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2018.03−2018.04
2018.04.28:やたらめったらなこと

旧url下における6年前の当サイトのトップページ。 今現在に到るまで、幾度か体裁を改めている。

以前利用していたホームページ公開代理サービスは去年の10月末に終了。 そして唯一継続していたリダイレクト機能も、今年の3月末をもって廃止された。
既に一昨年末に現urlにそっくり引越しを行い、旧urlは移設の旨のみを掲げたページに差し替えていた。 だから、特に何かが変わったという意識は無い。

しかし曲りなりとも十年以上にわたって利用し続けてきたurl。 全く感慨がわかぬ訳でもない。
この機会に少し調べてみると、様々なサイトで旧url下の幾つかのページがリンクされていたことが判った。 中には、とある都市計画系の掲示板内の激論が交わされているスレッド上に、「そこまで言うならこのサイトを読んでみろ!」みたいな感じで引合いに出されているケースも有った。 でもって、貼られたページの内容を巡って更なる論戦が交わされている。 あずかり知らぬところで俎上に上げられることはネット上では良くあることなのかもしれぬが、ちょっと驚く。 取り敢えずそのページついては関連する資料や論文を自分なりに下調べし、その出典も明示したうえで文章を纏めていた。 だから、内容について仮に火の粉が降りかかっても全く困ることは無い。
でも、やたらめったらなことは書けないものだなと改めて思った次第。

やたらめったらといえば、このサイトを開設して幾年月。 文字通り塵も積もれば何とやら。 やたらめったら・・・というか、無為に堆積した自身の書き込みを前に、どうしたものかと今になって少々戸惑うところ無きにしも非ず。

2018.04.23:メーカー住宅私考_90
パルコン・エクセル

1970年に発売された大成建設のパルコンについては、以前はあまり関心出来る代物とは思えずにいた。
公営集合住宅の一部を切り取って戸建て住宅にしたかの様な外観。 変化に乏しい退屈な田の字型間取り。 メリットと言えば堅牢性くらい。
勿論、発売以降の70年代のラインアップにおいて変化が無かった訳では無い。 フラットルーフの鼻先に表情を出してみたり、あるいは玄関ポーチ廻りの設えに住宅らしさを付与した等々。
しかししょせんは枝葉の範疇。 鉄骨系や木質系等の工法を採用した他メーカーの商品開発のスピードや変化もしくは多様性に比して、PCa工法は形態操作や意匠性追求のフレキシビリティ関し著しい制約が絡むものなのだろうなと思っていた。
ために、大成建設でも1978年にツーバーフォー工法による「パルウッド」を商品化。 意匠性や商品性の追及はこちらの方で行うということなのだろうと勝手に認識していた。


パルコン・エクセル外観

パルコン・エクセル平面図
(ED362-ND-NRタイプ)

パルコン・エクセル玄関ホール
間口を一間より少し広げることで、階段廻りに表情が付与された。

そんなパルコンが変わって来たかなという印象を持ったのが、1981年発売の「パルコン・エクセル」だ。
外観構成要素は当時の同社他モデルと共通している。 しかし従来のものとは異なる平面計画が採用されることで、外観の印象が少々変わった。
そのプランの骨格は、当該シリーズで前回取り上げたハザマホームのそれと共通する。 つまり建物中央に南北に貫通する短冊形のボリュームを設定。 そこを玄関や階段、ホールの用途に供す。 その左右に任意の空間を設定し、空間内を適宜間仕切ることでプランを成立させる手法 これは、耐震壁で区画された一つの空間に一つの室を収めるそれまでのプランニング手法とは発想が異なる。
ここまでは、ハザマホームのそれと同じ。 しかしそこに、更なる商品性が付与された。 例えば中央の短冊形ボリュームの南端一階にはサンルーム、二階にはインナーバルコニーを配置。 またその中央ボリュームの間口を約450mm増やすことで玄関に対面する折り返し階段廻りにささやからがら意匠性が加わった。

