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2015.04.27:図書館三昧_12
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※1:
外観。
管理部門が入る二階以外、開口部は僅かなものに留まる。
所在地:
神奈川県川崎市
川崎区富士見2-1-4
設計:
神奈川県建築営繕課
創和建築設計事務所
施工:
関工務店
竣工:
1960年12月
※2:
竣工当初の矩計図を確認すると、天井高さは3750mmとなっている。
※3:
上記図面に拠れば、当初は網入り型板ガラスではなくガラスブロック。
そして部屋内側にアクリル製カバーを取り付けた断面構成であった。
確かにガラスブロックは遮音性能や断熱性能に優れているが、当時の製品はトップライトには不向き。
漏水の問題から現在のディテールに改められたのであろう。
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神奈川県立川崎図書館※1は、理工学系図書の所蔵に特化すると共に、社史の収集にも注力。
地方の公共図書館としてはなかなか異色の取り組みが行われている。
これは別途横浜市に県立図書館があることを踏まえた蔵書の棲み分けが行われているということなのか。
あるいは同市が近代において重工業を中心とした産業と共に発展してきた歴史を持つことも関わっているのかもしれぬ。
実際、この図書館は川崎駅を降りて京浜工業地帯に向かう途上に位置する。
ここに保管されている社史の中には勿論ハウスメーカーのものも数社あり、昭和40年代のプレハブ住宅に興味を持つ私にとっては極めて重宝。
市場に流通する住宅関連の書籍からは得られぬ貴重な情報を入手する手段として時折お世話になっている。
社史資料室は同館の四階。
明らかに当初は閉架書庫だったのだろうなと思われる狭隘な空間に様々な分野の社史が数多く揃えられており、自由に手に取って閲覧が可能。
一方、一つ下の三階にある閲覧室は広々としていて開放的な空間。
豊かな天井高を持ち※2、等間隔に穿たれた幾つもの巨大な円筒形のトップライトから安定した自然光が降り注ぐ。
トップライトを見上げれば、網入り型板ガラスを嵌めたアルミサッシが取り付けられている。
これで漏水や結露は大丈夫か?と思ったが、後でGoogle Mapの航空写真を確かめてみると、そのサッシの外側(上部)を更に既成のアクリルドームで覆っている※3。
この二重構造によって防水や温熱環境、そして自然光の制御を図っているのであろう。
同閲覧室の椅子に座り暫く空間を眺めていると、あることに気付く。
そう、外壁面に一切窓が無い。
外部への眺望や採光,通風の用途に供する機能が壁面には全く存在しないのだ。
これは、この図書館の立地条件と深く関わる。
同図書館の敷地は、川崎競輪場や川崎球場に隣接し、且つ前面が交通量が極めて多い幹線道路。
落ち着きと静謐さが求められる図書館を建てるには最悪と言える環境だ。
設計に当たっては防音防振が最重要課題であり、内外観の構成にはその対策に意が払われた結果が如実に顕れている。
外部騒音が侵入し易い開口部を閲覧室の壁面から排除したのも、その対策の一つ。
替わりに、トップライトの導入と天井高の確保で閉塞感を緩和。
その設計意図は十分反映されている。
私が初めてこの閲覧室に入室した際にも、窓が無いことに気づくまで数刻を要したくらい違和感は全く感じられなかった。
前述のトップライトの二重構造も、防音に配慮したものと思われる。
開口が極力抑えられた外観は、その殆どにPCa版が張り巡らされている。
これも外部騒音に対し壁面の音響透過損失を高める目論みであろう。
PCa版は全て同一規格。
コの字型断面を持ち、それによって微細な陰影を外表に与え、表情を造り出す。
更に、一階廻りの壁面に張られた玉石も、窓が少ない同建物の閉鎖性を和らげている。
施設内で同図書館のペーパークラフトが配布されている※4。
また、各社で社史の編纂に携わった方々を招いての講演会も定期的に開催している様だ。
同図書館に興味や愛着を持って貰うための試みであろう。
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※4:
オリジナルのペーパクラフト。
説明に従って加工すると同館の外観模型が出来上がる。
