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2011.02.27:軍艦再出航
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※1:
第3スカイビル南側外観
※2:
屋上。
奥に、艦橋をイメージさせる塔屋。
左右の手摺壁のデザインに注意。
※3:
シェアハウスフロア内部廊下。
もともとの間取りも長い廊下に居室がフィッシュボーン状に配列されていたが、その構造をそのまま踏襲。
変則的な個室の連なりが、廊下形状を複雑にしている。
かつては戸境壁であった壁面にアクセントカラーをあしらい、空間にメリハリを与えている。
※4:
地下駐車場に設置された流し台。
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第3スカイビル・・・というよりも、軍艦マンションと表記した方が通りが良いのだろう。
竣工してから40年以上が経過する渡邊洋治設計によるそのマンションが、シェアハウス及びSOHOとしてリノベーションされることになった。
その内覧会が開催されると聞き、さっそく出向く。
内覧会は、軍艦マンション再出航イベントと銘打ち、スケルトン状態のオフィスフロアを使ったアート展示も同時開催される。
なかなかに異色の企画だ。
久々に観る軍艦マンション※1の外壁は、鈍い光沢を刺々しく放っていたかつての銀色塗装がグレーの吹付けタイルへと変り、「鉄のマンション」のイメージが薄らいだ。
少々印象が変ったその外観を通りの向いから暫し眺めた後、建物の前へ。
まだエントランス部分は改修中。
その脇の地下駐車場へのスロープを下り、地下に設けられたイベントの受付に歩を進める。
アート展示が行われているフロアと屋上の見学が可能と説明を受ける。
更にはシェアハウスフロアの内覧ツアーも時間を区切って行われるとのこと。
次のツアー開催時刻までには少々時間があるので、まずは屋上に向かう。
地上から遠望するに留まっていた独特なデザインの塔屋が目の前に迫る※2。
そして初めて知ったのだが、屋上周囲の手摺の内側にコルビュジエを髣髴とさせるデザインが施されている。
外部からの目視では決して視認し得ない箇所まで、手抜かり無くデザインするこだわりは、圧倒的な塔屋の形態と相まって、鬼気迫るものがある。
その後、アート展示フロアを一巡し、更にシェアハウスフロアの内覧ツアーに参加※3。
なるほど、実は軍艦マンションはSOHOやシェアハウスの運営に適した平面形態を為しているのだということに気づく。
この建物のその様な特質を活かしてリノベーションを実施しようと構想した事業者の着眼点は鋭い。
時代の要請に合せて用途を変えつつ有効に供用され、更には若いクリエイター達の表現の場としても活用される。
この建築がこの様な使われ方をすることを、果たして40年前に渡邊洋治が想像し得ただろうか。
設計者冥利に尽きることだと思う。
帰り際、受付のそばに設置されているタイル張りの流し台に目が留まる※4。
建物全体のイメージに抗わぬ形態に見えるのは、これも設計者が拘ってデザインしたからなのかもしれない。
写真を撮っていたら、受付の若い女性が近づいてきた。
曰く、「よろしければ、今回は非公開の凄い場所をお見せしましょうか?」。
流し台に興味を持った私であれば、その「凄い場所」の魅力も判るだろうと思って声をかけたのだろうか。
「えぇ、是非」とお願いしたところ、その流し台の脇にある無表情な鋼製扉を開けてくれた。
「何だ、ちょっと年季の入った○○じゃないか・・・」と思ったその視線を上に向けた途端・・・!!。
この建物は、少々謎めいた妖しい部分を有してこそ魅力があるというもの。
そんなこの建物への敬意を込めて、その視線の先に見たものについては心の中に留め置くことにさせて頂きます。
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2011.02.26:住宅メーカー私史07
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※1:
初期の頃のパルコン。
私が通いつめたモデルハウスとは異なる事例であるが、外観構成要素は概ね同じ。
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長岡市内のNST長岡ハウジングに建つモデルハウスに足繁く通っていたことは前回書いた。
しかし、それらよりももっと頻繁に足を運んでいた常設モデルハウスがあった。
それが、パルコン※1。
現在でも同じ名称で大成建設が販売しているコンクリート系のプレハブ住宅である。
NST長岡ハウジングではなく別の場所に単独で開設されていた。
場所は、美沢四丁目(当時の住所は、四郎丸)。
幹線道路から民家一件分奥まった敷地にあるために全く目立たなかったし、建てられていたモデルハウスも小振りなもの。
これで本当に営業をする気があるのかと思えるほど地味なモデルハウスであった。
にも関わらず頻繁に通ったのは、そこに常駐していた営業マンが、当時まだ小学生であった私に対して商売抜きでとても熱心に住宅のイロハを教えて下さったからである。
例えば、間取りを検討する上での通し柱という考え方。
壁式構造であれば、上下階の壁の位置は可能な限り一致させた方が構造上望ましいということ。
あるいは、屋内各箇所の平準的な広さや配置方法等々。
更には、自分で考えた間取り図を持参し、講評してもらうなんてこともやって頂いていた。
ということで、とてもお世話になった。
しかし申し訳ないことに、パルコン自体には全く関心も感心も持てないでいた。
外観についても、インテリアについても、そして間取りに対しても。
そのモデルハウスの間取りは今でもよく覚えている。
単純な田の字型の3LDK。
