授業で色々なことに使うことも知らずに、だ。 「お前は何を好き勝手に書き込んでいるのだ」などと教師に注意されてしまった。
残念ながら、この白地図は既に手元には無い。 しかし若い頃の体験や体感は、なかなか忘れないものだ。 当時見つけたそれらの住宅が市内のどこに建っているかということは、結構しっかりと覚えている。

ここ数年、長岡を訪ねる際の宿泊先には、いつも同じビジネスホテルを利用している。
そこは宿泊客にレンタルサイクルを無料で提供する粋なサービスを行っていて、それが毎回利用する理由にもなっている。 そして、借りる手続きをとると、早速その自転車に跨って市内を駆け巡る。
巡る目的地や対象は様々だ。 しかしその中には、かつて見つけたハウスメーカーの住宅も含まれている。
自転車を漕いでそれらを見て廻り、視覚の享楽に興じること。 その時の私は、かつてそれらに夢中になっていた頃と、何ら変わりはしない。



2011.04.03:下北沢
※1

下北沢駅前食品市場の一角。

築40年の中古マンション内覧後、知人に誘われて同じ沿線の下北沢駅へ。
駅周辺を暫し散策した後、少し飲みますかということで、駅の北口に広がる通称「闇市市場」のエリア内にある「てっちゃん」という店に入る。 焼鳥屋なのだがラム肉なんかもメニューにあるところが嬉しい。
ということで、小一時間その場で寛ぐ。

駅前で知人と別れたのち、「闇市市場」界隈を改めて一人で歩く。
正式名称「下北沢駅前食品市場※1」。 戦後の闇市がルーツといわれるその界隈は、何とも懐かしさを覚える雰囲気。 しかし、通りに並ぶ店舗の多くはシャッターが降ろされている。 再開発計画が進行中ということは知っていたが、その事業着手が近づいているという現実を垣間見る思い。
今となっては希少なこういったエリアが都市の中心に存続することの是非。 そのことに対しては賛否双方の意見があろう。 実際、ネット上をみると、反対意見を書き綴ったサイトも散見される。 都市は、そのような両義性の危ういバランスの上に辛うじて成り立っている・・・などと、この界隈と深い関わりの無い私には通り一遍なことしか言えない。 しかし単純には、ちょっと寂しい気がするところ、無きにしも非ずだ。



2011.04.02:ストック
※1

玄関廻り。
手前が共用開放廊下。扉を内側に開けると、住戸内の玄関。

※2

内観。
手前がリビングルーム、奥にダイニングキッチン。
リビングとダイニングキッチンの境界の上部に巨大な梁が横断し、結構圧迫感がある。
リビングの右手にある開口は和室への出入り口。
その出入り口の奥に見える腰より少し低い高さの茶色のボックスが、セントラル暖房器具。

知人が購入を検討している築40年の中古マンションの内覧に誘われ、出向く。
最寄駅から徒歩15分と少し遠めであるが、前面に広大な公園があり、その豊かな緑を借景として享受できる立地は魅力的だ。 外観はさすがに少し古びているが、丁寧な維持管理を実施していることが遠目にも視認できる。
一通り外部を見てから、目的の住戸へ。 珍しいことに住戸玄関ドアが内開き※1。 止水のために、もともと下枠廻りはゴツいディテールであったようだが、更にカバー工法でドアセットそのものが更新されており、更にゴツい納りとなっている。 玄関に置く靴が内開き扉の開閉軌跡と干渉しないことを考慮したのか、玄関の奥行きが通常よりも深い。

賃貸に出されていたため、室内はところどころ修繕のあとがある。 しかし、さすがに築40年だけに少々懐かしい雰囲気も散見される※2
たとえば、浴室やトイレの床と壁は湿式工法。 押入れの中を見ると、共用排水竪管が露出しているといった具合。 外部建具もカバー工法で更新され、ペアガラス入りの真新しいサッシが付いていた。 玄関ドアと同様、直近の大規模修繕時に住棟全体で更新工事を行ったのだろう。
しかし、建具と内装の取り合い部分の劣化が激しい。 壁紙がめくれ上がり、下地が露出している。 窓際床面の縁甲板や窓廻りの木額縁の劣化も気になる。
いずれも、結露が原因なのは明らか。 壁紙がめくれた箇所からその内部を観察すると、壁紙の下地はプラスター塗り。 一部であるがそのプラスターがボロボロと崩れ落ち、躯体が露出している。 つまりは、無断熱。 40年前ともなると、断熱層を設けるという概念も無かったのだろうか。 知人にその部分を見せ、購入してリフォームするなら断熱も考えなければならぬことを伝えた。
また、室内の真ん中を梁が横断している。 けっこう断面が大きく、梁下端は私の頭をかすめそうなくらいの位置。 これもリフォームを考える上では制約になる。

