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2014.06.27:佐賀町エキジビット・スペース
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※1:
クロージングイベント「Emotional Site」のパンフレット。
四つ折B2判のオモテ面には、食糧ビルディングの外観写真が載せられている。
同イベントは、2002年11月16日から24日の間、開催された。
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6月11日の雑記の最後の方で佐賀町エキジビット・スペースのことについて触れたけれども、もう少し書いてみたい。
このアートスペースは、かつて門前仲町に在った食糧ビルディング内に設けられていた。
歴史を辿ればその地は近世より舟運を活かした倉庫街として発展。
1886年に深川正米市場が設けられ、1927年に同建物が建てられた。
アーチを多用した外観に、中庭を囲うロの字型の平面形態の三階建て建物。
その三階部分にギャラリーが整備されたのは1983年。
東京に住むようになってから、幾度か同ギャラリーに足を運んでいる。
初めて訪ねたのは1993年に開催されたアンゼルム・キーファーの個展。
同展覧会は、今はなき池袋のセゾン美術館と同時開催であったが、作品と展示空間の取り合わせとしては、佐賀町エキジビット・スペースの方が圧倒的に良かった様に思う。
冷厳な静穏に支配されたクラシカルな内観とキーファーの作風がものの見事に相乗効果を醸し出していた。
特に、独立させた空間一つを丸ごと使った大作、「革命の女たち」の展示スペースに入室した瞬間、ギスギスとした刺激が全身の痛覚に襲い掛かってくるかの如き感覚にとらわれた衝撃は、今でも記憶の中に少しだけこびり付いている。
その後何度も同ギャラリーを訪ねたのは、勿論企画が良かったこともあるが、建物にも魅力があった。
だから、訪ねるたびに中庭や屋内の廊下、あるいはトイレ等を写真に収めていたが、不思議なことに外観写真は一枚も撮っていない。
そんな同ギャラリーも、建物が解体されるために2000年に閉鎖。
その後、除却間際の2002年11月に開催されたクロージングイベント※1は、建物内全てを展示空間として若手クリエーターのアート作品を一堂に会するという盛大なものであった。
館内は入場者で満員御礼状態。
静謐な雰囲気の中で作品をゆっくり堪能するという状況からは程遠く、それまでこの建物やギャラリーに対して抱いていたイメージは最後の最後に悉く瓦解。
ま、中庭で執り行われた三宅信太郎による歌舞伎を模したペインティングパフォーマンスは結構面白かったですけれどもね。
同地には、今は14階建てのマンションが建っている。
そのエントランス廻りには、食糧ビルディングの外観をイメージしたのであろうアーチが設えられ、更には道路境界の一部にも、アーチを連続して穿った外構壁が設けられている。
風景の記憶を残そうとしたデベロッパー及び設計者の意図は判らなくもないのだが・・・。
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2014.06.17:1980年代
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建築文化誌のバックナンバーについて前々回少しだけ書いた。
同誌は1946年4月創刊。2004年12月号にて休刊してしまった。
学生時代、国内の建築に関する最新の情報を得るとなると、この「建築文化」と「新建築」の二誌であった。
同じ建築作品を記事にしていても、その構成や写真の質が両者で全く異なり、それを比較することが何とも面白かった。
最近、改めて1980年代の両誌に目を通してみると、なんて楽しい時代だったのだろうと思ってしまう。
どの掲載作品も、活き活きとデザインが構想され、そして実現している。
それらを見ていていると、本当に心底ワクワクする。
そんな印象を持ってしまうのには、当然比較対象として今現在がある。
例えば、最近の新建築誌を見ていて思うこと。
勿論、個々の作品の質は高い。
でも、楽しく作っているというよりは、必死に作っているという印象だ。
