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2017.01−2017.02
2017.02.25:同世代の橋

同世代の橋外観。
道路斜線で上層階がセットバックしているため、幅員の狭い前面道路からの見上げの視線で容易に確認可能な意匠は三階部分くらい迄。 御本人の「54の窓」は一番目立つ位置に配置。
一階部分の意匠がオリジナルのまま残っていたら、通りすがりの視線においても結構インパクトがあったのかもしれない。
橋をイメージした右手妻面のトラスの装飾が取り払われてしまったのが残念。

ふと思い浮かび、今さらながらこの建築作品を拝みに現地に向かう。
石井和紘の「同世代の橋」。 ポストモダンがヒストリシズムとほぼ同義に受け取られ、そしてヒストリシズムの具体的手法が引用と解釈されていた大らかな時代。 ここで手法としての「引用」を乱暴に先鋭化。 御自身と同世代の建築家たちの作品のファサードを引用しまくって一つの建物の立面にぎっしり詰め込みましたという問題作。 引用という名のもと、自らの作品を劣化コピーされ一緒くたに纏められてしまった建築家たちの心境は如何に。
当時、建築専門雑誌でこの作品を初めて目にした際、感心できるシロモノとは思えなかった。 冗談で思いつくことはあっても実際にやろうとは普通は考えぬことを本気でやってしまったといった印象。 それから30年以上が経過。 今、いったいどのような形で都市の中に収まっているのだろうという興味が、同作品へと歩を向かわせるきっかけとなった。

幅員が極めて狭い前面道路からその外観を見上げてみると、意外とすんなり違和感なく都市の中に収まってしまっている様にも見える。 それはつまり、どのような露悪的な意匠を企図したところで、しょせんは周囲一帯の雑然とした風景やその風景を構成する夥しい量の個々の建物の雑駁さの中に埋没せざるを得ぬということか。 あるいは、そんな都市の現況に如何に立ち向かうかといったところで偽悪的に引用という手法を誤用してみせたという見方も可能なのかもしれぬ。

この同世代の橋に限らず、当時建築ジャーナリズムを賑わせた作品は今どうなっているのだろう。 そして、それらを今改めて実見するとどんな印象を抱くのだろうか。 気が向いた際に訪ね歩いてみようかとも思うが、しかし既に除却され実見が叶わぬものも少なくはない。

2017.02.20:【書籍】東京サイハテ観光

人いきれから逃れてただ一人最果ての地に身を置いてみたい。 そんな希求に囚われることが時折ある。 それは例えばJ・G・バラードの短編作品「大建設」の中で、主人公が周縁を求めて巨大都市の中を彷徨ったのと似た心境かもしれぬ。

学生時代、私にとってのそんな場所の一つに札幌市近郊の聚富海岸が在った。 無煙浜とも呼ばれるそのエリアは、夏こそ海水浴場として賑わう。 しかしそれ以外の季節は人に出会うことも疎らな、それこそ人煙途切れるといった雰囲気が漂う荒蕪地だ。 当時の私が同地にアクセスする手段は路線バスのみ。 北海道中央バスの札幌ターミナルから近傍の停留所まで90分弱を要するその行程、あるいはそのバスの乗客数がいつも極めて少ない状況が、最果ての地に向かうというイメージを補強した。

その後仕事のために上京し最初に住んだ街は板橋区。 そして次は大田区。 いずれも、中低層建物が雑多に並ぶ無個性な風景が漫然とどこまでも続き、その内部世界から永遠に逃れることが出来ないのではないかという錯覚に陥りそうな、そんな様相に嫌忌した。 無煙浜の様な自身にとっての最果ての地がどこにも見い出せず、何とも息苦しい。 だから、渡道のたびに機会を見ては無煙浜に向かった。 札幌在住中よりも遠い場所となった分、最果て感がより強まり、そのエリアへの愛着も一層深まった。