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2015.04.22:【書籍】見残しの塔/禊の塔
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※1:
著者: 久木綾子
出版社: 新宿書房
発売日: 見残しの塔; 2008年9月 禊の塔; 2010年7月
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久木綾子という作家の存在を知ったのはつい最近のこと。
きっかけは共同通信社取材班著の「日本人と建物・移ろいゆく物語」という本。
様々な建築について、それぞれに纏わる人間模様を書き連ねた書籍であるが、山口県に建つ瑠璃光寺五重塔の項で同氏のことを紹介している。
その特異な経歴に驚くと共に、この様な方が書く文章は果たして如何なるものかと関心を持ち図書館へ向かった。
で、表題にも書いた二冊を早速借りて読んでみる。
まずは、氏のデビュー作である「見残しの塔―周防国五重塔縁起」。
瑠璃光寺五重塔の建立に絡む物語だ。
ストーリーの中に仏塔建立に関わる深い工学的知見がちりばめられることで、作品の特徴と魅力が一気に引き立つ。
さすがに取材と調査に14年、執筆と推敲に5年が費やされただけのことはある。
しかもそれを70歳から始めたということに、挑戦する時期に年齢など関係無いのだと勇気づけられる。
しかし、それら工学的知見や執筆経緯を除いたストーリーのみを捉えた場合、小説の出来栄えとしてどうなのかは何とも良く判らぬ。
それは私があまり小説を読まぬためなのであろうが、例えば塔が完成する直前に次々と起こる出来事は、その発生過程を含め唐突感を覚えぬ訳でもない。
とはいえ、読み応えのある作品であった。
よくぞ、同塔から発見された一片の墨書きに想を得てこれだけの作品が編み出せたものだ。
そして「禊の塔―羽黒山五重塔仄聞」。
国宝にも指定されている同塔を、私は25年前に実見している。
初めてじっくりと鑑賞した仏塔であった様に思う。
当時、層塔についての建築知識など皆無。
何をどの様に観て堪能すれば良いのかもおぼつかなかった。
ただ、明らかに木材でありながら、経年作用によってそれとは全く異なる物性へと昇華したが如き険しいテクスチュアに畏敬の念を抱いたことは良く覚えている。
そして全景のプロポーションの奇跡的な美しさ。
更には樹齢300年以上の杉が連なる森の中に在って、それらと抗わず、かといって埋没することなく凛と建つ様が強烈に印象に残っている。
私が訪ねたのは盛夏。
しかしこの物語は真冬に始まり、以降も所々に冬の描写が展開する。
それら厳冬期の豪雪地帯の描写部分を読んでいて、かつて私が住んでいた長岡市での降雪期における様々な記憶が蘇る。
冬の同塔を訪ねてみたくなった。
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2015.04.16:八月のくじら
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写真は、小樽市西部の祝津。
右側に写っている古風な建物は、近江家番屋。
この地に現存する中ではかなり建築年の古い鰊番屋だ。
このエリアのことを御存知の方にとって、左隣の建物は奇異に映ることだろう。
「こんなの、建っているか?」と。
勿論これは合成などの加工を施した写真ではない。
撮影したのは1990年代初め頃。
その当時、この建物は確かにそこに在った。
建物名称は表題の通り。
絵画展示の用途に供したギャラリーである。
近江家番屋に隣接して忽然と姿を現した風景を目の当たりにした時、私は少々嬉しく思ったものだった。
それはその外観。
明らかに近江家番屋を意識しつつ、しかし安易に迎合はしていない。
その辺のバランスが程良くとられているナというのが、第一印象。
やや近接し過ぎといった感はあるものの、歴史的建物に対峙して新たな建物が建てられる際の好ましい作法の一例と思い、カメラを向けた。
内観については既に忘却の彼方。
展示されていた絵画は、海に纏わる写実的な油絵が中心であった様に記憶している。
そんな展示内容が、かつてはニシンの好漁場として沸き、そして今もヨットハーバーや水族館等、海に関連した施設で賑わう同地が建設地として選定された理由だったのだろうか。
しかし既にこのギャラリーは存在しない。
いつ除却されたのかも定かではない。
