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2020.09.23:メーカー住宅私考_127
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ミサワホームM型2リビング再読_継承されるMII型
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※1:
ミサワホームMII型外観
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1978年に発売されたミサワホームMII型の平面図を初めて見た際の印象は、「変な間取り」であった。
玄関及びホール、そして階段が建物の東西を貫通して一直線に並ぶ。
しかし、ホールと階段は間仕切られており、リビングダイニングルーム(以下、LDR)を介しないと双方を往来出来ない。
更に、その階段によってLDRとキッチンが切り離され、キッチンは建物の隅に孤立している。
他にも、極薄の下足入れやいびつに畳を敷いた和室など、その意味を図りかねる空間処理が散見された。
比して、外観※1や二階のプランは良く纏まっている。
一階だけが理解し得ず、当時の同社の企画住宅群の中ではあまり感心出来ぬモデルであった。
そのプランについて、近年になって「ハレ」と「ケ」の観点で改めて読み解くことによって意図を自分なりに汲み取り、その推察を「住宅メーカーの住宅」のぺージにて述べてみた。
改めてこの場に少々書くと、それは玄関とLDRのハレの空間=接客空間としての純化。
そのことによる家長としての父親の威厳の表象空間の獲得だ。
ために、キッチンを孤立化させ、更に「ケ」の空間(=二階の個室群)へのインターフェイスである階段も、玄関ホールから排除した。
ホールに面する洗面室も、どちらかというと来客の利用を想定した設えであり、それ故に洗濯機置場をそこから排除。
階段の中間踊り場直下に設えた勝手口に押し込めた。
更にその勝手口によって、表玄関のハレの領域としての位置づけも強化。
そのことを補強すべく、下足入れ扉及びLDRへの出入口扉を欅の木目を際立たせた唐戸で統一。
重厚な雰囲気を玄関及び玄関ホールに付与させた※2。
ミサワホームMII型平面図(MII-38-2Wタイプ)
こうして一階の要素の殆どをその目的達成のために操作して獲得したLDRのハレの空間としての純化は、しかし実際の生活シーンにおいて必ずしも徹底され得ぬ。
少なくともダイニングルーム部分は普段使いの部屋、つまりケの領域を兼ねる。
また、表玄関と階段迄の動線にLDRが介在する以上、日常動線がハレの領域に侵食することとなる。
まさか、普段は必ず勝手口を使うという訳でもあるまい。
ハレの空間としてのLDRを生成するためにいびつな間取りとなっているにも関わらず、その意図が徹底され得ぬ空間処理。
そこが、MII型を「変な間取り」という印象に留めることとなる。
実際、そのためもあってか、MII型は短命に終わり、MIII型に取って代わる。
1979年発売のMIII型でも家長の居住まいを内部空間の中心に据えつつ、「ハレ」と「ケ」の分化という原理原則は緩められ、現実的な空間処理に置き換えられた。
つまりは、MII型での反省に基づく大幅な改正。
結果、プラン構成はソツなく纏まり、その後M型NEWにマイナーチェンジされロングセラーモデルとなった。
では、MII型が特異モデルとして短期に収束してしまったのかというと、そうとも言い切れぬ。
その後継モデルの存在が、当時の同社の企画住宅群のプランを眺めていると見えてくる。
それが1980年発売のM型2リビング※3。
下に載せた当該モデルの図面と、冒頭に載せたMII型の平面図を比較して、その解釈は強引ではと思われるかもしれぬ。
しかし、MII型の階段位置を移動し、それに伴う諸室配置の微調整を図りつつハレとケの分化をより強化していることが、M型2リビングの平面図から見えてくる。
M型2リビング平面図(M2L49-2W-Bタイプ)
すなわち、一階の東西を貫通する玄関とホワイエによってハレとケの動線の錯綜を整理。
MII型のLDRが余暇室と名を変えて完全に独立し、ハレとしての空間性がMII型以上に純化された。
一方、北側は階段の移設に絡んで水廻りの配置を改変。
キッチンとMII型の和室であった部分を一体化させてファミリールームとして再構成。
キッチンの孤立状態を解消するのと同時に、同モデルの特徴である二種の異なるリビング(余暇室とファミリールーム)を獲得。
そのことによって更にハレとケの分化が強化された。
表玄関と勝手口が相対する骨格は、MII型の名残。
更に二階に昇ると、玄関直上の収納部と居室の取り合いにもMII型の名残を見い出せる。
この様に捉えると、MII型の設計意図を更に先鋭化及び洗練化させたM型2リビングの位置づけが見えてくる。
いわば、MII型の継承発展形。
