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2022.10−2022.12
2022.12.26:トイレに纏わる小さな備忘録

仕事帰り、小料理屋に立ち寄る。 ウナギの寝床の様な細長い店内には、カウンター席と奥に四人掛けのテーブルが二つ。 そんな小ぢんまりとした店内で、寡黙な男性料理人と明るい女性接客担当の二人で店を切り盛りしている。
「何だか、「異世界居酒屋「のぶ」」みたいだね」
「でも、接客をしている女性の方は、「しのぶさん」よりも「リオンティーヌ」に雰囲気が似ているかな・・・」
などと同行者と話しつつカウンター席でゆっくりと美味しい料理とお酒を愉しむ。

途中、トイレに行こうと離席。 その際、決してトイレの場所は訊かない。 店の構造からどこにトイレがあるのかを瞬時に把握するのが建築屋の特技・・・と、以前読んだせひらあやみ著の「建築学科のけしからん先生、天明屋空将の事件簿」にも記述されていたが、その通りだと思う。 ましてや狭い店内。 このレイアウトならテーブル席の奥にあるアルコーブの向こう側だろうと見当を付け、黙ってそちらの方に向かう。 しかし見事にハズレ。 物置であった。 店の人に、「どうぞご自由に店内をご覧になってください」などと声を掛けられてしまう。
「あ、いえ、トイレに行こうかと・・・」
「あぁ、それでしたら入り口の方ですよ」
「そうでしたか・・・」
店は外装にALCを張った鉄骨造三階建てで間口二間半程度の小ぶりなテナントビルの一階にあり、前面道路に面して配された上階に至る階段直下の残余のスペースにトイレがレイアウトされている。 なるほど、そこまで読んでトイレの位置を想定しないとな・・・などと反省しつつ、床と壁のいい加減なタイルの割り付けを眺めながら用を足すこと暫し。
トイレから出ると、同行者と隣の席に座っていた初老の男女(夫婦ではなく友達といった雰囲気)が初対面にも関わらず和気あいあいとトイレをネタに会話を弾ませている。 トイレの位置を巡る店員と私の会話が発端であったらしい。 席に戻って私も加わってみると、やれ昔住んでいた家は汲み取り式だったとか、狭い家にも関わらず大便器と小便器が併設されていたとか、日本のトイレは世界で一番快適で清潔だ等々、トイレを巡って会話が止まらない。
人はなぜ、かくもトイレを話題にここまで盛り上がれるのか。 そういえば、各界著名人の自宅のトイレを几帳面な俯瞰図と共に紹介した妹尾河童著の「トイレまんだら」という書籍について、以前この場で言及したこともありましたか。 トイレとはなかなかに奥深いテーマである。

2022.12.20:可愛いだけじゃない式守さん
※1
可愛いだけじゃない式守さん展の会場の様子

掲題のテレビアニメ作品については、この雑記帳の場に5月25日に書いている。 有り体に言ってしまうと、学園ラブコメもの。 その最終話完結後に陥った軽いロス状態緩和のため、連載続行中の原作漫画の単行本購入に向かってしまうのは、よくある話。
発売日に購入した最新刊の第16巻は、少々異色。 まず表紙からして今までとは雰囲気を大いに異とする。 既刊は、当該作品のアイデンティティであるヒロイン式守さんの"イケメン"っぷりを全面に押し出した容姿が、巻ごとに趣向を変えつつ描かれている。 いずれも、可愛いだけじゃない彼女が可愛く表現されてきた。 ところが16巻は、すこぶるご機嫌斜め。
理由は勿論本編にある。 まぁ、前半をたっぷりと使って彼氏である和泉くんと、その大親友の犬束くんとの深い友情に纏わるエピソードが繰り広げられるとなると、式守さんが入り込む余地などあろう筈も無い。 そのためのプンスコである。 ヒロインの式守さんが脇役扱いの異色のストーリー。 でも、読む者を思わずウルッとさせる素敵な内容。
その反動で、後半のエピソードにおける式守さんの表情やしぐさの豊かなこと。 個人的には、85ページの碇ゲンドウポーズがちょっと嵌まりましたかね。

この作品に関心を寄せる理由。
それは、キャッチコピーであるところの「尊さ1000%」ということになろう。 悪い人間は一人たりとも出てこない。 皆良い人ばかり。 そして、主人公が不幸体質という設定にも関わらず、悲惨な展開が一切無い。 明るく、前向きで、そして平和で優しい世界が、一服の清涼剤となっている感はありましょうか。
そして、セリフ回しやコマ割りの巧みさ。 少し前に有楽町マルイのイベントスペースで開催された「可愛いだけじゃない式守さん展」※1で、複製原画の展示が行われた。 そこでは、第100話の一部について、ネーム段階の初稿と第三稿、そして完成原稿が並列展示された。 内容を見比べることによって、著者が如何にセリフやコマ割りに細心の意を払っているか、その一端が容易に窺い知れた。 そのプロセスは、それこそ建築家のエスキススケッチを眺めるが如く。

