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2012.10.28:These Are the Days Of Our Lives
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※1:
現場見学会のエピソードは、2011.06.21の雑記を参照願いたい。
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母校の創立記念祝賀会があり、出席して来た。
感想を以下に幾つか列記する。
驚いたのは、来賓として参加されていたとある国語の先生。
一人ひとりのことを、実に良く覚えていらっしゃる。
私にも、「俺の家を建て替えている時に、現場見学会に来たんだったよな。」と声を掛けて来て下さった※1。
仰るとおり。
「で、今何をしているんだ。そうか、建築の仕事か。当時の夢を実現したんだな。」などと矢継ぎ早に話しかけてくる。
夢を掴めたのかというと全くをもって無様な限りなのだけれども、とにかくお見事。
今まで何万人もの様々な生徒と接してきたのだろうに、こうやって全て記憶しているのだろうか。
そしてちょっと嬉しかったのは、地元情報紙マイスキップに寄稿した私の記事を読んだヨと声を掛けてきてくれた人が結構いたこと。
また、軽めの連載のお話を頂いているので、気を引き締めて書かねば。
それにしても申し訳ないことに、相手の中には「う〜む、なんだか面影が全くおぼつかないな・・・」などと思いながら会話をする場面も少々あったかな。
あるいは逆に、かつての雰囲気を良く残す同級生の姿にホッとしたりね。
まぁ、いずれもこの手のイベントならではの楽しいところ。
で、私はといえば、例外無く「変わらないね」と言われてしまう。
つまりは、当時から既にオッサンぽかったってことだな。
いや、我ながら全く否定出来ませんけれど。
ということで、主催者の方々、本当にお疲れ様でした。
おかげ様で“輝ける日々”を想い起こしつつ、とっても楽しいひと時を過ごすことが出来ました。
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※2:
祝賀会会場の様子。
喋ることに夢中で、写真はこの一枚しか撮っていなかった。
それにしても、座席表に従って着席して歓談している人が殆どいませんね。
立食パーティー状態の盛り上がりでした。
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2012.10.24:【書籍】日本図書館紀行
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著者: 海野弘
出版社: マガジンハウス
出版年: 1995年10月
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この雑記帳の場には、幾度か「図書館三昧」というタイトルで書き込みを行っている。
訪ねた図書館についての印象をつれづれに書くといった内容。
この場合の印象というのが、建物そのものの意匠が中心になってしまうのは、私の視覚的嗜好から仕方がないこと。
しかしこれだと、訪ねた図書館全てについて言及することは出来ない。
なぜなら、個人的に興味を引く意匠を持ち合わせぬ建物については、何も書くことが無いから。
同様に著者が訪ねた国内の図書館について述べられている。
しかしそこに、記述の対象として建築的な要素は希薄だ。
替わりに、それぞれの図書館に保管されている郷土史を紐解き、そこから見い出せる都市の歴史や特徴を、実際の街中散策による視覚体験と折り重ねながら書き連ねている。
なるほど、つまりはタイトルにある通り、各地に在る図書館を通したそれぞれの土地の紀行文である。
こういった切り口で図書館と接することが出来ると楽しいのだろうけれども、私には難しい。
建築的興味が伴うということが条件となった場合、個人的嗜好としては近年建てられた施設は軒並み興味の対象外だ。
例えば、同書籍には新潟県長岡市の市立図書館も紹介されている。
立派な図書館で、長岡の文化レベルは高そうだと評価している辺りを読むと、元住民としてはちょっと嬉しくなる。
でも、確かに立派な図書館なのだけれども、個人的には心に響く建築ではない。
むしろ、今も分館として機能している旧図書館(長岡市立互尊文庫)の方が魅かれるものがある。
コンクリート打ち放しの柱梁フレームが織りなす骨太な外観も良いけれど、東側正面玄関を入ったところの三層吹き抜けも良い。
その吹き抜けに面して設けられている折り返し階段は、来訪者の見上げの視線を意識しつつ構造的に必要な最小限の構造断面で意匠を整えたのだろうな、などと勝手に思っているのだけれども、どうなのだろう。