一階の南側に10畳のリビングと6畳のダイニング。そしてダイニングの北側の8畳大のスペースに水廻りが集約され、他に玄関や階段等。
二階には個室が三部屋。
そして8畳のルーフバルコニーを設置。
当時のパルコンの典型的なパターンであった。
住宅としての情緒とか、デザイン面での妙味とか、そういったものとは無縁という印象。
取り柄は堅牢性のみと言っては言い過ぎか。
しかし当時のコンクリート系プレハブ住宅は、一部を除けばほぼ同じようなイメージであった。
そんなパルコンが変わりだしたのはいつの頃からだったのだろう。
1984年あたり以降、ハウスメーカーへの興味を失っていた期間が長かったため、すっかり浦島状態。
20年近くのブランクを経て興味が復活してから再び観るようになったパルコンの洗練ぶりには、驚かされるばかりだ。
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2011.02.22:住宅メーカー私史06
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※1:
NST長岡ハウジングに建てられていたミサワホームOII型のモデルハウス。
左手は、セキスイハイム。
この写真は、この場で何度か掲載しているが、使い回しでまた載せてしまおう。
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1979年、当時住んでいた長岡市内にミサワホームOII型の常設モデルハウスがオープンした※1。
場所は、NST長岡ハウジングという住宅展示場内。
市内の幸町一丁目に新規開設された。
住宅展示場といっても、区画は三つ。
小規模なものである。
当初は、三つある区画の中央にOII型のみ建てられていた。
オープン告知の新聞広告を見て、いても立ってもいられず現地に赴いたのは言うまでもない。
来場者が多く、玄関先で少し並んで受付を済ませてから中に入った。
当然まわりは大人ばかり。
それらの入場者に混じって、小学生が独りで神妙に屋内を徘徊する姿は結構滑稽であったかも知れぬ。
あこがれていたO型の内観を体感した時の感動は・・・、実はあまり記憶にない。
緊張していたのかも知れぬ。
しかし、観るもの全てが斬新で、洗練されていて、「こんな住宅もあるのか」と、当時の自分の住まいと比較してただただ驚いていた様に思う。
後日、モデルハウスに行ったことを親に咎められることとなった。
受付で記名を求められて何も考えずに記入した電話番号を元に、営業の電話が幾度か家に掛かってきたのだ。
「子供が行くところじゃありません」とか何とか言われてしまった。
その後、OII型の南側の区画に積水ハウスの「グルニエのある家」がオープン。
そして暫く間をおいて、北側の区画に積水化学工業のセキスイハイムM3-SR型がオープンした。
「グルニエのある家」については、あまり印象が残っていない。
隣に建つOII型に比べると、個性という面では極々普通のモデルであった。
もう一方のセキスイハイムの方は、住宅としての潤いがいまひとつという雰囲気で、あまり良い印象はもてなかった。
ということで、三つのモデルルームの中でも一番足繁く通ったのが、やはりOII型。
購買意欲など全く無いのに、頻繁に訪ねてはその都度細かい質問をし、更にはパンフレットを次々と持ち帰る小学生に、当時の常駐員達はさぞかし迷惑したことであろう。
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2011.02.17:住宅メーカー私史05
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※1:
初めて観たミサワホームO型。
撮影時期は不明だが、長岡在住中に撮ったもの。
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積水ハウスのオープンハウスを観たのと同じ年の秋頃。
家から少し離れた場所を自転車で走行中、その住宅を見つけた。
「O型だ!!」
北側からのアクセスであったから、見えるのは広告に掲載されているのとは異なる北面のファサード。
しかし、越屋根が載る寄棟屋根や、全ての面を同等の密度でデザインする設計思想によって構成された南側と同質のデザインから、即座にO型と判断することが出来た。
初めて観る実物に心がときめく。
道路に面した玄関側の立面を通り越して、南側ファサードが視界に入った際、「オヤッ」と思う。
広告で見るそれと微妙に異なり、窓の数が多い※1。
通常は上下階に二列の筈が、三列。
しかもその設置間隔も狭い。
「何だ、これは? O型、ダヨネ・・・。」
大いに戸惑った。
突然変異の異形なものを観たような、そんな第一印象であった。
この変異体の真相は、翌年オープンしたOII型のモデルハウスを訪ねる機会を得るまで待つことになる。
そこで貰ったカタログにて、O型のプランバリエーションとして、窓が三列並ぶタイプがあることを知ったのだ。
広告の外観写真やモデルハウスとして建てられた標準的なタイプよりもひとまわり大きな仕様。
それが、私が初めて観たO型であったのだ。
型式でいうと、O-48-2Eタイプである。
最近長岡を訪ねた際、この家の現況を確認しようと近場に寄ってみた。
さすがに30年も経過していると、周囲には家が建て込んで様子は変わっていた。
けれども、このO型は旧態を良く留めて現存していた。
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2011.02.14:住宅メーカー私史04
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オープンハウスという言葉が使われるようになったのは、いつ頃のことからであろう。
