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2013.01−2013.02
2013.02.27:メーカー住宅私考_25
保存される昭和30〜40年代

※1

ミサワホームの北海道限定モデル、AII型の事例。その玄関側ファサードを撮影したもの。
玄関以外は無窓であるが、勿論他の立面には開口が設けられている。

前回、構造体を含めて芳しくない状況が進行しつつある住宅について取り上げた。
しかし勿論、そんな事例ばかりではない。 同じ住宅地内にほぼ同時期に建てられた住宅で、とても良好な状態を保っている例も多数ある。
例えば、左の写真※1。 ミサワホームの北海道限定モデル、AII型だ。 販売されていたのは前回報告したMII型とほぼ同じ80年代。 その玄関側のファサードになる。 一階中央の玄関部分を除き、敢えて開口部は設けられていない。 凹凸を伴う壁面のみで構成され、斜めからの陽光を受けて生じる陰影が美しい。

人が住み続け、そして適切なメンテナンスが定期的に実施されれば、この様な状況の維持は難しいことでは無い。 しかし、それが困難になってしまったのが、先のMII型の例だ。
そして前回書いた通り、そういった事情を抱える住宅は、今後どんどん増えるのであろう。

プレハブ住宅の草創期および興隆期の事例が滅失していく状況。 そんな中にあって、それらの記録がどの程度蓄積されているのであろうか。
例えば、大和ハウス工業は、同社草創期の商品であるパイプハウスやミゼットハウスを自社の研究所内に保存している。 あるいは積水化学工業も、実際に人が住まわれていたセキスイハイムM1を筑波に保存棟として移設した。
自社の歴史を語る上で不可欠な過去の主要モデルに対する物理的保全措置。 企業姿勢の在り方にも拠るのだろうけれども、こういった対応は今後大切になるように思う。

2013.02.23:メーカー住宅私考_24
廃墟化する昭和50年代

※1

この事例をもって、当時の同社の製品が30年しか持たないということにはならない。 どんな住宅であれ、適切かつ定期的なメンテナンス無しに長期に亘って存続可能なことなどあり得ぬ。

私の実家は昭和40年代半ばに造成された巨大な住宅地の一画にある。
当然のことながら、そのエリア内には造成当時から今日に至るまでの様々な住宅が並んでおり、観察対象としてとても面白い。 中には、竣工当時の様態を良く保持して建つ大和ハウス工業草創期のものと思しき平屋建て住宅などもあり、それはそれでなかなかに貴重な風景だ。

一方で、悲惨な状況を呈している事例も散見される。
その一つが左の写真※1。 昭和50年代にミサワホームが発表していた企画住宅、MII型の北海道モデルだ。
五、六年ほど前、壁面の修繕をしたばかりであったように記憶している。 その際、玄関上部のオーバーハング箇所がアクセントカラーとして黄色く塗装された。 持ち主の拘りであり、そして自身の家に対する愛着の顕れであったのだろう。
しかし、その際に施工を行った業者の修繕方法に瑕疵があったのだろうか。 今年の始めに通りがかった際には、仕上げ材の一部がその下の防水層と共に剥げ落ち、構造体表層の合板が露出。 一部は雨風によって朽ちて削げ落ち、内部の断熱材が剥き出しになり始めていた。
玄関先には「売家」の看板が立ち上げられているから、無人になって暫く経つのであろうか。 売買を仲介する不動産会社も、敷地の取引きが目的で上屋には眼中が無いのか、補修が施されることも無く劣化の一途を辿っている。

この事例だけではない。 急激な高齢化と単身世帯化が進む住宅地内において、同様のケースは今後どんどん増えるのかもしれぬ。
そして当然ながら、このエリア以外においてもあり得る事象であろう。 住宅メーカーが昭和50年代に発表・供給したモデルが、建物本来の耐用年数とは別の要因から劣化し廃墟化する。 既に時代はそんな状況に入っている。

2013.02.20:甘い話
※1

※2
初音ミクにハマっていることを意味するスラング

私は甘いお菓子が大好きだ。
出来の悪い頭を無理矢理回転させて日々仕事に勤しんでいるせいか、とにかく甘いものが欲しくなる。 だから、机の引き出しの中にはクッキーやチョコレートが大量にストックされていて、気がつけば一日中それらを食しているような気がしなくも無い。 それでも太れないのは、よっぽど燃費の悪い体質なのでしょうね。
でも、夕刻になると、そういった乾きもの(?)にも飽きて、オフィス内の別フロアにある自販機コンビニに向かう。 目当ては一個100円のシュークリーム。 これを食べながら紅茶を飲むひと時が至福でしてね。
しかし、シュークリームは競争率が高くて、いつでも売られているという訳ではない。 今日も空しく売れ切れ。 仕方が無い、代わりに同じく100円で販売されているマドレーヌでも買おうかと思いかけたその瞬間、別の自販機の中にそれを発見する。
商品名称「雪ミクのぎゅうひで包んだシュー」※1