こういったストイック(?)な美しさがたまりません。
でも、昨今の施設に同様の要素は見い出しにくい。
単に、立派で綺麗で快適なだけ。
こういった嗜好だから、ますますこの場にて言及可能な図書館ネタが限られてしまうのだろうな。
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2012.10.20:light in darkness.2
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北海道にある私の実家が、昭和40年代半ばに造成された大規模な住宅団地内に立地していることは、この場に何度か書いている。
よって、団地内に建つ住宅は、約40年分に限定された住宅史の集積でもある。
それはそれで興味深い事象ではあるが、それ以外にも興味の対象を見い出すことが出来る。
例えば右の画像。
なんとも古風な味わいの街路灯である。
恐らくは、造成当時に設置されたものがそのまま今日まで使われてきているのであろう。
しかし最近、その交換が所々で行われているようだ。
この前の体育の日の祝日を含む三連休に実家に帰った際、実家近傍の街路灯の幾つかがやたらとまぶしくギラついていたので、そのことに気づいた。
LED照明に器具ごと交換されているのだ。
いずれ、写真の様な街路灯は全て取り外され、LED照明の街路灯に取って代わられるのであろう。
長寿命であることによるメンテナンスの優位性や高い省エネ性といった点で、LED照明への交換は時代の趨勢。
そのことについて、何も言うことは無い。
しかし、LED照明特有の不自然なギラつきを見ていると、どことなく儚い旧来の水銀灯照明にホンの少しだけシンパシーも湧いてくる。
身勝手な感情とは思いつつ、とりあえず写真におさめた。
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2012.10.15:【書籍】日本の町
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※1:
出版社: 文藝春秋
出版年: 1994年11月
※2:
旧田中家番屋外観
※3:
そういった意味では、ニシン漁家建築の各ページで紹介している画像も、もっと付属施設を含めた群景としての全体像を載せるべきなのだろう。
例えば旧田中家と同じく祝津に立地する白鳥家番屋などは、近傍に石蔵が複数棟現存している。
けれども、そういった群景を保持している遺構が少ないのも事実。
主屋のみが残っていたり、あるいは付属施設の蔵のみが残っていたりという事例が多い。
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丸谷才一の訃報が流れた。
別に熱烈なファンという訳でもないし著書にもほとんど目を通したことはない。
大体私は建築にしか興味を持ち得ていないので、読む本は建築関連のものばかり。
だから手元に有している書籍も建築に関するものが殆どで、それ以外というと、・・・漫画本ばっかりだな。
ということで、氏の著作で持ち合わせているのはただの一冊。
「日本の町」という文庫本※1のみ。
・・・って、結局は町並み、つまり建築関連ってことね。
山崎正和との対談集なのだけれども、殆ど書棚のコヤシ状態でロクに読んでいない。
というのも、冒頭の方で触れている小樽の町並みに関する対談の下りにカチンと来てしまったため。
小樽市の北西に位置する祝津というエリアに移築・公開されている旧田中家番屋※2のことを、「たかがあの程度の家」と述べている。
さしもの知識人も、鰊漁労建築に対する見識は少々浅かったようだ。
なるほど確かに、国内に存在する“御殿”と称される歴史的建造物の中には、もっと豪壮なものは沢山ある。
しかしながら、鰊番屋は主屋のみによって成り立つものにあらず。
多数の漁労用付属施設を従えた壮大な群景をもって、鰊御殿と呼ばれていたのだ※3。
祝津の地にて観ることができる旧田中家番屋は、主屋のみを別の場所から移築したもの。
その主屋だけで価値判断をしてほしくないと思ったし、それにそれ自体だって決して「たかが」で済まされるものではない。
そんな訳で、鰊御殿に関する下りだけで何となく書籍そのものに疑念を持ってしまった。
つまり、小樽以外の町並みについても、薄っぺらな観光的視点のみに依拠した浅い会話に留まっているのではないかということ。
で、殆ど未読のままとなってしまっている。
しかし考えてみれば、たまたま自分がほんの少しだけ知識を有している事項に関する極々一部分の言葉のみをつかまえて書籍全体の価値判断を下してしまうこと自体が、浅はかなこと以外の何モノでもない。