昭和50年代にはこの言葉は一般的ではなかったと思う。
「現場見学会」という表現が普通であったろうか。
完成間近の家をオーナーの了解をとって数日間公開するというイベント。
いわば、期間限定のモデルハウスである。
私が初めて訪ねたオープンハウスは、長岡市内の悠久町に完成しつつあった積水ハウスであった。
1978年の夏頃であった様に記憶している。
同社は自由設計が基本なので、どのモデル形式という訳でもなかったが、屋根形状は寄棟。
そして上部が半円アーチのアルミサッシが二階に取り付けられた外観が印象に残っている。
間取りについては一切覚えていないが、玄関先には同社のパンフレットが幾つか置かれていた。
家に持ち帰って内容を見てみると、そこには「寄棟屋根の家」とか「陸屋根の家」、「切妻屋根の家」といったように、掲載している住宅の特徴を屋根形状で表していた。
このとき初めて、屋根の形にも色々な種類があり、それぞれに名前があるということを知った様に思う。
2008年の夏、久々にこの家の存在を確かめにかつての記憶を頼って近傍に赴いてみた。
嬉しいことに、現存していた。
しかも、竣工時の雰囲気を良く維持している。
築三十年というのは、日本の住宅事情においては結構寿命が長いことになろう。
長岡市内に、かつての私の空間体験が残る建物というのは、極めて少ない。
そんな中の僅かな事例として、今後も末永く大切に住み継がれてほしいものだと思うが、全く見知らぬ方の所有物。
今後どうなるかは、勿論定かではない。
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2011.02.10:小国−入広瀬
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※1:
路線バスの車窓から撮った目的地途上の神社。
通常よりもやや急勾配な屋根のプロポーションは、ここが豪雪地であることを物語る。
形からすると、かつては茅葺であったのだろう。
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1月22日に、建築探訪のページに入広瀬会館を載せた。
新潟県魚沼市穴沢に立地するこの建物。
車でアクセスすれば造作も無いのだろう。
しかし、何度も書いているように私は完璧なペーパードライバー。
東京から訪ねるためには、まず上越新幹線で浦佐に行き、在来線に乗り換えて小出に行く。
そしてそこからは日に数本の路線バスに40分ほど揺られて現地に至ることになる。
小出から只見線を利用するという手もあるが、運行ダイヤは路線バス以上に心許ない。
小出駅は、小学生の頃に幾度か小出スキー場を訪ねた際に利用している。
とはいっても、スキー道具を担いで駅とスキー場の間を往復したことを微かに覚えている程度で、当時の町並みの記憶は全く無い。
で、入広瀬会館を観に行く際に、電車からバスへの乗り換えの待ち時間を利用して、小出市内を少し散策することにした。
この町の中心街は、駅の裏手を流れる信濃川の支流のひとつ、魚野川の対岸に形成されていることを初めて知る。
駅とスキー場を往復しただけの私にとって、そちらのエリアを訪ねるのは初めてのこと。
閑散とした休日の昼下がりの街並みをそぞろ歩きした。
二階か三階建ての店舗併設民家が軒を連ねる商店街の歩道は、恐らくは昭和半ばに再整備されたのであろうアーケードが設けられている。
写真1:
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写真2:
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近年補修されたのだろうか。
緑青色に統一された柱と幕板部分の塗装が、群景に個性を添えている(写真1)。
恐らくかつては木造の雁木と妻入り切妻屋根の民家がセットになった景観が形成されていたのだろう。
そんな町並みが残っている頃にこの街を訪ねてみたかったなと思いつつ、しかし、その様な景観が維持されていたのは、恐らく、私が町並みに興味を持ち始める遥か以前のことであったのだろう。
今は、所々に散在する以前の景観の名残を手掛かりに、かつての町並みを想像するしかない。
しかし、そんな「名残」の中にも、面白い意匠が散見される。
例えば、写真2。
二階の窓廻りの意匠に特徴がある。
30分ほど市内を散策した後、路線バスに乗り込み、入広瀬へと向かう。
車窓からも、興味深い風景が散見される※1。
バスの便数が少ないため、途中下車してそれらを確認する訳にもいかず、一瞬の風景を記憶に焼き付けるべく必死に凝視するのがせいぜい。
こんな時に、自分で車を運転していれば・・・と思うのだけれども、その場合は脇見運転だらけになってしまうことだろう。
危険この上ない。
やはり公共交通に身を委ねるしかないのだ。
ということで、入広瀬に到着。
目的の入広瀬会館を観る。
長い道程を経て訪ねる価値が十分ある建物であった。
惜しむらくは、天候が今ひとつであったこと。
但し、ディテールを写真に納めるには、陰影が出ない薄曇りの天候の方が都合が良い。
帰路のバスが来るまでの限られた時間、極上の建築を堪能した。
ところで、建築探訪のページに載せた写真のうち、備考欄に載せた入広瀬小学校のみが晴天の下での撮影写真を用いている。
日を改めて、再度現地を訪ねたのだ。
やはり晴天時の風貌も堪能してみたいし、そのために再訪したいという気にさせる建築でもあった。
ということで、晴天時に撮影した写真をこの場に載せておく。
写真3:
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写真4:
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2011.02.04:住宅メーカー私史03