更に、購入を検討する上で考える必要があるのが、暖房と給湯設備。 各戸別ではなく、今ではすっかり珍しくなったセントラル方式が採用されている。 そのために、費用負担が結構大きい。 使用してもしなくても一定の金額が徴収され、且つそれに使用量に応じた額が加算される仕組み。 その負担に管理費や修繕積立金、固定資産税等を加え、購入費やリフォームにあてるローンも考慮すると、毎月の出費は結構な額になる。

共用部のメンテナンスはマメに実施されているし、住民のモラルや管理組合の運営もしっかりしている様子。 専用内部も、大掛かりな修繕を施さなくても取り敢えずは不自由なく生活が可能な状態。 そして、南面の眺望も捨てがたい。 販売価格も、まぁまぁ妥当な線。
しかし、暖房と給湯設備のランニングコストを考えた結果、知人は購入を断念した。
ストックを考える上で、大掛かりな設備を導入した建物というのは、なかなか難しい面を抱えている場合が多いのかもしれない。



2011.03.30:【書籍】崩壊地名
書名:
崩壊地名―自分で学べる防災の知恵
著者:
小川豊
出版社:
山海堂
発売日:
1995年11月

※1
2011年3月22日の書き込み参照

3月30日の読売新聞に、「先人の石碑 集落救う」という見出しの記事が掲載されていた。 先人が石碑に刻んだ「此処より下に家を建てるな」という言葉に従い、高台での暮らしを守り続けることで、今回の震災による大津波の被害を免れた集落があるという。 土地に関して先人が残した情報というのは極めて貴重であると言える出来事だ。
そういった意味では、地名にも重要な情報が含まれている。

この書籍は、地名に含まれる文字が意味する地勢的な危険因子について解説したもの。 例えば、水に関係した文字が含まれる地名は水害の危険性が高いといった様なことが書き連ねられている。
あまりにも沢山の文字が危険因子として紹介されていて、それらの文字を含まぬ地名など無いのではないかと思えてしまうほど。 これでは、安全な土地などどこにも存在しないことになりかねない。
だから、初めてこの本を読んだ時の印象は、半信半疑なものであった。 しかしそれであっても、そんな文字を含む地名のエリアで過去に実際に起きた災害事例を紹介した箇所などを読むと、眉唾と片付ける訳にもいかなくなる。

ミサワインターナショナル代表の三澤千代治は、自らのブログ※1の中で、三陸方面で過去に発生した大災害の事例を挙げたうえで、以下の様に述べている。

“今回の災害は、また同じことを繰り返した。国民性として、同じ所に住んでしまう。今回、日本人も考えを変えるべきと思っている。”

土地に纏わる先人からのメッセージの有無、あるいはその内容を今一度見直してみる必要があるかもしれぬ。 と言っても、私の今の居住地も勤務地も、昔は海だった場所なのだが・・・。



2011.03.26:住宅メーカー私史10
−高町団地
※1

保管してあった、同団地の新聞折込み広告。
他にも数枚、同時期の長岡市内の宅地分譲広告を保管している。 いずれの広告にも共通するのが、空撮された俯瞰画像が載っていること。 それが、保管することとなった理由である。
航空写真が結構好きであることは以前も書いたが、そんな嗜好は既に当時から持っていた。

長岡市の中心部から東の方へ約4km程度。 丘陵地帯を切り開く形で、新興住宅地が造成された。 それが高町団地。
同団地の宅地分譲が始まったばかりの頃の新聞折込み広告※1を手元に保管しているが、それによると、開発許可が下りたのが1977年5月10日とある。 分譲が開始されたのは、それから暫く経ってからのことということになろう。 その分譲が開始されて間もない頃、数社共同の建売住宅販売会を開催する旨を告知した新聞広告を見つけ、現地に赴いた。 団地内にはまだ更地が広がり、竣工した住宅はまばらという状況。
そんな団地内の一エリアにて販売会が開催されていた。 沢山の建築事例を一気に見ることが出来る好機会とばかりに、それらを観て廻った。 地域ビルダーによる木造住宅から、ハウスメーカーの最新モデルまで、分譲されている住宅は様々。 しかし、旧態依然のビルダーと新進性に富んだメーカーの差異は歴然としていた。

その後、幾度も同様の販売会が団地内の様々なエリアで実施され、その都度見学に訪れた。 いずれも興味の中心がミサワホームの販売住戸であったことは言うまでもない。
幸町にモデルハウスとして建てられていたO型以外の同社製品の多くは、この高町団地にて実物を観る機会を得ていた。 同社単独のオープンハウスも頻繁に開かれたし、団地内の建築実績としては一時期他社を大きく凌駕し、いきおい「ミサワホーム村」の如き様相を呈していた。
そこに行けば、ミサワホームに関するいろいろなことを知ることが出来る「約束の地」。 当時の高町団地は、私にとってそんな場所であった。

