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2019.04−2019.06
2019.06.27:メーカー住宅私考_105
ユニット工法における和風問題

※1
このモデルについては、2013年1月15日にこの雑記帳に載せた当該シリーズの第21回で言及している。

※2
個人的には、「住宅メーカーの住宅」のページで紹介しているミサワホームSIII型も該当すると考えている。

70年代半ば以降のいわゆる商品化住宅の興隆以降、「和風」にカテゴライズされるモデルも各社から発表される。
例えば、積水ハウスが1976年に発表した「セキスイハウス2BW型・和瓦の家」や、大和ハウス工業が1978年に発表した「スイートム20和瓦の味わい」。 あるいは、ニッセキハウスも1980年に「入母屋の家※1」を発売しているし、ミサワホームも自由設計(フリーサーズ)において和風住宅の傑作を多く輩出している。
それらはいずれも、パッと見た目には旧来からの在来工法に拠る和風住宅と遜色のない本格的なもの。 とてもプレハブ工法が採用された住宅とは思えぬ完成度を誇っている。

一方、1980年代に入ると、あまりどっしりと和風を前面に押し出すのではなく、その要素を軽く取り入れて内外観を構成するモデルも増え始める。
事例として、積水ハウスが1982年に発表した「セキスイハウスBK-430型・入母屋の家」については、「住宅メーカーの住宅」のページでも取り上げている。 そこでは、サブタイトルを「カジュアルな和風」とした。 他にも、ニッセキハウスが1983年に発表した「錣屋根の家」や大和ハウス工業が1984年に発表した「新和風」等が該当しよう※2
これらに共通するのは、土地利用の効率化から総二階に近いプロポーションを持つこと。 だから、そもそも一般的に共有されるイメージとしての本格的な和風表現は難しい。 そのことを前提に、既に普遍化している洋風の生活に抗うことなく和のイメージをバランス良く付与させる方向で内外観が整えられた。

ここまでの話は、軽量鉄骨系と木質系の工法の話。 ではユニット工法の場合はどうだったのかというと、少々勝手が異なってくる。
まず本格和風(の擬態)と見做せる事例は私の知る限りでは存在しない。 それは、様式の再現性や擬態性という点において、ルームユニットの組み合わせを前提とした同工法は他工法に比べ意匠に関する制約が多いため。 確かに、その制約を突破すべく、例えばニッセキハウスが1975年頃に和瓦を載せた「Uシリーズ」というユニット住宅を発表している。 しかしそこは何をもって「和風」とするのかという問題に関わることとなる。 それを深堀りし始めるとキリがないが、取り敢えずは瓦屋根を葺きさえすれば和風とする価値判断は避けるべきであろう。


外観

平面図
※3
一階平面図の和室と廊下の間やリビングとダイニングの間の壁がそれに該当する。
二階においても同じ位置に同様の箇所が生じている。

では、本格的な擬態はともかくとして、カジュアル路線の和風も無理なのかというと、そんなことは無い。 事例の一つとして、1986年にトヨタ自動車が発表した「樹(こだち)」が挙げられる。
その外観および平面図は文中の画像の通り。 一階と二階のボリュームをもう少し調整すれば、より和風の印象を深める可能性を有する意匠性をその外表に実現している。 あるいは平面プランも、田の字型を基本に手堅くまとめている。 特にここでは、待合いの様なスペースも兼ね備えた広々とした玄関土間の扱いや、リビングと和室の床レベルに段差を設けて両者の連携と独立性を兼ね備えた扱いが面白い。 更には、ユニットどうしが接する箇所に分厚い壁や柱型が発生する同工法の欠点を逆手にとり、その部位※3をセントラル空調室内機設置スペースやニッチ、そして薄型収納の配置に充てるといったきめ細かい配慮も見受けられる。

ユニット工法ならではのハコの組み合わせという即物的な表現から脱し、様式の擬態という商品化住宅の流れに与しつつ、更に「カジュアルな和風」という市場ニーズにも乗ろうと企図されたモデル。 それが、この樹(こだち)の位置づけであろう。

2019.06.19:ウサギ小屋から
※1
4.5畳の和室はもしかすると押入れの無い6畳間で、DKとの連携を強化したものだったのかも知れぬ。 しかしそれでは住戸内の収納量が少な過ぎることとなる。
あるいは、この試案だと洗濯機置場が想定できない。 玄関ホールのトイレ脇のスペースに無理矢理置いたのか、あるいはキッチン内に置くことが考えられたのか。 後者であれば、キッチン内の戸境壁に沿って小さなPSが設けられた意味も判ってくる。
そうなると、キッチンセットはL型ではなくI型のものが共用廊下側の外壁に面して造り付けられていたのかも知れない。