当該モデルで用いられた平面プラン。 それは、ハザマホームとの類似性ではなく、当時の業界全体の動向と捉えた方が良いのであろう。 実際、例えば積水ハウスが発表した「フェトーのある家」等、類似の骨格に基づくプランを採用したモデルの発売がこの時期各社からあいついだ。
あるいは、構造上設定可能な大空間を設定し、その中を任意に間仕切るという考え方は、ローコスト化を念頭においた面もあろう。 それは、国が推進した「新住宅供給システムプロジェクト(通称「ハウス55プロジェクト」)の一環としてミサワホームがコンクリート系のローコスト住宅「ミサワホーム55」を同じ年に発表したことと無縁ではあるまい。

2018.04.16:【書籍】新建築2018年2月号-3月号

遅ればせながら、新建築の二月号を読む。 コレはといった作品は見い出せず、パラパラとページを捲るに留まった。
その後、これまた遅ればせながら三月号にも目を通す。 以前も書いたが、この月刊誌を読む際、私が最初に見るのは「月評」。 四人の評者が前月号掲載の作品を論評するコーナーだ。 掲載作品自体にあまり興味を持てないから、それらを識者の方々がどの様に評するのかという点に逆に興味を持つ。

二月号掲載作品を評した三月号の月評の中で、冒頭の深尾精一の論評は、RC造集合住宅において一般的に発生するキャンチスラブ元端部の熱橋の視点に終始。 外壁面への内断熱工法の採用とキャンチスラブの計画を目の敵としているだけという印象。
なるほど、室内温熱環境もしくはエネルギー消費の観点から、当該熱橋は大きな問題だ。 しかし、その解法として断熱補強が法的に規定され、その法規に則り様々な納まりが検証されている。
残念ながら同誌掲載の各作品の断面図に、そこまでの情報が表現されているものは極一部。 そして矩計図の中に表現されている図版についても、確かに熱橋対策が抜けているものもある。 しかし、詳細図版が掲載されていない他事例の対策有無については、情報が無い以上判断することは出来ぬ。
評者は「鉄筋コンクリートというものに対する依存と過信」という言葉で論評を締めくくっている。 一方で外断熱工法について高く評価している様だ。 掲載作品の中にも外断熱工法を用いた事例がある。 しかしその事例に添えられた矩計図は、パラペット廻りの熱橋対策が不十分。 評者の言葉を借りるならば、「外断熱工法というものに対する依存と過信」が気になるということになろうか。
それに日射制御や主要構造体保護、更には維持管理等々、キャンチスラブの有用性は多岐に及ぶ。

月評の二番手、饗庭伸の論評の最後に「目黒駅前地区第一種市街地再開発事業」のことが触れられている。
そこには「短期間で均質な人たちが大量に流れ込むことからスタートした住宅地」とある。 同じく同号で紹介された「左近山みんなのにわ」と連動させたコメントだ。 しかし左近山の方はともかくとして、目黒駅前の再開発によって屹立したタワーマンションにも「均質な人」ということが当て嵌まるのだろうか。
勿論、J・Gバラードの「ハイ・ライズ」は極端なフィクションではあるけれど。

月評を一通り読んだ後、改めて二月号に目を通す。
北山恒の論文「再び集合へ」に沿えられた「細粒都市東京」と題する東京都心部の俯瞰画像には眩暈を覚える。 その論壇と共に紹介された「超混在都市単位」と称する氏の作品も、俯瞰的視線においてはその細粒都市の中の一部、あるいは、細粒化を継続・促進する一要素でしか無い。 たとえ、複合建築物に要求される用途ごとの明確な区画や個々の用途に要求される多岐に及ぶ約束事から敢えて離反することで、旧来の集住の在りようとは異なる何かを得ようと画策した作品であったとしてもだ。
それを想う時、「目黒駅前地区第一種市街地再開発事業」において取り敢えずは足元にたっぷりと整備された緑地がすこぶる健全に見えてくるところが少々複雑な気分でもある。

