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2010.08.28:住宅地図逍遥
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国立国会図書館に行く。
目的は、昔の長岡市の住宅地図の閲覧。
かつての長岡駅前周辺の状況を知りたくて赴いた。
住宅地図というのは面白いものである。
地図上に、そこに表示されたエリア全ての建物の名称や居住者名、テナント名がびっしり記載されている。
あらかじめウェブ上で検索し、長岡市に関する一番古いものとして、1971年発行の住宅地図が所蔵されていることを確認。
これの閲覧を目的に、同図書館に出向いた。
毎度の事ながら、全ての書籍が館内閲覧を原則としている国立図書館での調べ物は、非常に疲れる。
知りたいという欲求を、開館時間内という限られた間に満たそうとするために、ついつい根を詰めてしまう。
しかしその甲斐あって、成果はあった。
例えば、えり芳ビルが1971年時点にも存在していたことを知ることができた。
既に他の郷土資料等で、1975年当時には建っていたことを把握していたが、更に4年分遡れたことになる。
そして、当時同ビルに入っていたテナントも確認できた。
同図書館には、1971年版の他、過去のものとして1975年版と1982年版が所蔵されているが、それらを比較してテナントの入れ替わりを確認するのも、なかなか面白い。
住宅地図の愉しみ方はそれだけに留まらない。
掲載されている広告も面白い。
例えば、1971年版には、ナショナル住宅(現、パナホーム)の広告が出ている。
同社が豪雪地帯向けの商品を昭和40年代半ばには既に出していたことが、この広告によって判った。
あるいは、1975年判には、丸専デパートの広告が載っている。
そこには同デパートの外観パースが掲載されているが、そのパースからは、近年取り壊される時点とは異なるファサードデザインであったことを確認することが出来る。
ちなみに、1971年版の長岡市街中心部のエリアのページには、丸専デパートの西側半分に「建」の表示が記されている。
建設中ということだろう。
開店当初の丸専デパートは、解体直前の頃の間口の東側半分程度の幅であった。
そしてその西隣には商工会議所が建っていたことは、長岡市史通史編下巻にて把握していた。
商工会議所の移転に伴い、その西側の敷地に増築したのが昭和45年と市史には載っていたが、住宅地図上の情報は、この記述と合致する。
こういった情報に触れるにつけ、住宅地図は、第一級の極めて貴重な郷土資料だとつくづく思う。
土地勘のあるエリアの昔の住宅地図を紐解き、かつての記憶と摺り合わせつつその図面の中を逍遥してみるのも、なかなか面白いことなのではないか。
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2010.08.25:ブロック塀_2
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※1:
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通りすがりに何気なく興味を持ったコンクリートブロック。
後日ネットで調べてみるとやはりいろいろな情報がある。
透かしブロックなどは、事例写真のコレクターの方もいらっしゃる。
そこで紹介されている種類とデザインの豊穣さには驚いた。
ただ、それぞれの形状の名称はどうなのか。
その点まで体系的に言及した情報に辿りつくまでには至っていない。
例えば写真1※1については、サイトによって呼称は様々である。
「日の出」、「三山」、「松」。
しかし、まちまちなそれらの名称を見ても、日本的風情がものの見事に単純な形象に置換されていることが判る。
奥が深い。
それと、この透かしブロックの配置方法。
構造的に好ましくない並べ方は規定されている。
しかしそういった技術的なことだけではつまらない。
ブロックを積む際に、職人がどんな意図で透かしブロックを配置したのか。
事例によっては、構造的禁止事項を破って配置されている例も散見される。
禁忌を犯してまでその配置に拘った意図は何か。
その配置にどんな見立てを構想していたのか・・・。
あまり深い考えは無いのかも知れぬ。
しかしそれでは面白くない。
その辺について勝手に想いを巡らしてみるのも、佇まいの鑑賞方法の一つに十分なり得よう。
写真2:
歩行者専用道路に向けて並ぶ「眼差し」。
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写真3:
交互に上下を反転させ、タレ目とつり目が並ぶ。
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写真4:
幹線道路に向けて並ぶ「×」の列。外部に対する明確な拒否の意志表示?
