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雑記帳
2010.11−2010.12
2010.12.25:ブロック塀_3
※1

写真1

※2

写真2

透かしコンクリートブロックについて、過去二回書いた。 それ以降、言及していない。
興味を持ったと言いながら、続きが無いじゃないかと言われてしまいそうだが、決して一時的な興味として既に終息してしまった訳ではない。 今でも、散策中における鑑賞対象の重要な一要素である。
にも関わらず続きがないのは、特に面白い事例が見つからないからだ。 既に透かしコンクリートブロックについては、コレクターの方のサイトが多々ある。 そこに掲載されている膨大で貴重で興味深い事例の数々に目を通せば、今更改めて凡庸なものを載せることも憚られるというものだ。

しかし最近、ようやくコレはという事例に出会った。
それが写真1※1。 なんだか、某私鉄系商業店舗のマークみたいだ。 縦二つ分のブロックを一単位とするパターンも大胆。
系統としては、一つのブロックで完結する写真2※2の展開系ということになるのだろうか。
一番右の透かしブロックがモルタルで埋められている。 その埋められ方が、何ともいい味を醸し出している。

2010.12.23:一年

師走恒例の今年の世相を表す漢字一文字が発表されて以降、さて自分の場合はと暫く考えてみたのだけれども、何も浮かばない。 それはつまり、無為な日々を浪費したことの裏返しということになるのであろう。

街並みや建物を観ることを目的に、遠隔地にフラリと旅に出る機会も極端に少なかった。
これに対して、情けない言い訳なら幾つかでっち上げることが出来る。
例えば、猛暑。 今年の夏の間の休日は、引き篭もりがちになるには十分に苛烈な気候であった。
そしてJR東日本のフリーキップ。 かの「土・日きっぷ」が無くなって、「ウィークエンドパス」とかいう訳の判らぬ代物に変ってしまったことも、遠出をしない要因になったということにしておこう。

かといって、何のトピックスも無い一年であったのかというと、そうでもない。
一昨年の半ば辺りから興味を持ち始めた昭和40年代のプレハブ住宅に関する追及は継続中。 「プレハブ」と書くと、いまだに安っぽい仮設建築のイメージがついてまわるので、工業化住宅と表記した方が良いのだろうか。 ともあれ、国内におけるプレハブ住宅草創期のことを調べるための図書館通いや、住宅地散策の機会が増えた。
当時のプレハブ住宅に関する書籍も、ネット上の古書店等を通じて何冊か手に入れることが出来た。 中には、興味を持って以降、二年越しでやっと入手出来た喉から手が出るほど欲しかった書籍もある。
でもって、最近になってようやく、「これは、ナショナル住宅建材(現、パナホーム)のR2Nだな」とか、「あれは大和ハウス工業の新富士だろうか」などと、外出中に見かけた当時の住宅に対して判別が出来るようにもなってきた。
さもありなん。
その頃のプレハブ住宅の外観は、メーカー間や商品ごとの差異が少なく、判別が難しいのだ。 こう書くと、まだまだ甘いなと言われてしまいそうだけれども、勿論それはその通り。 しかし、その後の昭和50年代に花開いた幅広い商品性の展開に比べれば、40年代はまだまだデザイン面での個性が希薄なのも事実ではないか。
それでも、軒先のディテール等を手がかりに微差を見分けられるようになってきた。
だから何なのだと言われても、返す言葉は無い。 しかし、そういったかつての住宅地の景観構成要素が、建替え等々の事情によって希少なものになりつつあることも事実だ。

もう一つトピックスを挙げるならば、既にこの場でも何度か報告しているが、新潟県の長岡市を中心に配布されているフリーペーパー「マイスキップ」への寄稿ということになる。 既に取り壊されてしまい現存せぬ市内の小粋な建物にスポットをあてるという企画で、四回執筆させていただいた。
面白く、そして勉強にもなる機会であった。

2010.12.18:【書籍】新建築12月号

身分不相応にも、時折この場に書き散らしている掲載作品に対する好き勝手な感想を、12月号についても数点。

セントラル硝子国際建築設計競技入賞発表

コンペの入選作を眺めても全然理解できないから、この手の記事を読まなくなってどれだけ年数が経つだろう。 どうせ、見た目には斬新だけれども、何だか内容は訳がわからぬ案ばかりなのだろうとタカを括りつつ、しかし今回の課題は「都市環境に寄与する集合住宅」。 少し興味を持って、ページをめくる。
最優秀案には驚いた。
何だかとても素直で単純で、それでいて地域に固有の具体的な問題に真正面から取り組んでいるところが、イメージデザインコンペの入選作としては異色という印象。 この案を最優秀に選んだ審査員達の判断には共感できる。

ホキ美術館/日建設計

巨大組織事務所が、この様な作品を出すようになったのかということに驚く。 アトリエ派と組織事務所という、かつては確実に存在した境界は、曖昧なものになりつつあるのだろうか。
大規模な公園と平凡な住宅地に挟まれて立地するその建物の外観は、どちらにも調和することなく異彩を放っている。
細長い敷地形状に合せて、微妙な曲率を伴った線形のボリュームの組み合わせで構成。 結果として、屋内は全て廊下状の空間となっている。 しかし、長さに対して幅が著しく狭い展示室は、作品を落ち着いて鑑賞出来る空間なのだろうか。
見開きのギャラリー内部の写真を観て、そんな印象を持った。