2018.04.10:忘却画像

建築探訪のページに、東京都港区芝浦にかつて建っていた大協石油(現、コスモ石油)のガソリンスタンドを登録した。
特異な構造形式を持つこの建物の存在は以前から知っていたが、写真を撮った記憶が無い。 だからページの作製を思いついた際に、撮影のために現地を訪ねようとGoogleストリートビューで事前に現況を確認したら、既に別の建物に変わっていた。 調べてみると2014年頃に建て替えのために除却されてしまったらしい。
そうなる前に撮影しておくべきだったと後悔してもどうなるものでもない。 なのでページの作製は諦めていた。

しかし、暫く経ってから別件で過去に撮り溜めたデジカメデータを眺めていた折、自身で撮影した当該建物の画像を一枚だけ見つけた。
全く記憶から抜け落ちていたのだけれども、確認すると撮影したのは2006年。 仕事で移動中の車の後部座席から撮ったものの様だ。
従って建物の特徴を余すことなく捉えたものとは言い難い。 それでもよくぞ撮影していたものだと12年前の自分を褒めつつ、その写真をもとにページを作ることとなった。

デジタルカメラを用いるようになってから、写真を撮る行為がとても気軽なものとなった。 フィルムカメラの場合は一枚一枚、それこそ一球入魂の様な想いで被写体と対峙し撮影を行っていたが、そういった感覚が殆ど無くなった。
だから、撮ったことを忘れてしまったまま、単に削除していなかったという程度の経緯で保管されている画像データが山の様にある。 そして山積するそれらの中には、今回の様に後々個人的に貴重なものとなるかもしれぬデータも少なくは無いのであろう。
少し整理をしなければと思うが、これがなかなか。

2018.04.01:川越逍遥
※1

氷川橋の近辺に伊東豊雄設計のヤオコー川越美術館が建つ。 市内に在ることは把握していたが、この界隈とは知らなかった。
建物の主張がやや強めの内観が美術館の用途として感心出来る作品とは思っていないので、外観を一瞥するのみに留まった。

「徘徊と日常」のページにも書いたが、昨日川越市を訪ねた。
仕事やプライベートで同地には幾度か足を運んでいるが、確認すると今回は六年ぶり。 久々に向かった目的は、同地を舞台にしたTVアニメ作品「月がきれい」の初回冒頭シーンに近い風情を堪能すること。
この作品では、第一回目の冒頭、春先の川越市内の風景が幾つか映し出される。 その中に、穏やかに流れる小川に沿う満開の桜並木から花びらが大量に舞い落ちるシーンがある。 この土曜日、ちょうど同地は桜が散り始めるタイミング。 よしんば似た風情を体感できるのではないかと思った。
つまり、花見がてらの「聖地巡礼」といったところ。

先ずは土蔵の群景で有名な市内の伝建地区へ。
そのエリアを貫通する中央通りは普段は車の通行量が極めて多いが、訪ねた日はイベント開催のため通行止め。 歩行者天国となっていた。 代わりに人でごった返し、落ち着いて町並みを鑑賞する雰囲気など有りはしない。 とはいえ、桜の季節なのだから何らかのイベントは開催される訳で、これは仕方が無い。 なので、通りに面した店先でアニメにも登場する川越名物「いも恋」を購入。 サツマイモの風味や食感が十分に活かされたその饅頭を食しつつ雑踏の中を暫しそぞろ歩き。
しかし、その群集に混じって丁髷姿の江戸商人に扮したイベント関係者が多数通りを往来するのには違和を覚えた。 確かに川越は江戸期から大いに栄えた場所ではあるが、しかし土蔵が建ち並ぶ現在の伝建地区の町並みが形成されたのは明治中期の大火以降のこと。 小江戸という観光キーワードに即したその演出は、今に残る町並みを江戸からのものとする勘違いを定着させることになる。 しかしながら、判りやすい観光アピールと、そのアピールに沿ったイベント開催による集客は、歴史的建造物の保全に纏わる現実的な対策として不可欠なのであろう。