16巻に話を戻せば、準レギュラーの一人、狼谷さんの描写も目が離せないところ。 登場シーンが僅かであるにも関わらず、その存在感は一体何だろう。 神回として名高い文化祭のエピソードの頃の心の葛藤から完全に吹っ切れ、それこそ式守さんの「気持ちを大切に」というアドバイス通り、生き生きと日々の生活を送っている様子。 そして和泉くんも、安定の不幸体質の発揮。
ハテサテ、今後更にどのようにストーリーは進展しますやら。

2022.12.13:メーカー住宅私考_168
ミサワホームS型NEW再考

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オープンハウスを告知した新聞折り込みチラシ。 裏面には当時の同社の他企画モデルのラインアップが紹介されている。
右は、同モデルの新聞広告切り抜き。

「住宅メーカーの住宅」の項にミサワホーム「DEBUT家族新話」のページを新規登録した。
2001年4月に発売された当該モデルの原型を、同社が1982年4月に発表したS型NEWと見立て考察を試みている。 しかし、DEBUT家族新話が約二十年の歳月を経てのS型NEWの復活という訳ではない。 両者を繋ぐもう一つのモデルがある。 それが、1990年9月1日発表のミサワホームGOMAS Sタイプ。 その間にも、マイナーチェンジモデル等が存するのかもしれぬが、把握できていない。 ともあれ、約10年ごとに、それぞれの時代の嗜好に基づきリデザインされた継承モデルが発表され続けた要因や個々の変容を検証するのも面白い試みかもしれぬ。

かつてS型NEWの発表を見知ったのは、新聞広告であった。 そのキャッチコピーは、「暮らし深まる、日本の家。」。 手元に保管している切り抜きには、以下の解説文が添えられている。

ミサワホームS型NEWには、日本の伝統的な住文化である"続き間"設計を採り入れました。 居間・茶の間・客間は、三室続きとしてもご利用いただけます。 このように日本の住まいの良さを生かしながら、現代の知恵−先進技術が盛り込まれています。 いま新しい時代の本命住宅です。

私は、当時住んでいた長岡市内で開催された当該モデルのオープンハウスにて内外観を実見する機会を得た※1。 ストリートビューで確認してみると、様々改修されながらも現存していて少し嬉しい。
会場となった現場が立地する市内南部の摂田屋は、日本酒や醤油等の醸造所が点在し、古い町並みを比較的残すエリア。 その一画にあって、土蔵を想わせる外観意匠を持つS型NEWは、周辺の雰囲気にしっくりと馴染んでいた。 とりわけ、玄関が取り付く側の立面のデザインは秀逸で、プレハブ住宅とかメーカー住宅という言葉のイメージに纏わりつく薄っぺらさとは無縁の堂々とした佇まい。
そして、内観を特徴づける一階南面三室続き間。 当時私が住んでいた家は、狭隘にも関わらず部屋どうしがぶつ切り状態だったので、間口一杯に連なる豪放な空間処理は印象に残った。
ということで、上記引用文にある伝統と先進性の融合が幼少のみぎりの視線にも良く伝わる内外観を有していた。 そして、各地にて今でも確認出来る同モデルを見るときの視線も、当時と変わらぬ。 工業化住宅でありながら、和の雰囲気を安易な伝統の模倣に陥らぬ手法で巧みに醸し出していると思う。

S型NEWについては、冒頭でも示した「住宅メーカーの住宅」のページに別途載せている。 作製したのは13年前。 読み返してみると、自身の文章ながら何やら軽い。 もっといろいろ考察が可能なモデルなのではないか。 当該サイトの各ページはいずれも単なる自己満足で作成しているに過ぎぬが、しかしそれであるがゆえに時を経て改訂を試みるのは楽しい作業となり得るのかもしれぬ。

2022.12.06:ヴァイオレット・エヴァーガーデン

暁佳奈著の小説が原作のこのアニメ作品は、2018年1月から全13回にわたって放映されたTVシリーズと、2019年9月に公開された映画版「外伝−永遠と自動手記人形−」、そして2020年9月公開の完全新作「劇場版 ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の三部作からなる。
三作に共通する感想を一言で表わすならば、「後悔」ということになる。 といってもそれは作品批判のニュアンスではない。

私は、昨年10月に日本テレビの映画番組「金曜ロードショー」で放映されたTVシリーズを視るまで、この作品を知らなかった。 当番組の時間枠内で全話を放映することは勿論無理。 従って総集編の体裁。 初見の私にとってはブツ切りの違和を全く感じさせぬ素晴らしい仕上がりではあった。 しかし総集編ではなく、各話放映中にリアルタイムにじっくりと視聴していたならば、更に大きな感動を得られたに違いない。 そう思うと、後悔せぬ訳にはいかぬ。
更に次の週に放映された「外伝」も、そしてつい最近放映された「劇場版」に関しても然り。 映画館の大画面で鑑賞すべきであったと、後悔の念が沸いた。