韓国驪州のクラブハウス/坂茂+KACI

採用されている木構造は文句無く美しい。
かつての石井和紘の様な強引な木構造でもなければ、あるいは最近の高松伸の荒唐無稽な木造超高層でもない。 木の物性を活かしつつ、華麗な構造体を実現している。
「ゴルフをほとんどやったことのない・・・」という、坂茂による解説文の冒頭には、なにやら親近感を覚える。 そう、私も新入社員の頃上司に無理矢理一回だけ打ちっぱなしに連れて行かれたのみ。 以降、このサラリーマン必須の「たしなみ」には縁も無いし、興味も無い。
だからよく判らぬのだが、休日を返上して会社のゴルフコンペに参加するマメな方々の言動を見ていると、ゴルフは早朝から行うものなのではないか。 ということは、本誌に掲載されている夕刻のライトアップされた外観を拝む機会って少ないのでは無いかと思うのだが、どうなのだろう。
韓国のゴルフ事情が日本と同様なのか否かは知らないけれど、しかし、この木構造が最も美しく見えるのは夜景だと思う。 平面図を見ると宿泊施設も併設しているから、ゆっくりとゴルフを堪能する余裕がある人々のみが、この美しい夜景の眼福に授かれるのであろう。

今月号は、「小さな建築のディテールとディメンション」という特集が組まれている。 そこからも、三点。

靭公園の住宅/安藤忠雄

隣接する公園の風景を取り込むために設えられた奥行き9mの三階テラスは圧巻。
しかし、このテラス。 途中まで庇が掛かっている。
その大きさは幅約4.3m。奥行3.6m。 それだけの面積の庇の雨水排水は、その先端からこのテラスへの垂れ流し。 だから降雨時には、雨垂れのカーテンがテラスの途上に出来ることになる。 豪雨時には、さぞかし凄いことになるのだろう。
雨が止んで晴天が訪れても、暫くはポタポタと水滴が垂れて、床面の一部を濡らし続けるのだろうな。 その水は、庇の上のホコリや汚れを含んでいるから、軒下の床面や袖壁部分は、マメに清掃しないと汚れがそこだけ集中することにもなりかねない。

House OM/藤本壮介

異なる曲面でえぐり取られた矩形平面を積み重ねるだけでも面白い空間が創出できるのに、それに留まらず更に幾つかの試みを組み合わせているところが凄いと思う。
例えば、敷地造成擁壁の荒々しさに呼応した外壁面のテクスチャ。 そのテクスチャに負けない木軸フレームの配置。
それらによって、「雲を積み上げるように」という表現が見事に空間化された場所に、同じく作者が述べる「都市の肌理/生活の肌理」が巧みに嵌め込まれている。
しかし、「生活の肌理」としての木軸フレームが、経年変化によって空間にどんな作用をもたらすのだろう。
また、屋内吹抜け上部のトップライトの納りも安易。 掲載写真での判断になるから詳細は判らぬが、止水のことを考えると妥当なディテールには見えない。
更には、トップライトのガラスの下に見える外壁天端が未仕上げで断面が露出しているのも、如何なものか。
シール処理のみに頼ったトップライト端部からの雨水の漏水や、あるいはガラス面に発生する結露水が、この未処理の外壁天端から内部に滴下し、いずれ・・・なんていう状況が発生しないことを願いたいが・・・。

Small Atelier/五十嵐淳

俯瞰アングルの外観写真が載せられている。 作品の特徴を伝えるのには適切な判断であろう。
しかし、なぜ雨上がりに撮影を行ったのだろう。 わざわざ、屋根面に雨水が滞留している写真を載せて、ディテールの不備を強調することもなかろうに。
この水溜りが気になって断面図を観ると、屋根面に水勾配が設定されているのか否かも不安になる計画。 写真を再度見ると、雨水排水ルートは、一箇所設けられたオーバーフローのスリットのみにも見える。 勿論、フラット屋根における雨水処理の基本的なこと位はやっていると思うけれど、掲載図面や画像からは読み取ることが出来ない。

ということで、建物全体の印象よりも、雨水処理が気になるディテールが目に留まる事例が散見される特集であった。

2010.12.12:紙映画
※1
2010.11.09の項参照
※2

会場設営風景

練馬区立美術館で開催中の「芸術家の家 大沢昌助と父 三之助展」に再び赴く※1。 同展の関連イベントとして開催される「大沢さんちのクリスマス」を観るためだ。
このイベントでは、大沢家で作られていた「紙映画」なるものの復刻上映が行われる。 紙映画が如何なるものかについては、動画サイトにもアップされているので、そちらを御覧頂きたい。

上映時間の一時間前に現地入り。 会場である館内の「創作室」での準備中の様子も見させていただく※2。 BGMを流すための蓄音機が二台セットされ、復刻上映に使われる「スクリーン」もセッティングされていた。
上映中は、同美術館で開催される関連イベントでは異例の入場者数となる大盛況ぶり。 約1時間半にわたって、数本の作品が「上映」された。