雪ミクとは、初音ミクの別バージョンにして札幌雪祭りの応援キャラクター。 今年開催された彼の地の雪祭りの期間中は、この雪ミクに因んだイベントが数多催され、いずれも大盛況であったと聞くに及んでいるが、実際、如何程であったのだろう。
ともあれ、その雪ミク関連商品である。 しかも、自販機の中の残りは一つ。 それだけ売れているってことは、館内に“みっくみく”※2な輩が少なからず存在するということだな。
190円というのはとてつもなく予算オーバーだけれども、とりあえず最後の一個を購入。 自分の席に持ち帰る。

いつも買うシュークリームは無造作に包装を破いているけれど、今回のは表面に雪ミクが印刷されていますからね。 鋏で丁寧に端の方を切って開封。 で、中身を取り出そうとするが、少し引き出すとシュー全体を覆う求肥に大量にかかっているパウダーシュガーがブワっと拡散し、指先や机の上が真っ白に。 仕方が無いので、ミスコピ−用紙をランチョンマット代わりに敷いて慎重に取り出す。
で、暫しその中身を凝視。 というのも、どうやって食べたらよいのか判らぬ。 手で持ってかぶりつこうものなら、顔中パウダーシュガーで真っ白になることうけあい。 まずは全体の構造を確認してみようと恐る恐る求肥をめくってみると、その内側に確かにシュー生地が見える。 これは平皿とフォークが必要だなということで、給湯室から調達。
で、再び求肥をフォークでめくってシュー生地を切り分け、食す。 シューの中に充填されたホイップクリームと小倉餡が織り成す甘さのコラボに丸々一粒の生苺の酸味が加わり、そして求肥の食感がそれらを包み込む。 ということで、暫し至福のひと時を堪能した訳だけれども、エネルギー量が357kcalっていうのは、夕食前にはちょっと重いな。
・・・って、何をツラツラと書いているんだ、お前?と言われそうだけれども、えぇ、ここは雑記帳ですから。

そんな訳で、今日は初音ミクのオリジナル曲「Souvenir」を動画投稿サイトで視聴して就寝することといたします。

2013.02.16:【書籍】新建築 2013年2月号

集合住宅特集

今月号は集合住宅特集。“4つの視点で見る「集合住宅をつくること」”というサブタイトルをつけて、事例を多数紹介している。 それぞれの作品は、設定された四種の視点に厳密に分化され得る訳ではない。 しかし、この用途の建築物が進展性のある多岐に亘るテーマを内在していることが良く判って興味深い。
以前から同誌にて定期的に組まれているこの特集の中でも、リノベーションやコンバージョンの事例は回を重ねるごとに増えているという印象。
国内に建つ集合住宅の多くは、建築作品の世界とは無縁の、単なる不動産事業を核とした経済行為における物理事象でしかない。 慎重なマーケティングと周到な事業収支計画の桎梏の中で組み立てられる売れて何ぼの世界。 従って、建設販売時期の市況動向に密接に関わり、そのために少しでも時代状況が変われば瞬く間に陳旧化する。 そんな集合住宅が毎年累々と作り続けられ、そしてストックが増大する。 そんな状況を鑑みれば、リノベ事例が多く掲載されることは有意義なことであり、今後も更に様々な手法が開発され紹介されるべきと思う。
しかし、リノベ物件として掲載されている事例は、いずれも実験的な立ち位置に留まっているようにも思う。 共通するいささかスタイリッシュな内観が、そんな印象をさらに強める。 まぁ、先鋭的な作品を伝えることが、この雑誌の役割なのだろう。 しかしながら興味を持つべきは、そういった先進事例からどのような普遍的な手法を洗練させ、そして増大するストックに対峙して行くかといったところにあるように思う。

ALLEY HOUSE
設計:ビーフンデザイン+タスエス
施工:元気建設

一つの棟を複数の住戸で分割する集合住宅という形式において、その住戸の配列の仕方については様々なパターンが作品として発表されている。 その発想の多様さには驚かされるばかりであるが、この作品もその一つ。
接道条件から単純な書き割りとなった一階からは思いもよらぬ構成で、その上層に四つの住戸が複雑に絡み合う。 田の字型というよりは、卍型とでも言った方が良いのだろうか。 よくもまぁ、この様な構成を考えつくものだと驚かされる。
住戸が複雑に積層するプランの場合、例えば一つの住戸のダイニングの上に他住戸のトイレが配置されるなんてことが平気で計画されるケースが往々にしてある。 しかしこの作品は、そういった破綻が全く無い。 更に、幅や向きや勾配を変えて取り付く各住戸の階段は、敷地周辺に無秩序に広がる迷路状の狭隘道路を屋内動線に立体的に取り込む試みであろうか。
周辺環境への呼応と、建物与件そのものへの応答。 その双方の見事に合致。
そういった面白味の点において、この事例は数少ない建築作品としての集合住宅であると思う。