物語は、二十世紀初頭のヨーロッパを想わせる舞台設定の下、手紙の代筆業に携わる女性の生き様を描いたもの。 笑えたり、あるいはりワクワクする場面は皆無。 全編を通じて常にどこか仄暗さが付き纏う。 何せ完結編である「劇場版」は、号泣するヒロインの涙でグシャグシャになった顔と言葉にならぬ嗚咽でエンドロールに入る。 にも関わらず、それが長い長い物語の大団円であり、そして感涙不可避のハッピーエンドなのだ。
気軽に愉しめるエンタテイメント作品とは一線を画す味わいを持つ当該作品の一貫したテーマは、相手に伝えることが難しい自身の微細な心情も手紙ならば成し得るというもの。 あまりにも重い過去を背負い、そして人間的感情が著しく欠落した少女が、周囲の人々の温かい支えの中で手紙代筆業のプロとして、そして人として成長してゆく。 そこに、代筆した手紙を巡る様々な人間模様が絡む。
そんな物語の骨格が、京都アニメーションの緻密で圧倒的な作画によって極上の作品へと昇華する。 アニメの表現は一体どこまで進化するのだろうと感嘆しつつ全編堪能することとなった。

ところで、言葉で伝えにくいことも文章ならば可能というが、文章もまた難しいものである。 あるいは、現代社会の一般的コミュニケーションツールとなっているチャット等の短い文章のやり取りに、伝える行為に纏わる深みがどこまで備わっていようか。 それらは時に、いわゆる「炎上」という事態も招く。
ヴァイオレット・エヴァーガーデンの職能は、今の時代にも必要とされているのかもしれぬ。

2022.11.28:二つの記念塔
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当該展望塔については、建築外構造物のページ参照。

千葉県富津市の明治百年記念展望塔※1が修繕工事のため先週月曜日から来年3月末まで閉鎖される旨、同施設の公式サイトにて告知された。
東京湾に5kmあまりにわたって突出する砂嘴上に整備された千葉県立富津公園の先端に立地し、最上層からは東京湾を挟んだ対岸の背後に富士山を望む雄大な風景をはじめ、360度の眺望を存分に堪能できる。 その施設は常に潮風が吹きつける過酷な環境下に晒されている。 1971年に整備された同施設を今後も永く供用し続けるためには、定期的な修繕は必須事項だ。

一方、北海道札幌市厚別区の野幌森林公園内に屹立する北海道開拓百年記念塔は、老朽化を理由に除却が決定。 来年早々の除却工事着手に向けた準備のために、周囲一体に仮囲いが設けられ封鎖措置がとられた。
双方とも建立目的は百年という特定の期間を区切っての記念碑。 そして建てられた時期もほぼ同じ。 この偶然の一致が、双方の境遇の差を如実に際立たせる。

百年に因み100mの高さを誇る後者の記念塔の除却については、その是非を巡って以前から地元で議論になっていた。 解体か保存か。 老朽化の問題を抱える構造物を巡り、大なり小なり生じる葛藤だ。 推移に目を通した範囲では、この記念塔が多くの市民に愛着を持って捉えられ、あるいは心象風景に深く刻まれている状況が伺える。
経年劣化に起因する外装部材の剥離剥落等の安全面への懸念は勿論無視できぬ。 しかしコトは老朽化の一言で済まされる単純で安易なものではなかろう。 今迄どの様な保全がなされて来たのか。 にも関わらず除却を選択せざるを得ぬ老朽化を招いた原因は何か。 考えられる修繕方法とライフサイクルコストの評価。 言わずもがなではあるが、これらについての検証や議論がどこまでなされてきたのだろう。

当該記念塔については、北海道の地域性や歴史性がものの見事に形象化されていると素直に思う。 表層を特徴づけるコールテン鋼の経年作用に拠るテクスチュアの変容も、厳しい気候風土の表象。 時の流れのみが創出し得るとても良い風合いが醸し出され、周囲に広大に広がる原生林との美しいコントラストを生成している。
だから個人的に除却は非常に寂しい。 あるいは、明治百年記念展望塔のことを思えば腑に落ちぬ気分にもなる。 そしてなによりも、当該記念塔の近傍に建つ北海道開拓記念館(北海道立総合博物館に改称)の配棟との一本の軸線を介した巧みな相補性も見落としてはいけない。 記念館の正面エントランスから壮大なホワイエホールを通じ裏手のサブエントランスへと抜ける梁間方向の強い軸線の延長線上に、記念塔の水平断面が呼応する。 結果、サブエントランスの向こう側にアイストップとして記念塔が屹立する絶妙な配置計画。 そんな二棟の配置が織りなす開拓の歴史に向けた畏敬の風景の記憶は、幼少のみぎりに訪ねた際に買い求めた記念メダル※2に刻まれた俯瞰図に小さく封入されてしまうのだろうか。

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記念塔と北海道開拓記念館が刻印された記念メダル。
2022.11.22:千城台東第一県営住宅
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当該書籍を読んだ感想は、この場に2012年6月23日に書き記している。

建築探訪の集合住宅の項に、千葉市若葉区の千城台に立地する「千城台東第一県営住宅」を登録した。
当県営住宅団地を構成するテラスハウスタイプの二階建て量産公営住宅に興味を持ったのは15年ほど前。 仕事で移動中の車窓から、千城台南端に位置する別の公営住宅を見掛けたことがきっかけであった。 築年数を経た同一規格の住棟群が織りなす風景にどこか惹かれるものがあった。
調べてみると、ほぼ同型の公営住宅が各地に建てられている。 更には、その公営住宅の技術基準について財団法人日本プレハブ協会が編纂した1963年2月発刊の「プレハブ住宅」という書籍(というよりもテキスト)を古書店で入手する機会を得、関心が更に深まることとなった。
建物をスケルトンとインフィル部材に明確に分け、モデュラープランニングのもと徹底したプレファブリケーションが図られた住宅生産システム。 それを1960年代初頭において高度に、しかもオープンシステムとして実現していたことに大いに驚く。
と同時に、建設事例に対し軽いシンパシーめいた視線を向けることにもなった。 既に老朽化を理由に多くが用途廃止に向け新規入居募集を停止し空き家が増加する状況にあった。 以降、今現在に至るまでの当該形式の公営住宅に対する個人的な追跡は、除却や建替え等、その物理存在の消滅を確認する作業と同義であったといってもそれほど大袈裟ではない。