イベント終了後、打ち上げにも参加させていただく。
打ち上げ会場に行く途中、OMソーラーの開発者である奥村昭雄氏のアトリエが近傍にあるとのことで、お邪魔した。
天井の高い開放的な玄関から室内に入ると、天井高さを少々抑えた空間に巨大なテーブルと木製の椅子が幾つも置かれている。 道路に向かって大きく開口が穿たれていて、外から中が丸見え。 聞けば、そのテーブルで食事も打合せも行うという。
談笑している間、道路を往来する人が通りすがりに様々な反応をする様子が見て取れて面白い。 不思議そうな視線を投げかける人。 何事もないかの様にぎこちなく平静を装って通り過ぎる人。 部屋の内外いずれの人にとっても、観察する側、される側双方になり得る場所。
住まいと近隣との関わりで、こういった設えというのは珍しい。 あるいは、かつては在ったけれど、今では希少になってしまった佇まいといえるかも知れぬ。
そんな空間の奥に連続する執務スペースは、逆に天井の高い空間。
そこで、気がついた。
このアトリエには、標準的あるいは慣例的な天井高というものが無い。
人を招き入れる玄関はのびやかに。 そしてテーブルを配した窓際の空間は、低く抑えた天井で落ち着いた雰囲気を。 更に、その奥の執務スペースは、勾配を伴う高い天井。
それぞれの場所の機能や空間の質に合わせて、適切な天井高さを設定する。 大切な拘りだと思う。
更には、1畳半にも満たぬ狭小空間でありながらも機能的にまとめられたな使いやすそうなキッチンであるとか、目線高さに中庭への視線を確保する横長スリット窓を設けたトイレ等々、興味深い設えが満載であった。

暫しお邪魔した後、打ち上げ場所となる中華料理店へ。
集まった面々はいずれも筋金入りの趣味人ばかり。 私の様な狭く浅い趣味や興味や知識しか持ち合わせぬ者にとっては、あまりにも刺激的で新鮮で、そして謎めいた会話が連綿と飛び交う一時であった。

2010.12.09:長岡駅・112年・3代
※1

長岡市を中心に発行されているフリーペーパー「マイスキップ」には、過去三回、原稿を書く機会を得ている。 いずれも、既に取り壊されてしまった市内の粋な建物についてまとめた。

で、それらの原稿に関する打合せをメールでやり取りしている際に、二代目のJR長岡駅舎についても何か書けるかもしれませんねということになった。
現在の駅舎は三代目。 上越新幹線の開通に伴って建て替えられたもの。
先代は、大正15年から昭和49年まで供用されていた。 しかし私の手元に二代目駅舎に関する画像等の資料は皆無。 それでは面白い紙面は構成できないので、そこら辺の目処が付いたらやってみましょうかといったところで一旦話は終わっていた。
しかし、それから数ヵ月後、私は舌を巻くことになる。 編集部の方々が、四方八方に手を尽くし、35年前に取り壊されたこの建物に関する資料を入手。 そして、極めて貴重なそれらの資料と画像データを大量に送付して来たのだ。
これには驚いた。 言い出しっぺとしては、責任をとらぬ訳にはいかぬ。 ということで、二代目を中心に、初代から現在の三代目駅舎までを含めた流れを指定文字数の中でまとめてみた次第。
いつも通り、編集担当の方の巧みな紙面構成により、「長岡駅をめぐる風景」というタイトルで12月号に記事が掲載されることと相成った。 今回の特集記事は、編集部の方々の人脈や行動力、そして貴重な資料を編集部に提供して頂いた方々の御好意無くしては、あり得なかった。

二代目駅舎に関する私の記憶は、建て替えのために解体工事が始まったばかりの頃のことのみだ。 仮駅舎の裏側で、クレーンに吊り下げられた巨大な鉄球を、振り子の要領で壁にぶち当てて破砕している作業の光景をうっすらと覚えている。
編集部から送ってもらった資料によると、解体工事が始まったのは、昭和49年10月7日午前10時頃のこと。 歴史を経た建物が取り壊されることに対する何らかの感情が沸くには、まだ私は幼少過ぎた。 「ふ〜ん、壊しているのか」といった程度の意識でしかなかったように思う。
今、改めて外観写真を眺めてみると、少しばかりロマネスク様式を連想させる簡素ながらも重厚感たっぷりな外観は、なかなか魅力的だ。

マイスキップの入手方法は、過去に何度か紹介している通り。 都内でも、表参道ヒルズの裏手にある新潟県物産館ネスパスにて入手可能。
左の写真※1は、ネスパスでの配布状況。 様々な観光リーフレット等と一緒に並べて置かれている。

2010.12.04:軍艦島

会社に無造作に積まれた購読雑誌の中に、「月刊リフォーム」というものがあった。 その2009年9月号の表紙に「軍艦島の建物群の今と昔〜日本最古のRCアパート群」とある。
思わず手にとって、その特集ページをめくってみる。