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写真5:
笑っている、あるいは歌っている口が並んでいるような「菱形」。それにしても、配筋がどうなっているのか、謎。
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10.08.20:美味しんぼvs建築学会
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※1:
写真1:
セキスイハウス2BKW外観。
自由設計なので、これは一事例であるが、描かれている栗田家の実家はこの写真の事例とほぼ同じ外観。
例えば、L字型の配棟。寄棟の屋根形状。
あるいは一階の屋根形状のために段差が生じている二階部分の開口部等、このモデルを参照したと思しき共通項が散見される。
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表題の件。
何やら、話題になっているようだ。
発端となった「美味しんぼ」のエピソードは読んでいないので、直接のコメントは出来ない。
しかし、国産木材を使用した家屋が著しく少ない国内の住宅事情を嘆くのであれば、まずは登場人物御本人達が木造住宅に住むべきであろう。
そう、主人公の山岡士郎とその家族が住む家は、鉄筋コンクリート造の共同住宅である。
私が所有している何冊かのこの漫画の単行本における描写によれば、一階に小料理屋と小さな食料品店(雑貨屋?)がテナントとして入っていて、二階以上のフロアが賃貸住戸になっている。
住戸そのものは、南側にリビングダイニングルームと主寝室。
リビングダイニングの奥に、対面式ではない独立型のキッチンが続く。
北側の詳細はよく判らぬが、浴室にも大きな開口があることや、客室として使用できる部屋が有ることから、ある程度の間取りの推定は可能だ。
いずれにしても、しっかりとした間取りを想定した上で内観が描かれている。
外観も、換気スリーブ等、細かいところまで描き込まれている。
非木造系住宅に住んでいるという設定に関しては、「いや、これは賃貸だから」といえば、とりあえずの言い訳にはなるのだろうか。
であるならば、山岡士郎の妻、栗田ゆう子の実家はどうだ。
単行本の第1巻をお持ちの方は、「舌の記憶」というエピソードを見ていただきたい。
冒頭の方に、実家のファサードが描かれている。
モデルとなっているのは、恐らく写真1※1の住宅。
積水ハウスが1970年代後半に発売していた2BKW型である。
これは、軽量鉄骨造。
木造以外の構造で和風の意匠を器用に纏った住宅だ。
それこそ、山岡士郎が一番叩きたいパターンなのではないか。
まぁ、こんな枝葉末節をあげつらっても言いがかりの粋を出ない。
しかし、この二つの事項に関わらず、この漫画に描かれる背景の建物は、結構リアルだ。
適当に描いているのではなく、何らかの実在モデルをしっかりと参照していると思われる節が、連載の初期段階から散見される。
例えば、第3巻の「美声の源」で、オペラ歌手のマリア・セレーネが公演している劇場は、上野にある東京文化会館だ。
外観の俯瞰アングル等、資料をもとに作画しているのであろうことを読み取ることが出来る。
ということで、料理のみならず、そういった方面に注意してみるのも、この漫画の愉しみ方かもしれない。
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2010.08.18:ブロック塀
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※1:
実家の近所のブロック塀
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2010.08.16:円形校舎_2
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※1:
江別市総務部 編
1995年発刊
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北海道における円形校舎の事例として、室蘭市立絵鞆小学校を建築探訪のページにて紹介している。
お盆休みの帰省中に、道内に現存する他の事例も観てきた。
石狩市立石狩小学校:
道内に現存する円形校舎の中では最も古く、1956年10月の竣工。
(一番古かったのは、空知郡の北村中央小学校。現存せず。)
よく見かける円形校舎と趣きが違うのは、設計が坂本鹿名夫ではなく、大成建設札幌支店であるため。
但し、坂本鹿名夫も、1954年までは大成建設に所属し、設計の仕事に携わっていた。
在籍中から、文部省(当時)や建築学会等に設置された学校建築関連の検討会に出席していたという。
だから、ひょっとしたらこの校舎の設計段階において、大成建設在籍中の坂本自身が関わっていたかも知れぬ。
とはいえ、その外観は坂本鹿名夫が拘った横連窓ではなく、独立した窓が等間隔に並ぶだけの無機的な構成。
後の坂本による一連の円形校舎建築とは一線を画す。
内観は、中央に螺旋階段は無く円形のホールが配置され、その周囲に廻り階段が取り付いている。
