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2016.04.26:保全と公開の狭間
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「建築外構造物」のページに旧日立航空機立川工場変電所を登録した。
建物ではあるけれど現況は遺構なので、「建築探訪」ではなく当該ページの方に入れることにした。
その立地については本文に書いた通り。
公園内に在るため、休日の昼下がりに訪ねた際には同施設の正面に設けられた広場にも子供達が多数戯れていた。
市指定の文化財であること。
そして普段は非公開であることから建物の周囲は竪格子のフェンス及び門扉が張り巡らされている。
一部の子供達が、そのフェンスを乗り越えて建物に近づこうと果敢に挑んでいる。
しかしそれなりの高さがある竪格子のフェンスを子供が乗り越えることは無理。
手摺やフェンスの乗り越え防止、あるいはよじ登りに起因する転落事故防止に係る安全配慮の考え方の中に「足掛かり」と「足が掛かる部分」という二つの用語がある。
一般財団法人ベターリビングが整備している基準書にかつて明文化されていた定義では、前者は「床面からの高さが650mm以下で幼児が他の部分に掴まることなく足を掛けて上がることが出来る部分」とあった。
そして後者は、「他の部分に掴まりながら足を掛けて上がることが出来る部分」だ。
それらに該当するパーツ(中桟等の水平材)が無い竪格子は、なるほど子供がよじ登って乗り越えることは出来ぬものだな・・・などと思いもかけぬところでその用語が定義するところの有効性を観察することとなった。
とはいえ、そんな子供達の行為を外観写真の中に写し込む訳にもいかぬだろうということで、彼らが諦めてその場を去るまで撮影を待つことに。
しかし子供達はしぶとい。
なかなか撮影の機会を与えてはくれないのでこちらも気長に待つしかない。
待ちつつ外観を眺めていたら、別の子供が嬉しそうに私に走り寄って来た。
「見て!コレ」と差し出した掌には小さな蟻が一匹。
生きたまま捕まえたことがとても嬉しかったらしい。
咄嗟にどう対応していいかも判らず「ヘ、へぇぇ、良かったネ」などとシドロモドロに返答しながら不器用に笑顔を取り繕うのが精一杯。
「これではすっかり不審者だな・・・」と心の中で呟きつつ、狙ったアングルの視角内から子供達が離れた僅かな隙に建物外観を写真に収めてソソクサと撤収。
子供達が乗り越えを断念したフェンスには施設管理者による注意書きが掲げられていた。
一方には「大切な文化財です。石を投げないでください」。
他方には「ボール遊びはやめて!!」とある。
当日、私の滞在中にその様な行為に及ぶ者を見掛けることは無かったけれど、歴史的建造物の保全と公開の両立には常に難しい問題が付き纏う。
公園内に立地する建物となれば尚更だ。
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2016.04.17:メーカー住宅私考_64
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it's MY STYLE HYBRID KURA
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it's MY STYLE HYBRID KURA外観。
現在、同モデルは名称を「HYBRID KURA」に改めている。
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2003年10月1日にミサワホームが「快眠を家学した住まい」というキャッチコピーのもと発売したユニット工法の住宅。
そのリリース記事を初めて観た時の私の興味の対象はそのキャッチコピーには無かったし、あるいはそのキャッチコピーが明瞭に空間化されているのか否かということでも無かった。
むしろ、断面空間構成の妙に注目した。
外観はソツなく纏まっており、それがユニット工法によるものということを感じさせない。
箱を組み合わせるというこの工法の特徴がもたらすデザイン的制約から住宅らしからぬいびつな事例が多かったかつてのことを思うと、隔世の感。
一方、南面に確認できる一階床面から二階屋根の軒下まで貫く巨大な開口は、組み合わされた箱一つ一つがラーメンフレームによって個々に完結した構造体として構成されるカプセル工法ゆえに可能なことでもある。
工法の特徴を活かし、この工法で無ければ実現し得ぬ意匠を巧みに取り込みつつ、家としての全景もソツ無く纏めてみせた。