面白い。
単に懐旧や廃墟趣味といった次元ではなく、劣化という観点を主軸にした軍艦島に関する対談。 いかにも、リフォームの専門誌らしい記事だ。
苛烈な環境下でメンテナンスを施されずに放置された鉄筋コンクリート造の建物が、どのような劣化をおこすのか。
勿論、躯体の品質は今と昔ではまるで違う。 しかし、軍艦島で進行する状況は、RC造で埋め尽くされた現代都市の今後を考える上で、十分に示唆するものがある。
と同時に、そんな貴重な遺産を今後どのように取り扱っていくのかということも気になってくる。
変に改修を施すことは、歴史的価値を貶めることになろう。 かといって、崩壊するがままに放置しておくことも、史料的価値を失うことに他ならない。 いや、現在進行形の崩壊過程そのものが資料的価値なのかも知れぬ。

いわゆる産業遺産と呼ばれるものの取り扱われ方は、様々なのであろう。
例えば観光施設として綺麗に整備されているもの。 異種用途に転用され、有効活用されているもの。 それらの中には、あまりにも綺麗に修繕の手を入れられ過ぎて、昔からのものなのか再現されたものなのか判別付かぬものも有るようであるが・・・。 あるいは、人知れず崩壊するに任せた状態のもの。 または「見守り保存」という新たな保全手法が模索されているものもある。
歴史的建造物の保全に係る共通解は無いし、決定的な理想解も無い。

2010.11.30:紅葉・団地・プレハブ
※1

近傍の緑地帯に並ぶ銀杏の樹。 密植し過ぎでヒョロヒョロであったが、年数が経つと、それなりに立派になるものだ。

休日の朝。 カーテンを開けると、見事に紅葉した銀杏の連なりが眼下に見える。
知人の少し前のブログに、紅葉した銀杏の巨樹の写真が掲載されていたことを思い出し、それでは私もと、写真を撮りに外に出る。 既に地面に落葉が降り積もっていて、金色のじゅうたんを敷き詰めたかのよう※1
そして上方に目を向ければ、そこにも折り重なる様な金色の量塊と、そして抜けるような青空。 こんな秋晴れの日にどこかに出かけない手は無いなと、まずは借りていた本を返しに県立図書館へ。 そしてそのまま、そこから少し離れたところにある公団(現、UR都市機構)の大規模な団地を観に行くことにした。 昭和34年から入居が始まった歴史の有る団地だ。

図書館から団地までの途上にある住宅地には、昭和40年代のものと思しきプレハブ住宅が散見される。 今までは気にも留めていなかったが、興味の持ちようによっては、同じ風景でも視認し得る対象が異なってくるものだ。 それらしき家を見つけては、ついつい歩が止まってしまい、なかなか当初の目的である団地まで辿り着けない。
まぁ、天気も良いことだし・・・ということで、えいままよと徒然に彷徨するうちに、ミサワホームのホームコア※4を見つけた。 1969年に百万円住宅として売り出された商品である。 機会あらば実物を観てみたいと思っていたモデルなので、少々感動。 しかも、旧態を良く留めている。 そういえば、少し前に偶然見つけた1973年発売のホームコア75も、旧態を良く留めていた※2。 嬉しい限りだ。

暫しその外観を眺めた後、ようやく団地に到着。
半世紀も経ると、団地内の植栽は立派に成長し、まるで森の中に住棟が建ち並んでいるかのよう※3
同時期に開発された他の多くの団地が建替えを行っているのに対し、ここでは修繕によって現況を維持する方針が採られており、旧態を確認することが出来る貴重な場所となっている。 外観を仔細に観ると、例えばアルミサッシをカバー工法によって改修した住棟等、確かに必要に応じて修繕を実施している状況が見て取れた。
今ではすっかり珍しくなってしまったスターハウス型の住棟も群を成して現存しており、貴重な佇まいが醸成されている。

それらを観て廻った後、再びホームコア※4を観に戻る。
このモデルは何度か仕様と価格の改定が行われているから、百万円時代のものであるか否かはわからない。 しかし、破格な販売価格のモデルであったことに変わりは無い。 にも関わらず、決してチープな印象がないのは、どうしたことだろう。 むしろ、昨今の平準的な価格(と書いても、極めて曖昧だが・・・)の建売住宅などよりも、よっぽど奥ゆかしさがある。
理由は幾つかあろう。 例えば、余計な要素で飾り立てないシンプルな形態処理。 それでいて、豊かな軒の出の深さ。
この二点は、昨今の住宅の佇まいに欠落しがちなことなのではないか。

※2
雑記帳の2010年10月12日の書き込み参照。

※3

団地内の景観。
豊かに育った木々に囲まれて、スターハウスが建つ。

※4

団地に向かう途中で見つけたホームコア外観。
2010.11.27:茨木家中出張番屋

コンフォルトの12月号を読む。
体裁が一新されたなと思ったら、実は既に先回号からリニューアルされていたらしい。 情報に疎くなってしまったものだ。
表紙のタイトルロゴが、何やら随分と可愛らしいものになった。

体裁は変ったけれど内容はどうなのだろう、などと思いつつ紙面をめくっているうちに、とあるページに目が釘付けになった。
小樽市の祝津に立地する茨木家中出張番屋が掲載されている。 しかも、その外観はやたらと綺麗だ。 番屋としての用途を失い無人になって久しく、廃墟然とした佇まいを呈していたことを知っているので、その見違えるような変わり様には少々驚いてしまう。
記事を読むと、今年修復が実施されたとある。 ウェブ検索をしてみると、修復の経緯を紹介したサイトがあった。 2009年3月頃から修復に向けた動きがあり、実際の工事は2010年4月頃から始まっていたようだ。
この間にも幾度かこの番屋を訪ねていたのだが、この動向については全く知らなかった。 重ねがさね、情報に疎くなってしまったものだ。