千城台東第一県営住宅の初訪時も、既に新規入居募集は停止されていたけれど、それでも空き家はまだ少なかった様に記憶している。 しかし今回ページを作成するにあたり久々に訪問してみると、公営住宅としての用途は廃止され、建ち並ぶ住棟はいずれも無人。 除却が決定し、その工事を静かに待つ段階にあった。
広大な敷地の外周には仮設の簡易な柵が途切れることなく設置され立ち入り禁止措置が取られている。 従って、掲載した画像はいずれも敷地に沿う公道から撮影を試みた。 右の画像は、建築探訪に登録したページには採用しなかった団地内の風景。 定期的に委託業者が入って草刈りを行っている様ではあったが、それでも藪化が進んでいた。 そのため何やら山間に取り残された炭鉱住宅群のような風情だけれども、周囲には戸建て住宅街が広がる。

各住戸の間取りは2DK。 不動産広告風に内訳を書くなら、DK6,和6,和3,浴室,WCとでもなろうか。 現在の居住水準を鑑みるならば決して広いとは言えないかもしれぬが、しかし例えば進行する小家族化を念頭におくならば却って手頃な規模という価値判断もあり得よう。
ふと、西和夫著の新書「二畳で豊かに住む」を想い起こした※1

2022.11.14:虎ノ門・麻布台プロジェクト

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麻布台界隈の街路から六本木ヒルズの森タワーを遠望する。

通勤電車の窓からいつも眺める風景。 連綿と並ぶ建物群が描くスカイラインのやや後方に、いつの頃からかニョッキリと新たな建物の骨組みが頭を出してきた。 次から次へと超高層建物が造り続けられているから特に珍しいことでもない。 しかしその鉄骨架構はどんどん高さを増してゆく。 規模からして「虎ノ門・麻布台プロジェクト」だろうと漠然と認識することは容易であった。
正式名称は、「虎ノ門・麻布台地区第一種市街地再開発事業」。 森ビルが手掛ける都内中心部の大規模な事業だ。 その広大な街区の一部に姿を現しつつあるメインタワー棟の高さは330m。 東京タワーと大して変わらぬ。 流石にそこまで高くなると、今迄とは異なる高層建築への視覚の在りようが体感できるのではないか。 そんな関心を少々持ちつつ、骨組みの外表に纏うカーテンウォールがほぼ張り終わる寸前といった工程段階の当該建物を見に現地に赴いた。

事業エリア界隈に足を運ぶのは久々。 ほかにも大小様々な再開発事業が周辺で進行中。 都心の中の更に中心部にありながら意外と土地の高度利用がなされていない印象だった一帯に、いつの間にやら超高層建物が林立している。 それらの風景をすっかりウラシマ状態な感覚で見上げながら辿り着いた虎ノ門・麻布台プロジェクトのメインタワー棟は、意外にも高さに対してそれ程驚くものでもなかった。
例えば東京都庁舎とか、あるいはかつて森ビルが手掛けた六本木ヒルズの森タワーを初見した際と同質の感嘆が特に沸かぬ。 都庁舎であれば、天高く屹立しようとする力強い意志がその表装デザインや建物ボリュームに如実に漲っている。 森タワーも、極太の円筒形のボリュームを活かした意匠によって周囲を睥睨する様な圧倒的な存在感が誇示されている。
それらに比して虎ノ門・麻布台プロジェクトのメインタワーは、その様な意思が希薄。 土地利用に係る最適解として導き出されたボリュームに従って淡々と建物が構成されている印象。 唯一無二の高みを指向したのではなく、各種与件からその建物高さが割り出されただけで、それ以上でも以下でもないといった外表デザインが下層から最上層まで淡々と取り付くのみ。

あるいはそれは、象徴性や存在感を意図的に消そうとしている様にも見える。 今さら記念碑性など時代にそぐわぬといったところか。
でも、それはそれでアリなのかもしれない。 超高層建物は、その存在だけで都市景観や環境に与えるインパクトが大きい。 象徴性の付与よりも、環境負荷の低減ないしは気候変動の緩和策に係る建築的配慮の意匠化こそが、今後の超高層デザインの主要課題となり得るべきという考え方もあろう。 もっとも、メインタワーの外観意匠がそのことに留意されているか否かは何んとも定かではない。 例えば数少ない外観要素として視認される各層の全周に片持ちで取り付くルーバー状のキャットウォークは、日射制御による室内温熱環境の安定や空調負荷低減を意図したものには見えぬ。 外装の円滑な維持管理への配慮、即ち建物の超寿命化に係るLCC低減による環境負荷低減に資すると解釈できなくも無いけれど・・・。