最果ての地は日常生活から遠く離れて在るもの。 そんなありきたりな認識の下でこの書籍のタイトルを目にした際には大いに違和感を持った。 この東京に最果てなど在るのか、と。
確かに奥多摩まで出向けば山間に廃村めいた場所も在るけれど、そのことかと思いつつページを捲ると目からウロコ状態となる。 東京を含めたその圏内の概ね日常の居住エリア、あるいはそんなエリアからさほど離れていない場所に、「サイハテ」の地が見い出され、美しい写真と軽妙な文章で紹介される。 いかに目の前の風景の中に最果てを知覚するか、あるいは見立てるか。 本書ではそのことを「選景眼」と記しているが、その視点は面白く興味深い。 そしてそんな視点で風景を捉える「最果て」の場所であるが故に、敢えて「サイハテ」とカタカナ表記を用いているのであろう。 もっとも、場末と言った方が遠からずという印象のエリアも中には無くも無いが・・・。
ともあれ、掲載されている21のエリアの中には、私にとって身近な場所、あるいは前からお気に入りの場所も幾つか登場する。 なるほど確かにそれらは最果て“的”な、すなわち「サイハテ」の場所だと妙に納得させられてしまう。 今の場所に結構長く居住しているのも、実はそんな「サイハテ」を無意識のうちにそれらに対して知覚していたためのなのかもしれぬ。 だから、私も自身の「選景眼」を鍛え、書籍に紹介されているエリアとは別の「サイハテ」を日常の地に更に見い出し、時折擡げる希求を充足する糧にしたいと思う。

2017.02.11:建築問答

知人から試験問題が添付されたmailが届いた。 「解いてみて下さい。」というのでファイルを開けてみる。
親子の会話が数ページ続き、その会話に関連する設問がその後に並ぶ。 会話の内容は都市や建築の歴史に関すること。 で、設問も当然そのジャンル。 いずれも専門性が高い。 しかし問題文に付けられているルビは子供向けという印象。 問題の中身と文体が極めてアンバランス。
何じゃこりゃと思いつつ取り敢えず解答用紙を軽く埋めてみるが、ふたを開けてみれば麻布中学校の社会科の入試問題。 オイオイ、こんな問題を中学に入る前の少年少女が解くってのかい。 凄まじくレベルが高いナと驚く。 同中学校のサイトを見てみると問題と解答例が公表されている。 興味がある方はチャレンジを。
過去問も公表されているので閲覧してみたが、社会科の出題はその年によって異なるジャンルに絞り込まれている様だ。 今年がたまたま建築史系の内容。 だから知人もmailで紹介してきたのだろうけれども、それ以外の年の問題となると私は完全にお手上げだ。 ましてや他の科目は・・・。

ところで、今年の社会科の設問の中にはアダプティブユースの具体例とその概要を記述するという旨の内容もあった。 記述式であるから様々な解答があり得る訳で、採点する側も大変だろうなと思う。 極めてローカルでマイナーな解答が書かれたとしても、その正誤をいちいち確認する必要があるのだから。

2017.02.06:メーカー住宅私考_71
イワタニハウスPH

※1

パイピングウォールを取り入れたプランの概念図。 手前中央の赤と青の二種の色分けが施された配管系等が内蔵された壁がパイングウォール。
このウォール導入の前提条件として、水廻りの配置はほぼ固定される。 また、プラン自体の構成にも制約が生じることとなる。


プラン例。 キッチンと水廻りの間の二重壁がパイピングウォール。

岩谷産業がかつて展開していたイワタニハウスは、ツーバイフォーというイメージが強い。 しかし1966年の住宅事業参入当初は、軽量鉄骨造の住宅を取り扱っていた。
1970年発表のイワタニハウスPHは、水廻り部分のプランに特徴がある。 浴室・洗面・トイレを一列に並べ、その長辺方向と背中合わせにキッチンセットを配置する。 水廻りに関してそんなレイアウトが規格化されていた。 と同時に、このレイアウトがもたらす機構を商品の特徴としていた。 一列に並べられたサニタリーとキッチンセットに挟まれた壁面の内部には、ユニット化したガス管や給排水管及び配線を内蔵※1。 「パイピングウォール」と称するこの壁の導入によって設備機器系統の品質の安定や現場施工の効率化を図ると共に、ガスによるエネルギー供給を事業主体とする同社ならではの独自性を出そうとしたのではないか。

果たしてガスや水道等のインフラ設備に関する所轄ごとの規格の違いに対し、ユニット化された住戸内設備配管接続箇所の汎用性がどの程度確保されていたのか。 あるいは、経年劣化に対するパーツの交換や補修の容易性がどこまで確保されていたのか等、今になって改めて見てみれば気になる点もある。
しかし当時においては、新築時の施工効率化や供用時の効率的な給水給湯システムの確保といったことが目的として第一義であったのだろう。 例えば、同じ様に設備機器類を集中レイアウトしてユニット化した「ハートコア」と呼ばれるシステムを、松下住宅産業(現、パナホーム)も同時期に発表。 また、同じ名称でミサワホームも1982年に設備ユニットを発表している。
現場施工手間の多い水廻りのユニット化をいち早く商品化した先進例としてこのモデルは位置付けられる。