ともあれ、この地の歴史を語る上で重要な建物の一つが保全されたことは喜ばしい。 修復されたその外観写真を観て、「随分と小奇麗になっちまって」などと、なんだかちょっと不思議な感慨が沸いてくる。
これから先どの様に活用されていくのかはまだ判らないが、いろいろと検討が進められているようだ。

ところで、この番屋の正式名称については、今回初めて知った。 ニシン漁家建築のページでは「旧茨木家番屋」と表記していたが、「茨木家中出張番屋」が正式ということなので、改めることにした。
実は、この番屋に関する情報は、なかなか見つけ出せずにいた。 だから、建築年代や屋内の間取りについてはよく判らぬまま、ニシン漁家建築のページに掲載していたのだ。
コンフォルトの12月号には内観写真も載せられていて、いくつかのことを新たに知ることができた。 特に興味深いのが、番屋建築の特徴であるダイドコロ空間のしつらえ。 その周囲に設けられているネダイが三段であったことが掲載写真から判る。 傭漁夫達の就寝スペースであるこのネダイについては、ニシン番屋の概要のページにも記載しているように、二段が一般的であった。 三段のものとなると、規模の大きい番屋での事例はあるが、中規模のものでは珍しいのではないかと思う。
ということで、とても興味深い内部空間を持つ番屋建築と言えそうだ。

2010.11.23:ミサワホーム55内覧
※1

チラシに載せられていたミサワホーム55の中古住宅。
1982年1月竣工。
敷地面積127.11平米。
延床面積107.68平米。
価格は、7800万円。
30年以上前に国主導で推進されたローコスト住宅開発事業「ハウス55プロジェクト」に基づいて創り出された住宅も、土地代とセットでは、こんな高嶺の花になってしまう。


※2

ミサワホーム55の外壁テクスチュア。

新聞に折り込まれてきた中古住宅のチラシを何気なく見ていたら、見覚えがある間取りに出会った※1
「これって、1981年1月に発売されたミサワホーム55の南入りタイプじゃないか?」
結構近所である上に、オープンハウスの告知もなされている。
昭和50年代のミサワホームの企画型商品に関しては、その多くの内外観を実際に見ている。 しかし、このモデルについては、内部は未見。 ということで、いてもたってもいられず、現地に向かった。

隣接してほぼ同型の住宅が4棟並ぶ。 恐らく、同時に建設して分譲されたものなのだろう。
そのうちの1棟が売りに出ていた訳であるが、通常、同じ形の家屋が並ぶ光景というのは少々異様なものだ。 しかし、ミサワホーム55に限っては例外だ。 というよりも、連続して建ち並ぶ群景こそが美しいという気がする。
それを可能にしているのが、外壁※2のテクスチュアだ。 外壁材そのものは、同社が昭和電工と共同で開発した、多孔質軽量セラミック大判パネルである。 PALCと名付けられたそのパネルの表面の施された仕上げが素晴らしい。 セラミックならではの可塑性を活かした造形は、石積みのように見えて、石積みとは異なる。 昨今の主流であるフェイク丸出しの薄っぺらいサイディングとは比べ物にならぬ重厚感と独創性が与えられている。
日本のプレハブ住宅史上、最も美しい壁。 それが、初期ミサワホーム55の外壁だと言い切って良い、と私は思っている。
外壁は美しいのだけれども、その外壁を組み合わせて形成される外観そのものは、少々微妙。 そんな印象は、このモデルが発表された1981年当時から変わらずだ。

そんな外観を暫し眺めたのち、玄関に入る。
中には、大手不動産会社の若い社員が一人。 内覧する前に、個人情報や購入意欲の有無等々を矢継ぎ早に聞かれたり、あるいはその手の質問が書き連ねられたアンケートへの記入を求められるものと覚悟していた。 しかし、そういったことは一切無し。 「ご自由にどうぞ」の一言のみで拍子抜けだった。
とはいえ、購入意欲など全く無く、単にこの住宅への関心のみで見学しようなどというヨコシマな目的しか持ち合わせていない私にとっては、逆にとってもありがたいこと。 感謝しつつ、そして安堵しつつ内部へお邪魔する。

この住宅への最大の関心事は、内壁のテクスチュアであった。
通常、建物の壁というのは、幾重もの部材によって構成される。 つまり、外装材、防水材、構造材、断熱材、防湿材、下地材、内装材等々。 それらの機能をたった一枚のパネルで全て兼ねてしまおうという目的で開発されたのが、このPALCなのだ。
さすがに、外壁面の塗装と防水、そして内壁面の塗装は行っているものの、それ以外は本当に一枚のセラミックの壁。 そんな壁面に囲われた内部空間の印象は、体感する以外に判断しようが無い。
で、早速その内壁を確かめてみると、全く違和感が無い。 外壁側とは異なるテクスチュアが施されていて、ザックリとした塗壁仕上げのような印象。
天井面には、この住宅に採用されているユニット工法特有のジョイント部材が露出している。 しかし、そのジョイントを逆手にとって、そこにライティングレールを仕込んでいるところも巧み。
建具や内部造作は、ローコスト住宅として開発されたモデルとは思えぬグレード感。 徹底した標準化大量生産の仕組みのみが可能とすることであろう。
水廻りは、今の水準からすると、かなり窮屈だ。 当時のミサワでよく採用されていた、茶色の浴槽や洗面台というのも、好みが分かれそうなところ。