※1

滋賀県草津にて建設中のYNSU。松下電器(当時)の社宅として建てられた。
人工大地と呼ばれるスケルトン部分に住戸ユニットが挿入される様子が窺える。
<出典:新日本製鐵>

SUS静岡工場実験棟
設計:SUS
施工:落合組/美建

ユニット工法による住宅というと、国内においては積水化学工業のセキスイハイムが代表格ということになろう。 1970年発表のハイムM1以降、40年以上にわたって洗練させてきた商品住宅としての技術は、同業他社の追随を許さぬ圧倒的な完成度を誇っている。
しかし、そんな主流とは別に、この工法を用いた仮設住宅や特殊用途の居住空間は脈々と開発され続けている。 SUSが今回手がけたこの実験棟もその一つ。
同社は、ecomsという情報誌を定期刊行しているが、各号ともアルミ材とユニット工法への拘りが詰まった内容。 そんな素材と工法への偏愛をそのままに、この作品も存在する。
鋼製スラブを複数層設置し、そこに住戸ユニットを据え付ける形式は、1969年に東京国際見本市に出展されたYNSU※1に近い。 一方で、住戸ユニット自体は、中銀カプセルタワービルに相通ずるものがある。
その平面プランを見て、こんな狭小空間に無理なく住めるくらいにモノやしがらみから自由なライフスタイルを確立したいなどと少々憧れてしまう。 しかし、内観写真を見ると、そんな想いも躊躇に変わる。 床も壁も天井も窓も全てアルミパネル製。 さらには、備品の椅子や飾り棚に至るまで、アルミ型材が用いられている。
素材への愛があってこそだし、実験棟として、その拘りを存分に注ぎ込んだのであろうことは理解できるが、好みは分かれよう。

※2

ルーヴル・ランス
設計:妹島和世+西沢立衛/SANAA

2月号ではなく先月号に掲載された作品。 今月号の月評では、予想していた通り、おおむね絶賛をもって論評されている。
四名の執筆者のうちの二名が論評の中で指摘したことに対応したのか、先月号には載せられていなかった地下平面図が今月号の巻末に掲載されている。 といっても、室用途などの情報が殆ど削除された図面。 セキュリティやその他諸事情で詳細の公表は難しいところなのであろう。 だからといって、平面図としての体裁を殆どなし得ていない図を載せる意味がどの程度あるのか。
作品そのものについては、環境関連実験施設等の恒温恒湿室をそのまま肥大化させた様な展示空間であるとか、掲載されている断面詳細図に見受けられる屋根面の断熱欠損などに戸惑いを覚える。
そして、やや茫漠としたランドスケープの中にステンレスないしはガラスの平滑な壁が横たわる外観には、何やら既視感を抱く。 何だろうと思って暫し考えていたら、左の写真※2を思い出した。 とある環状道路建設用地。 荒涼としたロケーションの中に、延々と仮囲いが並ぶ。
こんなものと一緒にするなと言われてしまいそうだし、感性の貧相さを指摘されてしまいそうだ。 ハイ、その通り。 私は審美眼も無ければ想像力も乏しい人間です。 でも、溶融亜鉛めっきが鈍い輝きを放つ新品の鋼製パネルと荒地の組み合わせに、何やら美しさの様なものを感じとっててしまったのです。 同一素材がある一定のスケールを超えて長大に並ぶことによって、そこに生じる何か別の様相。 そんな風景の在りようとして、こんな連想をしてしまった次第。

2013.02.11:書くということ

マイスキップ紙の2月号が届く。
今回同紙に私が書いたコラムの内容は、用水路。 かつて長岡に住んでいた際、その居住地近傍に山北用水という農業用水路が流れていた。 今は暗渠化され、日常的には視認し得ぬその水路について規定文字数を埋めてみたのだけれども、あまりにもローカル過ぎて、市内在住の方々にとってもあまり馴染みの無いネタであったかもしれぬ。

今回は、似た体裁で二つの文章が出来上がってしまった。 いや、正確に言うと、ゲラのチェック段階でもう一つ文章を思いついてしまったのだ。 思いついてしまったからには、書きたくなるのが人の情。 ほぼ同じ文字数で書き上げる。
実際に紙面に掲載されている文章は、もともと書いていた方。 季節的なことも考慮して、この用水路に関する冬の思い出を中心とした内容となっている。
一方、あとで思いついた文章は秋のこと。 掲載した写真(写っている子供は、幼少のみぎりの私)との関連性は、こちらの方がより高い。 差し替えを申し出ようかと、二つの原稿を前に暫し逡巡。
しかし、いったん提出し、そして校正の段階になっておきながら、違う文章を思いついてしまったのでヨロシクお願いしま〜す・・・というのもちょっと軽いというもの。 ということで、新たに書き起こした方は気が向いたら“近いうちに”この場にでもアップすることにいたしましょう。