そんなことを考えつつ、雑踏を離れて新河岸川に架かる氷川橋へ※1。 川の両岸の桜並木は、ちょうど散り際。 訪問目的としたアニメの冒頭シーンに結構近い風情を、ほぼ同じアングルにて存分に堪能した。
個人的には、これだけで十分満足。 それ以上、他の「聖地」を巡る気はない。 既にウェブ上には詳細な巡礼の記録を挙げられている方々が幾多。 それらを閲覧すれば作中の再現性は十分に愉しめる。
ということで、以降は市内を適当に散策。 一日を終えることとなった。

改めて散策する中で、新たに気付いたことがあった。 それは、特徴的な風景もしくはエリアを有する町並みの多くに共通して見受けられる事象。 つまり、その特徴的な風景を新築建物の外観に何らかの形で取り込もうとする試みだ。
川越の場合は、伝建地区のイメージが対象となる。 その取り込み方は千差万別。 本格的なものもあれば、「なんちゃって」な事例もある。
前者は、例えばスターバックスコーヒー川越鐘つき通り店や川越市立美術館。 後者は、土蔵が連なる風景を単純化して外壁の化粧目地に取り入れたと思われる商業建築や、黒漆喰をイメージして濃灰色を基調とした外装タイルを採用したマンション等々。
個人的には「なんちゃって」の方が断然面白い訳で、次回訪ねた際にはそんな視点で街中を逍遥してみたいと思う。

2018.03.27:メーカー住宅私考_89
ハザマホーム

プレキャストコンクリート(PCa)を用いて戸建住宅産業を展開したケースの多くは、建設会社やコンクリート二次部材製造会社であった旨を前回第88回で書いた。
このハザマホームもその一つ。 間組(現、安藤ハザマ)が1977年に発表したコンクリート系プレハブ住宅だ。 規格化されたPCaパネルを組み合わせたフラットルーフの家という点では、同工法を用いた他社事例と同じ。 但し、外観も、そしてプランについても他社のそれとはやや趣きを異にする。

外観に関しては、外壁面に凹凸が多い。 中央を窪ませ、左右のボリュームも南面を雁行させることで、四角四面の他社事例に比べると変化がある。 そして二階屋根の軒裏やバルコニーのキャンチスラブの見上げ面を黒(ないしは黒に近い濃灰色か)に塗装。 擬似的な陰影の表現により白色の外壁面や鼻先側面との対比を強調させることで外観にシャープな印象を与えている。


ハザマホーム外観

ハザマホーム平面図(32型Nタイプ)

プランも、他社で一般的に行われていた手法とは異なる。
構造上設定可能な大空間を二つ設けて左右に並置。 その二つの空間に挟まれるように一間幅の空間を中央に挿入。 それぞれの空間の外周を耐力壁であるPCaで固める。 そして中央の空間には玄関やホールや階段の用途を、左右の空間には必要な諸室を非耐力壁や家具等で間仕切ることでプランを成立させる。
耐力壁を整形グリッド上に機械的に並べてそれぞれの桝の中に一つの室を規定する、つまり、一つの室が四方を耐力壁で囲われた空間によって規定される当時の一般的な壁式構造の他社事例とは異なる手法が採用されていた。 これは、プランのセミオーダー対応や将来のリフォームに対する柔軟性の面でも有意であろう。
玄関を入ると正面に折り返し階段が取り付く。 その中踊り場の外壁面に穿たれた一階と二階を貫く縦長の三段連窓からは南面の自然採光が降り注ぐ。 平面図からの想像になるが、これはなかなか個性的な設えであったかもしれぬ。 そしてその縦長窓が建物中央の凹部と組み合わさって外観にも個性を与えている。

同社の社史によると、このモデルを用いて戸建事業を展開したのは1982年3月まで。 販売エリアは首都圏と静岡県。 5年間の販売実績は168戸と記されている。

2018.03.20:メーカー住宅私考_88
ハイプラン

今現在、大手建設会社の中で戸建住宅事業を展開しているのは大成建設のみ。 1970年にプレキャストコンクリート(PCa)パネルを用いた「パルコン」を、そして1978年にツーバーフォー工法を用いた「パルウッド」を発売。 現在に至っている。 一時期はユニット工法のモデルも発表しており、戸建住宅への事業展開はとても積極的だ。