帰路、近傍の東京タワーに立ち寄りその雄姿を見上げる。 その途上においては、街路の向こう側に六本木ヒルズの森タワーが力強く屹立する様子が伺える※1。 双方を眺めて、高さへの認識は物理的な高さのみによって決まる訳ではないことを改めて実感した。

2022.11.07:ヤクルト1000

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同社の住宅事業については、この場で不定期に連載している「メーカー住宅私考」の第11回(2012年7月14日)にて言及を試みている。

ヤクルトの訪問販売について少し前にこの場に書いた。
定期的な購買契約を取り交わしている訳ではなく、在宅時に訪ねてきた際に気分次第で購入すれば良いといった手軽さもあり時折利用している。 それまで知ることも無かったし、あるいは関心も無かったのだが、ヤクルトの種類は様々。 訪問販売専用の商品も用意されている。 例えば「ヤクルト1000」。 店頭に並ぶ普通の商品より価格は3倍程度高いけれども、内容量は約1.5倍。 また、ヤクルト製品の特長であるシロタ菌とかいう乳酸菌の含有量は5倍。 となると、お買い得なのではないか・・・などとセコく考え食指が動いてしまう。
まぁ、効能の程は今のところ不明。 でもそれは、いわゆる健康食品全般について言えること。

そんなヤクルトの訪問販売。 初回は二人で訪ねて来た。 見たところ、一人はベテラン。 もう一人は明らかに新人。 商品やお金の受け渡しもぎこちない新人さんをそれとなくベテランが指導しておりましたか。
でも、3,4回目からは新人さんが独りで廻ってくるようになった。 だいぶ立ち居振る舞いが身についてきたネ、などとほほえましく思っていたら、最近また別の人が随伴してきた。 何でも健康飲料以外の同社製品の紹介に廻っているとのこと。 で、サプリメントとか化粧品とかを紹介されるが、こちらもナケナシの小遣いをやりくりしている身の上。 それらについては丁重にお断りする。 しかしナルホドこうして様々な商品へと販路を拡大してゆく訳か。 ネット売買全盛の時代にあって戸別訪問販売という昔ながらの手法を継続する理由はこの辺りにあるのだろう。

でもって、かつては住宅を販売した時期もあった訳だ。
確かに販路が無ければモノは売れぬが、さりとて販売網だけ充実していても無条件にモノが売れる訳ではない。 そこには売るための商品企画力とそれをフォローする技術開発力、そして住まいに対する想いや理想への熱量が必須。 異業種からの住宅産業進出が相次いだ1970年代初頭の風潮の中で、同社の経営判断がどの様な経緯だったのか・・・なんてことを少々考えつつ、7本入り1パック税込1000円弱の「ヤクルト1000」を購入するのであった。

蛇足ながら、文中の画像は往時の住宅専門誌に掲載された同社の記事。 海外メーカーとの技術提携のもと1971年にヤクルトハウジングを設立。 生産拠点を置いた九州エリアを中心に1973年からユニット工法を用いたヤクルトホーム※1の販売を開始した同社が、5年後に別のハウスメーカーに事業を譲渡するまでの間、どの様な推移を辿ったのか。 あるいは現存する施工実績はどの様な状況か。 少々気にかかる。

2022.11.01:ハーバーシティ蘇我

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工場棟除却工事中の状況。 この周囲に既に広大な更地が広がりつつあった。


※2

T・ジョイ蘇我の海側外観。
並列する複数のシアターの配置に合わせて雁行するほぼ無窓の壁面が連なる。 外装パネルに施された三色の塗分けのみが辛うじて表情を添える。
右手にJFEスチール東日本製鉄所千葉東工場。

先月上旬の三連休の最終日に「ハーバーシティ蘇我」を訪ねたのは、そのエリア内にあるシネコン「T・ジョイ蘇我」に行くことが目的であった。 目当ての映画は、前々回この場に書いた「夏へのトンネル、さよならの出口」。 視るのは二度目。
初回の観覧は、多くの映画館で上映が終了する前日であった。 なので再び視たいと思っても、既に上映箇所が限られているうえにいずれも職場や居住地から離れている。 そんな中でT・ジョイ蘇我を選択したのは、冒頭に記した名称を冠する巨大な臨海再開発エリアに立地しているため。

元々は、JFEスチール東日本製鉄所千葉東工場の一部。 一部といっても、そもそもが巨大な規模を誇る工場なので、再開発対象となった敷地も広大。 ネット上に公表されている数字によると、その総面積は約75,900坪に及ぶのだそうだ・・・といってもピンとこないが。
JFEスチールがかつての川崎製鉄という社名から変更されて間もない頃に当該工場を見学している。 その際、既に再開発予定の敷地内に存する工場棟の除却工事が進められ更地が茫漠と広がりつつあった※1
以降、大小様々な商業施設及びスポーツ施設が次々と整備されたが、当該シネコンはその北端に位置する。 海に面した映画館って珍しいのではないか。 一体どの様な造りなのだろう。 そんなことへの関心もあって当該エリアに向かった。
規模が大きいため、最寄りのJR京葉線蘇我駅からエリア全体を巡回する無料バスが運行している。 その車窓から眺める風景に、関心を持てるものは特に見い出せない。 どこでも見掛ける巨大ショッピングモールやロードサイド店舗的な商業施設が並ぶのみ。 しかも、エリア名称に「ハーバー」と謳いながら、海が一切視認されぬ。 替わりに、商業施設の背後若しくは対面にJFEの巨大な工場施設が見え隠れすることが、そこが京葉工業地帯であることを視認させる。 そんな風景を眺めながら十数分、漸く目的地近傍の停留所に着く。