間取り逍遥のページに集合住宅No.27を登録した。
当該物件の竣工は1981年12月となっている。 その二年前の1979年、ECの対日経済戦略報告書の中で日本の住宅事情について「ウサギ小屋」という言葉が用いられた。 当時の日本ではその言葉は自嘲的に受け止められ、以降長きにわたって住宅事情の貧相さを海外から辛辣に指摘されたものとして住まいの評価に係るトラウマとなって纏わり続けた。 それは実際には、縦横に画一的な住戸が積層する共同住宅の形式を指す言葉であった訳だが、そこにネガティブなニュアンスが込められていたことは否定できぬ。 今回取り上げた物件も、元々はそんな時代背景の中で造られた「ウサギ小屋」であった。

二度のリノベーションを経た集合住宅No.27の原初のプランについては、間取り逍遥のページには載せなかった。 それは、資料がないためにあくまでも推察の域を超えぬ一つの試案を載せざるを得ぬため。 しかしこの雑記帳の場であれば特に構わないだろう。
ということで、「2戸1化」以前の隣り合う別々の住戸であった竣工時の試案を以下に掲載する。

左の備考欄※1に書き連ねたとおり、細部まで断定することは出来ない。 しかし概ねこの様な構成だったのではないか。
それぞれの住戸面積は50平米に満たぬ。 当時平準的な家族構成として想定されていた夫婦に子供二人の四人家族がそこに住むとしたら、今の感覚では狭さは否めぬ。 上に書いたとおり、「ウサギ小屋」の一つの事例であったということになろう。
しかしその後の住宅事情や価値観の変容と、それに合わせて当該物件が経てきた変化については、間取り逍遥の方にも書いた通りだ。

果たして今、「ウサギ小屋」という言葉はどの程度共有されている認識であろう。 近年の国際比較データを見ると、日本の住宅は決して狭くは無い。 あるいはそんな居住水準の変化が、2戸1化を含む二度のリノベーションを経て来た集合住宅No.27の今現在の姿にも反映されていると言えるのかもしれぬ。

では、もしも今後三度目のリノベーションがあるとしたら、当該物件はどの様に変化することが考えられるか。
世の中は、少子高齢化や一世帯あたりの家族構成人数の減少傾向が顕著だ。 その流れを受けて、狭く豊かに住む方向に変えられてゆくこともあり得よう。 即ち、再び分割され2戸1化以前の原初の面積に戻り、その中で豊かに住まうためのプランが導入される可能性。 そう、単なる過去帰りとは異なる「ウサギ小屋」へと向かってゆく選択肢だ。

2019.06.12:失われた建物に纏わる小さな記録

北海道立産業共進会場
旧所在地:札幌市豊平区月寒東3条11丁目1-1
建築年:1972年

札幌市豊平区にある八紘学園の花菖蒲園を一般開放期間中に訪ねた際、豊かに広がる牧歌的な風景の向こう側にその風情とは明らかに様相を異にする巨大な物体が見えた。 あたかも草原に舞い降りた巨大未確認物体の如きその物理存在の正体は、北海道立産業共進会場。 通称、月寒グリーンドーム。
その名の通り、そしてその外観が示す通り、円形平面を持つ屋内アリーナ施設である。

この建物には市内在住中に幾度か足を運んでいる。 その中で特に記憶に残っているのは、1988年に市内で大々的に開催された「世界・食の祭典」という博覧会の一環で当該施設にて執り行われたマイスル・デイヴィスのコンサート。
マイスル・デイヴィスといっても、エレクトリック色を全面に押し出したジャンルに転向した後のマイルスであって、アルバム「TUTU」からの選曲が多かったように思う。 とはいえ、マイルスである。 かの帝王が目の前にいるというだけで感動モノではありました。
更に、途中で演奏されたタイム・アフター・タイムでのソロが凄かった。 あまりにも美し過ぎる演奏に、忘我の境地。 否、きっとそれは私だけでは無かった筈だ。 恐らくその場にいた観客の殆どが同様の状態に陥っていたのではないかと思う。 御大のソロが終わっても会場は水を打ったように静まり返ったまま。 「オイオイ、みんなどうしたんだ?」とでも言わんばかりに自身のトランペットを高々と頭上に突き上げるポーズをとるマイルスを見て漸く観客全員がハッと我に返り、割れんばかりの拍手と声援が場内を包む。 これが帝王と呼ばれる所以かと震撼させるとても貴重な瞬間であった。
まぁ、記憶の美化による補正が相当入ってしまっているとは思うが・・・。

私の場合、訪ねた施設で実際に開催されるイベントの中身よりも、その施設自体に関心が向くことが多い。 しかし当該施設についてはその逆。 そこで行われたコンサート等の記憶しかなく、建物自体の印象は極めて希薄だ。 それほどの興味を引く存在でもなかったということなのだろう。
2016年3月末に閉館。 その後建物は除却され、跡地には大型商業施設が建てられた。