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※1:
G型に設置されていたコントロールタワーの一部。
<出典:ミサワホーム>
※2:
ハウジング情報の創刊号
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TVCMの話を再度。
JNNニュースコープに引き続き、ミサワホームは、「FNNニュースレポート6:00」にもスポンサーとして参画するようになった。
当時のキャスターは、故山川千秋。
その当時の同社のCMで覚えているのは、ミサワホームG型単独のものと、当時の他の主力規格(企画)商品を紹介するもの。
ミサワホームG型の発表時期と、担当が山川千秋であったことを鑑みると、1979年頃のことになる。
ミサワホームG型の方は、このモデルの最大の見せ場である豪放な吹抜けを伴うウェルカムホール的な空間で、熟年夫婦が仲睦まじく社交ダンスに興じているシーンがあった。
当時の同社の最高級モデルであっただけに、ハイソなイメージの喧伝に注力したのであろう。
また、そのホールの傍らに設置された「コントロールタワー※1」と称する設備も映し出された。
十数種類のボタンで構成されたそのコントロールタワーの一つのボタンを押すと、窓に設置された電動シャッターが降り始める。
当時流行っていた「ホームオートメーション」の集大成としてのモデルであることも強調されたCMであった。
これらのCMを見ることが楽しみで、FNNニュースレポート6:00を視聴していた時期があった。
時系列が狂うことになるが、山川千秋つながりで、1984年に話を飛ばす。
この年の4月に、リクルート出版(現、リクルート)の「ハウジング情報」という季刊誌が創刊した。
この雑誌、現在でも「月刊ハウジング」という名前で形を変えながら出版され続けている。
私は、その創刊号を今でも所持している。
以降、第二号にあたる1984年夏号と、その次の秋号までは購入した記憶がある。
その後は買っていない。
買わなくなった理由は、また別の機会に述べることになる。
その夏号も秋号も今は手元に無い。
奇跡的に、そしてボロボロになりながらも、創刊号のみが残っている※2。
値段は400円。
その安さとは裏腹に、殆どがカラーページで内容も充実していた。
各住宅メーカーの当時最新鋭の商品群を体系的かつ大量に紹介しているだけではなく、住宅に関わる様々な特集が組まれており、それらの内容でこのお値段は、当時の私としてはとてもありがたいことであった。
掲載されていた特集の一つに、著名人のお宅を拝見するというものがあり、そこで山川千秋邸も紹介されている。
内外観写真はもとより、間取りまで載せられているというのは、個人情報に対する概念が大らかであった当時ならではのことであろう。
その辺りがすっかり神経質になってしまった昨今のご時世においては、その内容を仔細に書き連ねるわけには行かぬ。
しかし、山川氏が自宅として2×4工法を選択した理由や、間取りの考え方等、興味深いことが記述されている。
本来、住宅関連の雑誌というのは、こういった読み物があってこそ楽しいと思うのだが、最近の出版物の場合はどうなのだろう。
この手の書籍は最近はあまり、というか全然読まないので、その辺りのことは良く分からない。
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2011.02.01:住宅メーカー私史02
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※1:
O型の広告に載せられたイメージ断面図。
中央に屹立する大黒柱。その上部のロフトは越屋根を載冠。
正確な断面図ではないが、同モデルの特徴的が巧く表現されている。
<出典:ミサワホーム>
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ミサワホームO型のCMがきっかけで興味を持って以降、住宅に関する情報源は新聞広告とTVCMであった。
当時の新聞広告で印象に残っているのは、日本電建のものとミサワホーム。
日本電建では、建築事例を詳細に紹介する広告を掲載している時期があった。
「○○市の○○様のお住まい」などというタイトルで、同社が手掛けた最新事例の外観と平面図を掲載。
そしてその内外観の特徴の説明や、住み心地に関する施主の感想等をルポルタージュ風に載せていた。
そのこと自体は、当時の広告形式としては、さほど珍しいことではなかったかもしれない。
にも関わらず、日本電建のものが特に印象に残ったのは、取り上げる建築事例を毎回変えてシリーズ化していたためである。
「なるほど住宅というのはこういったことを考えて造るのか」等々、子供心ながらに毎回いろいろと勉強になったように記憶している。
それに、個人情報保護がやたらと厳しい昨今では、この様な新聞広告はあまりあり得ぬかもしれぬ。
むしろ、現実性を欠いた過度に豪華なモデルハウス仕様のモノを載せ、住まい造りの夢をくすぐる類のものが殆どではないか。
果たして、それが適正な広告といえるのか。
そういった類の広告に接するに付け、かつての日本電建の広告は良心的であったように思う。
たとえそれが見栄えのする高額な事例に特化していたとしてもだ。
ミサワホームの広告は、イメージ断面図を載せるパターンが多かった。
紹介する企画住宅の特徴的な部位を組み合わせて、断面図として表現する。
だから、必ずしも正確な断面図という訳ではない。
それ故に、“イメージ”断面図なのだ。
内観のハイライトを組み合わせて一つの建物として表現し、実際にはあり得ないその断面の中に、住人が様々な形で佇む。
読者に商品を印象付けるということと、特徴を簡潔にアピールするという意味では、効果的な手法だと思う。
O型の場合、地下室(オプション)から二階上部のロフトまでを貫く大黒柱を中央に据え、その周囲に様々な部屋での生活シーンが描写されていた※1。