薄っぺらなのは自分の方じゃないかと、少し反省。
この際、哀悼の意をこめつつ、この文庫本に改めて目を通してみようと思う。
そこには、書籍の帯に記されている「町を読み解く楽しさ」というキャッチコピーに纏わる新しい発見があるかもしれない。
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2012.10.10:残されるもの、去りゆくもの
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※1:
八反田家番屋外観。
北海道近代建築研究会編の「道南・道央の建築探訪」によると、建築年は1912年。
全体のプロポーションや、竪繁講格子を多用した開口部廻りのディテール等、極めて美しい外観を持つ番屋建築であった。
※2:
戸袋、下屋、母屋と、建物隅角部に三重に設けられた屋根の軒裏に施された扇垂木の連なり。
あるいは、微妙なアールをつけられた欄間開口の連なり等、凝ったディテールが展開する。
私が訪ねた時点では、旅館として使用されていた。
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前回、美国の旧ヤマシメ福井邸について書いた。
書いたらなんだか気になりだして、この三連休、思い立って北海道へと赴いた。
で、札幌駅より片道二時間半、バスにて積丹半島の先端にある美国へと向かう。
普通、観光を目的にこのバスに乗る場合、往路は進行方向向かって右手の座席に座るのであろう。
そうすると、石狩湾の景観を車窓から愉しむことが可能だ。
しかし私は逆の左側に座る。
なぜなら、乗車の目的が集落や鰊番屋を観ることだから。
経路にあたる国道229号(雷電国道)は、余市町を過ぎた辺りから海岸線ギリギリのところを縫うように通ることとなる。
往路は右手に海、左手に断崖絶壁ないしは集落を臨む、そんなロケーションが延々と展開する。
従って、建物を見るならば左側の座席ということになる。
かつてこの道路は、対向車両がすれ違うのもギリギリな小断面のトンネルや、少し運転を誤れば海に転落してしまいそうなヘアピンカーブが散在した。
それだけ険しい地形の中に通された道路であり、北海道中央バスの運転手の技術に感心しながら先へと進む、そんな状況であった。
それが、1996年2月10日に発生した豊浜トンネルの大規模崩落災害以降であろうか。
徐々に道路の線形改良やトンネルの付け替え工事が行われ、今日に至っている。
その豊浜トンネルを通り抜けた辺りで、愕然とする。
そこに在る筈の番屋が無い。
替わりに、その残骸と思しき瓦礫が積み上げられている痛々しい光景が、車窓に飛び組んで来た。
古平郡古平町沖村の八反田家番屋※1。
この番屋を初めて観たのは、1989年のこと。
旧態を極めて良好に留め、美しく住み続けられている、そんな数少ない番屋であった。
住まわれている方の番屋に対する愛着と誇り無しにはあり得ぬ、そんな素晴らしい佇まいを毎回堪能していた。
ゆくゆくは文化財に指定ないしは登録されて保全されるべき貴重な存在であろうとも思っていた。
その番屋が瓦礫の山と化している。
後で調べてみると、昨年火災により全焼してしまったとのこと。
非常に残念なことではあるが、しかし第三者である私以上に、この番屋を永きに亘って大切に守り続けてきた所有者の方の無念さは如何ほどのものか。
隣接して建つ沢田家番屋は現存していたものの、少々気落ちしつつ、そのまま目的地の美国に到着。
早速福井家番屋に向かうが、なぜか閉まっている。
ネットで事前に調べた際には、修復工事を終えて昨年より公開が始まったとなっていたのだが、出入り口は固く閉じられている。
バス発着場と兼ねる観光案内所にて尋ねてみても、「今は公開していません」と膠も無い。
昼食をとるために入った店でも、はたまた通りすがりの人に確認しても同様の答え。
ということで、今回の訪問は徒労に終わることとなってしまった。
仕方がないので帰路の札幌行きバスが発車する時刻までの数時間、集落内をあてもなく散策。
鰊漁家建築のページにて紹介している竹谷家番屋は、福田家の再生事業とは無関係に、あたかも何事もなかったかの如く静かに建っている。
一方で、福井家の近傍に建っていた筈の凝った意匠の民家※2は、真新しい住宅に建て替えられていた。
あるいは、北の古民家のページに登録している美国の民家も、除却されて更地となっている。
去りゆくものがある一方、福井家番屋の様に保全される民家もある。
そしてその周囲には、かつて漁場であった頃の遺構や、あるいは集落としての雰囲気も残されている。
それらを活かした修景を推進する動きもある様だ。