思えば、この雑記のページの文書も、書きかけのものや書いたけれどもアップの機会を逸したものが結構堆積している。
雑記帳の文章に機会を逸するも何もないけれど、とりあえずそれらのデータは整理されることも無く幾つかの記憶媒体の中に無造作に放置状態。 ハテ、どうしたものか・・・って、別に誰も困らないし私自身も全く困ることではない。
時折、そういったデータを開いてみて、当時はこんなことを考えていたのネとか、コレはちょっと違うダロウなどと自らの文章を振り返ってみるのも、また一興。 それに、作文の上手下手は別にして、とにかく書いてみることによって考えが整理されることも色々とある。

血をもって書け。
さすれば君は知るであろう、血が精神であることを。
<フリードリヒ・ニーチェ>
2013.02.07:メーカー住宅私考_23
ある挿絵作家の自邸

※1
但し、同社が用いている工法は、ミサワホームのそれとは全く異なる独自開発のディテールに拠っている。


※2
竹中英太郎旧自邸外観

招き屋根の急勾配面を一階基礎部分まで葺き下ろした造形は、当時のプレハブ住宅においてはなかなか先鋭的。

本文中に紹介した昭和40年発行の雑誌には、裏手の外観写真も載せられている。 そちらの方はこの表側とはまるで異なる表情。 というよりも、メインファサードを何とか招き屋根形式でまとめるため、屋根の葺き方に相当無理が生じている。
そんな強引さというか元気の良さが、草創期の事例の面白さでもあると言えようか。

山梨県甲府市に建つその住宅の存在を知ったのは、中学生の頃。 とある住宅関連の書籍の文中に、「T邸」という名称で紹介された。
といっても、文書のみ。 内外観写真や間取り図等が紹介されていた訳ではない。 しかしその文面に「プレハブ住宅初期事例の傑作」といった表現があり、少々気にかかっていた。 設計施工が、設立間もない頃のミサワホームというのも、気に留める理由であった。。
近年、ハウスメーカーに対する興味の対象が昭和40年代にも広がってから、このT邸のことがますます気になるようになった。 どんな事象であれ、草創期に創り出されたものというのは、その後の成熟期には無い魅力があるものだ。 だからこそ、機会あらば観てみたいという気になる。

で、昭和40年代の住宅関連雑誌や資料を図書館等で読み漁るうちに、だんだんT邸の概要が見えてきた。
T邸の「T」が意味するところの施主の姓は、竹中さんであること。 その屋内には、とても草創期のプレハブ住宅とは思えぬ渋い和室が設えられていること。 外観は、草創期のミサワホームらしい招き屋根型のおおらかな屋根形状であること。 傾斜地に石垣を築いて整地し、その上に建てられていること等々。
そしてついに、間取りも見つける。 小堀住研(現、SXL)の社史に外観と一緒に小さく載せられていた。
なぜ、他社の社史に?と思われる方もいらっしゃるだろう。 実は小堀住研はミサワホームと業務提携していた時期があるのだ。 同社が木質系パネル工法を採用し続けているのも、ミサワホームとの関係があったことと無縁ではない※1。 ともあれ、そんな経緯でミサワホームのパンフレットの一部が小堀住研の社史に小さく掲載されている。 それが竹中邸であることは、瞬時に気付いた。 といっても、あまりにも掲載写真が小さい上に部分的に欠けているため、全容は掴めず。

最近になって漸く、詳細図版を載せた昭和40年発行の住宅雑誌を国立国会図書館で見つけた。
書籍としての劣化が著しいため、専用の別室にて閲覧することとなったが、それによると竣工は1964年。 ということは、ミサワホームの前身、三澤木材プレハブ住宅部時代のもの。 それに、同社が第一号物件を受注したのが1962年の秋であることを考えれば、本当に草創期の事例ということになる。
施主のフルネームは、竹中英太郎。 挿絵作家なのだそうだ。
プロフィールを存じあげぬ作家なのでネット検索をかけてみる。 すると、甲府市内の湯村という場所に、竹中英太郎記念館という施設があるではないか。
公式サイトに載せられている氏の年譜には、1964年8月に「現在地に転居」とある。 ということは、ミサワホームにて建てた自宅がそのまま記念館に使われているのでは・・・などと期待し、更に検索を掛けてみる。 残念なことに、記念館自体は近年建てられたもの。 そして、1964年竣工の自邸は現存しない様だ。
やむを得ないことである。 何せ、半世紀以上前の建物。 現存していたとしても、様々な改修・改変が実施され、原型を留めていなかった可能性だってあろう。