近年、久々に同団地を幾度か訪ねている。
かの中越地震が発生してから四ヵ月後に同地を訪ねた際には、痛々しい状況が散見された。 被害状況に関するメーカー各社のプレスリリースと実態との乖離を見せつけられ、複雑な気持ちにもなった。
かつてワクワクしながらこの地に通い詰めたのは、もう30年近く前のこと。 しかし、それだけのタイムスパンの存在が、緩やかな変容と穏やかな醸成をこの団地内に確実にもたらしている。 そんな経時変化を確認できる場所という意味で、いまだにこの団地は私にとって特別なエリアなのだ。



2011.03.20:液状化
※1

液状化による噴砂の発生状況。 その結果地盤が沈下し、右手の地盤面に亀裂が生じている。
私の居住地の周囲はこの程度の限定的なものに留まったが、もっと沖合いの埋立地では、そのエリアの殆どが土砂で埋まるような酷い液状化が発生した。

※2

右手が共用エントランスポーチ。杭基礎の範囲内なので、通常のレベルを保っている。
対して、左側のアプローチは液状化により沈下。 段差が出来てしまった。

※3
ただし、集合住宅に関して私が確認した範囲で一件、一部の非構造壁部分にせん断破壊が生じている事例があった。
新耐震基準以前の建物であったが、クラックが生じているのは全て同じ方向の壁。 今回の揺れの特徴を示している。


動画サイトに、震災発生後の浦安の状況が幾つか挙げられている。 以下に二つリンクを貼るが、参照サイト.1は地震動が収まってから液状化が発生するまでの間を捉えた貴重なものだ。

参照サイト.1
参照サイト.2

今回の地震で、初めて液状化の実態に接することとなった。
今住んでいる集合住宅周辺の所々に、液状化による噴砂が散見される※1。 その結果として、エントランスアプローチが陥没。 エントランスポーチとの間に大きな段差ができた※2。 その落差約50cm。 これ以外にも、建物本体と外構の取合い部分のいたるところに、似たような段差が生じている。
昨日から補修工事が始まっているが、沈下した地盤面はそのままに、スロープを設けて段差を解消する様だ。

しかし、この程度の被害で済んだのはまだ良い方である。
埋立地のエリアの殆どが液状化した浦安市の状況は、「被災地」といって良い。 そんなエリアに在住する知人から、後学のために観ておくことを勧められ、現地を訪ねた。
快晴ながらも風の強い休日。 道路脇に積み上げられ乾燥した噴出土砂が風で舞い上がり、街全体が埃っぽい。 いたる所に重機が入り、またボランティアの人々の手によって土砂の搬出が行われている。
その量たるや半端ではない。 酷いところでは30〜40cm、あるいはそれ以上の土砂が堆積している。
所々のマンホールが浮き上がっているのも、液状化において良く見られる現象。 電柱も傾いて断線し、ライフラインはズタズタだ。 復旧工事が行われているが、完了するのはいつのことになるのだろう。

建物にも被害が出ている。
杭基礎の建物は通常のレベルを保っているが、その前面の歩道は沈下して波を打っている。 そしてその杭基礎の建物に隣接する直接基礎の建物は、その歩道よりもさらに沈降して噴砂に埋もれているなどという状況が散見される。 もはやどこが基準の地盤レベルであったのかも判らない状況だが、杭基礎の建物のFLが元の地盤面に近いとすると、広域にわたって酷く地盤沈下が発生した状況が認識できる。
目視で明瞭に傾きを視認できてしまう戸建住宅も多い。 80年代あたりに建てられた見覚えのある外観のハウスメーカーの住宅も例外ではない。 エクステリア部分の被害も含め、この地で観測された震度5強クラスの地震でこの有様は意外だ。 地震動だけならば、この程度で建物が変形することなどありえない※3。 原因はやはり液状化による沈下だ。
ジャッキアップして基礎をやり直せば旧態は取り戻せよう。 とはいえ、コストも含めてそんなに簡単なことではない。

津波の被害を受けた地域に比べれば損害は小さく、従って報道されることも殆ど無い。 しかし、浦安市をはじめ、首都圏の多くの埋立地域で液状化による深刻な状況が発生している。
ただし、知人は語っていた。 自分はこの街が好きだから、これからもずっと住み続ける。 時間が掛かっても修復することはできるし、今回のことを機にもっと良い街に変えて行くこともできるだろう、と。



2011.03.19:住宅メーカー私史09
−ムツゴロウの転々記

「ホームイングニュース」には、畑正憲がコラムを連載していた時期もあった。 そのタイトルが、「ムツゴロウの転々記」。 転居する機会がとても多かった御本人の住まいの履歴について書き綴るという内容。
なぜミサワホームの広報誌に連載したかというと、数多い転居歴の中で、ミサワホームに居住したこともあるという縁からであった。 だから、連載の中ではミサワホームで家を建てることになったいきさつやその住み心地についても書かれていたと思うのだが、詳しい内容は覚えていない。
他にも、無人島に家を建てた時のエピソードや、ムツゴロウ王国にログハウスを建てた時のことなど、色々と書かれていたように記憶している。