2019.06.04:大量廃棄時代のモニュメント

道路側立面の二階部分に穿たれた開口部。
徘徊と日常のページに掲載した多摩地域冷暖房センターと共通のディテールが採用されている。 また、外壁の仕上げも同じだ。

少し前に徘徊と日常のページで言及した多摩センター駅近傍に立地する二つのライフライン関連施設について、こちらにも書いてみる。
最初に目に留まった施設は、「多摩地域冷暖房センター」という東京ガスの関連施設。 歩行者専用道路に面する立面に、ちょっと気になるディテールを纏った開口部が二連設置されていることを、徘徊と日常のページに書いた。
その意匠については、当然好みが別れることとなろう。 しかし、縦横に規則的に化粧目地を切ったのみの表情に乏しい外壁面の中で、開口部廻りだけには意を払いたいとする設計者の強い意思の顕れをそこに読み取ることが出来る、 恐らくはプレキャスト部材にて対応したものなのであろう。
他の立面の開口部にも同じ設えが施され、外観への表情の付与に成功している。

そして、多摩センター駅から当該建物に至るまでの途上にもう一つ、同じ化粧目地を外壁全体に施し、且つ同じ開口デザインを採用した建物が建つ。 こちらは、屋内で何らかの業務が執り行われている雰囲気は窺えぬ。 状況からして、無人となってからそれなりに年数が経っている様にも見える。
正面エントランスアプローチ廻りに設けられた斫り仕上げのコンクリート塀にかつて嵌め込まれていたと思われる館銘板は取り外され、建物名称は判らず。 しかし傍らに設けられたステンレス製の小さな郵便受けに「都市廃棄物管路収集センター」及び「鶴牧倉庫」と印字されたテプラが貼り付けてあった。 調べてみると、現況は後者の用途に供しているが、もともとは前者の施設として1983年に建てられたものらしい。

更に調べてみると、廃棄物の管路収集とは事業所や家庭から出るゴミを地中に埋設したパイプラインを通じて収集するシステムのこと。
その説明を見て私がすぐに思い起こすのは、新潟県長岡市に造成された「長岡ニュータウン」。 昭和40年代に策定・造成が始まった大規模な都市基盤整備事業だ。 その広大なエリア内にも、この管路収集システムが採用された。 都市における先進の静脈系インフラシステムとして、計画策定期には市報等で盛んに喧伝されていたことをよく覚えている。
そしてまたこのシステムは、同じ時期において国内の他の大規模な開発事業でも採用された。 例えば、大阪南港ポートタウンや芦屋浜シーサイドタウン、筑波研究学園都市や横浜みなとみらい21等々。
しかし、その多くはゴミの分別取集や再資源化の進展に伴い運用を停止。 多摩ニュータウンにおいても2005年に廃止された。 一方、長岡ニュータウンのそれは、分別回収との併用で生ごみのみを対象にシステムの稼働を継続している様だ。

当該システムは、大量消費・大量廃棄について何ら疑問が持たれなかった時代における先進のシステムであった。 しかしその後、廃棄物の処理に対する考え方は、減容化の方向へと大きく変化した。 その変容に対し、このシステムは持続性を持ち得なかった。 とはいえ、その特殊性ゆえに施設を他の用途に活用するにも莫大な改修費用を要するため、多摩センターにおいては倉庫への転用ということで今に至っている。
当面は、大量廃棄時代のモニュメントという位置づけになるのだろうか。 外観だけを眺めれば、業務棟と思しき矩形のボリュームと、処理施設を収めた円筒形の棟がバランスよく並ぶ、なかなかに興味が沸く建物。 倉庫としておくのは勿体ない気もする。

2019.05.27:メーカー住宅私考_104
大和ハウス工業・チムニーのある家

戸建住宅の広告に載せられる外観写真は、通常であれば玄関を有する側の立面を含むようにアングルが定められる。 敷地内への建物配置を素直に考えるのであれば、接道面ないしは接道面に近い敷地境界側に玄関が設けられる。 だから道路から観察可能な側の外観を建物のオモテ側として体裁よくデザインを纏めることが、ひとまずは優先される。 であるからして意匠的に優先された玄関設置側を含むアングルの外観が写真に用いられることは至極自然な流れ。

しかしながら、1981年7月16日発売の大和ハウス工業の「チムニーのある家」という商品化住宅は、玄関が取り付く側とは逆側の立面を含むアングルが用いられた。 なぜならば、本来建物の裏手である筈のそちら側の面に、商品名称に用いられている「チムニー」が配置されたため。 モデルの特徴を示すために、そのようなアングルを採用せざるを得ぬ。
勿論、広告写真において玄関を含む外観写真を載せなければならぬ規則など無いのだから、そのこと自体は何の問題もない。 しかし実際に建物を建てるにあたっては少々問題ともなろう。 つまり、玄関側立面のみが接道する敷地条件においては、せっかくの商品の特徴であり外観デザインの要であるはずのチムニーが道路からの目視においては視認しづらい。 というよりも、気づかれることは稀であろう。
このことは、住宅展示場に当該モデルハウスを建てる際にも、制約となって顕れる。 来訪者のアプローチを考えて展示場内通路に玄関を向けてモデルハウスを建てたら肝心のチムニーが隣接する他社モデルハウスの死角となって見えないなんてことが生じはしなかったか。