そんな動きに期待しつつ、あるいはその修景という行為に孕む危うさに少々不安を覚えつつ、そしていずれ福井家の内部を見学する機会もあることだろうなどと思いつつ、帰りのバスに乗車することと相成った。
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2012.10.03:旧ヤマシメ福井邸
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※1:
鰊を原料にした肥料。
かつては極上の魚肥として日本全国に出荷された。
※2:
1972年に北海道教育委員会より発刊。
一冊丸ごと道内の鰊番屋に関する調査でまとめられた、とても貴重な資料。
勿論、ここに当時現存していた全ての鰊番屋が掲載されている訳ではない。
この報告書に言及がない鰊番屋も散在する。
※3:
ニシン漁家建築 の
ニシン番屋の概要のページ
に記載した『2.内部構成』の項参照。
※4:
文中の画像は、修復工事が行われる以前に撮影したもの。
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積丹半島の先端近くに位置する“美国”という、魅力的な名称の土地には幾度か足を運んでいる。
目的は、鰊番屋を観て廻ることであるが、前回訪ねたのはもう六年も前のことになってしまった。
六年前の春先に訪ねた際は、なかなか場所が特定出来ずにいた「磯野家番屋」の所在地がようやく判り、その実見を主だった目的としていた。
集落のはずれの岬に穿たれた隧道の向こう側に在る筈のその番屋は、しかし訪ねた時には既に除却済み。
遺された基礎部分に、陽光が空しく降り注いでいた。
軽く落胆しつつ、折角訪ねたのだからと、集落内をそぞろ歩き。
この美国という場所は、見るからに鰊番屋っぽい建物が散在し、なかなかに興味深い。
あるいは番屋に付随する漁労用倉庫だったと思しき施設も多く見受けられる。
更には、恐らくは 鰊粕※1を作るために用いられていたのであろう巨大な釜(鰊釜)が、錆ついたまま空き地に無造作に転がっていたりする。
何やら、かつての鰊漁場の雰囲気をさりげなく残している様で嬉しくなる。
鰊番屋っぽい建物のうちの一つが、右の写真の建物。
いつも参考にしている「建造物緊急保存調査報告書第13集※2」には記録されていない建物だ。
そして個人でそれと断定するには、例えば番屋建築の特徴である「ダイドコロ」と呼ばれる傭漁夫用の内部空間※3の存在が外観からは見い出せない等、少々おぼつかない点がある。
しかし、各所に施された繊細な意匠や全体のプロポーションは、いかにも番屋建築っぽい。
ということで少々気になっていたのだけれども、近年修復作業が行われていたことを最近知った※4。
名称は、「旧ヤマシメ福井邸」。
昨年より、「鰊伝習館 ヤマシメ番屋」として一般公開されたのだそうだ。
修復にあたっては専門家による事前調査も実施されたそうだから、学術的にも番屋建築として確認されたということなのだろう。
「ヤマシメ」というのは、浜益地方で手広く鰊漁場を営んでいた木村家の屋号と一緒だが、何か関係があるのだろうか。
あるいは、外観からはイメージ出来なかった「ダイドコロ」空間がどんな形で屋内にプランニングされているのか。
そんなところが気になる番屋ではある。
そういえば、ニシン漁家建築のページの更新も滞っている。
このヤマシメ番屋も含め、新規登録を考えてみたいと思う。
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2012.09.29:新千歳空港駅
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北海道に帰る手段は、いつも飛行機である。
JRとかフェリーを利用した方が安上がりに思えるけれども、それは単純に普通運賃のみでの比較。
それだと確かに飛行機の普通運賃は突出して高い。
しかし、今は各種割引運賃設定がある。
そもそもの基本料金を安く設定している航空会社もある。
そういった条件を活用し巧く立ち回れば、結構安く北海道に辿り着くことが可能だ。
そんな事と次第で、私にとって北海道に着くということは新千歳空港に到着することと同義というのが現状。
しかし、空港施設内を歩いていても、北の大地に降り立ったという実感はあまり湧かない。
ターミナルビルそのものの個性が希薄であるためだろうか。
到着ロビーを通り過ぎ、地下通路へ。
そしてその先にJR新千歳空港駅が見えてきてようやく、その実感が湧いてくる。
個性的な駅だ。
それは、空港との連絡駅という機能上、地下階のみで構成された駅だからという訳ではない。
その強烈なカラーリングゆえである。
柱は真っ赤。
天井は真っ青、ないしは真っ白。