いつからこうなってしまったのかと言えば、勿論バブルクラッシュが節目になったことは間違いない。
否、その節目に向かってまっしぐらに突き進みつつ、建築デザインはいつしか消費の対象として捉えられるようになっていた。
より刺激的なデザイン、奇異な形態操作へとエスカレートする潮流は、バブル崩壊とは関係なくいつの日か破綻する運命を自ら背負っていた。
そして今現在がある。
ジャーナリズムを賑わせたかつての作品群の中には、価値観の転向と共に建物の老朽化とは関係なく僅かな供用期間で除却を余儀なくされる事例が後を絶たぬ。
あるいは、ハコもの批判や豪華批判に晒され、「建築」はどこか宙に浮いたままだ。
建築文化誌の休刊は、そんな流れの影響とは無縁ではあるまい。
そして、新建築誌も随分と厚みが薄くなってしまった。
少し前に押入れの中を整理していたら、以下のリーフレットが出てきた。
えぇ、色々あったのだろうけれども、それでもやはり1980年代は建築にとってスコブル楽しい時代でした。
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2014.06.11:東京ステーションギャラリー
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※1:
最近知ったのだけれども、今年に入ってから大阪でも開催されていのですね。
会期中に大阪に出向く機会があったから、知っていれば鑑賞しに会場に赴いたのに。
重ね重ね、無念。
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東京ステーションギャラリーで開催中のジャン・フォートリエ展のポスターが、JRの駅構内にデカデカと張ってあった。
そのキャッチコピーは、「絵画なのか」とある。
昨年国立新美術館で開催されたアンドレアス・グルスキー展のキャッチコピーが、「これは写真か? 」だった。
何だか似ているネ・・・、と言うよりも、東京ステーションギャラリーのキュレーターは絶対グルスキー展を意識したんじゃないか、などと勘ぐってしまう。
ということで、キャッチコピーが似ているからという、動機付けとしては安直過ぎること極まりない理由のもと、迂闊にも行き損じてしまったアンドレアス・グルスキー展※1の替わり(・・・になる訳ないダロウ!?)に、同展に足を運んでみることにした。
東京駅丸の内駅舎内に設けられた同ギャラリーは、駅舎復元工事期間中は休館していた。
でもって、工事完了後に駅舎内のやや異なる位置にリニューアルオープン。
私はまだ復活後に同ギャラリーを訪ねたことは無かった。
閉鎖される前の旧ギャラリーへは四回足を運んでいる。
磯崎新、高松伸、安藤忠雄、前川國男の個展。
つまりは、いずれも著名建築家の建築展ですね。
高松伸の個展にて展示されていた精緻なドローイングと精巧な模型には、心底震撼いたしました。
その圧倒的且つ驚異的な作品群が、荒々しいレンガ積の壁と対峙して並ぶ様は、丸の内駅舎内のギャラリーならではであった。
では、再開後の同ギャラリーはどんな雰囲気なのか。
ハイ、足を運んだ理由の半ばそれ以上は、そんなことへの興味だったりする訳ですけれどもね。
以前のギャラリーは、鉄骨によるクラシカルな意匠が施された小振りなキャノピーが丸の内広場に面して張り出す控えめなエントランスであった。
屋内に入るとすぐに階段があって二階にアクセス。
そこでチケットを渡して展示スペースに入ると複数の矩形の展示室が通路を挟んで両側に整形に並ぶ。
そんな構成だった様に記憶している。
リニューアル後のギャラリーは、丸の内北口ホール一階部分にエントランスが面していて、その構えはとっても現代的。
で、階段ではなくエレベーターでまずは三階まで昇る。
ドアが開くと、前室を介さずいきなり展示室が眼前に広がり、ちょっとした唐突感は否めない。
内装は、屋根形状に起因するのであろう勾配を伴う天井以外は至って普通。
ま、この用途の内装に関しては作品を引き立てるべく普通であることが求められるのではあるが、かつての個性的な煉瓦壁のことを思い出すと少し寂しい。
しかし二階のギャラリーに移動すると状況は一変。
質感たっぷりの煉瓦壁が空間を支配する※2。
しかしながら、この煉瓦壁以外にも、開口補強と思しき鉄骨や後補のコンクリート壁、そして遮光用の鋼製シャッターなど様々な要素が混在する上、ギャラリー自体の平面形態もなにやら随分と不整形。