130Eタイプ外観

130Wタイプ図面
外観写真はタイプ図面とは左右反転の事例。
タイプ記号のEやWは、玄関が取り付く方角を示すものと思われる。

しかしそのチムニーが裏側立面に設置された理由は、平面プランを見ると納得がいく。
チムニーは、実際には二階に設けられたトイレの給排水管を収めるシャフトとしての機能が意図されていた様だ。 何せ、その直下の一階部分はダイニングルーム。 食事をする場所の真上にトイレがあることの心象はともかくとして、その給排水管を納めるシャフトを室内に出っ張らせて設けることは避けたい。 ならばそれを外部に追いやり、煙突風の意匠を持たせて外観デザインに反映させてしまおう。 煙突なのだから棟の上まで突き出して小屋裏換気の機能も兼用。 その上でこの煙突を商品性の要に位置づけることで一石三鳥を目論んだといったところか。
商品企画担当者にしてみれば、機能とデザインと商品性の見事な一致に御満悦であったかもしれないけれど、哀しきかなそれは外観の裏手。 本来ならば、玄関側立面にチムニーとしてのシャフトを配すべく平面プランを考えるべきだったのだろうけれど諸室配置の都合上それがなかなか叶わず。

と、ここまでは商品名にも冠せられたチムニーのことを中心にツラツラと書いた。
しかし勿論、それだけがこのモデルで言及すべき事項ではない。 他の内容として、例えば一階に広々と確保されたリビングルームが挙げられる。 130E(W)タイプの場合、その面積は22畳に及ぶ。 当該モデルの説明文の中では「LLリビング」という呼称でこの大掛かりな空間をプランの特徴に据えている。
一般的には、その一部を間仕切って和室の続き間と組み合わせるところであろう。 その和室を排し、若しくはメニュープランとして用意する程度に留め、大空間としてのリビングの確保をプランの基本とした背景。 それは、住まいに対する洋風志向と近い将来に想定される余暇時代の到来に向けた同社としての一つの応答だったのではないか。

2019.05.20:遠い昔の空間体験に纏わる記憶

建築探訪のページに鳴門市の瀬戸幼稚園を登録した。
そちらの文章にも書いたが、同園舎はエントランスから遊戯室(と思われる)部屋に至る光量の変化が印象的な空間構成となっている。 とはいえそれは、しょせん造る側がその様な空間を企図しただけ、あるいは建物を鑑賞する側が勝手にその様に解釈しているだけのことであり、そこで過ごした園児達にとっては何ら意を介すことではないのかもしれぬ。

でも、私自身が通っていた園舎のことを思い起こすと、空間体験に対する記憶というのは意外に残っているものだ。 WRC造平屋建ての何の変哲も無い建物であったが、入園して初めて見た遊戯室の広さと天井の高さに眩暈に似た感覚を覚えた記憶が残っている。 否、その様な記憶があると思い込んでいるだけかもしれぬが。
しかし、その遊戯室の天井の仕上げ材が一部剥離しかけたことがあり、危険だからと保母さん達がボールを当ててそれを剥がそうとしていたことを覚えている。 まぁ、どうでも良いくだらぬ記憶だけれども。 今思えば、その天井仕上げは恐らくひる石吹付けだったのだろうな。 当時の物はアスベストを含有していて、ボールをぶち当てるたびに落下するその欠片を傍らで眺めていた私は、幼少ながらに飛散するその含有物質を体内に取り込んでいたのかもしれぬ。
ともあれ、例えばこの様に幼少の頃の些細で何気ない事々が何故か記憶としてしぶとく残っていることって結構あるのではなかろうか。 であるからして、幼児を対象とした空間の建築的な仕掛けというのは決して疎かには出来ぬものなのだということにしておこう。

休園して久しい瀬戸幼稚園の卒園生が、その特徴あふれる建物で過ごした日々のことをどの様に記憶しているのか。 あるいは印象に留めているのか。 そんなことに少々興味を持つ。

2019.05.13:【書籍】幻影の日本 昭和建築の軌跡

幼少のころからハウスメーカーの住宅にこそ関心を持っていたものの、いわゆる建築家という職能の人々が手掛けた住宅なり建築には殆ど興味は向かなかった。 それは大学に入ってから暫くの間も同じ。 幼少からの興味の流れで何となく建築学科に入ったものの、やはり建築家が手掛ける先進の建築作品にはあまり興味は向かぬ。 というよりも、感心出来ぬ。 かといってハウスメーカーへの興味も失っていて、当時の関心の対象は古民家であった。
建築家という職能に対する抵抗感。 その原因は自分でも良く判っている。 メーカー住宅を趣味の対象とする中で、十代前半に買い求めていた「いま売れている住宅」という住宅メーカー年鑑の体裁をとった書籍の影響だ。 当時、年に一度発刊されていたその書籍では、新進気鋭の建築家が設計したアバンギャルドな住宅作品を悉く酷評する記事が必ず載せられていた。 ハウスメーカーの住宅こそが王道とする編集方針に貫かれた書籍なので、単純にはその対極にある新進気鋭若しくは著名な建築家が手掛けた住宅作品は当然のことながら批判の的となる。 そういった記事に接することで、「建築家ってのはとんでもない連中だ」と心底信じてしまっていた。 そしてその様な先入観で建築家の仕事を見るから、当然否定的な価値判断を下すこととなる。