同社の総合研究所初の出版物に、「ファミリーゼイション」という書籍がある。
その巻末に、この「ムツゴロウの転々記」の単行本化が告知されている。 記述によると、ホームイングニュース紙上に連載が開始されたのが1979年10月号。 以降、連載が続いたが、それに100ページ分を加筆し、単行本化するとある。
結構楽しみにしていたのだけれども、発刊されたのかどうか定かではない。

この「ファミリーゼイション」という言葉は、同社がミサワホームM型2リビングを発表した際、そのキャッチコピーに使用していた。 近い将来訪れる余暇時代に対応した新しい住まい方の在りようを示す言葉として使っていた様だ。
TVCMでは一時期、この単語を使ったサウンドロゴも流されていた。

サウンドつながりでもう一つ。
当時、同社のモデルハウスでは、オリジナルソングがしばしば流れていた。 改めて調べてみると、曲名は「いついつまでも」。 ハイファイセットが歌っていた。



2011.03.18:青い闇の記録

居住地で、夜間に計画停電が実施される。
帰途の電車が停電エリアに入った途端、風景は一変する。 あたり一体は真っ暗。 本当に停電をやっているのだなと、なんだか神妙な気分になる。
自家発電で煌々と明るい駅を一歩外に出ると、そこは一寸先も闇・・・ かと思ったらそうでもなかった。 夜空を見上げれば、仄かに青白い月明かりが降り注いでいる。 月ってこんなに明るかったのだななどと思いながら、家に向かう。
漆黒の闇ではないとはいえ、さすがに明かりの灯らない中高層建物が累々と並ぶ風景は、なかなかに異様。 そしてそんな風景を月光が蒼く照らし出す様相は、ゴーストタウンと見紛うばかり。
家に着き、窓のカーテンを開けると、その向こうには青い闇がどこまでも広がっていた。
しかし、そんないつもと違う風景は、停電の解消と共に一斉に見慣れた風景に切り替わる。 イルミネーションの点灯式の如く、街中にキラキラと灯かりが溢れる瞬間は、ちょっとばかり感動的であった。

ちなみに、断水は昨日で解消。
断水期間中、自治会に設置されている災害対策本部の動きは、本当にありがたく、そして心強いものであった。 こんなに匿名性の高い街の中にもコミュニティはあるのだなと、少し嬉しくなった。
とはいえ、まだインフラが復旧しないエリアは近傍の広域に及んでいる。 節水と節電には今後も心がけなくてはならない。



2011.03.16:節約
※1

東京国際フォーラムの高さ60m長さ220mに及ぶ巨大なアトリウム空間。
写真に撮ってみると、まだまだ明るいという印象だが、これでも普段よりは照度がかなり抑えられている。

地震による給水本管破損に伴う断水生活が始まって5日目。 さすがに少しだけ節水のコツが掴めて来た様な気もするが、まだまだ手緩いのかも知れぬ。
帰宅が困難となり会社に泊まった震災発生当日の夜。 配給された非常食を食べていた際に、一緒にいた年配の人が、「ちょっとした予行演習だよな」と呟いた。 なるほどと思った。 いや、予行演習なんて大層なものではない。 それどころか、シミュレーションにすらなっていないのかも知れぬ。
しかし、なかなかに良い機会と捉えても良いのであろう。

それにしても、普段いかに無意識のうちに大量の水を使っていることか。 反省するところ大である。
そしてなお且つ、エコロジカルな節水生活を邁進中といったところでもある。

節約といえば、ライトアップを取り止める建物や構造物が多いことは先日書いた。 別に止められても全く困ることは無い。
あるいは、公共空間の照明も控えられている。 例えば、東京国際フォーラムの巨大な吹抜けホールなどは、夜間は煌々と明かりが灯されていたが、今は公共空間として支障が無い程度に抑えられている※1。 それが、かえって落ち着いた雰囲気を醸し出していてなかなか良い。 というよりも、今までが明る過ぎたのではないかとさえ思えてしまう。
日本はいつから闇を禁忌し、そしてひたすら明るくすることを希求するようになったのだろう。
ほの暗さがもたらす快適さ。 そんなことを改めて考えてみるという意味でも、良い機会なのかも知れぬ。



2011.03.14:Land of Confusion

平日の朝。 断水の対応で食事は外でと決め込んでいたので、いつもより早めに出勤のために家を出る。
玄関ドアを開けたのとほぼ同時に、市の防災放送。 AM6:00を少し廻ったばかりの早朝に一体なんだろうと思ったら、本日の給水拠点の情報と、そしていつも使用している電車が計画停電に伴い終日運休する旨の連絡。 仕方が無いので路線を変えることにしたが、そちらも省電力のためにかなりの間引き運転。 普段ならラッシュアワーの時間帯でもないのに、久々に凄まじい「痛勤」にみまわれつつ何とか出社。
すると、「出社困難者は自宅待機でも良かったのに」と、無情の声。 更には、「とりあえず、お前は出社できるということだな」などと冗談交じりで言われてしまう始末。
私は何とか会社にたどり着けたけれども、周囲には出社手段が無く自宅待機の人が多数。