明暗のメリハリを効かせた照明計画が、その色彩の鮮烈さを更に強調する。
そしてその鮮烈さは、慌しく電車へと乗り継ぐさなかにあっても確実に印象に残り、北の玄関口の設えとしてインプットされる
いや、北の玄関口として印象付けられるのは、鮮烈さのためばかりではない。
そのカラーリングは北の大地ならではのものだ。
同様の色彩を本州以南でやっても違和感が生じるだろう。
北の風情と直接関係が無い色彩の様でありながら、しかしそのカラースキームは確実に北の風情と結びついている。
それは、このインテリアの監修にデンマーク国鉄が関わったことと無縁ではあるまい。
デンマークは、緯度からすれば北海道最北の稚内よりも遥かに北に位置する。
しかし、同じ北方圏という捉え方は可能であろう。
この地理的条件と建築が醸す風情は密接に関わっている。
例えば、日本各地に明治期を中心に建てられた西洋館が現存している。
長崎や神戸、あるいは横浜などが有名なところ。
しかし本州に建つそれらは、文字通り異国情緒たっぷりでどこか余所余所しい。
でも、同様に西洋館が散在する函館の場合は違う。
そこに建っていて当然という雰囲気で、風景の中に収まっている。
この理由について、山口昌伴はその著「和風の住まい術―日本列島空間探索の旅から」において、次のように述べている。
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“洋風建築のオリジナルというものは、サッポロ・ミュンヘン・ミルウォーキーといわれるように、だいたい函館から北の緯度に建っている、北方建築、寒地建築、なのである。”
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腑に落ちる説明だ。
これは、藤森照信が「日本の近代建築(上)−幕末・明治篇−」の中で言及する日本への西洋館の流入経路のうち、西廻りルートの地理的な位置と重なる。
東西二系統の伝播ルートのうち、氏が“下見板コロニアル”と呼ぶものだ。
かように、緯度と風情と建築デザインの関わりは密接な様だ。
デンマーク国鉄がデザイン監修した新千歳空港駅が北の風情に合致している理由も、そこにら辺にあるのだろう。
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2012.09.26:メーカー住宅私考_17
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八幡エコンスチールの“エコン住宅”の広告が1961年4月発売の住宅雑誌に掲載されていることは前回書いた。
戸建のプレハブ住宅として国内で一番最初に商品化されたモデルと一般的に言われている積水ハウスの“A型”の発売が、1960年4月。
正確には4月1日と、同社の社史には書かれている。
一方のエコン住宅の正式発表が何時であったのかは、今のところ特定出来ていない。
しかし、翌年の4月には広告を出していたことを鑑みるならば、A型と大して変わらない時期に発売されていた可能性は高い。
同時期に発刊された住宅雑誌を何冊か捲ってみると、エコン住宅と積水ハウスのA型、そして大和ハウス工業のミゼットハウスの広告が並ぶ。
住まいとしては少々いびつという印象を免れ得ぬA型や、母屋に付属する小屋という位置づけに留まるミゼットハウスに比べ、エコン住宅の完成度は、誌面の広告写真を比較する限りにおいては高い。
業界で初めて二階建ての住宅を商品化したのも、積水ハウスと言われている。
1962年に、「セキスイハウスB型」を単純に二層重ねた総二階、あるいはその総二階に下屋を付けた「セキスイハウス2B型」を発表している。
しかし、内外観共に単調にならざるを得ず、商品性は決して高いとはいえなかった様だ。
総二階ではなく、プランに応じて二階の位置を自由に設定できる商品が出回るようになったのは1963年とする資料が多い。
確かにこの年に、日商ハウスとミサワホームがそれぞれ二階建てモデルを商品化している。
しかし、遡ること二年前、「サンケイ家庭版−新しい住まいの設計」の1961年6月号(創刊第2号)に掲載されている八幡エコンスチールの広告には、部分的に二階を設けたエコン住宅の事例が紹介されている。
右の画像はその広告からの引用になる。
トリミングをした訳ではなく、掲載されている写真自体が外観の一部のみを捉えたものとなっているため全景は判らぬが、二階の直下をピロティにしてビルトインガレージを実現している様子が伺える。
当時としては極めて先進的な取り組みと言えそうだ。
ということで、国内のプレハブ住宅産業において、エコン住宅が「草分け」あるいは「初」に関わる事項は結構多いのかもしれぬ。
にもかかわらず、歴史(住宅史)には記述されることは少ないという印象を持つ。