その登場と同様、幕引きも私にとっては忽然としたものであったが、少なくとも期間限定の仮設という雰囲気の建物には見えなかった。
新たに建てられた建物が僅かな供用年で消滅する一方、永らく所与の用途を失いながらも今日まで存続している近江家番屋。
別にそこに何らかの因縁を見い出すつもりはない。
しょせん建築も、個々の運命の下に在る。
しかし、この近江家番屋は祝津の最奥部に位置しつつ周囲の変遷を泰然と見守り続けてきた数少ない建築と言えるのかもしれぬ。
同地に建てられた番屋の多くは、復元や除却等、何らかの変節を経ている。
近江家の背後にそそり立つ高島岬の頂きに鎮座する旧田中家番屋すら、実は他所から母屋のみを移築したものに過ぎぬ。
そんな中で、近江家番屋は経年作用に拠る自然な変容こそあるものの、竣工このかた旧態を概ね留めつつ、その場に在り続けている。
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2015.04.09:メーカー住宅私考_52
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※1:
モナークIII外観。千里住宅公園展示場に出展されていたモデルハウス。
※2:
茶の間タイプ内観。
親会社が建材メーカの大建工業ということもあって、その出来栄えは同時期の平準を上回る。
茶の間奥の壁の左半分は押入れとなっているが、通常の引違いや両開き等の襖を用いていない。
右の床の間側に引き込む大きな一本引戸とすることで普段は壁の様に見せ、食堂側からの視線に対し簡素な設えを実現している。
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1984年3月にダイケンホームが発表したモナークIII。
全く同じ構成ながらも諸室の畳数調整によって幾つかの延床面積のプランを用意しているという点では、よくある規格型住宅の範疇に留まる。
しかし、一階の南面を三つの領域に分割し、それぞれにあてがう室用途を組み替えることで、プランバリエーションを更に増やしている。
具体的には以下の通り。
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ワンルームタイプ:
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三領域を一体で扱い広々としたリビングダイニングとするプラン。
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茶の間タイプ:
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三つの領域のうちの二つを食堂と茶の間の続き間とし、残りの一領域を独立したリビングとするプラン。
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客間タイプ:
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上記二領域を一体のリビングダイニングのとして用い、他の一つを和室にするプラン。
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続き間タイプ:
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二領域を和室の続き間とし、他の一領域を食堂とするパターン。
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これらのタイプ設定とは関係なく、北側の玄関廻りや水廻り部分のプランは全て固定。
そして二階部分も一階南面の組み合わせパターンによる影響を受けない。
プランの規格化による生産供給体制の効率化を実現すると共に、多様な生活様態のニーズにも応える。
今で言うところのメニュープラン的な発想が、既にモナークIIIにおいて実現されていた。
勿論、当該モデルがその先駆例という訳ではなかろう。
プランの骨格を同一としつつ顧客の注文に応じて和室を洋室に変えるといった程度の対応事例は、当時においても珍しいことでは無かった。
しかし、その用途の組合せをパッケージ化し商品的特徴に据えたという点では初期の商品であったのかもしれぬ。
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2015.04.01:未来都市の顕然