そんな私が、建築家が手掛けた作品の前で初めて「建築」という言葉を全身で感じ取る機会を得たのは、大学の講義が教養課程から専門課程に移行する狭間の春休みのこと。
東北地方の古民家や歴史的な景観を保持する集落を巡って貧乏旅行をしていた折に酒田市に立ち寄った。 その駅前広場に掲げられていた観光案内の地図を眺めた際、土門拳記念館がそこに記されていることに気付いた。 何かの機会にこの建物が芸術院賞を受賞したという記事を読んでいて、たまたまその名称を覚えていたのだ。 で、酒田市に立地していることをその時初めて知り、ならばついでに訪ねてみようかと思い立った次第。

駅前既存市街地に散在する歴史的な建物を幾つか巡ったのち、ついでのつもりで訪ねたその記念館の前で、それを建物でも物件でもなく「建築」として知覚し茫然と立ち尽す自分がいた。
その心理状態が一体何なのか。 自分でも暫く判らずにいたのだけれども、その体験から程なくして出版された掲題の書籍の中で展開する当該作品を巡る言説に目を通して漸く、なるほどと腑に落ちたのだった。 以降、建築作品に対する見方も大きく変わることとなった。 ちなみに、松葉一清の文章に接したのはこの書籍が初めてであったと思う。

歴史を元号で区切り、その期間のみについて検証を行うことの意味が果たしてどこまであるのか。 その時々の事象はあらゆる因果の帰結であり、そしてその帰結すら次への起点若しくは過程に過ぎぬ。 そんな絶え間無い連続体としての歴史の流れに対し、国政の権限を有さぬ現行の天皇制のもとで用いられる一世一元を原則とした元号によって規定される期間が因果として関与できる蓋然性はそんなに高くは無かろう。 しかし、因果の多寡とは別の次元で時間軸を切断することによって見えてくる事々もあるのかもしれぬ。
当該書籍では、日本固有の伝統を近代という枠組みの中でいかに表現し得るかということがその時代の建築のテーマの一つであったという視点を主軸に、発刊当時華々しく進展していたポスト・モダンに至るまでの昭和時代の建築について論評している。
今後(あるいは既に)、平成時代の建築の検証や評価も様々な角度で進められるのであろう。 果たしてそれが如何なるものとなるのか。 そして更に、これからの時代はどうなるのか。 そんなことに思いを馳せつつ、元号が平成に変わって間もない頃に出版された当該書籍に久々に目を通してみた。
目を通してみて思うのは、昭和って建築に関しては本当に面白い時代だったのだということ。 比して、平成は・・・。

2019.05.06:路線バスの再編

連休中は北海道の実家で過ごす。
実家最寄のJRの駅から家までは徒歩だと25分。 その殆どを歩行者専用の快適な緑道を通ることになるので距離は大して苦にはならぬ。 しかし帰省したその日は気温がとても低く、コート等を着ずに関東から出向いてきた身には少々つらい。 ということで、バスを利用しようと駅前広場の方を見ると調度私が乗りたい路線バスが出発したところ。 そこで、猛ダッシュをかけて一つ先のバス停に向かう。
説明が難しいが、駅前広場の構成上、駅の出入り口から駅前のバス乗り場に行くのも一つ先の停留所に行くのも大して距離に変わりはない。 しかも一つ先の停留所に至るまでの間にバスだと信号が一か所あるのに対し、歩行経路だとそれが無い。 だから、気合を入れれば、出発したバスよりも早く一つ先の停留所に辿り着ける可能性が高いのだ。
けれども、荷物を抱えて全力疾走する私の身体は、自身の意思通りにはなかなか動いてくれぬ。 何だか最近、こういったことを実感する機会が多い。 気持ちばかりが前に進むが、身体が全然ついてこない感覚。 体力の衰えがもどかしい。
息を切らしつつ、それでも何とか一つ先の停留所に到着。 信号待ちを終えて交差点を曲がってきた目的のバスに乗ることが出来た。