「ハレ」と「ケ」の現代的解釈としてのMII型。
その反省に立って大幅な改変を試みたMIII型。
同じく省みながらも、意図を踏襲し進展させたM型2リビング。
同社の往時のM型系列のモデルを並列させることで、個々のモデルについて新たな見立てが可能となる。
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※2:
ミサワホームMII型玄関ホール
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※3:
ミサワホームM型2リビング外観
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2020.09.17:メーカー住宅私考_126
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ミサワホームA型2階建て.4_試作若しくは初期変更
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※1:
既に言及している通り、同モデルはその平面形態に関し、中央コア形式を採用している。
中央のコアに非居室用途を納め、その両翼に居室を配置しているため、コア部分で断面を切った掲載画像には居室が一切描かれていない。
それが販売資料に載せる図面として適切か否かという点に関しては、関係者の中で悩みどころだったのではないか。
しかし、このモデルの特徴であり空間的な魅力としてアピールしたい点を断面図で表現しようとすると、コア部分で切断するしかない。
また、コア部分の空間構成の特徴を端的に表現出来るのは、平面図でも内観写真でもなく、この断面図である。
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下に二枚並べた断面図は、間違い探しを意図したものでは無い。
いずれもミサワホームA型2階建ての広告に載せられた図面になる。
違いは勿論幾つかあれど、ここで取り上げたいのは二階に設けられた浴室の位置。
右は、一階玄関直上の吹抜けに面して設けられている。
吹抜けに面した開口を介して、吹抜け上部に設けられたトップライトから外部への眺望と自然採光を確保した大胆な空間構成。
一方左の図面は、そのトップライトの直下に浴室がはみ出す様に設けられている※1。
かつて、私が初めて見た断面図は、右図。
そのあとに目にした図面や内外観写真も、全て右図の構成に拠っていた。
しかし、近年になって改めて当該モデルについて調べている際、左図を目にすることとなった。
掲載の時系列としては、左図が先。
後に右図に切り替わっている。
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当該モデルの宣伝文句の一つに「星空を眺めながら入浴できる浴室」というものがあった。
左の断面図を見ると、浴槽の直上がガラス張りの勾配天井となっており、確かにその宣伝文句の通りである。
同社の同時期のモデルにおいて類を見ない、あるいは他社の事例においても恐らく同様のものは無かったであろう、そんな個性的で大胆な提案だ。
しかし欠点もある。
それはプライバシーの確保。
隣地が迫っている場合、この開放的な造りはプライバシー面でネックとなる。
そのことを鑑みて、外部開口との間にスリット状の緩衝帯を設置。
緩衝帯の外側の開口にステンドガラスを嵌め込むことで、プライバシー性を向上させると共に、そのスリットに直下の玄関へのハイサイドライトの機能も付与。
玄関への自然採光を可能とした。
広告には、浴室の内観写真も載る※2。
そこからは、まだサニタリーが機能一辺倒であった時代に、アメニティーをいち早く取り込んだ、先進的な事例という位置づけが可能だ。
しかし、それによって無理も生じている。
例えばスリット状の狭隘な玄関吹抜け部分の見栄え。
恐らく玄関からの見上げの視線において、それはとても中途半端でおかしな設えに映ることだろう。
あるいは建築時における内装仕上げの施工にも苦労しそうだ。
更に、外部開口面積が大半を占める構成は、冬季におけるヒートショックの問題や、ガラス天井面の結露処理の問題も発生しよう。
これらのことを考慮し、早期に修正が図られ、上記右図に改められたという経緯なのかもしれない。
販売を開始して間もなく修正が加えられた経緯は知る由もない。
あるいは私が目にした初期のものは、諸事情からプロトタイプモデルの図版を用いた予告広告的なものであったのかもしれぬ。
机上で十全に練られ策定されたプランについて、発表前に実際に建ててその内外の出来栄えを検証、正式版に向けて微調整を行う。
その様なプロセスは、企画住宅だからこそ可能であり、単品生産の自由設計では成し得ぬことだ。
そうしたプロトタイプモデルの存在は、同社の同時期の他モデルでも確認される。
例えばG型もそうだ。