暫くして、緊急会議から戻ってきた上層部から召集がかかり、決定事項の連絡を受ける。
今回の震災に関連して対応を要する事項は、私なんかが想定した範囲を超えて極めて多岐にわたる。 今後発生するかも知れぬ予期せぬ事象への対応も含め、暫くは慌しい状況が続くことになりそうだ。

日が落ちて宵の口。 さすがにライトアップをするような建築物や構造物は無い模様。 いつもと違う都心の夜。
そして帰宅の途につく段になり、その手段については大いに迷う。 いや、様々な選択があるだけまだマシか。 迷った挙句の選択が功を奏したのかどうかは微妙。 いつもの3倍の時間がかかりつつも、激混みの車両の中で殆ど席に座れたのは不幸中の幸い。
それもこれも、様々な発表や情報が錯綜する混迷した状況のため。 批判の矛先は電力会社に向かっているが、彼らにしてみれば極力影響を最小限に抑えるためのギリギリの判断であったのだろう。 それがかえって混乱を招いていることは皮肉なことであるが。
とはいえ、被災地の惨状に比べれば、この程度の混乱は全然大したことではない。 かつて訪ねたこともある三陸沖の各地に安寧が訪れるのは、いつのことになるのだろうか。



2011.03.12:帰宅難民

3月11日、昼過ぎ、勤務先。
地上約50mにて震度5強の地震に見まわれる。 振幅は比較的ゆっくり目だけれども、激しい横揺れ。 机のヘリにつかまっているのが精一杯。
窓の外を見れば、向いの建物も不気味に揺れている。

揺れが収まって暫くしてから館内放送が流れる。 危険だから外に出ないようにとのこと。 こういった時に個人の判断で単独行動をするのは宜しくないだろう。 ということで、席に待機していたら、再び強い横揺れ。

暫くして、ガードマンが見回りに来た。 安否の確認と、「落下物等の危険があるので外に出ないでそのまま待機。」といった旨の指示を出して慌しく他階に移動していった。
窓際に寄って外を眺めると、建物の外に出て歩道上に待機する対応をとっている会社も散見される。 対応はマチマチだ。 でも、本当に落下物とか津波に対して危ないよなと思いつつ、自分の席に戻る。
周囲も極めて冷静。 情報を集めようと、それぞれの端末にてネットを巡っている。
その後も何度か鈍い建物の軋みを伴う揺れが続くが、フト「これじゃ、帰宅は難しいかもな」などと思う。 再び外を観ると、高架に電車が止まっている。 眼下の歩道は、徒歩での帰宅を決意したのか、それとも広域避難場所に移動しているのか、そんな人々の往来でごった返している。 そんな群衆の中に混じって再び大揺れに巻き込まれたらたまったもんじゃない。
夜になって社内待機は解除されたけれど、とりあえずライフラインは正常だから、これは帰宅難民になって会社に泊り込もうと決心。 椅子を並べて横になるが、なかなか寝付けない。
そのまま空が白んできて、公共交通機関の運行状況を確かめると、一部で再開している。 しかし、これはすぐに動かない方が良いだろうと判断。 幸い、仕事は嫌という程ある。 この際それを処理してしまおうと思ったが、歳のせいか睡眠不足は堪える。 仕事に身が入らず、頃合を見て帰途に着く。

家自体は大丈夫であったが、断水している。 中越地震以来の習慣としてペットボトル入りの水を備蓄しているのだけれども、いざ断水となると量が少ない。
それに建物の周囲一体はところどころ液状化し、地盤が波打っている。
部屋の中は、18年前にアートフロントギャラリーにて粋がってオークションで落とした牛島達治の小品が倒れていた程度。 その損壊も、免れた。



2011.03.09:【書籍】新建築2011年3月号

時折、身分不相応にも書き散らしている新建築誌の感想。 今回は、2011年3月号について、以下に。

ダメハウス

今月号は、コンペの結果発表が多い。 その中でも東京電力主催のTEPCOインターカレッジデザイン選手権の記事は面白い。
テーマは「ダメハウス」。 ここで言う「ダメ」とは、本来の意味でのダメでは無く、「イケてるとか、カッコいい、ではない価値」と、テーマの説明文の中にある。 例えば「ブサかわ」などは、そのニュアンスに近い言葉の一例ということになるのだろうか。
そういった前提で私にとってのダメハウスは何か、となると容易に擬洋風古民家が思い浮かぶ。 明治から大正にかけて主要都市で数多く建てられた新進の洋館に触発されて、地方の棟梁たちが見よう見まねで建てた住まい。 それらはどこかイビツで、ディテールにも誤りが多い。 でも、愛嬌があり憎めない。 あるいは思いもよらぬ小粋な風貌を、その表層に漂わせていたりする。
模倣する際の創意や誤謬が産み出す妙味。 私にとっての「ダメハウス」は、そんな住宅たちだ。
掲載されている入選作は、そんな単純な発想ではなく、もっと深いところで「ダメ」の在りようを提示している。