そんな同社は、1974年頃からツーバイフォー住宅の開発に移行。 「〜の洋館」という名称のツーバイフォー住宅を商品体系化して住宅事業を展開した。 このシリーズにおいてはいずれも意匠監修に奥山陽子が参画。 例えば同構法の先駆メーカーである三井ホームのラインアップとは異なるデザインの住宅を展開していた。 しかし同社は2002年に住宅事業から撤退している。

2017.01.28:【書籍】廃墟建築士

学生時代を北海道で過ごした私の建築遍歴は、道内に散在する古民家に始まり鰊番屋に収斂。 漁場環境の激変によって長きに渡って放置され朽ち果てなんとする各地の番屋を観て廻るうちにすっかりその(歴史的背景や今現在置かれたロケーションを含めた)魅力の虜となってしまった。
だから、卒業設計のテーマも廃墟としての鰊番屋。 しかしこれがなかなか難問。 廃墟に対して一体何をどう設計すれば良いのか。 廃墟の美しさは設計や施工という行為によって直接造り出せる物ではない。 ディテールもプロポーションもテクスチュアも、全ては時間の経過がたまさかに創出するものだ。 設計や施工が可能なのはそのきっかけ作りに過ぎぬ。
必然とはいえ変なテーマを設定してしまったものだと後悔しつつ、何も決まらぬまま形態のエスキスに逃避して無為の時間を悶々と費やす日々が続いた。 思い悩んだ挙句、暴風雪波浪警報発令中の日本海に赴き、荒れ狂う海と、そしてその海に対峙して熾烈な地吹雪の中に寡黙に佇む番屋の廃墟を眺めて思案に暮れたのは随分と昔の若かりし頃のこと。
結局、番屋が穏やかに美しく崩壊し徐々に無へと帰してゆくために周囲の日常から囲い取り、そしてその過程を厳かに鑑賞するための静謐な空間を作るというところに行き着いた。

何で唐突にこの様な昔話をしたのかというと、取り敢えずはこんな経緯もあって一応私も廃墟にはうるさいということを言いたかったため。 廃墟は構築するものではなく醸成されるものだ。 だから表題の短編集が発刊された際の広告を新聞紙上で見掛けた時には、一笑に付すに留まった。 そんな職能は有り得ないと。
ところが最近、図書館でこの書籍が目に留まる。 著者を確認すると、三崎亜記。 数年前に同氏の著作「海に沈んだ町」を読んでいる。 なかなか面白い内容であったということは、以前この場にも書いた。 で、この人が書く廃墟とは一体どんな世界だろうと少し興味が湧き、本を携えて貸し出しカウンターに向かうこととなった次第。

所収されている表題作は、廃墟の生成に経時を組み込んではいるものの、やはりそれを人為的に作るということに纏わる物語。 設定の根幹において建築士と職人を混濁しているということ以前に、この点において私の価値観とは相容れぬ。 だから、かつて広告を見て抱いた第一印象と異なる感想を持つには到らなかった。 そう、私に言わせれば作中で定義されている「みなし廃墟」こそが純粋な廃墟であり、「第一種廃墟」は逆に邪道なもの、あるいは廃墟“的”なものでしかない。 作中の言葉を用いて言い換えるならば、人の生活や思いと密接に関わったプロセスを過去に有してこそ、廃墟は純然たる「廃墟」として醸成され得るのだ。
とはいえ、そういった有り体な価値観のみでこの作品を捉えてしまうのはつまらないことなのだろう。 何せ、著者の作風は日常や現実を少し撓めた世界が淡々と進行するところに妙味があるのだから。 それに、テーマに掲げられた廃墟を別の事象に置換してみれば、これは現実社会への風刺と捉えることも可能だ。 そういった観点からすれば、例えば同じ所収作品「七階闘争」も、いわゆる意識高い系市民運動家達の滑稽さへの冷ややかな憐憫と読めそうだ。
ところで、表題作中に登場する「二階扉による分散型都市モデル」とは如何なるモデルか。 ちょっと気になる。

2017.01.22:ミサワホームMII型
※1
併せて、同じく不可解なモデルの項に登録しているGII型とAIII型のページについてもレイアウト調整と一部画像差し替えを行った。 それ以外の既登録ページについても追々メンテナンスを行いたいと思っているが、いつのことになるかは判らない。 気の赴くままである。