これも坂本式ではない。
果たして、坂本鹿名夫が関わったプロトタイプなのか、それとも全く関係が無かったのか。
その辺りが、とても興味深い。
そして、円形ホールを内在させたプラン構成も面白い。
平面プランの構造は、大雑把にいうなら「二重丸」。
内側の円が、ホール。
そして外側の円が、幾つかに分割され、教室等の諸室にあてがわれている。
最近の学校建築に積極的に取り入れられているコモンスペースが、半世紀以上も前に、教室に囲われた円形空間というユニークかつ豊かな設定で実現されていたことに、先進性を感じる。
江別市立江別第三小学校:
1957年6月竣工。
こちらの設計は、坂本鹿名夫。
RC造であるが、帳壁の腰壁にレンガを積み、地域性を反映させている。
徹底した標準化指向の下、地域性とは無縁のデザインにて建設された事例が圧倒的に多い坂本式円形校舎の中では、異例だ。
校舎の廻りの芝生やニセアカシアの緑とのコントラストが美しい。
また、開口部のゴールド色のアルミサッシも、レンガの色と調和している。
このアルミサッシの内側に、もう一枚スチール製のサッシが設置されている。
二重サッシの採用は、防寒を考慮したものだろう。
竣工当時の外観写真にて、当初から二重サッシであったことを確認出来るが、外側が現状と同じアルミ製のものであったかどうかまでは判別できない。
同小学校のサイトを見ると、この円形校舎の存在に誇りを持ち、大切に使用している様子が窺われる。
現存する事例が減る中で、とても喜ばしいことだ。
市内には、弧を描く配棟が特徴の江別第一中学校も1952年10月に竣工しているが、同様に興味深い。
「えべつ昭和史 1926-1993」※1には、この二つの校舎について、「新しい建築技術により"よりよい教育環境"の創出をめざしたもの」と述べられている。
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2010.08.12:風向計
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読売新聞の北海道版に「風向計」というコラムがある。
執筆者は、坂本ビルの社長である坂本和昭氏。
8月12日号に掲載されたコラムのタイトルは「「人口減」目を背けるな」。
人口減の現実を直視できず、現状維持か増加を前提とした施策を立案しつづける帯広市の実態が述べられている。
人口が減ることを直視した行政方針の策定という発想の転換は、なかなか容易なものではない。
そして、その手法も問題になる。
最近、実際にコンパクトシティ化を進めている行政の事例について紹介した書籍を読んだが、その手法に一般解は無いようだ。
それぞれの地域の特性や条件に応じた独自の方法を模索するしかない。
コンパクトシティ化が今後の重要な都市問題であることは確かだ。
しかし、多くの自治体が帯広市のそれと変わらないのが現状ではないか。
手法を検証する以前の、拡大発展路線からの発想の転換が出来るか否かという段階に留まっているのが実態であろう。
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2010.08.07:写真
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心霊系の話には興味が無いと、少し前に書いた。
しかし、そんな私も、心霊写真の様なものを撮ってしまったことがある。
以下は、その類のネタ。
といっても、この手の話が嫌いな方もいらっしゃるだろうから最初に述べておけば、結局心霊写真ではなかった。
それはもう二十年以上前の話。
札幌市内で古民家の写真を撮って歩き回っていた頃のこと。
JR札幌駅の北口からそんなに離れていない場所に建っていた廃屋と化した民家を、何気なく写真に収めた。
後日、プリントされたその外観写真を観て、背筋が凍った。
屋根裏のドーマウィンドウの割れたガラスの奥から、何やら般若の面の様なものがこちらを睨み付けている。
怒っているような、泣いているような薄ぼんやりとしたその影は、どう見ても尋常な状況ではない。
「ありゃりゃ、撮っちゃった。どうしよう・・・。」
予期せぬ初めての体験に、「どこかで御祓いをしてもらう必要があるのかな?」とか、「でも、どこに頼めば良いのかな?」・・・などとうろたえる。
翌日、友人に相談。
とりあえず、再度現地を訪ねることにした。
廃屋の周囲を暫し歩き回った後、意を決して写真を撮った位置に立ち、その窓を見上げる。
すると、見えるではないか。写真と同じ影が・・・。
友人と共に、思わず拍子が抜けた。
なんと言うことは無い。
割れたガラスから入った雨水等で壁面が劣化し、それによって出来たシミや凹凸に当たる光の加減で、見る位置によってはその様な影が視認されるという状況。
視点をちょっと変えれば、単にささくれた壁面に過ぎぬ。
心霊写真の類が、雑誌やTVのバラエティー番組等で紹介されることがある。
勿論その中には、説明しきれないものもあるのだろう。
しかし大半は、私が撮ったような偶然によるものなのかもしれない。
以後、懲りることもなく廃屋や廃村の写真を撮る機会を幾度も持っているが、同様の体験をしたことは無い。