こんな風に、一つの住宅に対して、当時の書籍を巡りつつ探求してみる。 何の意味も無いことだけれども、住まいに対するこの様な愉しみ方だってあるのだということにしておこう。

2013.02.02:都市の片隅の階段

マイスキップ1月号のコラムにて、長岡市内にある建物の面白い階段の事例として、最近出来たフェニックス大手イーストスクエアを挙げた。
その近傍に、もう一つ目をひく事例がある。 飲食店が入る三階建てテナントビルの階段室。 道路に面して立ち上がる円筒形のボリュームの内側に螺旋階段が納められている。
中央がちょっとした吹き抜けになっているので、下から見上げると巻貝のよう。 その巻貝の体内体験をするが如く、誘われるように上へ上へと歩を進めると、途中にガラスブロックを嵌め込んだポツ窓が並ぶところも楽しい。
ということで、三階まで難なく昇れてしまう。 というか、昇りたくなってしまう。 エレべーターが無い建物なので、三階の店舗が動線上不利な条件とならぬよう、階段に演出を施したといったところか。
小さな雑居ビルのささやかな意匠上の配慮が、なかなか良い。 都市の中には、こういった小粋なディテールが人知れず堆積しているのだろうな。
で、中にはどんな店が入居しているかというと、階段に気を取られて確認しておりません。 

2013.01.30:メーカー住宅私考_22
0.75坪時代のアメニティ

ここ三十年余りの戸建住宅の間取りで変化したものを挙げようとすると、それなりの項目数になろう。 その一つに、水廻りの面積の拡大は確実に該当する。
例えば戸建住宅における浴室の広さは、かつては0.75坪が一般的であった。 それが1坪となり、いまでは1.25坪サイズも増えている。
住宅内のアメニティが、居室のみならずサニタリー部分にも求められるようになったのはいつ頃からであろうか。 そのニーズに従い、これらの空間の面積は時代を追うごとに広くなっている。

0.75坪の浴室サイズが主流であった時代。 それはサニタリー部分に求められるものが機能性であり、アメニティまでには及んでいなかった時代でもある。
しかしそんな「0.75坪時代」においても、その部分に商品的な付加価値を与えて独自性を発揮した新進的なモデルがあった。

例えば、1977年に発表されたミサワホームA型二階建て
二階に設けられた浴室は、多分に漏れず0.75坪サイズであるが、一面をガラス張りとし、その外側に配置されている玄関上部の吹抜けに設けられたトップライトを介して外光が燦々と降り注ぐ。 宣伝文句の中にも、「星空を眺めながら入浴できる浴室」とある。
実際にこの空間を体感したことは無いが、単に面積に余裕があるだけの凡庸な1坪浴室には無い快適性を容易に想像することが出来そうだ。 吹抜けというバッファーゾーンを介在することでプライバシー性を確保しつつ、採光や眺望も確保した浴室。 その浴室を通して、更にその奥の洗面室にも自然光を導く。
限られた延床面積の中で、サニタリー廻りに個性を与えた傑作である。

あるいは、クボタハウスが1983年に発表したGXシリーズ「サンモアルーフのある家」。 洋風の寄棟屋根タイプと切妻屋根タイプ、そして和風の寄棟屋根タイプの3種で構成されたモデルであるが、このうち洋風切妻屋根タイプの水廻りがなかなか魅力的だ。
浴室はやはり0.75坪。 しかし、洗面室がとても広く、例えばフィットネス器具も余裕で置くことが出来そうだ。 更にその洗面室は、独立した南面バルコニーに接続する。 つまり、広い洗面室にてフィットネス器具で軽く汗を流し、浴室でさっぱりしたあと、バルコニーで和むといった暮らし方が可能だ。
「0.75坪時代」において、積極的にサニタリー廻りの魅力付けを行った規格型モデルとして、新進性に富んでいる。 このモデルは、サニタリー廻り以外にも興味深い配慮が随所に見受けられる。 その点に関しては、また別の機会に。

2013.01.26:古民家と初音ミクとアート
※1
会場構成の担当は、藤本壮介。
詳細はこの場には書かないけれど、とっても新鮮な展示手法であった。

パナソニック汐留ミュージアムにて開催中の「日本の民家一九五五年 二川幸夫・建築写真の原点」展を観に行く。
ミュージアムという名の付く場所に赴くのは一年ぶり。 前回はどこに何を観に行ったかというと、同じ施設で行われた今和次郎展。 それからもう一年も経つとは、なんと無味乾燥な日々を送っていることか。