今回見学したモデルは、内部に生活用品が多く残されたままであった。 まるで、昨日まで住んでいたかのよう。
一階の間取りは、玄関を挟んで南側にリビングルーム、北側にダイニングキッチンが振り分けられている。 独立したリビングルームには、巨大なステレオや高価そうな音響機器が並べられていた。 きっとオーディオが趣味の方が住んでいらっしゃたのだろう。 独立した広めのリビングルームは、そういった趣味を持っている人には都合がよかったのだろうなと思う。
そんな、生活様態の一事例を確認することが出来たのも、今回の内覧の成果であった。

2010.11.20:観光地化の効用
※1

1990年8月に撮影した白川村荻町の風景。
急勾配の茅葺き屋根が載る多層民家が並ぶ。
訪ねた当時のことについては、以下に少し言及している。

町並み紀行 > 富山県城端

白川郷※1に行ったことがありますか?と突然聞かれた。

「あぁ、あるよ。もう二十年前になるけれどもね。」
「えっ! てことは、世界遺産に指定される前ですね。」
「そうだね。で、どうしたの?行くの。」
「えぇ、今週末、行くことにしたんです。どんなかんじでした?二十年前って?」

こう聞かれて返答に困った。
「ただの観光地だったよ。」と、二十年前の素直な印象をストレートに答えるのも、せっかくの相手の楽しみを損ねてしまうことになりかねない。 だからといって、期待を不要に膨らませてしまうのも無責任であろう。
「まぁ、あれだけの景観を維持し続けるのって大変なことだし、素晴らしいことだと思ったよ。」などと当たり障りのないところでお茶を濁しておいた。

そして後日。

「行ってきました。」
「どうだった。観光バスがずらりと並んでいただろ。」
「えぇ、そうでした。二十年前もそうだったんですか。」
「あぁ。観光客でごった返していて、建ち並ぶ民家が軒並み土産物屋とか民宿の看板を掲げていて興醒めだったな。」
「そんなに前から既にそういった状況だったんですね。でも、観光地でよかったと思っています。」
「えっ?」
「だって昔ながらの秘境のままだったら、集落内をウロウロしていたら不審者扱いされてしまいますよ。」
「そういう考え方もあるな。」
「観光資源として公開されている民家とかがあるからこそ、屋内までじっくりと観て廻ることも出来た訳ですし。」
「なるほど、それはそうだよな・・・。」

ということで、歴史的街並みの観光地化による“効用”について、妙に腑に落ちてしまった。
考えてみれば、二十年前の私だって、ただの観光目的で訪ねた一人旅の若者でしかなかった。 そんな私が、観光地化してしまった風景に対して四の五の言うのも、独り善がり以外の何ものでもない。
逆に、“効用”という前向きな捉え方で少し考えてみる必要もありそうだ。

2010.11.13:セルフビルド

自慢にもならぬが、私は手先が不器用だ。
例えば建築模型の製作などは苦痛でたまらないし、それ以前にロクなものを作れたためしが無い。 精緻な模型を作ることが出来る人というのは、それだけで尊敬の対象だ。 ましてや、自分で自宅を建ててしまう人となると、もうそれは神の領域である。

とあるきっかけで、そんなセルフビルダーの方が山梨にて取り組む建築現場を訪ねたことがある。
「完成はいつごろですか?」と聞いたら、「知らないよ。俺の楽しみを終わらせないでくれ。」と笑われた。 不粋な質問であった。 彼らにとっては、完成が目的なのではなく、作ることが目的なのだ。 会社を定年退職後、現役時代からの流れで少しばかり仕事をしつつ、それで得た収入の範囲内で資材を購入し、納得出来る自分の家をゆっくりと造る。
羨ましい人生の過ごし方だと思いつつ、しかし私には入り込めぬ世界だ。

山梨のそれとは別のセルフビルドの現場に久々に立ち寄った。
場所は東京の都心部。 11月6日に書いた麻布十番界隈の散策の続きになる。
小山湯を観てから慶応大学の裏側を抜けて、三田方面へと歩を進める。 途中、昼食をとってから、そういえばあの建物はどうなっているだろうと、その建設現場へと赴く。 ダラダラと続く坂道を、普連土学園の前を抜けて、クウェート大使館が見えてきたあたりに、その現場が在る。

プロジェクト名称は、「蟻鱒鳶ル」。 アリマストンビルと読む。
これもセルフビルド。
二つのマンションに挟まれた狭小敷地に建てられつつあるその建物を通りすがりに初めて観たのは、確か四年前。 まだ基礎部分の施工中か、あるいはそれ以前の根切りの段階であったかもしれない。
だから、どのような建物が建つのか見当も付かなかった。 ただ、道路に面して、これがセルフビルドによるものであることが掲示されていて、何となく気になっていた。
それから四年が経過した状況が以下の写真。 驚いた。 ゆっくりとではあるが、確実に建設は進行している。
少しずつ見え始めてきたその建物は、かけた時間と労力の経緯がそのまま物質化したような、そんな様相が表出していて、未完ながらも観る者を圧倒する。 ヒトが建築を造ることの本質というか根源に触れる思い。 スケジュールに追われるように慌しく設計をし、一気に建てられてしまう昨今のどんな大規模な建物よりも、この狭小建築には「力」がある。