A型二階建ての場合は、二階に設けられた浴室が、隣接する玄関上部吹抜けのトップライトを介して外部への眺望が確保されている様が象徴的に表現されていた。
また、同社の広告には、必ず決まり文句がヘッダーに記載されていた。
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“20年、30年先、考えてますか − ミサワホームは21世紀を捉えた!!” |
そのキャッチコピーそのままに、紹介される当時の企画住宅は、確かに近い将来の住まいの在りようを見据えた具体的な提案が明快に空間化されていた。
そしてそのことが、ミサワホームへの興味を徐々に深める要因となった。
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2011.01.29:空家問題_2
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年末年始に北海道の実家に帰省していた時のこと。
とある中古マンションの新聞折込チラシに目が留まった。
築18年。
床面積73平米の3LDK。
載せられている外観写真からは、管理状態は悪くはなさそう。
間取りも特に古さを感じさせない普通のもの。
(これはつまり、マンションのプランがここ20年来殆ど進化していないということでもあるな。)
掲載されている写真を見る限りにおいては、内外観の表装に特に陳旧化は認められぬ。
それで分譲価格が600万円。
ちょっと高級な車を買うのと大して変わらぬ値段に驚く。
以前から同じマンション内の他の住戸が中古で出回ることが時折あって、徐々に値が下がっているなとは思っていた。
しかし、ここまで落ち込むとは思わなかった。
ネックは、最寄り駅からバス便という立地条件であろうか。
マンションの価値判断基準は俗に「3P」と呼ばれている。
つまり、Price=価格、Place=立地、Plan=計画。
あるいは、一に立地、二に価格、三四が無くて、五にプラン、などと言われたりもする。
立地条件が購入判断基準に及ぼす影響は大きい。
18年前の竣工となると、バブルが崩壊して間もない頃のマンションである。
事業企画段階では、まだバブル真っ盛りであったかも知れぬ。
信じらぬ地価高騰のあおりで、本来マンション用地にはふさわしくない郊外の土地が、なりふりかまわず取得された。
3Pとは関係なく、建てれば売れる。
そんな時代でもあった。
だから、立地的に不利でも、新築時の販売価格はそれなりのものであったことだろう。
しかし状況は大きく変わった。
このマンションに居住されている方々が広告を見てどのような気持ちになるか思うと、いたたまれなくなる。
少々郊外に立地する中古マンションに関してネットで検索を掛けると、似たような事例は簡単に見つかる。
果たして、それらの物件は提示価格通りに売れるのだろうか。
売れたら売れたで、キャピタルロスは計り知れぬ。
また、売れずにどんどん販売価格が下がったら、それも恐ろしいことだ。
売るに売れない、あるいは売り出しても売れない。
そんな状況も、"迷惑空家"が増加する要因となるのかもしれない。
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2011.01.24:空家問題
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※1:
外出先で見かけた、積水化学工業のセキスイハイムMRの空家。
(MRは、同社の最初期商品であるM1の後継モデル。1978年発売。)
空家というよりも、既に廃墟の様相。庭木(自然発芽かもしれない)も伸び放題。
撮影したのは四年ほど前であるが、この家が立地する市内に住む知人によると、最近になってようやく除却されたとのこと。
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週末になると、おびただしい量の不動産広告が新聞に折り込まれてくる。
新築の戸建住宅やマンションはもちろん、リフォームが施され新築と遜色の無い築浅中古物件等が華々しく紹介されたチラシの数々。
仕事柄、一応目は通す。
しかしそれらを見ながら、いつも思うことがある。
これだけ大量の不動産が市場に出回り、そして売れるとして、そこに入居する人達が今まで住んでいた家はどうなるのだろう。
人口減少時代などといわれながらも、まだ世帯数は増加傾向にある。
だから新規需要はあるとしても、一方で国内の住宅総戸数が世帯数を上回って既に久しい。
市場は飽和状態だ。
そんな大量供給の裏側にあるのが、空家の増加である。
NHKの番組「追跡!A to Z」が1月22日に取り上げた迷惑空き家*竭閧ナは、その実態の一端が先鋭に示された。
私が、昭和50年代のハウスメーカーの住宅を見て廻ることを趣味の一つにしていることは、この場で幾度も書いている。
これにはコツがある。
図書館に保管されている当時の新聞に掲載されている不動産関連の広告を探すのだ。
ポイントとなるのは、ある程度規模の大きい住宅造成地。
チェックしたそれらの造成団地を巡ると、目的とする対象に出会える確率が高い。
そして、分譲されてから既に30年近くが経つそれらの場所を巡る際に時折目につくのが、この空家≠ナある※1。
古民家という訳ではない。
当時の住宅雑誌にて華々しく広告展開されていたハウスメーカーの住宅が、放置され荒れるに任せている状況。
冒頭に書いた週末の不動産チラシと、これらの廃屋の光景が、私の頭の中で妙な因果関係として組み合わさる。
趣味の対象が昭和40年代に広がった近年においては、そういった場面に出会う確率は、更に高まった。
業界も手をこまねいている訳ではない。
「優良ストック住宅推進協議会」等、ストック市場の充実に向けた動きもある。