展示にはかなり制約がありそうだ。
それに、順路の途上に休憩コーナーの類が一切無いのも気に掛かる。
特に今回の展示作品の一部は、極度に抽象化されているとはいえ戦争に纏わるグロテクスな出来事をモチーフにしている。
鑑賞する側としては、ちょっと気分を休める場所が順路の途上に欲しいところではありましたかね。
全ての作品を見終えると、ようやく休憩室に到る。
そして、展示空間が不整形な平面をしている理由も、そこで知ることとなる。
休憩室とガラス一枚で仕切られた屋内側は、東京駅の特徴である八角の吹抜けホールに面している※3。
この吹抜けを囲う様に展示スペースがレイアウトされているために、不整形なのだ。
で、改札をせわしく出入りする群衆を眼下に眺めつつ、ホール二階外周に廻された回廊を巡って出口に辿り着く。
順路の最後に、東京駅構内の施設ならではの演出を用意するのは良いけれど、しかしそれだけでは勿体無い。
最後ではなく途上の要所要所にこの八角の吹抜けホールへの眺望を確保した休憩室を配置すれば一層面白かっただろうに。
ま、建物自体が重要文化財であり、ホールの旧態を忠実に再現する必要性があったのだろうし、あるいは美術館としてのセキュリティ上の制約もあったのかもしれぬが。
で、作品の方はどうだったのかって?
えぇ、もちろん堪能しましたけれども、しかし例えば戦争をテーマに扱った作品となると、個人的にはアンゼルム・キーファーが圧倒的に好きな訳でして。
20年以上前に、今はなき佐賀町エキジビット・スペースで開催されたキーファーの個展で受けた衝撃は、未だに記憶の中に少々くすぶっております。
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※2:
ギャラリーの各階を連絡する階段部分の煉瓦壁。
基本、イギリス積みが用いられているけれども、積み方が乱れた部分も散見される。
煉瓦以外にも、表層が荒々しい鉄骨が露出している箇所もあり、それらを鑑賞するのも面白い。
因みに施設内は展示スペース以外はフラッシュを用いなければ撮影は自由とのこと。
※3:
休憩コーナーの屋内側に設えられた回廊より、丸の内駅舎北口ホールを観る。
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2014.06.04:本当の姿
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※1:
1946年4月創刊の建築専門月刊誌。
彰国社から出版されいてた。
2004年12月号にて休刊。
当該作品については、1992年6月号に掲載されいている。
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90年代半ばの一時期、浦安市に住んでいた。
引っ越して間もない頃、土地勘を付けようと自転車に乗って市内を巡る。
その途上、この建物の存在にすぐに気付いた。
いわゆるロードサイド店舗が連なる典型的な都市近郊の幹線道路沿いの風景の中にあって、明らかに周囲とは趣きを異にする存在感が具わっていた。
鋸状の屋根形状。
しかも道路に面した北側から背後の南側に向かって徐々に高さを増しつつ三角波が連なる。
最も奥の部分のみ波形の向きを180度反転させることで単調さを回避すると共に終端を引き締める。
三角波の連なりによって幾重にも生じる屋根の北側立面には全て硝子の開口を設置。
更にその屋根形状の特徴を補完するように、側面に穿たれる開口も三角。
これらの形象は、そこが昭和の半ばまでは海岸線の直近であったという地理的文脈を意識した波のメタファーなのであろうか。
一瞥した印象では、例えば桐生市に散在するのこぎり屋根の織物工場を髣髴とさせるその建物の用途は商業施設。
店舗名称は「浦安鑑定団」。
リサイクルショップだ。
二階建てで一階は中古のマンガ本や関連グッズ、二階はゲームソフトやDVDが売られている。
屋内に入ると、この手の店舗に見受けられる状況が極々普通に展開。
つまり、踏み台を使わないと最上段には手が届かないような背の高い本棚が、人ひとり通るのがやっとの間隔でビッシリと並んでいる。
凄まじい在庫量に圧倒されつつも、以降、気に入ったマンガ本を求めに幾度か同店を訪ねる。
しかし、建物の竣工年や設計者などは特定するには至らぬまま、数年後、同地から転出することと相成った。