そこには、アミューズメント系を中心とした商業施設が複数棟並ぶ。 その一番奥に位置するT・ジョイ蘇我を目指して歩いていると、少々違和を覚える。 各棟の海側には親水広場が整備され、雰囲気の良い空間が作り出されている。 にも関わらず、何れの棟もその広場との関係が希薄。 臨海部という与件は建物の計画にはあまり反映されていない印象。
折角のポテンシャルが活かされていないのは、この手の商業施設においては如何に低廉で効率的なハコを作るかに力点が置かれているためか。 敷地形状や接道状況から車によるアクセス及び駐車の最も効率的な土地利用が策定され、そして商業用途として成立するギリギリまで建設費を削ぎ落とした上屋を配棟する。 だから海が間近にあろうが無かろうが、そんなことは計画に大きな影響を与える要素とはなり得ぬといったところか。
そんなことを考えながら辿り着いたT・ジョイ蘇我は、更に傾向が顕著。 海とは反対側の巨大な駐車場に向けてエントランスホールが設けられ、その背後にシアターを並べているから、海側は完全な裏手※2。 結果、広場がどこか閑散とした雰囲気なのは、連休最終日の夜だからということだけではあるまい。 千葉港への眺望が広がるのに何とも勿体ない。

建物には違和を持ったが、映画の方は良かった。 二回目となるとじっくりと落ち着いて堪能出来る。 なるほどこの描写はあの演出のための伏線かとか、光の状況に合わせた輪郭線の色の使い分け等々、初回には気づかなかった繊細な表現を大いに楽しんだ。

2022.10.25:国立新美術館開館15周年記念 李禹煥

国立新美術館内外観。
訪問時、ホールには玉山拓郎作の「Museum Static Lights」と題する赤色に発光する巨大な作品が展示されていて、その妖しい光が夜景に彩りを添えていた。

掲題の企画展を観に国立新美術館に行く。
赴いたのは少し前の金曜の夜。 同館は週末は20:00まで観覧可能なので、仕事帰りにふらりと立ち寄れるところが良い。 当日は雨風共に強い荒れ模様。 しかし当該美術館は東京メトロ千代田線乃木坂駅に直結しているから、天候を殆ど気にすることなくアクセスできる。 あるいはそれであっても恐らくこういった日は来館者が少なく、落ち着いた鑑賞が可能なのではないか。
ということで敢えてその日に赴く。

同美術館を訪ねるのは久々。 もう開館から15年になるのか・・・などと、時の流れの速さを想う。
開館以降幾度か訪ねているが、建物に対する印象は変わらぬ。 美術館というよりも巨大な見本市会場。 そもそもの諸室配置がその様な組み立てとなっているのだから、空間認識も自ずとそうなる。 ゆえに、展示室に至る経路も何だか素っ気ない。 地下鉄の駅からそのままズルズルと気持ちの切り替えも無しにアート空間に至る感じ。

そのためか、最初の方の展示作品は特に心に響かない。 石や鉄板を並べただけの「モノ」に「関係項」というタイトルを付けて「作品」と称されても、その意図の読解を試みるだけの感受性など、もはやどこかに置き忘れてしまった身の上。 「だから一体なんぼのもんやねん・・・」などと思いながら立ち止まることも無く各作品の前を素通りしてしまう。
その足が、しかし一つの作品の前でふと止まった。 「関係項−星の影」と名付けられた作品。 三方を床から天井までの壁で仕切った、高さに対して幅を狭く、そして奥行きを深く設定した空間。 その奥に裸電球が一個天井から吊下げられ、そして大きめの石が一つごろりと床に置かれている。 ただそれだけの作品。 作為と言えば、床面に偽りの石の影が二重に描かれていることくらい。 なのに、なぜかじっくりと見入ってしまう。
これは一体どうしたことだろう。

私にはアートを読み解く審美眼もレビューする知性も備わってはいない。 しかし貧相な思考の中でその場の自身の状況を分析するならば、それは壁によって切り取られた空間のプロポーションとそこに配されたモノとの関係の妙を堪能しているということの様だ。
作品を囲う壁は、単なる作品どうしのパーティションでもなければ鑑賞動線を規定するためのものでもない。 作品の意図に沿う最適な高さ、奥行、幅を持つ空間を創り出すための手立てとして用いられている。 もしも、一つの展示室内に他の作品と区画されることなく電球と石が並置されているだけならば、何の価値も見い出せなかっただろう。 あるいは、異なるプロポーションで囲われていたならば、作品に対する印象は全く違うものとなったのではないか。
その視点でそれまで通り過ぎてきた経路を見返すと、いずれも同じように個別の空間を設けて単一若しくは複数の作品を配している。 そしてそれぞれの空間は、各作品の構成要素どうしの関係性を強化し得る最適なプロポーションを確保すべく区画されている様に見えてくる。 そこに向ける視線は、床の間というフレームの中に設えられた軸や花、あるいは箱庭に点在する景石を愛でる感覚と似ているのかもしれない。