ちなみに、件の写真を撮った場所には、今は立派なオフィスビルが建っている。
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2010.08.02:花火
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全国的に、花火シーズン到来。
そして他でもない。
今日は長岡花火の一日目。
実際に観に行ったのは、もう二年前のこと。
国内有数の花火を久々に、しかもとても恵まれた環境で観覧することが出来たのは、地元在住の高校時代の同級生の粋な計らいのおかげ。
とても良い思い出となっている。
なっているのだけれども、しかし困ったことがある。
それは、なまじすごい花火を改めて観てしまったがために、それ以外の花火を観ても、あまり感動しなくなってしまったこと。
贅沢な悩みだ。
先週の土曜日も、隣町で花火大会があった。
しかし、その規模は長岡花火に遠く及ばない。
家から直接眺めることが出来るけれど、まぁ、見てもしょうがないななどと思っていた。
けれども、いざ、花火が上がる音が聞こえてくると、いてもたってもいられない。
ビール片手にバルコニーに出て観覧と相成る。
限られた予算や打上げ場所の条件等の様々な制約の中で、精一杯作品性を追求しているのであろうことが良く伝わってくる花火ではあった。
しかし、花火師さんには申し訳ないけれども、やはり想いは長岡花火に向く。
私にとって、長岡花火といえば「正三尺玉」である。
とはいっても最近、フェニックス花火とか天地人花火といった新顔にすっかりその地位を追われてしまった感が無きにしもあらず。
いや、それはそれで良い。
特に、震災復興祈念の意を込めたフェニックス花火は、打ち上げ続ける意義があろう。
しかしそれでも、たったの一発で夜空を絢爛に染め上げる正三尺玉こそが、花火の王道であるいう想いにかわりは無い。
二日間で四回打ち上げられる正三尺玉のそれぞれのスポンサー企業は、数十年来不動であった。
しかし、今年はスポンサーの一社であった老舗デパートが撤退。
スポンサーに入れ替えが発生した。
これは単に不況の影響のみではあるまい。
駅前集約から周縁離散へと変化した商業圏の構造にも要因があろう。
都市構造の変質がもたらす花火大会をとりまく環境の変化・・・、などといっては大げさか。
ともあれ、「正三尺玉」の豪放な炸裂音とその波動を体感せずに花火見物は無いな・・・などと思いつつ来年のカレンダーをめくると、来年も平日開催。
気が早い話ではあるが、観に行くことはなかなか難しそうだ。
高校時代の同級生のブログの一言「長岡市民になりなさい。」が、妙に脳裏をかすめる。
でも、とりあえず今年は、USTREAMにて中継を実施している地元の方がいらっしゃったので、画面上で堪能させていただいた。
音響も、カメラワークも素晴らしい。
大感謝である。
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2010.07.31:特集あとがき
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※1:
ながおか市民センター・大手通り分室の一階ホールにおける頒布状況。
生成り色の紙を用いたタブロイドサイズの二色刷り8ページ構成。
こんな感じで、市内を中心に県内各所にて無料配布されています。
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長岡を中心に発行されているフリーペーパー「マイ・スキップ」に、過去二回執筆の機会を得たことは、都度この場に報告している。
いずれも、「建物の記憶」というタイトルで、既に除却されてしまった市内の建物について書いたものだ。
私にとってこの二回の寄稿は、長岡にかつて存在していた建物について改めて考てみるとても良い機会になった。
そして、それらとは別に、旧長岡赤十字病院をテーマとした特集記事のお話も頂いた。
今も信濃川の西側に建つこの総合病院が、対岸の日赤町に在ったのは13年前まで。
今回の対象は、移転前の旧建物である。
原稿を書くにあたり、編集に携わっている方から旧病院を撮影した大量の写真が届けられた。
いずれも、市内在住の写真家・櫻井大士氏が撮ったもの。
きわめて貴重であり、そして美しい写真だ。
その全てについて言及したいところであったが、それはなかなか難しい。
文章の流れを鑑みながら幾つかを選び出し、それらの写真に対する所見を述べつつ建物の内外を紹介するという体裁にて、指定文字数を書き綴ることにした。
実際の紙面は、言及した以外の写真も織り交ぜながら、文章の流れと写真の配置が見事に関連付けられた巧みな構成に仕上がっている。
その辺りの編集サイドの紙面構成の技術は素晴らしい。
ということで、8月号に掲載されています。
入手方法は、以前もこの場に書いた通り※1。
機会あらば、御高覧ください。
ちなみに、記事の末尾に掲載されている私のプロフィールの右側に、周囲をぼかしつつレイアウトされている小さなカットも、櫻井氏が撮影した同病院内の写真の一つ。
編集担当の方から送って頂いた氏の写真の中では特にお気に入りのものである。