で、最近たまたま目を通した建築文化※1誌のバックナンバーに、この建物が紹介されていた。
それによると、設計者は武田光史。竣工は1991年10月。
鉄骨造だと思っていたのだけれども、木造なのだそうだ。
最初から浦安鑑定団の店舗として使われていた訳ではなく、当初の用途はギャラリー併設のカフェ。
掲載されている内観写真をみて驚いた。
外観の特徴となっている屋根形状を巧みに活かした空間構成が見て取れる。
「こんな内観だったのか・・・」と、幾度も訪ねたのに全く気づかなかった自分に呆れてしまう。
否、結局私だって、建物鑑賞ではなくて書籍購入を目的に同店を訪ねていたのだから仕方がないことかもしれぬ。
であったとしても、この空間構成に気づかぬとは汗顔の至り。
ということで、早速久々に同建物を訪ねてみた。
「浦安鑑定団」が営業を継続中で、内部も相変わらずだ。
竣工当初の姿を確認しようとする視線を全て遮るように、本棚が高密度に屹立する。
更に、自然光を遮断するためにカーテンやボードで開口部が塞がれている。
フム、これは私の観察眼が劣っていたのではなく、店内の現況が凄すぎるのだ・・・ということにしておこう。
それにしても、私が浦安に在住していた時期を鑑みるならば、この建物が建設時の所与の用途にあてがわれていたのは、ごく僅か。
以降、全く異なる用途に転用され今に至っている。
むしろ、そっちの期間の方が圧倒的に長い訳だ。
ま、それ自体は良くあること。
店舗建築ならば、なおさらだ。
しかし、現在入居しているリサイクルショップが、この建物を単なる器として使用していることが幸いしている。
それが、テナントとして入っている事情によるのか否かは判らぬが、取り敢えず現況は初期の状況を殆どそのまま用い屋内に書棚を詰め込めるだけ詰め込んで使っているだけだ。
故に内外観自体は一部を除き著しい改変は見受けられぬ。
建物の特徴や魅力は、辛うじて物理的に存続している。
だから、外観を見上げながら、「少なくとも俺は君の本当の姿を知っているヨ」と心の中で語りかけ、購入した数冊の中古マンガ本を携えつつこの建物をあとにした。
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2014.05.28:メーカー住宅私考_43
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※1:
1970年台のライフスタイルの先導的モデルとなる住居を、低廉且つ大量に供給することを可能にする生産システムの提案を募ったもの。
旧通産省・旧建設省・日本建築センター共催で1970年に実施。
68社から95件の案が提出され、戸建住宅7件、共同住宅10件を採択。
採択案は1972年に国内4箇所で試施工が行われ、居住性や施工性の確認・評価が行われた。
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旧通産省、旧建設省共催が手掛けた先導的住宅モデル事業「パイロットハウス※1」については、この場にて何度か言及している。
その採択モデルの一つに選定された竹中工務店の戸建住宅は、水廻りの設備一式をコンクリート製のハコに詰め込んでコアカプセルユニットとする提案であった。
この先導事業では、採択案を実際に施工してその効果を確認すると共に、実際に分譲も行われている。
その様子は、関係資料に掲載されている写真で確認することが可能だ。
しかし、同モデルの写真を見て違和感を覚えた。
工場でコンクリート製のボックスを造って現場に運送しクレーンで基礎に固定するという工程。
ただでさえ重たいコンクリートで箱を造り、その重量物を移送・設置するというのは効率的な工法といえるのか。
それが設備系用途を収めた大きさの限られたユニットであったとしてもだ。
通常、ユニット工法を採用する場合は、いかにそれを軽量化するのかということにどのメーカーも腐心しているのだと思う。
先駆メーカーである積水化学工業のセキスイハイムは、鉄骨フレームに乾式パネルを用いた鉄骨造。
大栄住宅の大栄モジュラーハウスも、木質系パネルを主材料とすることで、それを実現した。
ミサワホーム55は、外装材としてコンクリート系のパネルを用いているが、その素材は比重0.5の軽量なもの。