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※1:
文中の画像はその記事。
当時はこうやって結構マメに建築関連の新聞記事をスラップ保管していた。
保管といっても、分類もせずに大きな書類袋に無造作に突っ込んで押入れの奥に放置しているだけのモノが大半なのだが・・・。
しかし、いつの頃からかそういった習慣もすっかり途絶えてしまった。
それはネットの普及に拠るところが大きいのだろうと思う。
※2:
こういった状況を数多目の当たりにすると、2013年12月14日の雑記の最後に書いた言葉は否定しなければならないのかも知れぬなどと思ってしまう。
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前回、札幌市内で最近起工した大規模な再開発プロジェクトについて書いた。
場所は北2条西1丁目。
しかし再開発エリアはそのブロックのみに留まらぬ。
隣接する幾つかの敷地をプロジェクトの対象としており、ゆくゆくは周囲一帯の風景が激変することとなるのであろう。
ところで、同エリアの再開発計画は以前からあった。
今回着工した北2条西1丁目と、その一つ南側の北1条西1丁目の二ブロックを用いてツインタワーを建設する計画。
1988年1月1日の北海道新聞第一面にその記事が大きく載せられている※1。
南隣に屹立する札幌テレビ塔よりも高い超高層ビル二棟のイメージパースは、夢物語の様に思えた。
しかしそれから27年。
当時の構想と直接繋がっているのか否かは判らぬが、漸く片方のブロックで規模や用途を少し変えながらプロジェクトが現実のものとして動き出した。
その発端からちょうど30年後となる2018年の竣工を予定している。
最近、数十年から半世紀を超えるタイムスパンを伴った壮大な計画の成就が幾つか報道されている。
例えば北陸新幹線の開業。
首都高速中央環状線の全面開通。更には圏央道や外環の多くの区間が今年中に開通する。
計画が策定されてから開通まで68年を要した都市計画道路環状第2号線別名「マッカーサー道路」の例もある。
あるいは、先の札幌の計画と同じく1988年に三菱地所が公表した「丸の内マンハッタン計画」も、規模や形態を変えながら徐々に現実のものとなりつつある。
かつて夢見られた未来都市が、今、リアルタイムに実現に向けて確実に進行している※2。
その間、予期せぬ様々な災害や事件、そして出来事があった。
そういったことを包含しつつ、あるいはこれからも取り込みつつ、都市、そしてこの国の姿は今後どの様に変容していくのであろう。
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2015.03.27:図書館三昧_11
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※1:
札幌市とあまり縁がない方には判りづらいかも知れぬ。
住所を示す条と丁目の数字が大きいほど郊外とイメージして頂ければよいと思う。
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私が札幌に在住していた80年代後半、市立の中央図書館は今現在の場所ではなく北2条西12丁目に立地していた。
建物概要に関する記憶は既におぼつか無いものとなっているが、確かRC造三階建ての小規模なもの。
都市の規模相応とは到底思えぬ貧相な施設であったといった程度の印象しか残っていない。
否、それはあくまでも当時の印象。
調べてみると、その頃の建物は1967年に開館したものだという。
いま改めて眺めてみれば、とても渋味のある60年代建築であった可能性も有ろう。
しかし、移転に伴い既に現存しないので確認すべくもない。
当時の中央図書館がその様な状況であった背景は判らぬが、まずは各区に配置される分館の整備を優先させたのかもしれぬ。
札幌の市域は広い。
その全てのエリアにおいて概ね均等な図書館サービスを提供しようとするのならば、当然有り得る措置であろう。
ちなみに、現在十箇所に配置されている地区図書館のうち七館は70年代から80年代にかけて整備されている。
それらの整備が概ね一段落したことを受け、満を持して中央図書館の再整備に乗り出したのだろうか。
1991年に北海道教育大学札幌校の跡地に移転。
ようやく市の規模相応の施設となった。
しかし立地があまり宜しくない。