一方で、その手の資料を開けば、ミゼットハウスやA型は必ず登場する。
結局、草創期から今現在に至るまでメジャーな立ち位置で事業を継続しているメーカーの業績が記録として残される。
歴史とは、そういうものなのかもしれぬ。
八幡エコンスチールがいつまで住宅事業を継続していたのかは、今のところ特定出来ていない。
1970年代後半に発刊された専門誌の中には、過去の事例として扱った記述もあれば、OEMによって辛うじて継続している様に書かれている記事もある。
昭和30年代の住宅雑誌を捲っていると、エコン住宅以外にも現在において名前を聞く機会の無いプレハブ戸建住宅の広告が散見される。
その中には、プレハブ草創期ならではの創意工夫にあふれた面白いモデルがあるのかもしれぬ。
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2012.09.22:メーカー住宅私考_16
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※1:
初期の頃の書名は、「サンケイ家庭版−新しい住まいの設計」。
巻頭グラビアでは、手塚治虫や長嶋茂雄の自邸が紹介されている。
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昭和40年代に建てられたプレハブ住宅の実見を目的に、その頃造成された住宅団地を時折巡っている。
現存する事例は少ない。
しかし街中をやみくもに探すよりは、この様な団地内の方が出会える確率は高い。
宅地が造成・分譲されてから間もない頃に建てられたのであろう事例が、連なる戸建ての家並みの中にひっそりと現存している場面に出くわすと、少し嬉しくなる。
その多くは改変が著しく、それと判別することが困難な場合もある。
しかし逆に、旧態を良く留める事例も少なくはない。
その差異は極めて顕著だ。
改修されているものは徹底的な改変が施されているし、旧態を留めているものは頑なに原型を守っている。
所有者の住まいに対する考え方や愛着の持ちようのベクトルの違いが露骨に顕れているといったところであろうか。
観察の対象としては、どちらも面白い。
前者は、竣工時のディテールの痕跡を探し出す愉しみと、今日に至るまでの変容過程を想像してみる愉しみがある。
後者は、既に史料的な価値がそこに在る。
最近、後者の事例で興味深いディテールをまとったプレハブ住宅に出会った。
半間もしくは一間幅の鋼製四方枠に、乾式外壁パネルや外部建具を収めてパーツ化。
そのパーツを鉄骨の柱梁フレームの中に並べて外壁を構成している。
サポート(構造体)とクラディング(外装部材)の明確な区分けと連携。
敷地外からの目視でも十分確認可能な程に明瞭な構法上の特性が、そのまま外観の特徴を形作っているところがなかなかに清い。
ハテ、これは何処のメーカーの住宅だろう。
家に戻ってから、細々と収集している当時の住宅雑誌等をめくってみるが、なかなか該当するディテールが見つからない。
というよりも、昔の雑誌って文章が主体で、図版や画像は不鮮明であったり詳細の確認が困難なケースが多い。
ということで、なかなか特定出来ずに半年余りが空しく経過していたのだけれども、最近意外な場所で手掛かりを見つけた。
何の気なしに入った地方の公立図書館。
そこに保管されているプレハブ住宅に関する調査報告書の中に、詳述が有ったのだ。
その資料によって、メーカーが八幡製鉄所(現、新日鉄)のグループ会社、八幡エコンスチールであることを特定出来た。
モデル名称は、エコン住宅。
「エコン」とはエコノミカルのこと。
パーツ化された外装材は「エコンパネル」と呼ばれ、数十種類の規格パターンを有していた様だ。
八幡エコンスチールが住宅の商品化に向けた開発に着手したのは1959年。
1961年4月発売の“SUMAI no SEKKEI(住まいの設計)”創刊号※1には既に広告が載せられているから、エコン住宅は国内初期のプレハブ戸建住宅ということになる。
私が観た事例も、その頃建てられたものなのだろうか。
平屋建てであることや単純な全体構成からは、初期事例である可能性は十分にある。
であるとするならば、建てられてから半世紀が経過していることにもなろう。
経年により発錆したエコンパネルのスチールフレームは、何とも味わい深い。
それが建物自体の性能上好ましいことかといえば勿論否ではあるけれども、それとは別次元に視認される質感の妙というものもある。
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2012.09.18:light in darkness