フォーラムビルディング/div>
/設計:谷口建築設計研究所

「ダメハウス」の「ダメ」の視点でこの3月号を見た時、その概念の対極にあるのが、この作品であろう。
どちらかというと、水平方向に優美に展開する作品が多いという印象の谷口吉生が、縦長のオフィスビルに取り組んだということだけでも驚きなのに、更にそこに実現した研ぎ澄まされたディテールは驚異的だ。 1/5スケールで載せられた部分詳細図を見ると、施工誤差が全く許されぬ納り。 これを施工した竹中工務店の技術力も驚嘆に値する。
梁天端の雨水処理などは少々強引にも思えるが、この程度の集水面積ならば33φの竪樋でも問題はないのか。
用途はオフィスビル。 氏が多く手掛けてきた美術館とは勝手が違う。 供用開始後は、その内部で苛烈な業務が繰り広げられる。 そんな様態を内部に抱え込むことに、今までの作品と同質の繊細な意匠が耐え得るのか。 テナント入居前に撮影された掲載写真の品格が、供用開始後にも失われること無く持続するのかどうか。
暫くしてから現地で確認してみようと思う。

HTG
/設計:新関謙一郎 NIIZEKI STUDIO

どこまでも静穏な空間。 旗竿地というハンデを逆手に取った巧みな構成が心地よい。
建築専門誌に掲載される住宅で、住んでみたいという気が起きる作品というのあまり無い。 しかし、この作品はそんな気にさせる魅力がある。 掲載されている客間などは、例えば梅雨時、地窓の近くでゴロリと横になり、外部の雨音を愛でてみたい。
しかし、断面詳細図を見ると、少々不安になってくる。 トップライトのディテールが載せられているが、この部分の納りで決定的というものには、なかなかお目にかかれない。 また、居間の床面は段差スラブのために直床と二重床が連続している。 静謐な空間は、五感を研ぎ澄ます。 そうなると、直床と二重床の歩行感の違いが触感として気になるかもしれない。

しらさぎ美術館 Y邸の離れ
/設計:押尾章治+UA

けもの道が貫通する敷地与件を手がかりに造られた作品。
敷地には余裕があるから、けもの道には手をつけず、そこから切り離した計画もあり得た。 しかし、敢えて積極的に関わることがここでは選択された。 その選択に対し、出来上がった作品の形態は最適解であろう。
この最適解が、今までそこを往来していた近隣住民にどの様な影響を及ぼすのか。 あるいは逆に、近隣住民がこの建築にどんな作用をもたらすのだろう。 今後、近隣と織り成すであろう関係の醸成が楽しみな作品だ。

ちよだの森歯科診療所
/設計:小川博央建築都市設計事務所

均質グリッドの中に多様性を展開させる。 手法としては目新しいものではない。
同じ診療施設であるならば、たとえば石井和紘+難波和彦が35年前に実現した「54の窓」などを容易に連想する。 そこでは、平面のみならず立面まで駆使してよりラディカルに均質性と多様性がグリッドの中でぶつかりあっている。 改めて考えてみると、70〜80年代の石井和紘の作風って、とっても知的で確信犯的な「ダメ」建築といえるかもしれない。
閑話休題。
診療スペースとしての適切なモジュールを、建物全てに展開するのはやや強引という気がする。 特に住居部分でそのことが顕著で、窮屈なピアノ室や間延びした洗面室等、モジュールと適正スケールの乖離が生じているような印象を持つ。
それに、診療部分において、均質グリッドの中に嵌め込まれた各用途も、動線的に適切なのだろうか。 これだけ余裕の有る空間の中で、エントランスを入ってすぐ斜め横に診療スペースがあるのって、ちょっとタイトではないか。 身障者に配慮した結果なのかもしれないが、個人的には待合と診療スペースには少し間合いが欲しい。
それに、それぞれのスペースの間に殆ど間仕切りが無いから、歯科に特有の診療中の機械音が屋内全体に響きわたるのだろうな。 阿鼻叫喚の均質グリッド・・・と思ったら、一応両者の間の開口には建具が入るように上下にレールが設けられている。 空間構成原理を判りやすく表現するために、掲載写真を撮影する際に建具を外したのだろうか。
ともあれ、その只中に置かれる受診者達の心情は、白一色に統一されたインテリアと不思議な奥行き感によって和まされるのであろう。