同社の高井戸東館裏手にある展示場内に、正式発表されたものとは少々異なる内外観を持つモデルが一旦建てられた経緯を示す画像が、過去の様々な資料や広告にて見い出される。
そんなプロトタイプの痕跡を辿り、正式モデルに至る検証過程の一端を“発掘”することは、なかなか面白くそして興味深い。
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※2:
初期広告に載せられた浴室部分の内観画像。
当時のこの規模の住宅には珍しく、広さは一坪。
また、断面図に示されている通り浴槽の直上をガラス張りとし、正面の開口は更ににその外側にスリット状の玄関吹抜けを介してステンドグラスを嵌めた外部開口に面している。
因みに変更後の内観は、このシリーズの第22回(2013年1月30日)でも言及している。
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2020.09.10:メーカー住宅私考_125
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1983年2月5日に発売されたミサワホームAIII型については、当時大きく二つの印象を持った。
一つは、外観構成要素の変化。
二階南面開口部に取り付くフラワーボックスの形状や窓廻りの意匠に、それまで各モデルに共通して用いられていたものとは異なるパーツが採用され、同社の企画モデルに新たな雰囲気が生成された。
もう一つが、同時期の同社の主力モデル、ミサワホームO型の内外観との類似性。
プランについては、O型との強い共通性を持つ※1。
その結果が外観にも顕れた。
当時、この後者については腑に落ちぬという想いを強く持った。
先行モデルであるA型2階建ての要素が微塵たりとも見い出せなかったためだ。
本シリーズの122回の最後に述べた通り、何でこれがA型なのだと思ったものだった。
むしろO型の一形態であろうと。
A型2階建てが後続モデルに踏襲されなかった理由。
それは、攻めに徹したモデルであったためなのかもしれぬ。
斬新なアイデアを臆することなく詰め込んだ当該モデルは、生活習慣や様態に保守的な価値観を持つ層には馴染まぬ面もあったのではないか。
あるいは、その象徴である南北立面の凸部に取り付けられたトップライト※2は、降雪地には向かぬ。
実際、近年になって積雪地域で確認した事例はいずれも、トップライトではなく普通の勾配屋根で処理されていた。
降雪期のことを鑑みれば、当該モデルのトップライトはあまり現実的なものでは無い。
しかし、トップライトである筈の部位が屋根で塞がれてしまうことによって、その空間的魅力は大きく損われることとなろう。
そのトップライトは、意匠設計者としての視点で見ればとても魅力的であるが、技術者の立ち位置で眺めた場合、大きな不安要素でもある。
例えば雨水の侵入リスク。
そして冬季における結露の大量発生。
この二点に対し、往時のディテールが細心の注意を払っていた様には見えぬ。
実見した事例において、その面での経年劣化に纏わる処置の痕跡が外観目視において容易に見て取れるケースが少なくは無い。
そのことが、後続モデルから攻めの姿勢を取り払う要因になったのかもしれぬ。
売れ筋であるO型の要素を全面的に取り入れ、ひたすら守りの姿勢に徹する。
結果としてAIII型は、安定しているけれども面白味の無いモデルとなってしまった。
では、A型2階建てが単独モデルとして収束してしまったのかというと、そうでは無い。
少なくとも、前回言及した中央コアというプラン形式についてはその後も採り入れられたモデルがある。
例えば1989年発表のNEAT INNOVATOR※3。
当該モデルについても住宅メーカーの住宅のページにて言及しているので、ここで多くは繰り返さぬ。
そのプランはA型2階建てほどに徹底して分化はされていないものの、非居室用途としての中央軸とその両翼の居室ゾーンという組み立てを基本としている。
そして屋階に設けられた「屋上スカイガーデン」の屋根の一部をガラス張りとしたのも、A型2階建てのトップライトの変形と無理矢理見立てることも可能かもしれぬ。
あるいは、中央軸の一部に纏められたハイテクバスロボと呼ばれるサニタリーゾーンのコア化も、二階中央にその用途を集約したA型2階建てのプランの骨格を思わせる。
ミサワホームは、1971年6月に「パコカライン構想」という工業化住宅の進化過程を提唱している。
ここで、「パ」はパネル、「コ」はコア、「カ」はカプセルを意味する。
構造体のパネル化。設備のコア化。そしてそれらを統括したカプセル工法へと、住宅生産施工技術を高度化させる構想。
その進化過程の初期段階に、前回言及したホームコアが位置づけられる。
一方、NEAT INNOVATORはカプセル工法を究極まで推し進めた、いわば進化過程の終極モデルだ。
69年と89年。
二十年の歳月を経て、中央コア形式を持つ二つのモデルがA型2階建てを介して一つの系として繋がる。