とはいっても、私は紙面レイアウトには一切関わっていないし、カットにこの画像を使うことを要望した訳でもない。
偶然、そんなお気に入り画像を、プロフィール欄に添えて頂いた。
さて、何を撮った写真でしょう。
同紙を観る機会があったらチェックしてみるのも面白いかもしれません。
今回の原稿は、編集者に提出する前の推敲によって削ぎ落とした記述が結構ある。
それらについては別途再編集し、かつて私が撮った外観写真と共に、いずれ建築探訪のページに掲載したいと思う。
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2010.07.28:幼少期の解釈
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長岡駅前のメインストリート「大手通り」のことは、この場にも何度か書いている。
かつては市内の商業の中心地として大いに賑わうエリアであった。
そんな通りから少し脇に入ったところに、とても静謐な空間がある。
建物を道路から少し後退させ、それによって出来た空間には、枯山水風の庭園。
床面に白那智石を敷き詰め、所々に黒々とした石を配している。
そして背後の建物の壁面には、銅板を用いた巨大なレリーフ。
これらの設えによって、表通りの喧騒からは完全に孤絶した異空間が醸成されている。
写真1:
庭園とレリーフ。
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写真2:
外壁に設置されたレリーフ(部分)。
左側の区画の造形が・・・。
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現在は市の商工会議所として使用されているその建物は、かつて大光相互銀行(現、大光銀行)が建てた文化会館。
館内には、長岡現代美術館が設けられていた。
長岡在住の方のブログ「アート日和 from Niigata」にて初めて知ったのだが、この美術館は、国内で初めて「現代」という名称を冠した美術館だったのだそうだ。
そして、レリーフの作者が、斎藤義重という造形作家であることも初めて知った。
このレリーフは幼少の頃より目に留まっていた。
何を意味しているのかは勿論わからなかったし、今でもその意図を読解する審美眼は持ち合わせていない。
しかし、五本の黒御影の柱で区切られた四つの区画にそれぞれ配置されたレリーフのうち、左から二番目(写真2の左側の区画)のものは、物を喰らう獣の様に見えていた。
つまり、左のコの字が口をあけた横顔。
そしてその右側に食べられようとするモノが並んでいる。
幼少期のイマジネーションは、ある意味で残酷なものだ。
しかし、当時懐いたその印象は、いまだにこの作品に対するイメージとしてこびりついている。
ところで、改めてこの商工会議所の建物を眺めてみると、結構興味深い。
そのうち、建築探訪のページに載せてみたいと思う。
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2010.07.24:円形校舎
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※1:
日本建築学会北海道支部研究報告集 (76) 所収
<三河智子,角幸博,石本正明>
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建築探訪のページに、室蘭市立絵鞆小学校を載せた。
円形校舎である。
この小学校の存在は知らなかった。
今年のGWに室蘭市内をあてもなく散策中、たまたま見つけた。
最初の印象は「何だ、円形校舎か」といった程度。
しかし、それより少し前に、知人のブログで円形校舎について語られていたことを思い出し、何かのネタにと近傍に寄る。
校舎の全貌が見えて来るにつけ、何だかこれは面白いぞという思いが沸いてきた。
その概要は、建築探訪のページに書いた通りであるが、微妙に形が異なる円形校舎が二棟並ぶ姿が、何とも魅力的だ。
暫し、グランドの外からその外観を堪能する。
これを期に円形校舎について調べてみると、なかなか興味深い。
その合理的空間構成。あるいは、異形の内外観デザイン。そして、この様式の建設時期が極めて限定的であるという特異性。
遅まきながら、現存する円形校舎を観て廻りたいという気が起きてくる。
建築探訪の文を書く際に参考にした論文の一つ、「北海道における円形校舎について※1」によると、北海道内では11校で円形校舎が建てられたという。
その幾つかは閉校してしまっているようだが、そんな中でも美唄の沼東小学校は極めて美しい。
正確には多角形平面で円を近似した校舎。
1959年竣工。設計者不詳。
三菱美唄炭鉱の閉山に伴い1974年に閉校。以後、廃墟化。
周囲は森へと戻りつつある。
そんなロケーションのせいか、ネット上では心霊スポットとして紹介するサイトも幾つか見受けられる。
私はその方面には興味がないが、そんな類のものも含め、この校舎を紹介するサイトに載せられている内外観写真は、いずれもその魅力を余すことなく捉えている。
特に、最上階中央部のトップライトや螺旋階段の扱いは、他の円形校舎には無い美しさだ。
廃墟にしておくのはあまりにも惜しい魅力的な空間構成が、そこには在る。