しかし、不良なものも含めたストックの増大は、その動きよりも遥かに速く、業界だけで対応出来ることではない。
社会の仕組みそのものの問題でもある。
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2011.01.22:非在の強度
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知人のブログに「長岡駅 城のない城下町」というタイトルの書き込みがあった。
元ネタは、1月19日付け読売新聞の文化欄とのこと。
気がつかなかったので改めて新聞を開いてみると、確かにその記事が掲載されている。
普段、いかに新聞をキチンと読んでいないかということを思い知らされる。
それにしても、堀や土塁もろとも痕跡が無い城下町というのは、確かに珍しいのかもしれない。
今は、かろうじて市内各所の地名にその面影を残すのみ。
そして城の本丸があった場所には、現在JR長岡駅が建っている。
記事の最後に、市内に建つ施設、河井継之助記念館の館長のコメントが載せられている。
曰く、「城のない城下町は、今を一生懸命生きる長岡人の誇りです。」
美しい言葉であるようにも読み取れるが、しかし元長岡市民としては何だか実感が沸かぬ言葉でもある。
二度の戦禍で徹底的に破壊されつくした市内を、そのたびに一生懸命復興させてきた歴史的背景を含んだ意味なのだろうか。
在るべき筈の歴史的事物、あるいはその痕跡の非在。
しかしながら、近世以降、その場所は用途を変えながらも市域における中心的位置づけを担い続けている。
つまり、政治の要所である城郭から、交通の要所である駅施設への変移。
目に見えぬコンテクストが、そこに確実に継続している。
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2011.01.19:住宅メーカー私史01
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※1:
環境実験室
<出典:ミサワホーム>
※2:
TVCMの場面は、これに似たアングルであった。
中央に大黒柱が屹立。
構造的な機能は無く、配管・配線スペースとして活用。
もっとも、それ以上に意匠的な意味合いが強い。
<出典:ミサワホーム>
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1月10日に書いた通り、ハウスメーカーに関する私的な備忘録を考えてみた。
プロットを並べてみるとそれなりにネタが出て来るものだ。
このサイトでは、住宅メーカーの住宅というページで、昭和50年代にハウスメーカーから発表されていたモデルを幾つか掲載している。
当時、リアルタイムでそれらに熱狂していたことも、このサイトの所々で述べている通り。
ということで、どんな風にハマッていたのか、徒然に少し書き散らしてみたいと思う。
住宅メーカーの存在を知ったのは、小学生の頃。
1976年から77年頃にかけて放映されていたミサワホームのTVCMがきっかけである。
確か、JNNニュースコープというTBS(当時住んでいた長岡市ではBSN)の夕方の報道番組で、同社の二種類のCMが流されていた。
一つは、同社の総合研究所内に設けられた「環境実験室※1」の映像をメインとした構成のもの。
この実験室は、様々な気象条件を再現できる巨大な施設である。
そこで、実際に同社のモデル住宅に雨や風や雪、そして熱射等をあてる試験を実施している映像を流しながら、短いナレーションが添えられた。
記憶が曖昧であるが、そのナレーションは、
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南北に長く、様々な気候風土を持つ日本。そこにふさわしい住まいを創る。それが私たちの仕事です。
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といった内容であったと思う。
「技術のミサワ」をアピールすることに特化した内容のCM。
もう一つが、ミサワホームO型のCMであった。
最初に軽い金管楽器系のファンファーレが流れ、同時に外観の線画パースを描写。そしてそのパース画が、実際の外観写真に変換される。
その後、G線上のアリア風のゆったりとした旋律のBGMに乗りながら、室内各所の映像が流れる。
最後に、玄関から家族が和やかに出てくる様子が映し出されて、再度外観全体を表示。
そんな構成のCMであった。
その短い映像の中に映し出されたワンシーンにいたく感銘を受けた。
二階から吹抜けを介して階段や一階の玄関部分を俯瞰する映像。
その中心に、同モデルの特徴となっている大黒柱が堂々と貫く※1。
今でもそのシーンだけは鮮明に覚えている。
そしてその場面は、紛れも無く私が建築に興味を持ち、今日それを生業とするきっかけになるものでもあった。
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2011.01.15:【書籍】新建築2011年1月号
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新建築誌の2011年1月号の感想を以下に。
【建築論壇】自由な建築
石上純也
随分と深遠なタイトルだなと思いつつ読み進める。
文中に「僕たち」という語句がやたらと散見される。
「僕たち」「僕たち」「僕たち」・・・。
いったい「僕たち」って何だよ!。
どこの仲良しクラブだよ!などと虫唾が走りつつも我慢して読み続けたのは、こんな深遠なタイトルをフっかけて、このヒトはそれをどのようにまとめるつもりなのか興味が沸いたため。
ほどなく、コルビュジエの近代建築の五原則よろしく、自由な建築五原則が掲げられる。
「〜から自由であること」という体裁で書かれた五項目。