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新幹線を利用した旅行や出張の帰路において、東京に近づいて来たなという感慨が沸く車窓からの夜景の要素。
私の場合、それはマンションの灯りである。
片廊下形式の集合住宅は、主に北側立面の各階に共用の開放廊下が並び、その天井面にほぼ等間隔に常夜灯が点く。
そんな無機的な構成の冷たい灯りの数が、東京に近づくにつれ徐々に増え、やがて星の数の如きと化す。
常夜灯一つ一つの下にコンクリートで囲われた住戸が区画され、そしてその閉域の内側にそれぞれの暮らしが在る。
全く見知らぬ人々の日常が、一点の光源に置換されて縦横に規則正しく積層され、都市の夥しい光の洪水の中に埋没する。
それは、美しいというよりは、どこか哀しい。
だから、感慨が沸くといっても決して良い気分という訳では無い。
「また、この地に戻って来てしまったか・・・」という、ひどく後向きな感覚だ。
自身の中で、旅程の終わりを感じさせる風景としてマンションの常夜灯を視認する様になってしまったのは、いつの頃からなのか。
覚えていないし、記憶を辿ったところで何の意味も無い。
しかし少なくても関東に住んでいる限りは、新幹線に乗るたびに浸らざるを得ない感覚なのだろうと思う。
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2012.09.15:【書籍】新建築2012年9月号
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立教大学本館/
設計:日本設計
11月19日に、「本物志向の住まい」という一冊丸ごとミサワホームの宣伝本について書いた。
1991年に発刊されており、その内容は、1990年に同社が発表したGOMAS(ゴマス)ブランドの紹介に多くを費やしている。
1985年以降のハウスメーカーの動向に殆ど関心を持っていない私には、多くが初見の内容。
解説文に載せられている『何事もなかったように100年を迎えてもらうこと』という言葉は、歴史的建造物の修繕と活用における理想を端的且つ美しく指し示している思う。
そして、その言葉通りの仕事が実現されている様に見受けられる。
昨今、近代建築を除却して新たな建物を整備する事業を遂行する際に、耐震性の問題解消といったことが金科玉条の如く論われる様になって久しい。
しかし、そのクリシェが必ずしも正当では無いことが、掲載されている画像によって露わになる。
何でもかんでも残せ保全せよと訴える建築物保存運動にいたずらに与することに興味がないことは、この場に何度も書いている。
用をなし得なくなった建物を無理やり存続させることは、所有者にとっても利用者にとっても、そして何よりも建築自身にとっても不幸なことだ。
しかし、用の持続の可能性があるのであれば、そこに向かって技術と意匠をつぎ込む検討は十分に行われるべきだと思う。
金沢工業大学21号館/
設計:水野一郎・蜂谷俊雄+金沢計画研究所
この大学のキャンパスは、60年代から80年代にかけて大谷幸夫による独特なコンクリートの造形によって逐次施設が整備され、まとまった群景が成立しているという印象を持っていた。
その流れからすると、今回新たに整備された施設は、道路を一つ挟んだ別敷地とはいえ異物感が拭えない。
時代も違えば設計者も異なるのだから当然と言われればそれまでだ。
しかし、この大学の固有性を表徴し得る風景として醸成されつつある既存施設群に対し、何らかの関連性の付与に配慮するといった思考が働くことは無かったのだろうか。
いや、配慮の結果なのかもしれぬが、そのことを読み解くことは私には困難だ。
特集:建築のローカリティを考える
東日本大震災の被災地に作られたコミュニティ施設の事例が五件紹介されている。
自然の猛威に対して建築や都市が全く無力であることが露呈した現実世界の只中で、果たして建築や建築家に可能なことは何なのか。
その端緒が示され始めたといったところなのだろうか。
その建設の目的やプロセスを鑑みるならば、個々の事例における表層デザインの在りようはコメントの対象として重要なことではない。
関心を持つべきは、今後進められる街の復興の渦中で、これらの施設がどのような機能を果たし、そして如何なる物語を紡ぎ、あるいは役割を終えていくのかといったところにある様に思う。
鈴木大拙館/
設計:谷口吉生/谷口建築設計研究所
豊かに、そして静謐に広がる水景施設。空間に深い物語性を与える動線計画の妙。そこかしこに展開する寡黙で魅惑的なディテール。
実物を拝んでみたいという気にさせられる作品。
でも、実際に訪ねたとしても、納まりや素材の扱いばかりが気になって、設計者が空間に込めた禅の世界を堪能する余裕など持てないのだろうな。