あるいは逆に、遺棄され朽ち果てなんとする在り様が、空間を神々しいものへと昇華させる補完的役割を担っているとも言えるのか。
しかし、この沼東小学校の様に、忘却に付されたままひっそりと「無」へ還元される魅力的な建築が、全国津々浦々に点在するのだろうな。
そんな建築達と、何らかの形で接する機会を出来るだけ多く持ちたいものだと思う。
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2010.07.21:【書籍】世界の不思議な家を訪ねて
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発刊された当時から、この書籍の存在は知っていたが、特に読む気は起きなかった。
理由は単純。
私は、日本の建築にしか興味が沸かないからだ。
このサイトのタイトルが「日本の佇まい」なのも、そんな狭い嗜好のなれの果て。
とはいっても、国粋主義者を気取るつもりは毛頭無い。
これは単に嗜好の問題である。
例えば二年前、仕事で三日間中国に行ったことを、この場にも書いた。
現地の食事はいずれもとても美味しかったけれど、情けないことに二日目の夜にはもう、普通の和食の味が恋しくなっていた。
帰国後、大戸屋に直行したのはいうまでもない。
異文化を普通に愉しむことが出来ぬ損な嗜好、あるいは性格。
こんな私であるから、数週間とか、あるいは数ヶ月といった単位で海外を訪ねるなど、考えられないことだ。
ところが、当該書籍の筆者は、一年の半分近くを海外で過ごすとプロフィールにある。
そんな筆者がまとめた書籍だから、内容はとても魅力的なのだろうけれども、しょせん私の興味の対象は冒頭に述べた通り。
ということで、読まず嫌いのまま、推移していた。
ところが、ひょんなことからこの書籍を入手してしまった。
入手したからには読まない訳にはいかぬ。
ということで、どうせバーナード・ルドフスキーの「建築家なしの建築」モドキだろ、などとタカを括りつつページを開く。
しかし少々読み進めるうちに、この書籍に対してトンでもない勘違いをしていたことを思い知らされる。
そのことは、この書籍のタイトルに端的に現われている。
つまり、「世界の不思議な家を訪ねて」であり、「世界の不思議な家」ではないのだ。
タイトルにそこまで深い意味は無いかも知れぬ。
しかし、書かれている内容は、「家」そのものよりも、その家を「訪ねる」までの行程がメインなのだ。
「家」については、ところどころに掲載された筆者自身の撮影による極上の写真と、その写真に添えられた短いコメントによって、語られている。
そしてそれ以外の文章にしたためられた「訪ねる」までの行程は、決して旅行記とか訪問記といった生易しいものではない。
紹介されている家の立地は、政情不安であったり治安が良いとはいえぬ場所、あるいは、とんでもなく辺鄙なところや苛烈な気候風土の地域等々、並大抵のロケーションではない。
だから、いきおい冒険記とか探検記といった類の雰囲気になる。
その辺りが、「建築家なしの建築」とは徹底的に違うし、この書籍の面白いところでもある。
豊富な海外渡航経験と、そしてそこから導き出される機転を駆使しつつ、危険と隣り合わせの、しかしそのリスクを遥かに凌ぐ極上の佇まいに出会う。
素晴らしいことだと思う。
憧れつつ、私には到底マネ出来ることではない。
掲載された画像に驚きつつ、その冒険記を読んで愉しむのがせいぜい。
異文化を心底堪能できる性格、嗜好、行動力。
羨ましい限りだ。
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2010.07.17:パノラマ映像
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そこかしこに美しいディテールが散らばり、撮影しようにもアングルが定められずに諦めてしまう。
建築写真を撮る際、そんな状況に陥ることが、しばしばある。
屋内空間においては、特に顕著だ。
あるいは、諦めずに撮ったとしても、その空間の魅力が全く画像に捉えられていないこという経験も、何度もある。
そのことを特に強く実感したのが酒田市美術館であることは、この場にも何度か書いている。
プロならいざ知らず、素人にはどうせロクな写真など撮れないのだからと、一時期、建築や集落を観に行った際にも敢えて写真撮影を行わないようにしていた時期もあった。
下手な写真を撮ることに時間を浪費するよりも、その場の風景を目一杯自らの視覚に焼付けることに時間を費やした方が有意義であろうという判断。
しかし、それでは自分の記憶以外の物理的な記録が一切残らない。
それはそれで、時間が経つと結構寂しいものだ。
それに、撮影したのち、改めてその写真を眺めていて気がつくことだって多々ある。
ということで、外出の際に再びコンパクトカメラをポケットに忍ばせるようにはなった。
けれども、いまだに写真撮影にそれほど期待を持っている訳ではない。
とりあえずは一応の記録をしておこうという程度。
一番の問題はフレーミングの制約ということになろう。
どんなに気に入った風景や光景であっても、結局は写真に記録する際に、その一部分をトリミングして撮影することになる。