移送時において、ハコの中はほぼガンランドウである。
いわば空気を運ぶにも等しいそのハコが重量物であることは、少なくとも住宅のプレハブリケーションにあってはナンセンスなことだ。
一方、コンクリート製ボックスをコアとして用いることは、構造的な強靭性を合理的に確保するという面では、メリットが大いに有り得る。
恐らくは、その辺を狙った構造形式の開発により、同先導事業が目指した工法の合理化やコスト低減の面で評価を受け、採択モデルに選定されたのであろう。
その後、このモデルが商品化されたのか否かは今のところ掴めていない。
しかし少なくとも、コンクリート系プレハブ工法においてこの形式が一般化されるには至っていない。
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2014.05.21:バルコニーの時間
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※1:
マンションの販売広告等では「バルコニー」という表記が用いられることが一般的だが、、本来これは屋根の無い場合を指す。
庇や屋根等の用途が直上に取り付いている場合は「ベランダ」と表現して区別するのが正しい。
ちなみに、屋根なしの当部位は「ルーフバルコニー」と呼称し区別することが一般的になっているようだ。
ここでは、そんな一般的な表現方法に従い、「バルコニー」と表記する。
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集合住宅、いや、戸建て住宅の場合も同様であるが、バルコニー※1というのは日常どの様に利用されているのだろう。
少なくとも、私が今現在居住している集合住宅について言えば、洗濯物や布団を干すために使われることが大半。
それ以外の用途に利用されているケースはあまり見かけないという印象がある。
勿論、仔細に観察している訳ではないから、実態は異なるのかも知れぬが。
集合住宅の各住戸にバルコニーが計画されているのは、法的に要求される避難経路の確保が第一義にある。
だから、法の厳格な運用に則るのであれば、バルコニーに可燃物を置いたり避難経路として支障を及ぼす事物を置くことは好ましいことではない。
よくマンションの販売センターに設けられるモデルルームのバルコニー部分を豪勢なガーデニングで飾り立て、そして床にはウッドデッキを敷き込むといった演出を行っている例がある。
で、たまたま観に来た所轄の消防担当者に、避難経路として支障を及ぼす住まい方を誘導する様な設えを施すのは宜しくないといた旨を指導されることも稀にあると聞く。
何事にも限度がある訳だが、そんなモデルルームを観て自らの新生活に大いに夢を膨らませ、そして購入・入居することと相成るのであろう。
しかし果たしてその後、夢に描いたバルコニーの使われ方はどの程度実行されているのだろう。
やはり、物干し場に留まっているケースが多いのではないか。
ちなみに私はバルコニーには洗濯物を干さない。
海に近いせいか、潮の香りが衣類に付着してしまってどうも良くありません。
だから晴天時でも部屋干しが基本。
布団を干す場合も、短時間に留めている。
では、バルコニーを活用することが殆ど無いかというと、そうでもない。
とっても狭いのが哀しいのだけれども、外出の予定の無い休日はその狭隘なバルコニーに椅子を出してゆっくりと寛いでいる。
幸い私が住んでいる住戸は、バルコニーが取り付く方角に低層建物以外のマエタテが無く、遠くまで眺望が抜けている。
抜けた先には火山があり、時折噴煙を上げている・・・といっても某巨大テーマパーク内の施設のことだが・・・。
椅子に座って、噴煙を模したその水蒸気が立ち上る様を眺めつつボーっとするのも良し。
手前に広がる緑地帯の緑を見下ろして愛でるのも良し。
あるいは近傍のグランドから聞こえてくる少年野球団の練習の掛け声や、眼下の児童公園から響いてくるブランコが軋む音といった様々な環境音に耳を傾けるも良し。
はたまた、こちらに向かって飛んできたカラスがバルコニーで寛ぐ私に気付き、ビックリして進路変更する様を目撃して楽しむのも良し。
近傍のグランドからこぼれ球を追いかけてきた野球少年が、そのボールを拾って軽く投げ返す散歩中の老人に対して帽子を脱いで一礼する場面を俯瞰し、その礼儀正しさにホノボノするのも良し。