住所は一応中央区だけれども、南22条西13丁目と市街中心部からは結構離れている※1。
アクセスに用いる公共交通機関はバスか路面電車。
立地の恩恵に授かれるヒトは限られるだろう。
せめて市営地下鉄に直結するくらいの敷地選定は出来なかったのだろうか。
勿論、他の地区図書館の立地とのバランスをとったことや、教育大移転によってまとまった敷地の確保が容易だったこと等、様々な理由が重なった結果なのだろうけれども。
ところで、札幌市内では北2条西1丁目で大規模なプロジェクトが最近起工した。
複合用途で構成されるその再開発建物は地上28階の高層棟を含み、その西側のブロックにはかの札幌時計台が立地する。
同プロジェクト完成の暁には、札幌時計台の背後に超高層ビルがそそり立つこととなる。
既に周囲を中高層建物に囲われているのだから、新たに形成されるであろう景観については四の五の言うことは何も無い。
ま、青空と共に時計台を撮影するアングルが更に限られることになるのだろうということくらい。
あるいは、それこそが歴史的建造物に纏わる札幌という都市の今現在の典型的な風景という訳だ。
話がそれた。
起工した再開発プロジェクトは、低層階に図書館も入るという。
果たしてどの程度の規模とサービスの提供が行われるのか。
全体の完成は2018年3月を予定しているそうだから、その竣工によって市内中心部における図書館事情が改善されることになるかもしれぬ。
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2015.03.22:住まいの履歴
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※1:
知人が、御自身のサイトで自らが今まで暮らしてきた家について、詳細な模型で紹介しているのを観て、マネしてみたのですけれどもね。
但し私は模型造りが絶望的に下手くそなので、怪しいパース画で誤魔化している。
※2:
それにしても、六番目の家に住んでいたのが四半世紀近く前のことになるとは、何だかとっても複雑な気分になる。
当時のことを色々と思い起こせば、確かにそれなりに昔のことではある。
しかしながら、本当に時間が経つのは早いものだ。
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トップページの右下に「住まいの履歴」なるリンクを貼っている。
文字通り、今まで住んできた家についてその概要を述べるという趣向のページ。
当サイトでは、自己紹介の類いを行っていない。
公表するに足る華麗な経歴を一切持ち合わせていないから紹介していないのであって他意はない。
あるいは、この雑記帳をお読み頂いていらっしゃる方であれば、その文体や行間からおおよその人となりはお察し頂けることであろう。
しかしそれだけというのもどうかと思い、替わりに今迄住んできた家の紹介を行っている次第※1。
建築に関わることをメインとしたサイトなのだから、別に唐突でもなかろう。
といっても、経歴と同様こちらの方も公表するに値する様な住まいに住んできた訳でもないし、あるいはそれ以前に公表することすら憚られるような家ばかりなのではあるが・・・。
ともあれ、一部欠けながらも五番目の家まで登録して以降ずっと放置状態であったが、久々に六番目の家を追加した※2。
更新が滞っていたのは、六番目以降暫く転々とした住まいがワンルームマンションであったため。
この手の住居に関しては特に書く様なことも無かろうと思っていた。
しかし書き始めるとそれなりにネタがあるものだ。
ワンルームマンションというのも、都心部を中心に一般的な居住形態の一つ。
であるならば、「日本の佇まい」などと称するこのサイトで扱うことも意味はあろう。
ところで、それ以降はどうなんだとか、四番目の家が抜けているゾとか、いろいろ御意見もありそうだ。
そこら辺については、取り敢えずは謎めいたところがあっても良いではありませんかということに今のところはさせて頂くことにしておきましょう。
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2015.03.14:【書籍】海がきこえる
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ブログやSNS等で知人達の御子息の卒業・受験・進学に纏わる記述が散見される季節となった。