「住宅メーカーの住宅」のページの「不可解なモデル」の項に登録しているミサワホームMII型を全面改訂した※1
元々の文章は、かつて雑記帳に軽く書いたものに一部加筆調整を行い住宅メーカーの住宅のページに移設したものであった。 その後、当該モデルに関する新たな資料を幾つか入手。 それらに目を通して改めて考えたことを手掛かりに文章にチマチマと手を加えているうちに、結局全面改訂することとなった。

書き直したとはいえ、このモデルに対する個人的評価や、その評価に基づき書いた文章の方向性自体はそれほど変わってはいない。
しかしそれは「ハレ」と「ケ」という観点で捉えてみた場合の解釈の一つの試みであって、それのみでこのモデルの価値判断を固定してしまう愚を犯すつもりは無い。

たまたま同モデルにお住まいの方のブログを拝読する機会があった。 御夫婦共々料理が趣味。 そのため調理に専念できる隔離型キッチンはすこぶる好都合の様子。 更に趣味が高じ、お互い気兼ねなく料理に打ち込めるよう、一階のキッチンとは別に二階の書斎スペース(階段脇の三畳間)をキッチンに改造。 心おきなく料理を愉しんでいらっしゃるそうだ。
かように住まい方は多種多様。 それは設計者ないしは開発者の意図を大きく凌ぎ、あるいは離反する場合だって有り得る。 そして個々の趣味嗜好の下での住まいに対する価値判断だって当然あり得る訳だ。 「ハレ」と「ケ」という枠組みを外してこのモデルを眺めてみたらどうなるか。 どんな評価が出来るのか。
不可解なモデルとして登録してはいるものの、不可解とはつまり多様な解釈の可能性を秘めているということでもあろう。

2017.01.18:【書籍】君の名は。2

映画「君の名は。」のコミカライズ第二巻。

既に発刊されている第一巻を読んだ印象では、画風は本作と微妙に違うものの違和感は無かった。 そして本作では描かれていない細かなエピソードがストーリーから逸脱しない範囲でさりげなく挿入され、物語に深みを与えている。 あるいは、立花瀧の父親の描かれ方が本作とは全く異なり、いいお父さんといった雰囲気。 そんなところに好感が持てたので、第二巻も発売と同時に購入した。

こちらの方も、冒頭に瀧の父親が登場。 親子の食卓の会話がほのぼのと成り立っている。 しかしそれにしてもほんの数週間で一気に老け込んでしまいましたね、お父さん。 父親というよりは御祖父さんですな、これじゃ。 タイムパラドックスが物語の根幹にあることを鑑み、コミック独自に設定された何かの伏線なのだろうか。

そのタイムパラドックスに関連し、第6話の後半、歴史改変が発動した時点から画風がガラリとかわる。 何か平坦な印象を持ってしまうは、登場人物たちの髪の質感や背景描写の表現のせいだろうか。 この演出は映画には無かったな。 ・・・って、果たして意図的な演出による切り替えなのか。 それとも締め切りに追われて描画の手を抜かざるを得なかったのか。 あるいは連載開始以降の思いもよらぬ本作の大ヒットで作者の作品に対する想いが変わってしまったのか。 勿論意図的な演出であって欲しいけれど、それは時差が錯綜しながら展開するストーリーが収録されるであろう第三巻の描かれ方で判明することとなろう。

2017.01.12:建築と社会を結ぶ―大高正人の方法

大高正人についての関心は、かつてはそんなに高くは無かった。 メタボリズムグループの一員として群造形というドローイングを発表し、坂出人工土地なる再開発事業をやった人という程度のあまりにも浅い認識。 しかし千葉県内に住み始めてから県立中央図書館を訪ねた際、これはタダならぬ建物だと思って設計者を確認したら大高正人御本人。 以降、遅ればせながら興味が沸くこととなった。 そして2007年の春先、解体間際の栃木県議会棟庁舎を観るに至り、その興味はより強いものとなった。
とはいえ、対象は1960年代の作品に偏重する。 その時期の何が良いかということは、私が今さらとやかく言うことでも無い。 しかし、例えば直交する壁面同士の納め方や同一面に並ぶ異種部材同士の取り合い等がいずれの作品もいちいち美しく、そして全く隙が無い。 ディテールがしっかりしているから内外観共に全体像もキリリと引き締まってとっても美しい。 そしてそれらのディテールの実現に対し、高度なプレハブリケーションの導入に積極的であったことも興味深い。