かつては、他の建設会社も戸建事業部門を持っていた。
例えば竹中工務店は、子会社として日本ホームズを新日本製鐵との共同出資で1964年に設立。 国内でツーバイフォー工法がオープン化される以前から、同工法を用いた戸建て事業を展開。
大林組も1971年に大林ハウジングを設立。木質パネルを用いた戸建住宅を供給していた時期がある。
そして清水建設も1975年11月から「ハイプラン」という名称で、PCa系のプレハブ住宅を発売。 首都圏を中心に事業展開を図っていた。 今回取り上げるのは、このモデル。


ハイプラン外観

ハイプラン平面図(35B-1タイプ)

その外観は、フラット屋根の下に無機的に開口が穿たれた外壁が四角四面に取り付くといったもの。 当時のパルコンとそんなに大きく変わるところは無いという印象だ。 細かいところを見れば、例えば一階と二階の外壁面の取り合い部の殆どに小庇を廻している。 これは、止水性の面で理に叶っている。 あるいは、台形形状のバルコニーや出窓の導入等、僅差は認められる。 しかし、あたかも公営集合住宅の一部を切り取って戸建住宅にしたが如き全体像はパルコンのそれとは大きく変わらない。
一方、平面プランの骨格は少々趣を異にする。 整形な二行二列若しくは二行三列の整形グリッドの中に諸室を単純に収める生産性重視の傾向が強かった同工法採用の当時の他社事例に比べると、居住性への配慮がやや見て取れる。

清水建設が戸建住宅事業に参画した当時、PCaを用いた戸建て住宅を供給するメーカーは既に十数社にのぼっていた。 その多くは建設会社やコンクリート二次部材製造会社。 参画にあたっては、当然それらの動向を注視していただろうし、その中の筆頭である大成建設のパルコンに対して如何に差別化を図るかといったことが商品開発の課題の中に当然含まれていたものと思われる。
ハイプランの様態には、そんな背景が見て取れる。 しかし、後発メーカーが事業を軌道に乗せるには、先行メーカーが既に保有する供給能力や販売網、そして知名度を凌駕する強力な商品的優位性とアピールが必要となる。 その点でなかなか厳しい面があったのだろうか。 同社は1986年12月に戸建事業から撤退している。

2018.03.12:変わる廃墟展

「TODAYS GALLERY STUDIO」で開催中の写真展「変わる廃墟展」を観に行った。
同ギャラリーは、台東区浅草橋の一画に建つ六階建ての小規模ビルの中に在る。 接道側建物立面は、ボーダータイルを馬目地に竪張りした壁面がやや時代を経た雰囲気。 エントランスの脇にイベント告知のポスターが貼られていなければ通り過ぎてしまいそうな、そんな佇まいで周囲の同規模の建物と共に風景の中に収まっている。
調べてみると、竣工は1984年10月。 当初は事務所ビルであった様だが、2006年にコンバージョンを実施。 現在は各フロアを数戸に区画した賃貸SOHOとなっている様だ。 その中で、5階部分のみほぼスケルトン状態とし、ギャラリーが入居している。

私が訪ねた際、他にも来訪者が多数。 大盛況といった様相。 個々の作品を落ち着いてゆっくり鑑賞する雰囲気からは程遠かった。 それだけ「廃墟」って人気のジャンルなのだなと改めて思う。
右の画像は、会場の一部を撮ったもの。 場内は作品を含め全て撮影可でネット上への公開も制限が無い旨、会場に表示されていた。
個々の作品はそれぞれにとても美しい。 どうしたらこんなに綺麗な写真が撮れるのだろうネと感心しつつ、しかし心が震えるような作品を見い出すには至らなかった。
私は、学生時代に北海道内に散在していた古民家に興味を持ち、それが鰊番屋へと収斂し、更にそこから廃墟趣味へと罹患しかけた。 だから、個人的な嗜好として廃墟といえば北海道。 そしてロケーションは山中よりも海沿い。 更には木造なのだ。 何とも頑迷で狭窄な価値観ながらも、個人的な好みなのだからしかたがない。
あるいは、私にとって廃墟は基本、外から眺めるもの。 内部に入る(侵入する)ことに対しては自制も有るし、あるいは屋内は人為の痕跡が生々し過ぎるという印象がある。 周囲の風景と共に朽ち果てなんとする外観を静かに鑑賞するのが良いのかナと。 だから、屋内を捉えた写真の中に撮影者自身と思しき人物が被写体として登場する一部の作品は、ちょっと興醒めではありましたか。