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2020.09.04:メーカー住宅私考_124
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ミサワホームA型2階建て.2_ホームコアからの分化
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※1:
ミサワホームA型外観。
当該モデルについては、この「メーカー住宅私考」の第76回(2017年7月11日)でも言及している。
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このシリーズの第122回(8月25日記載)に引き続き、ミサワホームA型2階建てについて。
そのモデル名称から分かる通り、同時期に平屋建てモデルも存在した。
平屋建てモデルの方の名称は、ミサワホームA型※1。
だからといって、A型を二層積み上げたのがA型2階建てという訳では無いし、その逆も成り立たぬ。
双方に関連性は認められない。
共通項は、比較的若い世帯をターゲットにしていたということくらいだ。
・・・と、近年まで考えていた。
しかし、この二つのモデルが主力商品体系化される約十年前に同社が発表していた「ホームコア」に興味を持つようになって以降、その捉え方が変わることとなった。
ホームコアについては、A型2階建てと同様に住宅メーカーの住宅のページにて言及しているので、ここではその平面図のみ再掲する。
平屋建て3DKで総工費百万円という破格且つ高品質のローコスト住宅として1969年に発売。
その後、同じホームコアという名を冠しつつその末尾に「350」とか「75」といった数字、あるいは「切妻」といった文字を付加しながら姿かたちを大きく変化させている。
その変容は、並外れたローコスト化の実現とその目標達成のためのプレファブリケーションの追求に特化した初期モデルからの離脱の過程でもあった。
即ちそれは、メーカーが提供する住宅に必要な生産性とは別の条件である商品性付与の過程だ。
変化のプロセスにおいて共通するのは、その名称にある“コア”が指向するところの水廻り等の設備の集約化のみ。
初期モデルの骨格は次第に失われ、平屋建てのみならず二階建て等、様々なプランが編み出されることとなった。
失われた初期ホームコアの骨格。
しかしその要素は二つに分解され、それぞれA型及びA型2階建てへと引き継がれることになる。
まず、ローコストの平屋建てモデルという要素。
これをA型が踏襲した。
平面プランに初期ホームコアの面影は全く認められぬ。
しかし、変容過程において発表された平屋モデルの流れを組む※2という点では、初期ホームコアとの形態的接点を併せ持つ。
一方のA型2階建てには、プランの骨格が引き継がれた。
これには大した説明を要しない。
上に掲げた初期ホームコアの平面図と、第122回にて引用したA型2階建てのプランを見比べれば一目瞭然。
中央に一間幅で貫通する非居室用途のコア。
その両翼に居室が対称形に取り付く組立て。
ここに、姿かたちを全く異にするA型とA型2階建ての関連性が顕然する。
即ち、初期ホームコアを源流とするモデルという位置づけだ。
まるで異なる内外観を持ちながら、二つのモデルにはホームコアという共通の“親”が存在する。
主旨から外れるが、ホームコアのその後の同社主力モデルへの関与はこの2モデルに留まらぬ。
変容過程の最終形であるホームコア切妻は、A型等と同時期の同社商品体系の一つ、ミサワホームS型に姿かたちがそのまま引き継がれた。
あるいは、田の字型平面の中央に軸線を貫通させる骨格は、かのミサワホームO型や、あるいはM型2リビングにも踏襲されている。
この様にして見てみると、ホームコアがその後の同社の商品開発に与えた影響は極めて大きいということになる。
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※2:
変容過程における一モデル、ホームコア81。
南側の立面構成にミサワホームA型との共通性がみとめられる。
但し、プランは文中の平面図の縦方向に単純に二間追加したしたもの。
A型とは異なる。
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2020.08.29:メーカー住宅私考_123
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8月25日付の讀賣新聞の一面に、「コロナ 新たな日常」と題する連載の初回記事。
「玄関開けると洗面台・・・住まいの役割 再設計」というタイトルで、新型コロナウイルス感染拡大による住まいへの影響について論述している。
冒頭に示されたアキュラホームの事例は、玄関踏込み部の脇に洗面化粧台を設えたモデルハウス。