ここまでしてそのバスに乗ろうとしたのは、運行本数が少ないため。 その便を逃すと、次のバスまで30分近く待たねばならぬ。
以前は休日の昼間でももう少し本数があった。 それが、利用客の減少に伴い減便。 更にバス会社の運行に係る収支改善のために運賃も値上げされる。 それでまた利用者が減る。 そのため、また便が減る。 そんな悪循環に陥って久しい。
その時に乗車したバスも、利用者は私を含め僅か数名。 これでは今後、路線の維持自体が困難になるかもしれぬ。 近い将来のことを憂いつつ実家近傍の停留所に到着した。

家に着いて一息いれたのち、市の広報に目を通す。 するとそこには、路線バスの再編に関する市民説明会の開催告知が載せられていた。 その時点で既に説明会は終わっていたが、告知文には今年の秋にも再編を予定しているとある。
たまたま路線バスの実態について考えていたら、行政でもそのことに纏わる見直しを行っていたという偶然にちょっと興味を持ち、ネットで検索をかけてみる。 すると市が公表する関連資料が幾つかヒットした。 目を通してみると、なかなか面白い取り組みが検討されている様だ。

先ずは、起点と終点が同じだけれども経路が異なっていた二つの路線を統合。 今までそれぞれに何の連携もなく線形の往復にて運行されていた両路線が循環路線に切り替わる。 つまり、一方の経路で終点まで来たバスは、今度は他方の経路を通って起点に戻ってゆく形式をとることで、運行の効率化を図るというもの。 巡環経路だから、今まで設定されていた起点とか終点といった概念が無くなり、更に時計回りと反時計回りの二種が設けられる。 これならば、仮に便数を半分にしても各停留所から目的地に至る機会は変わらないから、バス会社の負担を軽減しつつ乗降客の利便性もある程度維持出来る。 同様の再編を市内の別の路線でも実施。 そのうえで巡環路線となった両径路を相互に乗り入れる便も設定し、市内の広域をバスを乗り換えずに移動可能とする。 それに加えて、一部経路の変更も実施。 いままでバスによるアクセスが不便であった商業施設や公共施設を経路に組み込み停留所を新設する等、利便性の向上にも配慮された。 更には、乗車距離に拠らず運賃は同一とする措置やJRへの乗り換えを考慮したダイヤの設定も検討されているという。
再編後の自身のバス利用をいろいろとシミュレーションしてみると、これはこれでなかなか利便性が高まり、乗車機会が増えそうだ。

高齢社会の進展、あるいはそれに伴う自動車運転免許証の自主返納の増大といった背景により、公共交通の必要性は今後更に増す。 その中でも、地域に密着したきめ細かな移動手段の提供という点において路線バスの重要度は特に高い。 にも拘らずその運行に関する現況があまり芳しくないことは、私が利用する路線に限らぬ。 全国津々浦々において共通する実態であろう。
そしてそんな問題を抱える各自治体において、何らかの再編計画が検討あるいは策定されている様だ。 その内容や、実際の効果は如何に。 実家エリアのそれと併せて、各地域の推移に注目してみたいと思う。

2019.04.25:孤立したペデストリアンデッキ

札幌駅南口の東側に「札幌ターミナルビル」という名称の巨大な商業施設が建つ。 1978年に開業したこの建物には当初、そごうがキーテナントとして入店していた。
駅のすぐ横に在りながら、しかしこのデパートへのアクセスは地上レベルからは少々不便。 駅前広場の地下に広がる商店街に一旦降りて当該デパートの地下一階フロアにアクセスするか、あるいは駅前広場に面して設けられた階段を昇って二階に広がる屋外デッキを介して館内にアクセスする必要がある。
昇降を伴わずに地上レベルで一階フロアに到る経路も無い訳では無い。 しかしそれは遠回りなうえに、横断歩道を渡る必要がある。 更には遠回りして至る一階の売り場面積もそんなに広くはない。 結局他階に移動することとなる。
なぜこの様なことになるかというと、当該建物の一階は大部分がバス乗場の用途に供するピロティとなっているため。 そのバス専用道路が、駅前広場と当該建物を分け隔てる。 従って、この専用道路を跨ぐ二階のデッキか、あるいは地下通路よりアクセスする必要が生じる。

当該ビルの供用開始後に再整備が行われた札幌駅が橋上駅の形式をとったならば、二階の屋外デッキが都市施設として活きたものとなったかもしれぬ。 しかしその整備は鉄道高架の敷設に合わせて地上駅の形式をとり、コンコースは地上レベルに設定。 同ターミナルビルの屋外デッキと駅コンコースが同じフロアレベルで連絡することは無かった。

道路を挟んで同ターミナルビルの南向かいに建つ東急デパートにも、二階レベルにオープンデッキのような設えがある。 場合によっては、駅とターミナルビルと、そして東急デパートを結ぶ二階レベルのデッキが整備され、更には広域わたってそのデッキが進展した可能性もあったのではないか。
勿論それは個人的な妄想に過ぎぬ。 しかし例えば橋上駅と駅前広場のペデストリアンデッキを連繋させた先駆例であるJR柏駅前のそれと大して変わらぬ建設時期を鑑みるならば、あるいは同様の駅前広場が整備されていた可能性だって荒唐無稽な話では無かろう。
そのようなグランドデザインは無かったのか。 無い中で、駅前バス乗り場の整備の必要性から、建物単独でデッキが整備されたのか。 結果、駅前に在りながら孤島のような存在であるターミナルビルは、その二階部分の全周に近隣との連携が希薄なデッキが巡らされ、駅前広場に面した一部を除き何やら少々寂しい雰囲気の外部空間が形成されることとなった。