同展は3月21日まで開催。

2018.03.05:メーカー住宅私考_87
二冊のカタログ

私が住宅メーカーに強く興味を持ったのは、小学生高学年から中学生の時期にかけて。 当時、モデルハウスに足繁く通い、カタログやリーフレットを片っ端から収集していたことは、以前この場に「メーカー住宅私史」というシリーズで書いた。 その後、高校に入って間もない頃に興味を失い、実家の引っ越しの際に殆どを破棄してしまったことも、経緯を含めて書いた。
しかし、今となっては悔やんでも悔やみきれぬその愚行を潜り抜けて手元に極々僅かな資料が残っている。 下に掲げた画像は、そんな資料の一部。 ミサワホームのカタログで、80年代の同社のラインアップを紹介した総合カタログだ。
サイズは幅182mm,高さ194mm。 そのタイトルは、「ご紹介します、ミサワホームの商品群。」。 手元には同じ体裁のものが二冊ある。
巻末に印字された発行日と思しき数字からは、1983年2月及び1984年6月発行のものと思われるし、それぞれに掲載されたモデルの陣容もその年月と矛盾しない。 同じ体裁、そして同じ時期に配布されていたパンフレットではあるが、しかし紹介されている商品群の傾向はやや異なる。



まず表紙からして違う。
1983年2月発行の方は、当時同社が発表していた企画型モデルのひとつである「ミサワホームM型2リビング」のプランの中に設えられた「余暇室」と呼ばれる部屋にて優雅なホームパーティーが繰り広げられている様子を捉えた写真。 余暇時代の到来に対応し、家庭内で充実した時間を過ごすために用意された二つ目のリビングとしての余暇室の提案を余すことなく表現した一枚。 そこに在るのは大人のための上質な空間。
一方、1984年6月発行の表紙は、「ミサワホーム・エイト」の子供室の様子が撮影されている。 室内で伸び伸びと活動する子供のための空間。
まるで異なる二つの提案は、当時の同社の幅広い商品企画力の一端を表わすものと解釈出来そうだ。

掲載されている商品群についても、双方で違いが認められる。
1983年2月発行の方は、企画住宅を前面に押し出した内容。 1984年6月発行の方は、自由設計事例のページが増えている。
昭和50年代に強力に展開していた企画住宅路線ではこれからの顧客ニーズを十分には捉えきれぬという判断に基づく自由設計路線への方向転換は、そのタイミングを含めて的確であった。 しかし、その具体策として提示された「我が間ま住宅」と称する自由設計のブランドについては、当時も、そして今でも全く興味を持てぬ。 企画住宅で培ったディテールを内外観に融通無碍に展開するという発想自体は悪くは無い。 しかしそれによって作り出された事例は、なぜかいずれもおぞましい。 ミサワホームO型を筆頭に、それまでプランや内外観の意匠に関し全く隙の無い住宅を怒涛の如く世に送り出してきた、その会社の仕事とは到底思えぬお粗末なシロモノにしか見えなかった。
勿論それは好みの問題でしかないが、住宅メーカーへの興味を失うきっかけとなったことは間違いない。 二つのカタログの相違はその分岐点を示すうえでも貴重かもしれぬ。 ともあれ、興味の範囲が80年代半ば迄で止まっている状況は、長いブランクを経て住宅産業への興味が復活した今現在においても変わらない。

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