今回の写真展は、二川幸夫がかつて発表した写真集『日本の民家』に載せた写真を改めて展示するというもの。
この写真集は、学生の頃に大学の図書館で閲覧し、衝撃を受けた。 そこに掲載されている写真と同じような風景に接してみたいと思い、手始めに東北に旅立ったのは大学二年と三年の間の春休みのこと。
今から思えば、とっても単純で安直すぎる動機。 フラリと訪ねて写真と同質の佇まいに出会えるほど、風景というのは生易しいものではない。 ましてや、掲載写真の撮影時期からかなりの年月が経過しているのだから、同様の風景など望むべくもない。
でも、私も若かったですからね。 四の五の考える前に、まずは行動。 当時JRから出されていたフリー切符、東北ワイド周遊券を携えて貧乏旅行を敢行。 とにかく金がないから、駅から遠く離れた集落であっても、ひたすら徒歩にて訪ねて廻りました。
その後も長期休暇の度にワイド周遊券を片手に各地域を巡った学生時代の幾度かの体験は、無意味なものでは無かったと信じたいところではあるのだけれども・・・。
ともあれ、そんなきっかけを与えてくれた写真集からの作品展示。 若いころ受けた感銘が大き過ぎたこともあって、「ふ〜ん、懐かしいね」と展示空間※1をサラリと巡る程度に留まってしまいました。

で、予定よりも早く会場を後にしたので、サテこれからどうしましょうということになる。
取り敢えず銀座方面に歩を向け、ヤマハ銀座店三階の譜面売り場へ。 目当ては、初音ミクの楽曲の譜面(オイオイ・・・)
既にソロピアノ用の譜面集を購入して「ココロ」という曲の練習を始めていることは先週この場に書いた。 でも、他の譜面集にはこの曲がどのようにアレンジされて載っているかをちょいと見てみたいと思いましてね。
すぐ隣で、小学生が父親と相談しながら同様に初音ミクの譜面集を選んでいた。 そんな微笑ましい父娘のことなどお構いなしに、その脇でガサゴソと楽譜を漁る思いっきり邪魔で怪しいヤツに成り果てておりましたとさ。

ざっくりと譜面の内容を比較した後、銀座ニューメルサ店へ。
八階の長岡小嶋屋にて「蕎麦&アート」と銘打って店内で催されている吉川弘という作家の個展を暫し鑑賞し、帰宅。
ちなみに、今回初めて気付いたのだけれども、銀座ニューメルサ店が入居している建物は、「中村積善会ビルヂング」という名称なのですね。 館名が“ビルヂング”か“ビルディング”かというのは、マニアの間では結構ポイントなのだそうで。 気になる方は、当該建物のエントランスに設置されている館名板を確認してみてください。

文中の写真は、学生時代に撮ったもの。
岩手県遠野の砂子沢集落に散在する民家。 『日本の民家』に掲載されている写真はいずれもモノクロなので、それに倣ってモノトーンに変換してみたけれども、邪道でしたかね。
同地には二回足を運んでいる。 二度目に訪ねた際、最初に掲げた写真の民家はリフォームが施され、屋根は茅葺きではなくなっていた。 二枚目の画像の民家は廃屋となっており、敷地に至る道路は藪と化していた。
以降久しく訪ねていないが、かつて伝統的建造物群保存地区に関する調査が実施されたこともあるこの地の今現在の風景は、どの様になっているのだろう。

2013.01.23:コラムに関する補足

先月号から、マイスキップ紙に「まちかど逍遥」というタイトルの小さなコラムを連載している。
長岡の情報紙なのだから、長岡に関係することをと思い、一回目のコラムに添えた写真は、市内の悠久山公園に設置されている巨大滑り台。 私も幼少のみぎりに滑り降りた記憶があることは記事にも書いたけれど、何十年も経た今でも現存するのですね。 右の写真は、掲載した写真ではなく、最近の状況。
もう一枚載せた写真は、長岡市内のものではない。 北海道にある私の実家近傍に立地する児童公園に設けられた遊具。 撮影したのは数年前なので、まだ在るのかなと年末年始の帰省の際に確かめに行ってみた。 こちらも、しっかりと現存。 その異形なコンクリートの造形が雪に埋もれる様子もまた、なかなかオツなものであった。

今月号に載せた旧大和デパート長岡店の階段。
最上階から階段の吹き抜けごしに俯瞰したものだけれども、この最上階から更に屋上へと至る階段の取り付き方が、またなかなか面白いものであった。 気になりだしたのがいつの頃からかは覚えていないし、そのきっかけも忘却の彼方ではあるけれども、長岡在住中、そこを昇降することがちょっとした楽しみであった。
掲載した写真を撮りに同デパートを訪ねたのは閉店の数年前。 本当は屋上階への階段部分を撮りたかったのだけれども、既に閉鎖されていて目的は果たせず。 写真ってのは、撮れる時に撮っておくべきものですね。
同建物は今でも一階部分のみが観光関連施設として供用されているようで、昨年の秋に訪ねた際には、その一階部分の柱の意匠がけっこう気に掛かった。 仔細に調べてみると、面白い建物なのもかも知れぬ。