上空を見上げ、あたかも平日のラッシュ時の山手線のダイヤの如く羽田空港に向かって引っ切り無しに飛び交う飛行機を遠くに望み、よくもまぁ事故を起こすことも無く日々安全に運行されているものだと感心するのも良し・・・。
といった案配で、バルコニーに佇む時間というのは、居ながらにして室内では体感し得ぬ様々な発見や楽しみがある。
ちょっと勝手が違うが、かつての民家の土縁の様なもの。
いわば住戸内外の中間領域だ。
中高層の集合住宅に暮らすのであれば、このスペースを積極的に活用しない手は無いと思う。
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2014.05.15:プレハブに纏わる記憶
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※1:
通りすがりに見かけたR2N型。一階右手にサッシを連続させて並べ、大開口を実現している。
※2:
かつて住んでいた長岡の家の近所に建っているR2N型。
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奈義町現代美術館を訪ねたことについて少し前に書いた。
同施設を訪ねる途上のとある街中で、ナショナル住宅建材(現、パナホーム)のR2N型を見かけた※1。
1966年に発売されたロングセラー商品。
今も各地でその姿を良く見かけるから、あまり珍しいという訳でも無い。
しかし、その日観た事例は旧態をよく留め、そしてその開発当初から当社が拘ったラーメンフレーム構造によってもたらされる一階部分の大開口の実現等、同モデルの特徴が良く顕れている。
空き家となって久しいと思われる状況であったが、その外観を暫し堪能。
このR2N型というモデル、かつて長岡に住んでいた頃、近所にも建っていたことに幼少の頃から気づいていた※2。
記憶を遡る限り私が初めて観たプレハブ住宅かもしれぬ。
勿論、それがナショナル住宅建材の住宅であるとか、あるいはR2N型であるといったことを当時から判別出来た訳ではない。
しかし、屋根がフラットで、そして全体のボリュームもカッチリとした矩形。
当時周辺に建っていた住宅とは明らかに異なるという印象を漠然と持っていた。
R2N型と特定出来るようになったのは、昭和40年代のプレハブ住宅に興味を持ち出した最近のこと。
同社はその設立当初より代理店方式により全国に営業網を広げ、長岡市にもかなり早い段階から進出していた。
例えば、1970年代の地元新聞紙上等にも広告が散見される。
昨年、長岡を訪ねてみた際に寄ってみたら、これも旧態を良く残しつつ現存していた。
この様な恒久的な個人住宅ではなく、仮設のプレハブ住宅として初めて認識した事例。
それは、上越新幹線の高架軌道建設に携わる職人達の宿泊施設。
これも当時住んでいた家の近傍に建てられた。
広大な空き地に忽然と姿を現した大量の仮設住宅の群景に少々驚いたのは何歳の頃のことだったか。
記憶はおぼつかぬが、その光景は上越新幹線の開業と共に跡形もなく消え去った。
今現在その場所には児童公園が整備されている。
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2014.05.11:いついつまでも
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数日前に主要新聞に掲載されたミサワホームの全面広告。
そこに、「いついつまでも」というタイトルが付いたミサワホームソングの譜面が載せられている。
同社では、1980年代前半にも同名の曲をモデルハウスや現場見学会会場で流していた。
音符を追ってみると、当時のものと同じメロディ。
懐かしいなと思いつつ、しかし歌詞は異なっている。
9〜12小節目の
「いついつまでも暮らす家、探しに出かけましょう、ミサワホーム」
の箇所は、以前は
「いついつまでもお付き合い。あなたの家です、ミサワホーム」
だったと思う。
当時の私はまだ中学生。
勿論家を建てる予定などある筈も無かったのだけれども、単なる趣味で頻繁にモデルハウスや現場見学会会場に出かけていたものですからね。
えぇ、改めて書くまでも無いけれど、メーカー住宅めぐりを趣味とする変な奴だったのです。
そこで繰り返し流されるこの曲を散々耳にしていたので、歌詞も記憶にこびりついている次第。