しかし、この「自由であること」ほど困難なことは無い。
その難しい各項目について仔細に解説を展開しているが、何だかよく判らない。
まぁ、私は読解力が無いので。
豊島美術館
設計:西沢立衛建築設計事務所
建築論壇のあとに続いて、この作品が掲載されている。
これを観て、石上純也の掲げた自由な建築五原則の意味の一部が少しだけイメージ出来たような気がした。
そう、この作品は、果たして「建築」と呼びならわして良いものか、少々判断に躊躇してしまうほど、限りなくオブジェである。
これには、先の五原則のうちの幾つかが当てはまるのかもしれない。
それにしてもこの内部空間。
晴天の日は良いとして、雨天の日はどうなるのだろう。
大量の水が撥水性の高い床を流れる様を見てみたい気もする。
台中メトロポリタン・オペラハウス
設計:伊東豊雄建築設計事務所
工法策定のためのモックアップ試施工状況報告。
こういったことが竣工作品と同列に扱われるのは大切なことだと思う。
しかしこの建築、本当に実現するのだな。
凄いことだと思う。
これも、五項目のうちの幾つかを満たしそう。
とはいえ、さすがは大御所。
五項目の一つに掲げられている「機能」に関しては、決して既存の枠組みを逸脱することは無い。
その部分で「建築」としてのバランスをしっかりと保っている。
三里屯SOHO
設計:隈研吾建築都市設計事務所
84ページから85ページの見開きで掲載されている全景写真には、一瞬めまいを覚えた。
十八番のルーバー転じてストライプで構成された超高層ビル群。
その表層が派手なのは、お国柄に対応したものか。
しかし、共通のデザインコードでこれだけ巨大で高密度な群形を徹頭徹尾デザインできるというのは、日本ではなかなか望めぬこと。
かつて、森ビルが上海にて手掛けた超高層ビル「上海環球金融中心」の頂部に穿たれた巨大な開口が、日の丸を連想させるという理由で、急遽丸から四角に変更させられた経緯があった。
今回のプロジェクトも、白っぽい超高層ビル群の中央に赤色の超高層。
これも日の丸みたいだなんて言われなかったのだろうか。
ツルの一声でデザインが大幅に変更されるのが常という印象の同国。
そこで、これだけのプロジェクトを遂行するのは、大変なことだったのではないかと思う。
録museum
設計:中村拓志/NAP建築設計事務所
今回の掲載作品の中では、一番訪ねてみたいという気になった建築。
というのも、連続的に変化する天井高による構成が、内部空間にどんな印象をもたらしているのか興味を持ったから。
移植する樹木の形を手掛かりに建物の形状を決定するというプロセスによって生じたこの天井高さの変化は、屋内用途とは抗っていない。
恐らくは、これくらいの天井高のメリハリが、逆に落ち着いた空間を醸し出しているのだろう。
ところで、137ページのエントランス廻りの写真。
天井が低い箇所を身をかがめて通過する人物が写っているけれども、壁に手をついている。
これは無意識の動作であろう。
ここを通過する人の多くは、同様の行動をとるのではないか。
となると、この近辺の壁面は汚れやすいということになる。
清掃に関し、建物管理者は要注意ですな。
浜松サーラ
設計:青木茂建築工房
耐震補強を含めたリノベーション事例。
今後は、こういった事例の紹介が増えるのではないか。
あるいは増やすべく、建築市場全体が動いていく必要があろう。
そしてその時、そういった作品をどのように紹介するか。
既存建築物という制約の活かし方みたいなところを巧く伝える等、新築作品の伝え方とは別の手法が必要になろう。
しかし今回の事例については、その辺りが巧くまとめられた紙面になっているとは思えない。
巻末の小特集「ストックを活かすディテール」も然り。
こんなことを考えると、朝日放送の「大改造!!劇的ビフォーアフター」って、内容はともかく構成は実によく出来ているのだな、などと気付く。
【対談】建築の本質へ 閉鎖形からの脱却
川口衞×内藤廣
こちらも、冒頭の建築論壇に負けず、大上段なタイトル。
しかしその内容は判りやすく、しっくりと腑に落ちる。
終盤で内藤廣が「これからの建築を語る具体的なキーワード」として掲げた三項目は、石上純也の五項目よりもずっと納得できる。
しかしキーワードとしてはむしろ、氏が新建築2000年11月臨時増刊号「20世紀の技術と21世紀の建築 node」にて提言している「スーパー・リージョナリズム」の方が、重要になってるようにも思う。
その文章の中で氏が述べていることは、最近やたらとクローズアップされている「環境」へと繋がっている。
そしてそれが「デザインの主戦場になるのではないか」とするこの時の将来に向けた展望は、慧眼というしか無い。
月評
そんな内藤廣が今年の月評の担当の一人になった。
面白い。そして実に的確に批評がなされている。
今年の新建築は、この人の月評が読めるというだけで、とても楽しみだ。
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2011.01.10:パソコン私史
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知人のブログにて、長い期間にわたって「パソコン狂時代」という連載が組まれていた。
有り体に言えば、パソコンに関する一大私史ということになろうか。
私がパソコンを使うようになったのは、社会人になってからのこと。
だから、黎明期にまで遡って仔細にまとめられたその連載の内容は、初めて知ることばかり。
でも、その中に登場したPC-6001は、長岡に住んでいた頃、自宅に有った。
居間のテレビの前に置かれていたが、私はあまり触ったことは無い。
それでも3系統の矩形波音源で奇妙な音楽(というよりは音階)を作って演奏させてみたり、あるいは、PC-6001版ゼビウスで遊ぶくらいのことはしていた。