大森ロッジ
/設計:大島芳彦/ブルースタジオ+天野美紀/アトリエイーゼロサン

リノベーションによるストック活用事例。
ストックについては、巻末の月評欄で山梨知彦が手厳しい論評をしている。 その言を借りるならば、このプロジェクトも「賞味期間を延ばした「延命されたフロー」」ということになるのだろうか。 あるいは、同じく内藤廣が述べるところの「人間の生命の時間とは別のオーダーを用意すること」にも到達していないのかも知れぬ。
しかしそれであっても、その先駆性と希少性により、このプロジェクトはストック活用事業としての付加価値付けに成功している。 普遍化が可能かというと微妙だが、しかしそれであっても、意義はある。
山梨知彦は、ストックの理想例として東京カテドラル聖マリア大聖堂の改修を挙げている。 異論は無いが、世の中はそんな「傑作」のみで成り立っている訳ではない。 現実として存在する多くの賞味期限切れのフローにどう立ち向かっていくか。 そういったものもストックとして扱っていかなければならぬ。 既に時代はそんな渦中にある。 そして、大森ロッジにはそんな状況に対する希望がある。



2011.03.05:高井戸詣で
※1

エコフラッグシップモデル外観。
第一印象では、環境配慮がデザイン的に表徴されているようには見えない。
しかし、二階テラス全面に設置された可動ルーバースクリーンや、奥行きの深い一階テラスなどからは、室内温熱環境の安定に配慮した日射制御の取り組みが伺える。

※2

一階縁側より、広場内に隣接して建つ、同社のTHE CENTURY-Tを観る。
かつてこの場所にはMIII型が建っていた筈。

※3

二階テラスより、「GENIUS 蔵のある家」を俯瞰。

※4

エコフラッグシップモデル内観。
LDR中央の吹抜け見上げ。大黒柱と、その両脇にパネルルーバー冷暖房システム。 もっとも、冷暖房を組み込んでいるのは一階部分のみ。二階や天井部分のルーバーは、屋内に自然な空気の流れを促すアイテムとして機能。 同社が言う「微気候デザイン」の一環だ。
ルーバーの向こう側に、スケルトン階段が透けて見える。
居室内の照明計画は、いずれもとても良く考えられていた。

いつの頃からか、建築研究開発コンソーシアムという組織から時折メールが届くようになった。
きっと、同組織が主催する何かの講習会に参加した際のアンケートに回答したら、そのまま会員に登録されたのだろう。 メールの内容は、建築に関連した講習会や見学会の開催情報。 届けばそれとなく目を通しているが、最近送られて来たメールにフと目が留まる。 それは、ミサワホームが同社本館敷地内に最近完成させたエコフラッグシップモデルの見学会開催告知。
説明によれば、LCCMを追求した住宅だという。 LCCMとは、ライフサイクルカーボンマイナスの略称。 今はやりの低炭素化ビジネス構築のための評価指標の一つだ。 詳しくは、この呼称の商標を保有している財団法人 建築環境・省エネルギー機構のサイトを見ていただこう。
ミサワホームがそのフラッグシップモデルを発表したとなれば、並大抵では無かろう。 とはいっても、同社のサイトを見る限り、当該モデルには大して興味を持てるほどの印象は持てない。 それでもこの見学会に参加することを即決したのは、同社の本館を訪ねることが出来るから。 しかも、住宅購入意欲とは関係なく、建築的興味のみで堂々と、である。

ということで、見学会開催当日、高井戸にある同社本館に赴く。
昨年の夏、環八を挟んで向いに建つ同社の総合研究所内にあるミサワバウハウスコレクションを訪ねたことは、この場にも書いた。 それ以来の高井戸詣でであり、本館の方に入るのは初めて。
こう書くと、意外に思われるかもしれない。 この場や、あるいは住宅メーカーの住宅のページに、ミサワホーム関連のことを結構載せているから、当然足繁く通っているのではないかと思われる方もいらっしゃるかも知れぬ。
しかし、本当に初めてなのだ。 さもありなん。 仕事で関わりがある訳でもなければ、住宅購入意欲も全く無いのに、ノコノコと出向くところでもなかろう。

ともあれ、受付を済ませ、地階のホールに案内される。
そこで、まずは同社の紹介と見学対象モデルの概要説明を受ける。 懇切丁寧な説明ではあったが、しかしそれでも低炭素化技術の根拠と言うのは怪しい印象が拭えない。
カーボンニュートラルまで63年といわれても、なんだか現実味が薄い。 しかもそれは、その中で暮らす人のエネルギー消費量が、今現在のまま63年間維持されることが前提なのではないか。 勿論60年後の生活象なんて予測不可能だから、そういった要素をCO2収支の評価に組み込む訳にはいかない。
であるならば、そもそもライフサイクルでCO2収支を考える意味は何だろう?