2010.11.09:柄でもない一日

建築家・大沢匠氏に紹介して貰った展覧会を観に、練馬区立美術館へ足を運ぶ。
同館では、10月31日から12月23日の期日で、「大沢昌助と父三之助展」という企画展を開催している。 その名称からわかるように、大沢匠氏の父親と祖父の仕事を紹介する展覧会だ。

大沢氏の祖父は辰野金吾の愛弟子で、東京藝大の建築学科立ち上げに関わったという凄い人物。
展示室に入ると、まずは大学生の時の卒業設計が目に飛び込んでくる。 絵が巧い人であったことが、その図面を少し見ただけですぐに読み取れる。 とても精緻な図像なのに、近づいて見てみると筆致は意外なほどにあっさりしている。 これは、絵心があればこそであろう。 樹木の枝ぶりとか壁面の石目、あるいは陰影のつけ方など、じつにサラリと、それでいて的確に表現されている。
そしてそのことは、例えば古建築の調査の際に描いた絵図面からも読み取れる。 単なる学術的な記録としてではなく、それ以上の何かを絵に込めようとする意思。 そんなものがヒシヒシと伝わってくる。 それでいて、決して鬼気迫るというものではない。 実に楽しく調査をし、記録を描いているという印象だ。
描くことが本当に好きな建築家であったのだなと思いつつ、主に建築家あるいは建築教育者としての仕事を紹介した第一展示室を後にして第二展示室に移動する。
目が点になった。 そこに並ぶ水彩画は、建築家というよりは、もう完全に画家である。 どの作品も素晴らしい。 なかでも「秋雲」というタイトルの作品には釘付けになってしまった。
絵画の良し悪しを判別する審美眼など持ち合わせているつもりも無いけれど、柄にも無くこの作品は特に印象に残った。

三時間ほどかけて展示を見て廻ったのち、ロビーにある喫茶コーナーで休憩。
豪放な吹抜けを伴うホールに面し、そして屋外への眺望も確保された居心地の良い空間で、柄にも無くハーブティーと美味しいクッキーを堪能。

同館では、「絵画と写真−小野具定・成視二人展」も同時開催でされていたので、休憩後にそちらの方も観る。
絵画には疎いため、初めて名前を聞く作家であったが、その凄みのある作風に圧倒された。 特に、「冬ざれ」というタイトルの大作の前では、相当長い時間足が止まる。 柄にも無く、絵画を鑑賞して心が震える自分がそこに居た。
もしも、鰊番屋建築にドップリと嵌っていた1980年代終盤から90年代前半の時期にこの画家の作品に出会っていたら、今以上の感銘と衝撃を受けたことだろう。

一通りの展示を堪能し、すっかり心が洗われた。 そしてその清々しい気分のまま美術館を出て、周辺をしばし散策する。
暮れなずむ初秋の見知らぬ街並みは、雑然とはしているけれども住みやすそうな雰囲気。 駅から伸びる幅の狭い道路の両脇に形成されている商店街には、実に様々な店が連なる。
そんな中に、美術館内の喫茶コーナーで食したクッキーと同じ名前のスイーツの店があった。 で、ナチュラルスイーツどんぐりの木という名のその店に、柄にも無く入ってみる。 同じクッキーとハーブティーが販売されていたので、これまた柄にも無く購入。

ということで、柄でも無いこと尽くしの一日であった。

2010.11.06:根こそぎの街
※1

写真1:
三田一丁目界隈。
背後の左手の超高層が、パークコート麻布十番タワー。右側がシティタワー麻布十番。
※2

写真2:
小山湯外観。
このエリア特有の幅の狭い道路に面しているため、全景を撮ることは難しい。 前面の路地の奥に見える石段を昇ると、オーストラリア大使館の方へと抜けることが出来る。

久々に六本木ヒルズに行く。 といっても、仕事。
とあるプロジェクトで採用する手摺に、今まで使用実績が無い素材とディテールが含まれていることを、施工直前になって知る。 そういった場合は事前に検討事項を洗い出し、性能検証を十全に行ったうえで問題ないことを確認する決まりになっている。 当然のことだ。
しかし、若い設計担当者がそれを怠っていた。 ゴメンナサイで済むことではない。 「コラッ!」とばかりにその担当者に一通り小言を並べた上で、さて時間が無い中でどうしようということになる。
メーカーを呼んでヒヤリングしてみると、六本木ヒルズで施工実績があるという。 ならばと、休日返上でその部材の施工状況と経年変化を確認に赴いたという次第。 竣工後七年という経年での実績をどのように評価するかというのは、なかなか微妙だ。 しかし、検証事項を洗い出し、粛々と確認を実施しなければならない。