ということで、先月号と今月号について補足してみた。
二月号は、ゲラのチェックを少し前に終えたところ。 さて、次は何を書きましょうか。

2013.01.19:ココロ
※1
他にも、「新世界へのプロローグ」や「初音ミクの激唱」なども、自我獲得系といえるのでしょうかね。 双方とも、名曲です。

一昨年の暮れに、坂本龍一のピアノ曲を幾つか弾けるようになった旨書いたけれども、その後どうなったかというと、これがナカナカ。 一曲弾けるようになると、別の一曲を忘れてしまうのはどうしたことか。 なかなかレパートリーが増やせません。
結局、去年一年間で新たに弾けるようになった曲は、僅か三作品。

・Yamazaki 2002
・鉄道員
・Seven Samurai-ending theme

静謐で内省的な曲ばかりですね。 まぁ、そんな作品を欲する心境の一年であったということでしょう。

しかし、最近練習しているのは、坂本作品ではなくボーカロイドが用いられた曲。 ちょっと、気分が変わりましてね。
クリプトン・フューチャー・メディア社が発売する一連の音声合成ソフトが引き起こしているムーヴメントについては全く知らぬ訳ではなかったけれど、大して興味は無かった。 せいぜい、YMOの曲を初音ミクにカヴァーさせた作品が動画サイトにアップされているのを視聴して、「完成度、高いなぁ」と感心する程度。
しかし最近になって、オリジナル曲にも秀逸なものが多数あることを知るにおよび、遅ればせながら少々嵌っています。

昨年暮れに東京MXテレビで放映された初音ミク台湾ファーストコンサートの映像には愕然とさせられました。 ボーカロイドの彼女、彼等が本当にステージ上に実在しているかの如きリアルさ。 時代がこんなに進んでいたとは。
巨大な透明スクリーンに映し出される精巧な虚像を前に聴衆たちが熱狂する光景は、決して異常なものではない。 その熱狂は、一つのプログラムを巡るネットを介した共同作業や二次創作の輪が進展させる、今までに存在し得なかった世界の拡張と深化に対する祝福なのだから。 そして同時に、ステージ上のリアルな虚構の創出に挑むエンジニア達の拘りと、その拘りを現実のものとするテクノロジーへの驚嘆と敬意と賛美でもある。

ともあれ、このボーカロイドのソフトを用いて造られたオリジナル曲やその二次創作の作品は、ネット上に星の数ほど公開されている。 まだその一部にしか接していないのだけれども、今のところ個人的な好みとしては、DTM用のプログラムでしかない彼女あるいは彼等が自我に目覚めていくといった類のストーリー性を帯びた作品に魅かれるものが多い。
鏡音リンをフューチャーして創作された「ココロ」も、そんな作品の一つ※1。 歌詞も旋律もコード進行も、何やらホロリとさせられる構成・・・って、何を今更って感じですかね。
けれども、これは弾けるようになってみたいと素直に思える曲。 ということで、ソロピアノ用にアレンジされた譜面集を入手し、目下練習中。

ここまで読んで、ボーカロイド? くだらねぇ・・・と仰る建築業界の方は、是非とも建築知識誌の昨年9月号を改めて見ていただきたい。 表紙が初音ミクだからという訳ではなくて、その表紙に関連して巻頭に載せられている隈研吾事務所の所員の方のコラムは、とっても的を突いていますから。

2013.01.15:メーカー住宅私考_21
入母屋御殿

※1

ニッセキハウス工業の「入母屋の家」のモデルハウス事例

城郭かと見紛うばかりの豪壮な入母屋屋根を載せた邸宅に出会うことが時折ある。
確かに、ある程度の規模を誇る住宅にこそ、入母屋は相応しい。 歴史的に見ても、入母屋は格の高い形式として扱われてきた。 従って、豪邸を建てるのであれば、この形式の屋根にしたいという価値観や憧れ。 そんなニーズが常に一定量存在する。

ニッセキハウス工業が、その名もずばり「入母屋の家」を1980年に発表したのは、そんなニーズの取り込みという目論見もあったのだろう。 しかしそれ以上に、入母屋は同社が拘らなければならぬ屋根形態であったのではないかと思われる。
というのも、プレハブ住宅において初めて屋根の仕上げに瓦葺きを採用可能としたのは、同社であったと言われている。 そのことによって、破竹の勢いで業績を伸ばした時期があった。 いわば、瓦葺きは同社のアイデンティティ。 その瓦葺きを用いた格式の高い入母屋屋根のモデルを圧倒的な完成度をもって商品化することは、拘らなければならぬポイントだったのではないか。
写真※1は、そのモデルハウス。 外観から、構造が軽量鉄骨造のプレハブであると容易に判別できる人は、そう多くは無いだろう。