たとえ広角のカメラであっても、その限界は突破できない。
しかし最近、鰊番屋が縁で、パノラマ映像にこだわったサイトの存在を知った。
そこに掲載されている360度フルスクリーンのパノラマ映像は、いずれも衝撃的だ。
フレーミングの制約を軽く飛び越え、画面上での極上の疑似体験を可能にしている。
私が訪ねたことがある建物や場所も紹介されているが、リアルな追体験を愉しめるのと同時に、写真だからこそ改めて気づくこともある。
その内容に関し、この場で文字を並べて説明を労する必要も無い。
そのサイト、パノラマジャーニーを実際に観て頂くのが良いだろう。
美しい映像だけではなく、それらの作品に添えられた文章も、読んでいて楽しいサイトである。
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2010.07.14:ユニット住宅_2
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※1:
アスペンの外観。
事前の知識が無ければ、ユニット工法とは思えぬ仕上がりになっている。
この工法が、ようやく住宅らしさを表現できるようになった最初期の事例と言えそうだ。
そのことは、外観だけではなく、間取りについても言える。
(画像の出典:トヨタホーム)
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数年前に埼玉県蓮田市にある積水化学工業の工場を見学する機会を得た。
目的は同社が開発した樹脂発泡系緩衝材の生産工程を見るというものであったが、そのラインに隣接してハイムのユニット製造棟も有ったため、ついでに見学させて貰った。
見学するまでは、ハイムの工場は自動車の生産ラインの如く産業用ロボットがシステマチックに動きながら住宅の各ユニットを造っているというイメージを持っていた。
しかし実際は違った。
工場内にずらりと並んだユニットの内側で、多能工の人達が手作業で仕事に勤しんでいる。
つまり、現場で行う手作業を工場内で各ユニットごとに行っているという、そんな雰囲気。
現場で直接やるか、あらかじめ工場内でやるかの違いといった程度。
いささか拍子抜けではあった。
同様のことは、宮脇壇も「新建築1984年4月臨時増刊 住宅の工業化は今」の中で述べている。
この書籍は、著名建築家が主要住宅メーカーをリポートするという趣向でまとめられているのだが、宮脇壇はトヨタ自動車(現トヨタホーム)を取材。
個人住宅の設計で名を馳せた建築家としての職能的自覚からか、ハウスメーカーの動向に対する日頃の調査には手抜かりが無いという印象の文章をまとめている。
例えば、ミサワホームのことを「ミサワハウス」と表記するケアレスミスはあるものの、編集企画に合わせて付け焼刃で勉強したのでは決して書けないような鋭い切り口で、トヨタのみならず住宅産業界全般について小気味良く言及した内容が、読んでいてとても心地よい。
そして、当時トヨタ自動車から発表されたばかりの「アスペン※1」というユニット工法のモデルについて、「いかにも、ナウイ」と評しつつ、その生産ラインについては、「トヨタ的でない工場」と述べている。
宮脇壇のトヨタの取材が1984年ごろ。そして私が積水の工場を見たのが、その約二十年後。
程度と規模の差、そして会社の違いは有れども、ユニット工法の生産ラインというのは、概ねこういった状況のまま推移しているのだろう。
そして恐らく今後も劇的に変わることは無いのではないかと思う。
高度な工業化に向けた設備投資を行うためには、徹底した標準化、規格化が必須だ。
しかし、世の流れは自由設計対応。
だから、各ユニットも単品生産に近い状況を要求されよう。
果たして、そんな趨勢下におけるユニット工法の価値は・・・という想いを持つことになる。
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2010.07.10:ユニット住宅
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「住宅メーカーの住宅」のページに、積水化学工業のセキスイハイムM1を載せた。
同社の製品を初めて観たのは、1980年頃。
長岡市の幸町にあった「NST長岡ハウジング」という住宅展示場内のモデルハウスである。
右の写真は、当時撮った同展示場。
左手に部分的に写っているのが積水化学工業のモデルハウス。
M1ではなく、その次の次あたりの世代のモデル。
恐らくは、「ハイム・M3−SRIIタイプ」か、あるいはその後継タイプだと思う。
「思う」などと曖昧な表現になるのは、記憶が定かではないため。
しかし、当時のことを色々調べてみると、同社は1975年の秋に積雪地向けのSタイプ、寒冷地向けのSRタイプ、そして豪雪地向けのSRIIタイプが発表されている。
従って、同展示場に建てられていたモデルは、M3−SRIIタイプか、あるいはその後継タイプである可能性は高い。
ところで、住宅展示場とはいっても、その規模は小さかった。
展示されていたモデルハウスはハイムを含め3棟。
一つは積水ハウスの寄棟の家。
もう一つはミサワホームのOII型。