それにしても、今回の広告は二年前に剛力彩芽を起用した積水ハウスの広告を彷彿とさせる。
剛力彩芽をデカデカと載せるかわりに、紹介する住宅の外観は片隅に小さく小さく掲載するに留めた構成でした。
今回のミサワホームの広告も同様。
CMにも娘役で出演されている女性(名前は存じ上げません)を大きく載せ、その下に幾つかの最新モデルの外観写真があたかもオマケの如く小さく並べられている。
商品そのものではメーカーの独自性を出しにくい時代の顕れといったところか。
その中で、「GENIUS GATE」は商品提案として結構面白そうではあるけれども、やはり私の興味の対象は昭和40年代から50年代にかけての住宅。
近年のモノについては、数例を除き殆ど食指が動かぬ。
この嗜好は、いついつまでも続くのだろうか。
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2014.05.07:建築の側面に関する記録
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※:
側面事例をここにも一点挙げてみる。
建築探訪のページにも載せている、かつて長岡市に建っていた「えり芳ビル」の裏手側面。
彫深い表情の接道側立面に対し、あたかも途中で強引に切断したが如く何もない立面。
双方のギャップがなかなかオツではある。
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メインコンテンツの一つに「建築の側面」というページを設け、地味に幾つかの物件を掲げている。
建物側面の鑑賞というと、メジャーなところでは「原爆物件」という不穏な通称が付けられた対象が挙げられる。
建物側面に付着した隣地に建っていた建物の除却痕を愛でるというもの。
当該ページでも勿論そのような状況を幾つか扱っている。
しかし、側面に見受けられる興味深い状況は、何もそれのみに留まらぬ。
様々な様態について、かなり無理矢理な見立てを行いつつ、更には個々のタイトルを必ず八文字で表記するという全くを持って無意味な自主ルールに則りつつ、各ページを纏めている。
最近、今まで挙げた事例の今現在の状況について、可能な範囲で幾つか確認して廻ってみた。
かつて、それぞれの物件を前に感じたことを改めて見直してみたいという想いと、あるいはその後の変容の有無について関心があった。
しかし、意外と残っていない物件が多い。
例えば、東京都物件No.01,02,12は、その周辺建物も含め根こそぎ無くなり、今は環状二号線が通っている。
近年、都内で最も変わった場所ではないだろうか。
あるいはそんな変貌のさなか、近隣建物が徐々に除却される過程で、多くの側面物件の鑑賞が可能なエリアでもあった。
同エリアは他にもネタが多数在るのだが、八文字のタイトルが考えられなかったり、各ページを構成する上での前提となってしまっているまとまった文字数の文章が思い浮かばず、写真のみがHDDの肥やしとなっている。
他にも、東京都物件No.07や10も既にこの世に存在しない。
物件No.08は隣にオフィスビルが建ち、その側面を塞いでいるし、No.13は期間限定と謳っている通り、今は新たな商業スペースとして建物そのものが装いを改め大いに賑わっている。
東京以外の物件についても少々ふれてみようか。
新潟県物件No.01は、壁面がピンク色に塗り替えられ、その前面には巨大なマンションが建つ。
また、新潟県物件No.04は外壁がグレーのサイディングに張り替えられ、写真と同様の状況は既に見ることは出来ない。
実は新潟物件と謳っているものは、全て同県の長岡市のもの。
商圏の拡散による既存市街地の衰退という多くの都市に見受けられる状況が、同市においても顕著に顕れている。
その結果、逆スプロール状に建物が除却され、鑑賞可能な側面が露出する。
つまり、建築の側面とは都市の更新や衰微と共に在る。
都市の趨勢があられもなく可視化された状況なのだ・・・などと言い切ってしまおう。
更には、その露呈期間は限られたものである場合が多い。
そういった意味で、今後も程々に側面物件の探索を継続していきたいとは思うのだけれども、こればかりは本当に偶然出会うものばかりなので、ナカナカ。
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