しかし、そこで実現された入母屋屋根は、果たして如何なるものであったのか。
プレハブ住宅として、高い工業生産性の付与をもって施工の簡略化や平準化を図ったものであったのか。 それとも、伝統的な木造軸組み構法による入母屋屋根の表層的なコピーでしかなかったのか。 その辺のことは、資料が無いので判らない。
いや、今やそのようなくくりはあまり意味をなさぬのかもしれぬ。 構法とは全く無関係に成立し得る内外装意匠。 やや乱暴に言い切るならば、それが今現在の住宅産業のスタンダードである。
構法の特性を活かしたデザインの追及よりも、あらゆる様式の模倣を阻害せぬ構法の在りようが求められているのかもしれない。

2013.01.12:オーツカビル補足
※1

オーツカビルのメインエトランス廻り。
ガラスの両開き扉の片側には、解体告知の張り紙。
せめて、カラーコーンくらい除けて撮影すべきであったかな。

大谷幸夫の訃報が伝えられた。
そのニュースの文面には、いずれも氏の作品として国立京都国際会館が記されている。 やはり、代表作ということになるのであろうか。
私は学生の頃に訪ねたことがある。 どうせなら大会議場を拝みたいと思ったが、あいにく使用中。 どうしたものかとホワイエをウロウロしていたら、「休憩時間に入りましたので中を御覧になりますか」と、関係者の方が声をかけてきた。 よほど中を観てみたいという顔をしていたのだろうな。 声をかけてくれた方に感謝。 暫し、出入り口の扉越しに豪放な内部空間を堪能した。

氏の作品を多く知る訳ではないが、いずれも特異なコンクリートの量塊を纏う外観が印象にある。
沖縄コンベンションセンターなどは、新建築誌に発表された当時、どうしたらこんな造形を思いつくのだろうと紙上の写真を見て舌を巻いたものだった。

ということで、手前勝手な哀悼の意を込めて、新橋に立地する氏の作品を建築探訪のページにアップした。
オーツカビル。 オーツカ製靴の本社ビルとして建てられ、近年は賃貸オフィスとして活用されていた。
本文にも書いたが、現在取り壊し中。 この建物の存在を知ったのは7年前。 通りすがりにたまたま目に留まったのだけれども、デザイン意図が明快な外観に少々好感を持った。
とはいえ、大谷作品だとは知らずじまい。 オフィスビルという用途上、コンクリートの量塊といった作風が希薄に見えたせいもあろう。
で、最近になってなぜかフと思い立ち、久々に観に行ったら解体作業に入る旨の告知が掲示されていた。 それでは壊されてしまう前にと、改めて写真を数枚撮影。 帰宅後、ちょっと気になったのでネットで調べてみたところ大谷作品と判りビックリした次第。
その一週間後、解体工事のための足場設置が始まった。

この建物は、ネット上では賃貸オフィスの不動産情報として扱われているサイトが散見されるのみ。 建築作品として捉えたものは見当たらない。
であるならば、この場に報告することもそれなりの価値はあるのではないか。

2013.01.06:冬の陽光
※1

今年の年賀状に採用した画像は、左※1の通り。
宿泊したホテルで撮った共用廊下の開口部分。 障子の外側は穴あきコンクリートブロック積みの壁。 その存在が、自然光によって障子面にぼんやりと浮かび上がり、障子の桟と相まって微妙なダブルグリッドを形成。 そこに穴あきブロックを介して直接差し込む陽光が、規則的な横長の矩形パターンをオーバーレイする。
光と影が織りなす一瞬の様態に、思わずカメラを向けた。
写真のネタは判ったけれど、その背景に用いた年賀状らしからぬ暗い画像は一体何だ・・・って細かいことは、追及しないでください。 まぁ、元ネタが判った方は心に留め置いて下さいということで・・・。

ともあれ、採用した写真を撮った時期は冬。 五年前の年賀状にも、古民家の障子戸の写真を用いたけれども、それを撮影したのも確か冬か早春であった。
こういった光と影の妙って、冬に遭遇する機会が多いのかもしれぬ。 太陽高度の関係であろうか。 あるいは、真夏の太陽光が嫌いという個人的な嗜好にも関わっているかも知れぬ。
家の中にしてみても、夏は極力遮光を心掛けるのに対し、冬は逆に部屋の奥まで穏やかな陽光が差し込む休日の昼下がりなどに至福を覚えたりしますからね。

この辺りのことを絶妙にコントロールするための装置が「庇」であった筈なのだけれども、最近の住宅は、これがすっかり冷遇されている。
面積的な問題や敷地境界との取り合いで、なるべく軒の出を少なく収めてしまう家々の連なりが形成する街並みの貧相さについては、多くの言葉を用いて説明する必要も無い。 家そのものの性能は格段に進化しているのに、佇まいは逆に退化してしまっている現況・・・。

いやいや、新年早々、一枚の写真から全く違う方向に話が逸れてしまいました。

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