他人事の筈なのに、それらの書き込みに接して何だかとっても幸せな気分になってしまう。
そして、どうか存分に大学四年間を楽しんでください・・・と願ってみたくもなる。
その様に思うのは、私自身の四年間がとてつもなく充実したものだったと今更ながらにしみじみと実感するからに他ならぬ。
本当に、やりたいことをとことんやり遂げた夢の様な四年間であった。
意思さえしっかりしていればそれが可能なのが大学時代であることは、今も昔も変わるまい。
当時のことを思い起こし、久々に書棚から一冊の書籍を取り出した。
それが表題の本※1。
氷室冴子が記した、有り体に言えば清廉潔白青春恋愛小説。
初めてこの作品に接したのは、この原作の書籍ではなくスタジオジブリが製作した同題のアニメ作品。
宮崎駿はその出来栄えを酷評したらしいけれども、私は中野の映画館で初めてこの作品に接し大いにのめり込んだ。
その理由は、登場人物達の高校時代の制服が母校のそれに類似していたからとか、あるいは舞台が高知であるが故に飛び交う土佐弁の語尾に頻繁に用いられる「が」の語感にかつて過ごした新潟県長岡市の方言との共通性を見い出したためといったことだけではない。
終始描写される何ともいえぬ瑞々しい空気感に魅かれた。
で、原作の書籍を購入したのは勿論のこと、それだけでは飽き足らず、書籍化される以前に連載されていたアニメージュ誌のバックナンバーを全て揃えるべく「まんだらけ」に通った※2。
そして書籍化に伴う校正がなされる以前の素の文章も大いに堪能。
更に、この作品をきっかけにその舞台である高知に出向いたことは以前もこの場に書いた。
今で言うところの「聖地巡礼」ですね。
勿論、アニメにおいて主人公達が通う高校のモデルとして用いられた帝冠様式の高知県立高知追手前高校※3も観に行きました。
さて、これから数週間程度の間は、進学に関連してこの小説の第一章「フェアウェルがいっぱい」に描写される状況と似たり寄ったりの事々が、全国各地で展開されるのであろう。
そんなことを想いつつ、この書籍と、そしてその続編「海がきこえるII〜アイがあるから」を堪能する週末を過ごした。
改めて読んでみると、続編の方は当時の世相を反映したトレンディドラマ的な雰囲気ですかね。
ストーリーも、そして挿絵の方も。
これならば第一作で完結させてしまった方が良かったのかも知れぬと思う一方、更に続編が綴られるとしたらどんな展開になったのだろうという興味が沸かぬ訳でもない。
その辺は微妙なところだけれども、著者は既に鬼籍に入られている。
三作目、あるいはそれ以降は望むべくも無い。
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2015.03.09:図書館三昧_10
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※1:
東京都立中央図書館外観
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このタイトルで書くのはほぼ一年ぶり。
更に、最初にこのタイトルの文章を載せてから5年間が経つ。
シリーズ化しようという意識も無かったので極めてゆっくりとした歩みだけれども、思いつきで各地の図書館について幾度か書き込んで今回で10回目。
東京都立中央図書館について取り上げてみる。
同図書館にアクセスする際は、いつも東京メトロ日比谷線を利用する。
最寄りとなる広尾駅で下車。
図書館が立地する有栖川宮記念公園へと歩を進め、園内の坂道を登り切ると白亜の当該図書館が見えてくる※1。
有栖川宮記念公園はもともとは盛岡藩南部家上屋敷の敷地。
江戸の多くの武家屋敷が崖地を伴って高低差を有する敷地が好んで選択されたことは、様々な書籍で述べられている。
そして、盛岡藩南部家上屋敷も港区内の七つの高台の一つ、麻布台地の西端に位置し、高台と低地を包含する敷地となっている。
坂道を登る必要があるのは、図書館が高台の方に在るため。
従って、五階建ての建物ながらも最上階にあるカフェテリアからは都内中心部の広範を見渡すことが出来る。
同館建物の設計は東京都財務局営繕工事部と第一工房。
更に、吉武泰水が設計指導に当たっている。
といっても、その内外観は大して興味をひくものでもない。
図書館機能の効率的な運用を第一にソツ無く纏め上げたといったところ。
例えば、建替えか補修かを巡って最近その方針が取り沙汰されている大高正人設計の千葉県立中央図書館の様に、建物自体の鑑賞が楽しくて通う価値がある建物という訳ではない。