学生の頃、選択講義であった情報処理を受講し、実際にプログラム作りを行ったこともある。
用いられていたプログラム言語が何であったのかは既に忘却の彼方ではあるが、画面上に連続的に変化する図像を表示させるプログラムを四苦八苦しながら組み立てた記憶がある。
ようやくモニタ上で思い通りに動く図像が表示されても、「だから何なんだ」という感覚で、コンピュータは全く良くわからぬ代物でしかなかった。
しかし、講義の出欠席の管理がコンピュータであったり、あるいは課題で作ったプログラムをフロッピー(5インチだったと思う)に保存して提出するというスタイルが、新鮮であった。
会社に就職して初めて、実際にコンピュータを使うようになった。
IBM製のものであったが、会社独自の自動積算ソフトがインストールされていて、それ専用のマシンであった。
その後、MICRO CADAM (マイクロ キャダム)というCADソフトを使うようになり、コンピュータを日常的に使うようになる。
これにはなぜか嵌った。
共用機だったので、専用のブースに置かれていたが、殆ど私が独り占めしていた。
手描きで図面を書くことがバカらしくなり、所属部署内で一番最初に自分の席からドラフターを撤去したのは、他でもない、私であった。
まだ、ドラフターで手描きが一般的な時代であったから、そのブースに近寄る人も少なかったので、それを良いことに仕事そっちのけで、私的に応募するコンペ用の図面を描いていたなんてこともあった。
今にして思えば、とっても平和な時代。
そして、個人で初めて所有したパソコンがPC-9801 NX/Cであることは、この場に以前も書いた。
会社の仕事を家に持ち帰ってJW_CADというCADソフトを使って作図を行ったり、あるいはニフティサーブ(現、@Nifty)の通信用に用いていた。
更には、かのDOSゲームの傑作、Super Depth 2 "Finalty"は、このマシンにインストールして随分と遊んだな。
それから今に至るまで、自宅のパソコンは何度か買い換えているが、本体のスペックとかOSには全く興味なし。
調子が悪くなるまで使い、壊れたら安物を通販で買い求めるという無頓着さのまま推移している。
さて、そんな私にパソコン私史は書けないが、ハウスメーカーに関することは色々と書けるかもしれない。
と言っても、書ける対象は昭和50年代に偏重することになる。
しかしここは私設サイトの雑記帳。
とりあえずは何でもありということで、ハウスメーカーの住宅との個人的な関わりについて、何か書けないか少し考えてみようと思う。
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2011.01.06:年賀状
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今年お送りした私の年賀状は、少々異様であったかも知れぬ。
元ネタは、右の画像。
某メーカーの工場内で撮影したもの。
製造工程に用いる機械のパーツを製作するための部材である。
累々たるその部材の集積は、あたかも一つの都市の如き様相。
その迫力に、思わずカメラを向けた。
そのままでは年賀状の素材としては地味なので、軽くコラージュしつつ、昨年長岡市で初めて打ち上げられた桜色の正三尺玉にあやかって、それらしきに色に補正してみたのだが、改めて見てみると、やはり少し不気味だったかななどと思う。
しかし、毎年おおよそ干支とか新年のめでたさとか、そういったことと無縁の年賀状ばかりをお送りしてしまっているから、いつも通りということにしておこう。
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2011.01.03:北の国から2011
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年末年始は、北海道の実家に滞在。
ものの見事に何もせずにゆっくりとした日々を送る。
隅々までヌクヌクと暖かい家の中で、ひたすらダラダラと過ごした。
で、時折外出して近場を散策。
少し歩くだけで、右の画像の様な風景を堪能出来ることが嬉しい。
久々に踏みしめる雪の感触に、北の大地を実感する。
気温は、氷点下。
しかし、寒さは特に苦にはならない。
むしろ関東の寒さの方が、よっぽど堪えるような気がする。
寒さの質が明らかに異なる様だ。
うまく表現出来ないが、関東のそれは骨身にしみる寒さだけれども、北海道の場合は透徹な冷たさといったところか。
今年の年末年始は天候が大荒れとなった地域もあった様だが、実家周辺は穏やかな日々が続いた。
近所のスーパーで脂身の少ないラム肉が手に入ったので、正月の夜は久々に家の中でジンギスカン。
北海道は、安くて質の良いラム肉が手軽に買えるので、嬉しくなる。
あらかじめタレに漬け込んだ肉を焼くか、それとも焼いてからタレを付けて食べるか。
その嗜好に関するエリアの分岐ラインが岩見沢であると、知人がツイッターで述べていたが、実際のところどうなのだろう。
私の場合は、後者。
但し、市販のタレで満足がいくものがなかなか無い。
そういった場合、八丁味噌を少々加えることにしている。
結構、コクが出て良い。
そしてタレに飽きると、別途ヨーグルトソースを作る。
作るといっても、そんなに手間ではない。
水気を良く切ったヨーグルトに塩と胡椒を適量混ぜるだけ。
好みで、すりおろしたニンニクを入れてもよし。
本当は、そのヨーグルトソースに半日くらい漬け込んだラム肉をソースごと焼いて食べるのが、父が仕事でモンゴルの奥地に行った際、現地の人に教わった正しい食べ方。
でも、焼いたラム肉にソースを絡めて食べるのも、なかなか良い。
こういった食べ方をする人は少ないかもしれないけれど、なかなか美味しいのでお試しあれ。
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