何だ今さらそのことに気付いたのかと言われると身も蓋も無いが、その視点で各作品をもう一度堪能し直すことと相成った。 そして鑑賞後、巨大な吹抜けホール一階のカフェにてコーヒーをすすりながら、直島の李禹煥美術館を訪ねたくなっている自分が居た。

2022.10.17:夏へのトンネル、さよならの出口

映画のパンフレットと、入場特典として配布された「さよならのあと、いつもへの入り口」と題する原作者書き下ろしの後日談を綴った小冊子。
表紙の構図が心なしか「君の名は。」を彷彿とさせる。 とはいえ、いわゆる「ジェネリック新海誠」と単純に片づけられる作品では無いと思う。

雨が降りそぼる海沿いの小さな無人駅。 予告映像冒頭のそのシーンを目にして掲題のアニメ映画に関心を持ったのは今月初め。 公式サイトのシアター案内を見てみると、殆どが上旬に上映終了予定となっていた。 映画館で観れなくなると判ると無性に観たくなるのは人の情。 慌てて平日の仕事帰りに観覧可能な場所と上映開始時刻の組合せ条件に合致するT・ジョイ品川プリンスに向かうこととなった。

目的地最寄りのJR品川駅高輪口に赴くのは久々。 奇跡的に旧態を留める駅舎は、前面の広場と共に大規模な再開発が予定されている。 その正面に屹立していた旧ホテルパシフィック東京は、再開発に伴う除却工事が進行中。 リニア中央新幹線の開業に向け、周辺一帯は今後大きく変わるのだろうなと思いつつ、目的地に向かう。

T・ジョイ品川プリンスを訪ねるのは今回が初めて。 品川プリンスホテル内に設置されたシネコンなのだからそれなりに豪華な設えなのだろうと期待していたのだけれども、そうでもなかった。 品川駅からのアクセス途上の商業施設は雑然としているし、三階に位置するシネコンに向かうエスカレーター廻りも何だか素っ気ない。 エスカレーターを昇った先も、成り行きで計画したとしか思えぬ動線を辿って漸くシネコンに至る。 そのホワイエは、豊かな天井高を持つ広々とした空間だけれども、インテリアが何だか今一つ凡庸。 数多の大型ショッピングモールに併設されているシネコンのそれの方が非日常性の演出に長けている。
しかし、入場したシアター内は、座席の造りやその配列に十分な余裕が確保されている。 これは快適な鑑賞が堪能できそうだと思いながら席に身を沈めて周囲を見渡すと、入場者数は辛うじて二桁に届くかという閑散とした状況。 落ち着いて鑑賞できるのはありがたいけれど、興行的には結構厳しそうな気配。 即ち大したことは無い作品なのかなと不安に思いつつスクリーンに見入ることとなった。

でもって観覧後の気分はというと、結構心地よいものであった。 タイトルの意味が良く反映された内容だったし、83分という尺の中で要素を整理しながら丁寧に纏め上げられていた。
有り体に言えば、ジュブナイルとタイムリープの組合せ。 既に十分手垢に塗れているけれども、その手の凡庸な作品という評価で単純には括られぬ質が確保されていたと思う。 その出来栄えは、日本のどこにでもありそうな海沿いの小さな町の美しい風景描写によって十二分に補完される。 更に梅雨から盛秋に至る季節の移ろいの微細且つ多彩な表現。 移ろいといっても、主人公にとってはひと夏、ヒロインにとっては十数年にわたる物語。 トンネルが司る異相の時空の内外で、全ての移ろいが安手の一本のビニール傘で繋がるといったところか。 ネタバレにならない程度に内容に触れるとしたらこの程度。
人にとって本当に大切なこと、若しくは手に入れるべきものは、背を向けようとした現実の中にこそある。 そんなことを改めて考えさせられる作品であった。

2022.10.10:ジャン・プルーヴェ展 椅子から建築まで

今年の6月、東京都現代美術館で開催中の吉阪隆正展を観に行った際、次回開催予定の企画展の告知を目にして少し驚いた。 そこには「プルーヴェ」の文字。 随分と攻めた企画を立てるものだナ・・・と思ったものだった。
ジャン・プルーヴェ。 近代以降の建築生産に纏わる工業化の話になると必ずといって良いほど登場する人物。 プレファブリケーションに関する資料に接していると、その名前がよく目に留まる。 さりとて今まであまり関心は持てなかったし、従って大した知識も持ち得ていない。 そんな御仁についてアートとしてどの様な展示を繰り広げるのか。 そんな関心から、同美術館に向かうこととなった。