とりあえず実物を確認してから、さてこれからどうしようということになる。
六本木ヒルズは、そぞろ歩きが楽しい街という印象ではない。 混んでいるし、低層部分に施されたジョン・ジャーディによる石積みのデザインは、軽くて今一つ好きになれない。
ということで、そのエリアを外れ、鳥居坂を下って麻布十番へ。 この界隈に来るのは久々。 そういえば首都高の向こう側に、下町風情漂う雰囲気の良いエリアがあったよなと思い、そちらの方に赴く。 確か、著名建築家達が足繁く通う有名な銘木店がその辺にあった筈だと、その場所に行ってみる。
すると周囲一帯の風景はすっかり変っていた。
密集して建っていた低層建物が一掃され、新たに整備された広大な公開空地の只中に超高層マンションが二棟屹立する。 一方は、三井不動産レジデンシャル。他方は住友不動産によるもの。 異なるデベロッパーのため、二棟のデザインは全く異なる。
なんだかな・・・という印象。

さて、二本の超高層マンションの脇目に少し歩を進めると、以前の風景のままのエリアが残る。
家々には、「再開発反対」といった旨のことが書かれた旗が掲げられている。 大規模開発の近隣には良く見受けられる見慣れた光景だ。
そんなエリア内に入り、振り向きざまに撮ったのが写真1。  低層建物群と超高層の対比。 これも、もはや特筆すべき光景でもない。 都内の各所で見受けられる、普通の光景だ。
ほんの数年前までは周囲一帯に広がっていた下町風の光景の一角が根こそぎ一掃され、そして今の風景が作り出された。 果たして、都心の居住環境として手前の住宅街と背後の超高層のどちらが是なのか。 今となってはよく判らない。 どっちもどっち。一長一短といったところか。
そういえば、先程まで居た六本木ヒルズも、低層の住宅が密集していたエリアを一掃して造られた街だ。

更に歩を進める。
確か、小山湯という雰囲気の良い銭湯があった。 一度、その湯に浸かったことがある。 脱衣場は、格天井や指鴨居が豪放な空間であったように記憶している。
銭湯としては既に数年前に廃業しているものの、建物は現存した(写真2)。

その後、三田方面へ抜けて芝浦へと歩を進めたが、その時のことは、また別の機会に。

2010.11.03:【書籍】「都市縮小」の時代

「究極のコンパクトシティとは、皆が東京に住むことなんだよ。」
仕事場で傍らからそんな声が聞こえてきた。
社会全体の人口減少に伴い縮退する都市における居住環境の在り方みたいなことを話し合っていた様であるが、なかなかに極端な意見ではある。 だが、「究極の」と割り切れば、有り得ないことではない。
これだけ人とモノが集中した東京に、もはやそんな容量など捻出しようも無いという意見もあろう。 しかし、東京の土地利用って実は極めて非効率的である。
例えば、六本木ヒルズの森タワー最上階の展望施設から周囲を俯瞰してみればよい。 周辺一体を埋め尽くしているのは、木造家屋を含む中低層建物である。 土地のポテンシャルを鑑みれば、その上空には、まだまだ利用可能な空間が無尽蔵と言えるほどに存在する。 低層周密な町並みを全て排除し、そこに超高層建築を無数に林立させるのであれば、まだまだ東京には包容力があるということになる。
勿論それは、開発好きのデベロッパー的発想。 それに、インフラの整備も課題になる。
しかし一方で、各地で確実に増加しつつある限界集落の取り扱いや、地方都市の中心街空洞化といった問題。 そこに、少子高齢化や最近流行の「低炭素化」等の諸事象を絡めれば、極端な人口集約を前提とした荒唐無稽な都市再編の妄想の一つや二つ、思い浮かんでくることだってある。

ともあれ、傍らで語り合っていた人達のそばに置かれていた書籍が、表題の文庫本。 なるほど、会話の元ネタはこれかと思いつつ、少しページをめくってみる。
そこには、多くの海外の事例も含め、衰退の過程を辿るかつての拠点都市の実態が綴られている。 国内各地を訪ねるたびに実感する既存市街地の厳しい状況が、日本固有の現象ではなく、海外においても散見されることを知る。 その傾向を前向きに捉えた都市再編のアクションプランを果敢に遂行している都市や、旧態依然の拡大成長指向を基本とした施策に囚われている都市等、状況は様々であるようだ。
翻って、自分自身とそれなりに縁が有る幾つかの街について、思いをめぐらせて見る。 いずれも、縮退の進行状態にありながら、その不可避な現実への対処に関するヴィジョンは見えてこない。 車に依存する社会に迎合した、周縁への無秩序な拡散を助長する都市計画の継続。 その代償として生じた既存市街地空洞化に対するハコモノの建設投資。
相反する小手先の対処療法は、都市の破綻へ向かって物事を穏やかに進行させるのみ。 そんな現実について考えさせられるのが、この書籍だ。

ところで、読み進めてフと疑問に思ったのは、衰退する都市の事例ばかりが書かれていること。 その様な都市があるのならば、その受け皿としての新興都市(あるいは、エリア)があるのではないか。 その両方の実態や相関を検証してこそ、今後の都市の在りようが見えてくるのではないかという印象を持った。
しかし、そのことについては、あとがきで触れられている。 つまり、都市を「勝ち組」と「負け組」の二元論で捉えることを避けようという意図。 これは、なるほどと思った。

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