札幌そごうの撤退後、テナントを変えながら存続してきた同建物は、北海道新幹線の札幌延伸に絡む更なる駅前再開発事業の策定の中で建て替えが検討されている。 街区の数ブロックを跨ぎ、あるいはその途上に創成川を挟む地区計画の中で、当該デッキに代わる新たなペデストリアンデッキが実現するのかもしれぬ。

2019.04.16:異世界居酒屋のぶ第八巻

この作品については以前もこの場で言及している。 そのコミカライズの最新巻である第八巻を購読。

前巻収録の最終話は、それこそ最終回かと思わせるような怒涛の伏線回収と各話の登場人物達の大量出演による大団円の様相。 これで完結なのかと気になり、原作がアップされているサイト「小説家になろう」を確認すると、まだまだ続編が多数公開されており、取り敢えず一安心。
つまり、当該作品については先ずアニメから入り、そしてコミカライズ、更に原作と、本来からすれば逆の順序で接したことになる。 前巻読了後にその続きを原作にて読むことで、今後の展開を概ね把握してしまったし、あるいはコミカライズの既刊に埋め込まれた今後につながる伏線についても予め知ることとなってしまった。 それでもなお最新刊を購読したのは、原作にて書かれた各エピソードがどの様に描写されるのかということへの興味になる。
ヴァージニア二等兵なる著者の作画は、初期からの安定感を保ちつつ更にこなれて来た感がある。 登場人物たちの細かな表情や仕草、そして客に供される美味しそうな料理。 更には背景描写に至るまで、なるほどこの様に表現するかと感心しながら、そして愉しみながら読み進めることとなる。

中世のヨーロッパをイメージさせる異世界と繋がってしまった現世の居酒屋が、その異世界の住人相手に供する料理とおもてなし。 初めて目にする日本のありふれた居酒屋メニューと、それを給仕する異民族(日本人)の店員のことを最初は訝しく、あるいは場合によっては見下すような態度で接していた客が、しかしそのサーヴィスに感嘆し、徐々に当該居酒屋のファンになってゆく。 その流れが、時には異世界における制度や政治そのものまで動かしてしまう。 有り体に書いてしまうとこの様な骨格に基づく各エピソードは、なるほどそのタイトルが示す通り、いわゆる異世界モノに属するということになろう。
世の中、この手の作品はラノベを中心に星の数の如く。 果たして、そのルーツは何処にあるのだろう。

ところで、第八巻は異文化への感嘆といった基本骨格はやや後退し、既刊で登場済みの人物たちの掘り下げがメインとなった印象。 それはそれで物語に一層の深みと広がりを与えるものであり、今後の更なる展開を期待させる。

2019.04.10:メーカー住宅私考_103
パルコン・グランドライフ


本文中の画像は、かつて千葉市内に設営されていた千葉県総合住宅展示場に出展されたパルコン・グランドライフの縁側付きタイプのモデルハウス。
そのプランの型式について、資料には「G427-5T63DK6E35」と表記されている。

のどかな田園風景を車窓から眺めている折、豪壮な民家にしばしば遭遇する。 それは例えば、お城の天守閣かと思わせるような威風堂々たる入母屋屋根を載せたものであったり、何やらド派手な巨大洋風住宅であったりと、都心では見掛けぬ様態が見て取れてなかなか楽しい。 いずれも、見事な屋敷森や庭園に囲われ、あるいは格式ばった門を構えた敷地に建っている。 その地にて何代にも亘って農業を営んできた地主の家なのだろう。
そしてそんな事例の中には、フラットルーフで構成された鉄筋コンクリート造のものも時折見かける。 恐らくそれらは、主に木造で建てられる前二者の事例よりも近代的で先進的で豪華で贅沢で、更には堅牢性や耐火性といった面でも優位であろうとする価値判断から選択された建築形式であったのではないか。 あるいは、先祖代々受け継いで来た旧態の古民家に纏わりつく不便さや不快さへの嫌悪を発端とした全く異なる住まいへの建て替えへの希求の結果なのかもしれぬ。