そんな好例と言えそうだ。
外観とは文字通り裏腹に、その内側には変化に富んだ動的な断面構成が展開する。
1.5層分の高さを持つリビングルーム。
書斎的な空間と就寝スペースを、0.5層分のスキップを伴って軽く分割しつつ連続させた主寝室。
同様に、2.5階のロフトと大胆な続き間とし、尚且つその段差を利用して階下のリビングへの視線も確保した2階の子供部屋。
そのロフトや主寝室の就寝スペースからは、更に小屋裏収納へとアクセスが可能。
更には、同社が展開する「KURA」と称する約半層分の天井高の納戸が、フロアの間に挿入される。
なかなか文章では説明しづらい。
しかし、フロアごとに平面的にプランを割り振るのではなく、諸室に要求されるボリュームに応じて立体的に組み合わせるラウムプラン的な構成がとても興味深く思えた。
そしてそれを、カプセル工法で成し遂げているところが大いに注目出来る。
その初期段階において、おおよそ住宅と言うには無味乾燥な内外観を呈していたユニット工法。
例えばそれは、ミサワホームが初めてこの構法を用いて商品化したミサワホーム55とて例外ではなかった。
それから二十年余りを経て発表されたHYBRID KURAを初めて目にした際、その進化に纏わる企業の技術開発の流れに妙な感慨を抱くこととなった。
今、同モデルが発表されてから更に12年以上が経過する。
このit's MY STYLE HYBRID KURA以降、ユニット住宅におけるプランニングの自由度は果たして更なる進化を獲得しているのか否か・・・。
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2016.04.06:【書籍】中野京子が語る橋をめぐる物語
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※1:
水面から少し頭を出して四本等間隔に並んでいる昔の木橋の名残。
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北海道新聞の夕刊に月一回連載された同題の記事を一冊に纏めた本。
内容は、タイトルそのまま。
古今東西の様々な橋に纏わるエピソードや歴史、伝説について語られている。
新聞掲載のコラムゆえに文体は極めて平易で簡潔。
気軽に読むことができる。
各話を読み進めるにつけ、ヒトが創造する橋の形態が実に多彩であること、そしてそれぞれの橋に絡む人々の営為が如何に多様な物語性に溢れているかということを存分に堪能できる。
堪能できるのだけれども、しかし収録された最終話(第30話)だけはちょっといただけない。
その殆どが三島由紀夫の「橋づくし」のあらすじの記述に淡々と浪費されるだけの文章って如何なものか。
最後の最後で息切れかな・・・などと思ってしまったけれど、しかし書籍出版時点では北海道新聞に連載継続中とのこと。
同紙を読む機会など無いので確認していないけれど、今現在も連載中であるならば続刊を期待したいところ。
橋というと、私がすぐ脳裏に浮かぶのは長生橋。
新潟県長岡市の中央を流れる大河、信濃川に架かる橋だ。
高校時代、全長850mのこの橋を通学で毎日往来していたので馴染み深い。
雄大な川の流れの中にトラス橋が凛と横断する様態であるとか、あるいはそのトラスが織り成す幾何学の向こう側に東山連峰を望む構図などは、長岡に対する個人的な心象風景になっている。
この橋は歩車道が完全に分離(というよりも、車輌交通の増大に伴い歩行者専用道が後補で設置)されているのだけれども、その歩行者通路から川面を見下ろすと、鉄橋に架け替えられる前の木橋の名残が確認出来る。
水面に並ぶ橋脚の木杭※1。
それが近年まで目視出来た。
乾湿を繰り返す条件下に無い限りにおいて木の耐久性が極めて優れたものであることは様々実証されているが、昭和初期の遺構が大河に抗い何十年にも渡って泰然と物理存在している様はなかなかに神々しくもある。
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2016.03.29:建築への旅、建築からの旅
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※1:
氏の著作集「宮脇檀の「いい家」の本」のp200に記載がある。
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GA JAPAN139号の特集は「建築への旅、建築からの旅」。