冒頭の写真の正面に建っているモデルハウスがそれだ。
憧れて足繁く通い詰めたOII型に対し、セキスイハイムのモデルは今ひとつ関心を持てないし、感心も出来なかった。
イビツな家という印象でしかなかった。
その理由について分析を試みるようなことは当時は行わなかったけれど、今にしてみれば、内外観共に中途半端だったのだ。
つまり、ユニット住宅ならではの生産性に特化したM1の様な割り切りもなければ、後の「M3・パルフェ」や「アバンテ」の様なデザイン性も無かった。
開発の主要課題であった生産性の問題に一区切りがつき、デザイン性の追求へとシフトして行く途上に位置するモデル。
それが、長岡にモデルハウスとして建てられていたタイプの立ち位置であったのかもしれない。
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2010.07.03:駅前
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JR長岡駅の正面には「大手通り」と呼ばれる目抜き通りが通っている。
その幅36m。
街の規模に比べて随分と広い道路だ。
戦後復興期に拡幅されたが、戦前においてもその幅は約18mあり、長岡駅前のメインストリートとしての歴史は古い。
そして、南茅部町の古部小学校も現存する模様。
他の事例よりも一回り小さいこじんまりとした外観が興味深いが、これも実物を観るには至っていない。
かつては、長岡駅を背にしてその通りを眺めると、数百メートルほど先で視線が遮られていた。
城下町のインフラを引き継いだ都市特有の「鍵の手」と呼ばれるクランク状の交差点によるものだ。
そのクランク箇所には、地元の老舗和菓子屋「紅屋重正」の三階建て本店ビルが建ち、その屋上に「吉乃川」の巨大なネオン広告がアイキャッチとして鎮座していた。
そんな光景によって、何となく袋小路的な印象を呈していた様に思う。
その様子は、写真1で確認していただけよう。
1975年の長岡市中心街の航空写真だ。
写真の右下に見える縦長の赤い屋根が、新駅建設のために建てられた仮設の旧長岡駅舎。
その仮設駅舎正面から左上に向かって延びる幅広の道路が「大手通り」。
左上の交差点部分で、鍵の手にクランクしている。
写真1
(出典:国土画像情報<国土交通省>)
だから、実際には袋小路ではなく、、鍵の手状の交差点の更に奥にも道路は繋がっている。
しかし、その幅員は徐々に狭まり、更に先の信濃川の手前で丁字路となり、それこそ本当にどん詰まりとなっていた。
この丁字路を突き抜けて信濃川に新たな橋が架かり、そして大手通り途上の鍵の手状の交差点も区画整理によってある程度整形に改善されると、一気に視線が抜けるようになった。
久方ぶりに長岡駅前に降り立ち、遥か向こうの丘陵地帯までを見通せる風景を目の当たりにした際には、そこが長岡であることを一瞬疑ってしまうほどであった。
袋小路的な印象であった大手通りを、信濃川を越えて対岸の西側まで延伸することは、かねてからの都市計画であり、長い歳月をかけて漸く実現されたことになる。
しかし、その都市計画は意外な副産物をもたらした。
袋小路的な地勢の中に滞留していた商圏が、道路の延伸と共にその西側へと一気に流れていってしまった。
勿論、それだけが要因ではない。
道路の整備だけではなく、それとほぼ同時期に、荒蕪地が広がるだけであった信濃川の西側河川敷一体に商業施設を誘致するような都市計画の線引きも実施されている。
結果、かつての光景など信じられぬほどの一大商圏エリアが生成された。
その変貌振りの全てを、まだ私は把握しきれていない。
だが、商圏の移動は、駅前商店街の閑散とした状況をみれば一目瞭然。
最盛期には、売場面積約一万平米の長崎屋を筆頭に、中規模のデパートが6件も軒を連ねていたが、今では1件のみ。
デパートのみならず、小規模な店舗も明らかに減っている。
店舗跡地は駐車場の利用に供されている例が多く、かつては大小さまざまな建物で埋め尽くされていた中心街は、やたらと駐車場が目立つ。
商業地としてのポテンシャル低下のため、新たな土地利用も見つからず、とりあえず駐車場にしているといったところか。
このような地方都市の駅前既存商店街の状況というのは、長岡市に限ったことでは無い。
全国津々浦々にて散見されることだ。
例えば、岩見沢市の駅前商店街の状況についても、6月19日の雑記に書いた。
なかなかに厳しい状況下にあって、果たして建築に出来ることは何か?とも書いた。
その点において、長岡市は、建築関連の投資による活性化を積極的に進めているという印象がある。
例えば、地下駐車場や駐輪場の整備。
電線などの地中埋設による景観向上。
中心街を東西に分ける長岡駅構内の動線計画再整備。
閉店した大規模店舗への市施設の一部移転。
それに、隈研吾の設計による新庁舎建設によって、市役所機能の一部移転計画も着々と進行中。
並行して、大規模な再開発事業も複数進行中であり、更には幾つかが策定中である。
建築行為というカンフル剤の複数投与による街の再活性化の画策。
果たして、これらの対処が有意な効果をもたらし得るのか、興味深い。
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