昭和50年代に大成建設が商品体系の一つとして掲げていたパルコン・グランドライフの縁側付きタイプは、そんなニーズへの接近を企図したモデルであったのかもしれぬ。
上述の事例に比べるとやや矮小ではあるものの、たっぷりとした間口を持つ堂々とした佇まい。 その上に載るフラットルーフが生み出すのびやかな水平ライン。 その鼻先には、テーパーと刳型を施してささやかな表情を外観に与えている。 プレーンな白壁や玄関廻りに施されたレンガ調タイル張りの壁面は、田園の緑に良く合いそうだ。 更には、かつての古民家に必須の広縁を暗示させる床から天井まで目一杯のハイサッシを水平に連続させた一階南面の開口部。
これらの設えは、単に必要に応じ無機的に壁に開口を穿っただけという印象であった旧来のコンクリート系プレハブ住宅とは一線を画す。 RC造としての安定感。 逆にRC造らしからぬ繊細さ。 そして、直線の構成によって近代的な合理性を表しつつ、広縁の存在を暗示させるサッシの並びに古民家への懐旧も滲ませる。
屋内を見れば、PCaを用いた壁式構造の生産性・施工性に依拠した整形グリッドに基づく壁面配置が、伝統的な「四つ間取り」に通じる骨格を持つプランを生成している。 広縁に面した和室の続き間はその顕れだ。
このように読み解いてみると、当該モデルが発売された時期における農村向け住宅としての商品的な位置付けがそこに見えてくる。 あるいはそこまで見立てないとしても、それまでのコンクリート系戸建てプレハブ住宅に共通して見受けられた無味乾燥とした内外観から離脱しようとする指向。 即ち、規格住宅から商品化住宅への移行。 しかもそれが、コンクリート系プレハブ住宅ならではの商品性を追求したものであること。 そんな動きを、同社の戸建て事業開始から約10年を経て発売されたこのモデルに見い出すことが出来る。

2019.04.03:失われた建物に纏わる小さな記録
※1

南西側外観。
この写真を撮影した時点では、外部建具は全て二枚引違い段窓のアルミサッシに改められていた。
左手に隣接する二階建ての建物も、同学院の施設。

※2
本文中の二枚の写真は、竣工して間もない頃に撮影されたもの。 同学院の校報より引用。

北海道ドレスメーカー学院
旧所在地:札幌市中央区南4条西16丁目2番5号

敷地は、市中心部を東西方向に通る南4条仲通と、南北方向に通る西18丁目通に面する角地。 従って建物は南側と東側の二面が接道し、双方にそれぞれ異なる意匠が与えられている。
矩形ボリュームを持つ建物の長辺側となる南側立面を構成する外表面は、それが柱梁フレームから切り離された帳壁であることが容易に読み取れる。 フロアごとに縦横の細いフレームによってグリッドを形成。 その各桝には、最小限の腰壁以外を全て二段引違いのアルミ製連窓を嵌め込んでいる。 この連窓は竣工時はスチール製で、各桝に四行三列の割り付けが施されていた。 個々のプロポーションが横長となる12枚の建具は一部の突出し以外は固定窓。 私が実見した時点のアルミ製建具で構成された立面よりも端正な外観を形成していた様だ。 最下階を半地下とすることで、これらの立面が地上から切り離されながら立ち上がる。
妻面にあたる東側立面は、南側のそれとは異なり密に配した細いマリオンの間にガラスを嵌め込んだ意匠。 半地下を基壇とし、その上にマリオンにより中間部の立面が形成され、その上にガラス壁を強調されたペントハウスを載せた明快な三層構成。 更にその頂部に塔状の装飾を載冠させた外観はなかなかシンボリックでもあり、前述の南側立面と相まって竣工した1956年当時においては周囲に対して十分な先進性を持って都市の中に収まっていたことであろう。


南東側外観

エントランス廻り

同校の過去の資料に掲載されている校舎の平面図をみると、南北双方の桁構面にキャンチスラブを大きく張り出す構造形式が読み取れる。 建物最上階のほぼワンルームの大空間となった講堂において、その特徴が顕著に視認される。 門型の柱梁フレームが幾重にも並び、そのフレームの外側に十分な離隔をもってガラスを多用した帳壁が内外を分かつ。 その巨大屋内空間も、フレームによってペリメーターゾーンとインテリアゾーンを視覚的に分かつ。 資料に載る画像からは、この空間の特性を活かした様々な利用がなされていたことを確認できる。
ちなみに、帳壁の下部にはスチーム暖房のラジエーターが設置されていた。 その蒸気を供給するボイラー室が半地下階に。 同フロアにはほかに、調理実習室を配置。 地盤レベルから約半層分持ち上げられた一階にはエントランスと学校運営のための事務関連の諸室を配置。 二階に教室群。 そして三階の講堂という内部構成。
当該校舎以外に、木造の既存校舎及び同じ学校法人が運営する短期大学の校舎が同一敷地内に連なっていた。 ちなみに短期大学の校舎の設計は久米設計、施工は清水建設。

同学院は、2013年に同じ学校法人が運営する「北方圏学術情報センターPORTO」という施設内に移転。 それに伴い当該校舎は除却された。 Googleストリートビューで確認すると、現状は短期大学の校舎が残存するものの、他は更地。 短期大学の方も江別市に移転済み。

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