どうせ著名建築家の先生方による「俺はこんな建築も観に行ってるんだゼ」的な益体も無い自慢話がツラツラと書かれているのだろうなどと高を括って読み始めたのだけれども、決してそんな薄い内容では無く、けっこう面白い。
そして登場する著名建築家の面々のポートレイトがこれまた印象深い。
久々に拝む御仁などは、結構いい感じに歳をとっていらっしゃいますかね。
煙草を燻らしつつ露骨にチョイ悪爺さんな風体をきめこむ石山修武は、御自身が進んで企図した演出なのだろうな。
その石山御大が語る磯崎新とのチベット旅行の顛末を記した短文は、こんな破天荒な旅行(というか、殆ど冒険の境地ですか)をしてみたいものだなと憧れを持つ。
しかし、憧れるだけであって小心者の私にはハナから無理。
公共交通機関のダイヤも含め、予め事細かく旅程を組まないと不安でたまらない。
もっとも、緻密にスケジュールを立てて目的地に向かっても、結局その通りに行動したためしなど未だ一度たりとも無いのだけれども・・・。
私にとっての旅行の目的というと建築鑑賞にほぼ限定されるが、その際の決め事(・・・という程のものでもない)が幾つかある。
その中から三点挙げてみる。
1.車を運転して巡らない
公共交通機関、レンタサイクルを利用するか徒歩で巡る。
まぁ、完全無欠のペーパードライバーだからっていうだけのことであったりもするのですがね。
でも、仮にレンタカーを利用して見知らぬ土地を運転して巡ったとしても、風景が気になって脇見ばかりをしてしまうことになり危険なことこの上ない。
2.独りで廻る
目的としていた建物の周辺にて、それ以上に興味深い物件や印象的な風景に遭遇する機会を得ることがしばしばある。
そういった対象を求めて徘徊することがとっても楽しい訳で、その理由からも自動車は使わない。
そして勝手気ままに徘徊するには独りの方が良い。
勿論、自分とは異なる視点に接することが出来るという点で、誰かと行動を共にする旅も面白いのですけれどもね。
しかしそんな場合でも、可能であれば単独行動する時間を設けるようにしている。
例えば泊りがけの場合は早朝とか深夜に、あるいは電車やバスの乗り継ぎの際に生じた待ち時間などに。
3.地元の図書館にも行く
郷土資料コーナーにて現地で気になった建物について調べる時間を確保する。
後日ネットや国会図書館で調べればコト足りるだろうなどと安易にそれらに期待しない。
ほかにも、旅の移動中は「寝るな喋るな本読むな」という宮脇檀の指南※1にも大いに共感するところ。
これは移動中の車窓からの風景にも注視せよという意味なのだけれども、しかし私の場合「寝るな」というのはなかなか実行できない場合も多い。
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2016.03.22:メーカー住宅私考_63
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三菱地所は、1979年11月にASSET(アセット)というブランド名称で戸建住宅事業に参入。
1982年5月1日に東京赤坂の薬研坂に面して「赤坂アセットハウジングギャラリー」という独自の展示場を開設し、2170平米の敷地内に幾つかのモデルハウスを建てて営業展開を図っていた。
以前この場に書いた日本ホームズも、西麻布に「六本木ビレッジ」と称する自社の住宅展示場を構えて同様に複数のモデルハウスを用意していた。
何か対抗意識の様なものがあったのだろうか。
しかし、日本ホームズが庶民とは無縁の豪邸級の贅沢なモデルハウスを余裕のある敷地に点在させていたのに対し、三菱地所は庶民が少し背伸びをすれば手に入れることが出来るかもしれないといった印象のモデルを連ねていた。
それは、最初期モデルASSET101が当時の坪単価で100万円を超える超高額仕様で、思ったほどの事業成果を上げられなかったことを踏まえて判断された方針だったのだろうか。
翌年7月に重量鉄骨造のASSET201、11月に2×4工法のASSET301を発表。
更に1983年にはローコスト住宅としてASSET501を発表している。
このモデルは狭小敷地への対応を想定したもので特に地味な印象。
但し細かいところに配慮が行き届いていた。
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ASSET 501外観
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ASSET 501平面図
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玄関を入ると、要素が整理されたシンプルな空間が設えられている。