にも関わらず時折出向くのは、やはりその蔵書の豊富さ。
勿論国会図書館には遠く及ばぬ。
しかし国会図書館は閲覧申請からその書籍の受け取りまで、かなりの時間が掛かる。
最新の設備をもってしても、その莫大な蔵書量のため出庫には相当の待ち時間が生じる。
それに比べると都立図書館はまだマシな方だ。
書籍や資料の閲覧等の目的を果たして同館を出たあとは、そのまま広尾駅に戻るのではなく、少し周囲をそぞろ歩きしてみたくなる時もある。
その際は、図書館に向かって来たのとは逆方向、つまり東側に広がる麻布台地に歩を向ける。
そこには豪華な邸宅や各国の大使館が連なり、散歩の目を楽しませてくれる。
ついこの間も、あてもなく彷徨するうちに台地の東端にたどり着いてしまった。
で、仙台坂を下って明治通りまで出る。
更にその先に架かる二の橋を渡った向こう側に接続する日向坂を昇りかけたところで偶然常祐山円徳寺に目が留まった。
この坂は今まで幾度も往来している。
それに、寺の北側近傍に立地する銭湯小山湯※2が結構気に入っていて、湯に浸かりに数度訪ねている(今は営業をしていない)。
にもかかわらず、この寺の存在には気付くことはなかった。
こんなに魅力的な建物を見逃していたとは汗顔の至り。
ということで、同寺院の本堂について建築探訪のページに掲載した・・・って、最後は全く別の話になってしまいましたね。
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※2:
小山湯外観。
大正時代に造られたという建物は特に二層吹抜けの脱衣所が圧巻。
豪壮な折上げ格天井や骨太な差鴨居。
その間に取り付く特徴的な格子組のハイサイドライトから落ちる自然光を愛でながら湯上りに寛ぐのは至福のひと時だった。
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2015.03.03:仕組みの輸出、様式の輸出
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日経ビジネス誌の2月23日号の表紙にデカデカと載せられた「ニッポンの家」というタイトルに目が留まった。
サブタイトルに「進化したウサギ小屋、海を越える」とあり、日本の住宅メーカーの海外展開に関する動向を特集している。
その内容はやたらと勇ましい。
昨今何かと元気のない話題ばかりのこの業界にあって、明るい展望に満ち溢れた記事が書き連ねられていて読んでいて楽しくなる。
住宅メーカーの海外展開については、2010年2月27日の雑記にて少し触れた。
改めて読み返すとあまり肯定的な書き方ではない。
しかしそれから五年。
各社は地道に事業強化を図り、着実に成果を上げて来ている様だ。
当時私が抱いた印象は、ローカリティとは切り離せぬ住様式の海外展開が果たしてどこまで可能かといったものであった。
しかし同誌の記事は、その様な疑念を否定する。
なるほど海外で事業展開するにあたって各社が採用している方針は、住様式そのものの輸出ではない。
主力は、戦後の日本の住まいが独自の進化を遂げてきた生産性や品質管理に関わるシステムということの様だ。
つまりは、かつてのメイド・イン・ジャパンと同様、工業製品という位置付けでの住宅の輸出。
安定した品質やサービスを提供し、一方で現地の習慣や住様式をしっかりと組み込んだ製品供給を図ることによる事業の拡大。
今の日本の工業化住宅は、メーカー個々に独自の進展を遂げつつ、その生産技術の中で様々な顧客のあらゆる要望にきめ細かく対応するノウハウを概ね獲得している。
そのシステムの根幹を応用しながら現地のニーズに逐一対応することは、今日の国内での実績を鑑みれば最早さほど高いハードルでは無いのだろう。
あとは、品質に関して現地の水準との差別化やバランスを如何にとるか。
更にはコスト面でどう折り合わせるか、ということなのではないか。
記事の中には、生産技術のみならず和風の伝統そのものの輸出の動きについても触れている。
この方向にも言及しなければ記事の構成として片手落ちとの編集判断は正しい。
しかしその内容は少しどうかな?という気がしなくもない。
海外マーケットとしては極めて限られた一部の嗜好への訴求に留まるのではないか。
そこを打ち破るには直截な和風デザインの供給では限界があろう。
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