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2012.09.08:変形屋根
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「北の古民家」のページに、札幌の二条市場を追加した。
いわゆる観光スポットであり、施設そのものについて私が書くことは何も無いし、特に書きたいことも無い。
しかし、かつて隣接するマンションの高層階のバルコニーから俯瞰した写真を撮っていたので、その画像をもとに屋根が織り成す風景について少々書き散らしてみた次第。
その文中に、「変形屋根」という語句がある。
文字通り、変った形の屋根のことだ。
昭和40年代に北海道内で建てられた住宅に多く見受けられる、亜鉛メッキ鋼板葺きによる屋根形状。
例えば、ここに掲げた事例がそれに該当する。
切妻とか寄棟といった定型に則らぬ、不思議な形。
いったい、どの様な意図を持ってこの様な屋根を発想したのだろう。
そんなことを考えてみるのも楽しい。
実際、自然落雪といった機能面のみを考えるのであれば、逆に首を傾げたくなってしまうような形態も散見される。
「住まいの履歴」のページに載せている2.5番目の家も、変形屋根の範疇に属する。
二階に招き屋根が載せられているが、一方の屋根面は垂直に近い急勾配。
そしてその下端は、棟を直交させて葺かれた一階下屋部分の緩勾配の切妻屋根に繋がっている。
そう、上の画像の事例に類似した納まりだ。
建てられたのは昭和40年代後半だから、道内における変形屋根興隆期と合致する。
この様な屋根を載せた住宅が連なる光景は、北海道ならではの佇まいである。
昭和30年代の住宅街の風景の代表格が北海道住宅供給公社による三角屋根の群景であるとするならば、40年代の代表は変形屋根群ということになりそうだ。
では、最近の北海道の住宅様式が織り成す風景は、どんなモノということになるのだろうか?
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2012.09.04:メーカー住宅私考_15
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1980年に東京晴海で開催された東京国際グッドリビングショーにおいて、ミサワホームは二つのモデルを出展している。
一つが、同年始めに発表したミサワホームSIII型。
そしてもう一つが、ミサワホーム55のプロトタイプモデル。
直方体のボリュームにさりげなく和風を加味した木質系の前者と、ユニット工法を用いた近未来的なデザインの後者。
似て非なる二つの住宅の並置が鮮烈であるのと同時に、いずれも当時の同社ならではのデザインであるところが面白い。
プロトタイプモデルには、同社が開発を進めてきた軽量気泡コンクリート系の新素材が用いられた。
“PALC”と名付けられた内外装を兼ねるその多機能素材については、この場にも何度か書いている。
十年に及ぶその素材の研究開発における過程で試作住宅が幾度も造られ、このグッドリビングショーに出展されたモデルは11番目のプロトタイプになるのだそうだ。
7月19日の雑記に、8番目のプロトタイプについて書いたが、そこで採用されたプランは試作ならではの先鋭なものであった。
しかし11番目のモデルの方は、翌年にミサワホーム55を正式発表することを踏まえた、より現実的な内容となっている。
最近ようやく、このプロトタイプの平面図を載せた住宅雑誌に出会ったのだけれども、そのまま正式商品としても良かったのではないかとも思える素直な内容だ。
実際、1981年に発売された初代モデルから暫くの間のラインアップは、いずれもユニット工法に有りがちな制約に縛られたぎこちないものばかり。
完成度はこちらの方が上だと思う。
正式発表モデルには無くて、このプロトタイプモデルで実現していることはもう一つ。
それは、PALCが床版にも用いられていること。
正式モデルでは、帳壁への採用に留まっている。
コスト的な制約や、あるいは遮音性能を含めたスラブとしての諸性能の確保に関し、物性上の限界があったのだろうか。
その辺の事情は判らぬが、PALCによるワッフルスラブをそのまま天井に現したプロトタイプのインテリアはとても面白い。
そのまま実現していたら、それはそれで他には無い魅力的な商品となったことだろう。
ミサワホーム55に限らず、プロトタイプモデルには正式発表では味わえぬ魅力や興味深い点が散見される。
そういったモデルに注視してみることも、各メーカーの動向を追う上では楽しいことだと思う。
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