狭小住宅の場合、玄関廻りは諸室への出入り口扉や階段等が並び、雑然とした印象に陥りやすい。
ここでは、それらが見え掛りから極力排除され簡素に纏められている。
そしてホールの角から廊下に差し掛かるところに、半間幅のクロゼットが用意されている。
これも細かな配慮。
忘れがちなのだが、玄関のそばにクロゼットがあると結構重宝する。
凡庸な設計であれば、この様に半間幅のクロゼットは設けず、背中合わせの和室側にそれぞれ一間巾の押入れと床の間を設けて終わりであろう。
ここでは、そのクロゼットが設けられることによって、結果として和室の床の間が狭くなっている。
しかし使い勝手の上ではトレードオフだ。
更には、そのクロゼット扉を玄関ホール側ではなく廊下側に向けることで、玄関ホールをシンプルに見せている。
廊下には階段が並置するが、その階段下をニッチ状にして空間を有効利用している。
同社のモデルハウスでは、そこにワインセラーを配置しているが、そんな小洒落た住まい方提案は、旧財閥系企業ならではといったところか。
その階段上部を吹抜けにして縦方向の開放性を演出することで、中廊下部分の閉塞感を緩和している。
その廊下を進み正面の扉を開けると、軽く間仕切られたリビングとダイニングが広がる。
両者の連携はスムーズ。
更にダイニングの奥にあるキッチンは、一方に家事コーナー、他方にサニタリーゾーンが一直線に並ぶ。
家事動線の設定としてとても巧みだ。
二階はさすがに余裕が無いが、階段脇にちょっとした多目的スペースを確保。
限られた空間であるが、様々な利用が考えられよう。
諸室の配置は単純に割り切りつつも全て南面させている。
ということで、細かい配慮が散見されるところが嬉しい。
そしてそのことが外観にも当て嵌まる。
一見、極々ありふれた建売住宅の様な印象だ。
しかし、フラワーボックスやバルコニーの配置、あるいは屋根勾配や窓の配置を含めた全体のプロポーションの調整によって、ちょっとばかり品格が備わっている。
こういった凡庸な内外観の住宅にこそ、デザインセンスが如実な差となって顕れてくるのではないか。
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2016.03.14:プレハブ文化財
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数日前、軽井沢に現存するセキスイハウスA型(以下、A型)が登録有形文化財に登録されたという発表があった。
登録制度に基づく文化財とはいえ、文化財は文化財。
しかもプレハブ住宅が登録されるというのは初めてのことであり、画期的な出来事と言って良いのであろう。
報道に用いられている外観写真を見た際、それをA型と判別することは私には出来なかった。
分厚い破風やそれなりに深い軒の出は、同社の社史等で公式に紹介されている同モデルの外観とはかなり雰囲気が異なる。
文化財にはオーセンティシティという原則があるから、登録対象は竣工時の様態を良好に保持しているのであろう。
であるならば、A型にも幾つかの仕様が存在したということになるのか。
あるいは、積水ハウスの創立30周年社史「住まい文化の創造をめざして 積水ハウス30年の歩み」によると、A型の発売期間は1960年4月から翌年の7月迄。
この間に207棟が販売され、以後は構造形式やディテールが全く異なるセキスイハウスB型に移行したとある。
ところが登録されたA型が建築されたのは1963年とあるから、ますます判らなくなる。
もっとも、20年後に出版された同社の50年史※1には確かに軽井沢のこの住宅がA型として紹介されているから、取り敢えずは色々とあるのであろう。
それに、この際それは枝葉の事項だ。
プレハブ住宅が文化財として認められたということ自体が重要なのだから。
今後、この様な事例は増えてゆくことになるのであろう。
次に登録されるのは、どのメーカーの何というモデルになるのだろうか。
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2016.03.10:芦屋浜団地に関する補足
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※1:
三菱グループはA,B二案を提出している。
※2:
三菱グループA案の建設プロセス概要模型。
スーパーストラクチャーに住戸ユニットを複数同時にリフトアップで所定の位置に据え付けることが構想されていた。
※3:
1972年開催の国際グッドリビングショーにミサワホームが出展したホームメカ。