そんな違和感を持ちつつ、本館裏手の広場に建てられたエコフラッグシップモデルに移動。
とはいっても、移動中の私の視線は、全く別のものに注がれていた。 30年ほど前の場内には、当時の主力企画商品のモデルハウスが四棟建てられていたのだ。
あの場所にかつてはミサワホームOII型が建っていたんだろうなとか、あちらの奥にはミサワホームMIII型。 その手前にミサワホームA型二階建てが建っていた訳か・・・等々、かつての広場の様子を思い浮かべて少々夢うつつになっていた。
当時のカタログに掲載されていた各モデルの外観写真に彩りを添えていたケヤキも巨木になっている。 そりゃ30年も経てば大きくもなる。
しかし、そんな広場の状況に感慨深い視線を投げかけていたのは、参加者の中では私だけであったことだろう。 もしかしたら同社の関係者だって、場内に建てられているGENIUS蔵のある家の場所に、30年前にはミサワホームOII型が建っていたなどと言っても話が通じる人は少ないかもしれない。
でも、訪問目的の半ばそれ以上は、そんなことを確認しつつ仮想の視覚の享楽に興じることであった。 30年前に憧れていた場所とこの様な形で戯れるというのは、少々寂しいことだけれども、しかし素敵なことでもある。

でもって、同じく30年前の同社のフラッグシップモデルであったミサワホームG型が在ったと思われる場所に建てられたエコフラッグシップモデル。 思っていたよりも面白かった。
現実離れした空間構成ではあるが、各種部材の取り合いや割付けには細心の注意が払われていて、目に心地良い。 空間の要として象徴的に扱った大黒柱やスケルトン階段は、ミサワホームO型のDNAか。 同社が「蔵」と呼称する大型収納空間の組み込み方も巧い。 パネルルーバー冷暖房システムも、綺麗に意匠に組み込まれている。
LCCMへの懐疑は拭えないけれど、このモデルを基にした事業展開が今後どのように図られるのか。 少々興味はある。



2011.03.02:住宅メーカー私史08
−匠の時代

※1
2011年2月27日の書き込み参照。
※2
書いていた時期もあったが、長続きはしなかった。 逆に今は、手帳に予定等とは別にその日行った主だった項目を書き記すようにしている。 日記という程ではないが、後になってそれらを確認してみるのも、なかなか面白い。

当時、ミサワホームでは月刊の広報誌として「ホームイングニュース」という冊子を発行していた。 市内のモデルハウスの玄関先にいつも置かれていたので、毎月それを貰って読んでいた。 内容は新商品の紹介や住まい方の提案、建築実例等であったように記憶している。
「記憶している」などと書かざるを得ないのは、今は手元に一冊も残っていないため。 当時は三年分くらいのストックがあったと思うが、今現在はスクラップ帳に幾つかの断片が保管されるに留まっている。
そんな広報誌の中で、表題に記した書籍の発刊が告知されていた。
経済評論家 内橋克人が執筆していたシリーズ物の中の一冊。 各巻それぞれ、日本の高度経済成長期における各分野の技術者たちにスポットをあてたドキュメンタリー。 その第五巻が『ミサワホーム「木と家と人」物語』。 全編、ミサワホームに関するドキュメンタリーである。

その告知から暫く経って、長岡市内に開店したばかりのブックセンター長岡という比較的規模の大きい書店内で、この書籍が平積みになっているところに遭遇。 すぐにでも購入したかったが、その時の所持金はゼロ。 すっかり舞い上がってしまった私は、全力疾走で帰宅。 なけなしの貯金を取り崩して店に舞い戻り、晴れて書籍を購入することと相成った。
そんなに慌てなくても、平積みされている書籍の在庫が瞬時に切れる筈も無かろうに。 しかし、お宝を目の前にしてそんな冷静な判断は吹き飛んでいた。

その内容は、空前絶後の大ヒット作となったミサワホームO型の開発に始まり、同時代の他のモデルや、O型に至るまでの同社の技術開発の道程等が臨場感たっぷりに書き記されたもの。 とりわけ、冒頭のO型に関する記述は秀逸だ。 詩的であり、それでいて的確でもある。
この書籍をきっかけに、ミサワホームに対する興味がいっそう深まったことは言うまでもない。
この匠の時代シリーズは、著者の意向で一旦廃刊となっている。 その後新版が出版されているが、内容は変わっているようだ。

ところで、知人がブログにて、私とほぼ同時期にミサワホームOII型のモデルハウスに行ったことを書き記していた※1。 日記帳に記録されていたとのことで、初めて訪ねた日にちまで正確に把握できている。
私は日記をつける習慣が無かった※2ので、そこまでは判らない。 というよりも、この私史を書き始めて、時系列の記憶がかなり曖昧であることに気付いた。 しかし、そのことを確認する術は、例えば保管してある当時の新聞広告のスクラップに記載されている日付から類推する等、極めて限られる。

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