そんな氏に関する展覧会「建築と社会を結ぶ―大高正人の方法」が国立近現代建築資料館で開催されているということで、現地に向かった。
実はこの資料館を訪ねるのは今回が初めて。 数年前にオープンしていたことは何かの記事で読んでいたが、今まで訪ねる機会はなかった。 だから、都立旧岩崎邸庭園内にこの施設が位置するというのも今回初めて知った。 否、正確には同庭園に隣接する湯島地方合同庁舎内にあるのだが、庁舎から直接アクセスできるのは平日のみ。 休日は、入場料を払って一旦岩崎邸庭園内に入ったうえで施設に入館することとなる。

資料館の内外観は、開設にあたっての既存庁舎改修によって木製の竪格子が多用され今風の設えが付与された。 庭園内にゆったりと建つ旧岩崎家住宅の絢爛な洋館や豪壮な和館(といっても極々一部が保全されたもの)のどちらとも全く関連性をもたぬ意匠ながら、控えめであるためか異質感はあまり無い。 あるいは建物前面の高木を含む植栽が、うまい具合に緩衝帯となっているのかもしれぬ。
エントランスまでのアプローチ動線を長くとっているのは、岩崎邸との心理的な区分けを明確にしようという意図か。 それとも既築建物の改修であるがためのプラン上の制約だったのだろうか。 ともあれ、そんなアプローチを通って展示室へ。

展示内容はとても充実していた。 設計活動の初期から、単体の建物の設計であってもその計画敷地を含む広域の都市構想を意識していたことが個々の資料から窺える。
個体の設計にいくら意を尽くしても、現況の都市の中にあっては既に制御不能に陥った混沌とした風景の一要素に収まることにしかなり得ぬ。 建築に携わる者の多くがそのことを自覚しながらも不問に付して騙し騙し個々の作家性の発露に奔走する中、氏は70年代前半にあっさりとそんな所業から離脱。 否、勿論以降も単体の建築の仕事を行ってはいる。 だが、軸足は都市計画に移行。 制御困難な混沌に真摯に立ち向かい各地に成果を遺した。 しかし60年代の作品に見受けられる造形を思えば、他の建築家と同様に個体の作品造りに邁進していたら一体どんな地平が拓けていたのだろう。 そんなことを思いつつ、他の展示資料共々「大高正人の方法」を暫し堪能。
氏の建築作品を改めて訪ねてまわりたくなった。

2017.01.05:メーカー住宅私考_70
O-type KURAプロトプラン

※1

O-type KURAプロトプランの一つ。その一階平面図。

このシリーズの第67回(2016年9月18日)に書いたGENIUS O-type KURAについて追記。

このモデルは、2003年4月に正式発表される以前からMISAWA MESSE(ミサワメッセ)なるサイトをネット上に開設。 商品開発の概要やプロトタイプモデル等を随時公表していた。 それは、話題づくりないしは正式発表前からの顧客囲い込みを狙ったものだったのであろう。

もしも私が同社の家に住むのであれば、O-type KURAの原型として昭和50年代に発表されたO型の中古を購入する。 出来れば、1982年9月21日に発売されたOIII型腰屋根タイプの極力旧態が維持されたものを選ぶ。 そして各種性能を向上させつつ、エクストラ仕様の内外装を可能な限り再現すべく蕩尽してみたい・・・ってそんな経済的な余裕は全く無いのだけれど。
そんな訳で、過去のO型信仰者の私としては、O型復活に纏わるこのMISAWA MESSEはハナから距離をおいて眺めていた。 但し一点だけ興味を持ったプロトプランがあった。 それが左図※1

O型の平面プランの基本骨格は、建物中央を東西に貫いて非居室用途を集めた軸を配置するところにある。 そしてその軸性に沿って南北に諸室を整形に配置することで工法的にもプランニング的にも効率的な空間構成を実現しつつ各居室の独立性や建物全体の商品としての魅力付けや個性を獲得した。
この骨格を踏襲しつつ雁行形に崩した構成が面白い。 玄関と水廻りの関係は少し強引であるが、しかし和室の広縁を兼ねられそうな奥の方の空間に向かって階段を伴うへ玄関ホールが伸展する構成が良いし、動きのあるプランは外観にも旧来のO型には無かった新たな魅力を付与する可能性が有った。
しかし正式プランとしては採用されず。 個人的には凡庸なモノ、若しくは首を傾げざるを得ぬバリエーションが広告に並ぶこととなっていまい、MISAWA MESSEEもいつの間にかネット上から消失してしまった。

商品開発段階において試作されるモデル住宅。 そういったものの中には、実際に販売された商品よりも遥かに面白いものが散見されることは以前も書いた。 O-type KURAについても同様のことが言えそうだ。

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