写真は、同社が当時開発していたホームコアのプロトタイプにホームメカを装着したもの。
外壁に出窓の様に取り付いている部材がホームメカ。
内部はユニット化されたキッチンセットやクロゼットとなっている。
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建築探訪のページに芦屋浜シーサイドタウン高層住区を載せた。
補足で、この事業実施に先立って執り行われた技術提案競技の応募案についてこちらに少し書いてみたい。
1972年2月に競技の募集要項が公表。
1973年1月末に提案の応募を締切。
22の企業連合から25の案が提出された。
要項に規定された事業規模から単独企業での実現は困難であり、いずれも企業連合を組織のうえ事業提案を行っている。
提出された25の案については、約150名の体制で厳正かつ大掛かりな審査を半年の期間を費やし実施。
同年8月に1〜3等、そして準入選案と優秀案が選定された。
勿論、1等に採択された案が実際に建設されることとなったASTM案である。
当時の資料を確認してみると、現実性と先進性、そしてゾーニングや意匠の妙といったバランスに関し、やはりASTM案が選ばれるべくして選ばれた適正なコンペであったという印象を持つ。
しかし、他の案の中にも興味深いものが見受けられる。
例えば、準入選案となった三菱グループのA案※1※2は、ASTM案と同様にスーパー・ストラクチャーを採用している。
そして各住戸を完全にユニットプレハブ化。
敷地が臨海部であることを活かし、工場で予め100%完成させた住戸ユニットを現地に船舶で海上輸送。
先行して立ち上げたスーパー・ストラクチャーの足元に据え付け、その構造体をガイドとして活用したリフトアップにより所定の位置に配置するという大胆な構法を提案していた。
更には、各住戸の外装非構造壁にも石膏系の新素材を採用すべく、その開発経緯と物性の確認データも提案書に付記している。
何とも大胆で、もしもこれが採択案に選定され実現したら現在建っている建物以上の強烈なインパクトであったことであろう。
但し、実現性の観点から少々先進的に過ぎたこと。
そしてスーパー・ストラクチャーが単に構造体としてしか機能していないところがASTM案との差であったのだろうか。
あるいは、優秀案に選ばれた住友建設グループ案。
この企業連合にはミサワホームも参画していた。
提案書の取り纏めに当たって、同社がどの様な役割を担ったのたかは判らない。
案自体は、2フロアを一つの構造ユニットとしたスーパー・ストラクチャーとまでは言えないもののやや大掛かりな形式を採用。
その構造フレームを可能な限りパーツ化しPCa化を図る構法提案を基本に、長大な中層板状の住棟ボリュームをメインに据えた配棟計画が提出書類から確認出来る。
その中で、各住戸プランには1972年にミサワホームが戸建て住宅用に提案したホームメカ※3を思わせるディテールが確認出来る。
ホームメカは、各種住宅設備をユニット化し外壁面にオーバーハングさせる形で装着するもの。
「装置壁」の別名もあり、建物本体に影響を与えることなく設備等の容易な更新を企図している。
その発表時期を鑑みると、この「ホームメカ」が芦屋浜の提案に組み込まれた可能性はあろう。
他の案も、構造躯体のPCa化を中心に、コンペの主要テーマであった住宅建設の工業化について、個々に具体的な事業提案が行われていた。
国が関与する住宅生産の工業化に関わる大掛かりなコンペティションは、1970年実施のパイロットハウス技術考案協議に始まり、この芦屋浜コンペ。
そして1976年に実施された新住宅供給システムプロジェクト(通称「ハウス55プロジェクト」)が挙げられる。
パイロットハウスとハウス55プロジェクトが一部を除き中途半端な結果に留まったのに対し、芦屋浜は工業化住宅で一つの都市を創るという目的が取り敢えずは完遂し、今に至るという成果を挙げている。
この結果の違いは、工業化住宅に係る構法開発のピークと芦屋浜プロジェクトの事業期間が調度重なっていたことの顕れなのかもしれぬ。
ちなみに、芦屋浜団地に関しては、長岡市内を中心に発行されている情報紙「マイスキップ」の今月号の第二面にも少し記してみた。
昨年から不定期に連載してきた「独特の発展をみせた我が国のプレハブ住宅の解体新書」の最終回である。
興味を持つ人も殆どいないであろう極個人的な趣味の世界について幾度も書く機会を与えてくださった編集部の方々に大感謝である。
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