展覧会のタイトルにある通り、椅子も建築も工業製品と捉え、製造手法の洗練を探求している様子が各展示から伝わってきて興味深い。
しかし、いずれも骨太とか無骨という言葉が思い浮かぶディテール。 頑丈であること、そして製作が合理的であること。 そのための意匠であったとしても、日本人の感性や価値観とは少々趣きを異にする。
そんな印象の各作品を観て回っていると、テーブルや椅子については、屈んで見上げる姿勢をとる鑑賞者がちらほら。 私もその一人。 どの様に組み立てているのか。 そのディテールは如何程か。 そんなことに関心を持つ鑑賞者に配慮した展示になっていない。 ただ、普通に置いてあるだけ。 家具のショールームではないのだし、それにプルーヴェなのだから、如何にディテールを見せるかといったことに配慮した展示が求められよう。 即ち見上げの視線の確保。
更には、夥しい量の椅子を展示していながら実際に座れる作品がほぼ皆無なのも如何なものかと思った。 鑑賞対象としての椅子は、単に眺めるだけではなく実際に座ることでその良さを堪能すべきだ。
ということで、作品への違和と展示手法への不満を持ちつつの鑑賞と相成った。

とはいえ、試作住宅の方はいずれも興味深い。 住宅生産の工業化という観点における先進性と、試作が重ねられることで達成された手法の洗練には目を見張るものがある。 あるいは組立て工程に係る動画も良かった。
各展示の解説を読むといずれも継続的な事業として成立するだけの纏まった着工成果を得るには至らなかった旨が記述されている。 その要因は、前川國男のプレモスと同じであろうか。 組立て住宅としてのプレファブリケーションの在り方の探求が関心の主で、良いモノさえ作れば自ずと売れるといった考え方が往々にして強かったのかもしれぬ。 改めて、日本における戸建てプレハブ住宅の巨大市場化の歴史的特異性を想うこととなった。

観覧後、そんなに離れていない場所に立地する、すみだ北斎美術館にも足を運ぶ。 当該施設に向かうのは今回が初めて。 半ばそれ以上は妹島和世設計による建物への関心であったが、勿論企画展も観覧する。 繊細で緻密で、そして小さく纏められた北斎の作品の数々に接し、これが日本的な感性や嗜好だよなと改めて実感する。 そこには、プルーヴェの仕事とは全く異なる質が在った。

2022.10.03:漁港の肉子ちゃん

9月24日にNHK Eテレで放映された掲題のアニメ映画を録画したのは、同日テレビ東京で放映される「新美の巨人たち」の録画予約を入れようとした際、番組表でたまたま目に留まったため。
その日の「新美の巨人たち」の内容は、「広島市環境局中工場」。 アートを取り扱う番組でゴミ処理施設を取り上げるところが面白い。 勿論、谷口吉生設計のその施設の建築としての完成度は恐ろしいほどに高い。 その建築作品をどの様に紹介するのか。 そんな関心から録画しようと番組表を画面に表示した際に当該作品の放映を知った。
Eテレで放映するアニメ映画ってどんなものなのだろう。 きっとひとかどの作品に違いないと録画予約ボタンを押した。

後日、プロローグ部分を視聴して、そのまま見続けるか否か躊躇した。
何だかギャグアニメのノリ。 私はどちらかというと内容よりも見た目から入る。 何やら古風なギャグアニメ調の演出に、こんなもののためにレコーダーのハードデスクを浪費させてしまったとは・・・などとセコい苛立ちが沸き、リモコンの消去ボタンを押しそうになる。
しかしその指が止まったのは、本編に入ってからの描写の質の高さ。 例えば冒頭の朝食のシーンにおいて、フレンチトーストにまぶした粉砂糖がケーキシロップの表面をゆるりと移動する描写に細部へのフェテッシュな拘りを見い出せた。 これは凄腕のクリエイター達が制作した作品なのだろう。 きっと目を見張る展開があるに違いない・・・。 ということで勝手に期待を膨らませ、原作の小説を未読なことも含めて全くの予備知識なしで全編を視聴することとなった。

しかし見終わった後はというと、大した感慨が沸くことは無かった。
物語を通して語りたかったことが判らぬ訳でもない。 例えば、明るくひたむきに生きていれば血縁や地縁に拠らずとも家族と同様の紐帯が成立し得ること。 そしてそれを補完するのは、たわいもない極々ありふれた日常だということ。
その描写のために、紆余曲折の過去がギャグ調に中和されて冒頭でダイジェスト的に扱われ、その対比としてのありふれた日常の事々が綺麗な映像と共に本編で淡々と展開する。
だから本来であれば心温まる人情話として纏まる筈がそうならぬのは、ヒロインの"保護者"である「肉子ちゃん」のキャラクター設定のせい。 なぜか底抜けに明る過ぎて薄っぺらな印象。 それに恰幅の良い体形にユーモラスさを与えるつもりだったのか、スタジオジブリの「となりのトトロ」が安易に援用され過ぎている。 結果、人ならざるもの的な描写に陥ってしまった面が無きにしも非ず。 終始馬鹿っぽさ全開のギャグ担当のキャラクターとせざるを得なかったのは、よくよく考えてみれば理不尽にまみれた物語の骨格に対する緩和措置的な役どころとするためか。

そして物語は、ヒロインと保護者の関係における次なるフェーズを予感させつつ唐突に終わりを迎えてしまう。 唐突であるがゆえに、エンドロールのあとに余計な小パートを入れて無理矢理オチを付けざるを得ぬ苦しさ。 作画は悪くはないのに何とも勿体無い作品だね、と思う。
私の受け止め方が浅はかなのかとネット上のレビューを確認してみると、感動したとか、涙が出来てきた等の肯定的な評価もチラホラ。 どうやら私は感受性がすっかり枯渇してしまっているらしい。

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