その目的は、帰宅したらまず手を洗うことによる感染予防。
以前から類似事例が無かった訳ではない。
例えば、2007年4月21日にミサワホームが発表したモデル「GENIUS Link-Age・with Kids」でも同様の提案がなされている。
もっともこちらは、アキュラホームのそれとは異なり、踏込み部からは死角となる玄関ホールの一角に設置するもの。
子供に手洗いを自然に習慣づけることを目的とした提案であった。
結果として同じ生活行為を指向したものだが、その背景には当然のことながら新型コロナウイルス禍は関係しない。
GENIUS Link-Age・with Kidsは、子育て世代のサポートをテーマにしたモデル。
その一環として、この様なプラン提案がなされた。
今回紹介された事例は、更に一歩踏み込んで玄関の中に設ける提案。
果たしてこれが今後の新常態となり得るのか、あるいは一過性の特異事例に留まるのか否かは判らぬ。
個人的には、玄関踏込み部にその様な機能を付置するならば、洗面室に設置する様な洗面化粧台ではなく、手水鉢(的なモノ)にしてみたい。
ところでこの様な提案は、リビングインないしはそれに類似するプランゆえに必要となる配慮事項なのかもしれぬ。
リビングインとは、玄関から諸室に至る際に必ずリビングを介するプラン。
その場合、玄関と水廻りに離隔が生じ易い。
玄関に入ったらすぐに手を洗いたいのにリビングを通らないと洗面室に行けない。
ために玄関に洗面台を置くこととなる。
これがリビングイン以外の間取り、つまりリビングも含めた諸室への玄関からのアクセス経路が廊下や階段を介す場合は、あまり問題にはならない。
玄関の近傍に水廻りを配せばニーズを満たすからだ。
ならば今後、リビングイン形式は廃れるのか。
それとも玄関への洗面化粧台配置が普遍化するのか。
あるいは、他の解法があり得るのか。
例えば解法の一つとして、大和ハウス工業が2016年に発表した「家事シェアハウス」などは有効であろう。
リビングインの骨格を基本としつつ、その動線とは別に玄関からクロークを介して水廻りに至るもう一つの動線を設けたプラン。
これはもともと、共働き家族をターゲットに家事の分担を促すことを目的とした提案。
それが、前述のGENIUS Link-Age・with Kidsの提案と同様、新たな外因によって別の価値を生み出す可能性。
そういった視点で住宅メーカーから発表された過去の様々なアイデアを読み返し目的や効果を再定義してみる。
そうすることで、新常態への多彩な対応が見えてくるのではないか。
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2020.08.25:メーカー住宅私考_122
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※1:
ミサワホームA型2階建て外観。
当時目にした新聞広告等と同じアングル。
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1977年に発売されたミサワホームA型2階建てについては、既に「住宅メーカーの住宅」のページで言及している。
しかし、そちらのページを作成したのは既に14年前。
なので改めてこの場で少々言及を試みることにしてみたい。
当該モデルの平面プランを初めて見た際の印象については、この場に幾度か書いている。
カタログを入手するまでは、新聞広告に載る外観写真一枚しか情報を持ち得ていなかった※1。
そこから内観プランを様々想像するしかなかった当時の私にとって、それはあまりにも衝撃的であった。
住宅にこんなプランが在り得るのかと驚嘆しながら、想像していたものとは全く異なっていた平面図を惚れ惚れと眺めまわしていたことを今でもよく覚えている。
ミサワホームA型2階建て平面図
何に惚れたかと言えば、中央コア型の合理的で整然とした諸室配置。
居室以外に住宅に必要な用途(玄関や階段や水廻り)を、建物中央を南北に貫通する一間幅二層分のコアに集約。
非居室用途がコアで完結しているから、その両翼に付く居室はどんな広さも形状も理屈の上では成立することになる。
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勿論魅力はその基本構成だけではない。
南側凸部に設けたトップライトから燦燦と自然光が降り注ぐ階段室。
あるいは階段室と同様のトップライトを設けた北側玄関直上の吹抜けを介して浴室から外部への眺望を確保した斬新且つ何とも楽し気な空間構成。
そして外観についても、南面以外の立面は、狭小敷地への配棟を意識して開口部の配置を極力控え、替わりに壁面の凹凸で意匠を整えた端正な佇まい。
当時の同社の商品群の中では、SIII型と並んでお気に入りのモデルとなった。
そのA型2階建てについて、最近知人が御自身のblogで仔細に紹介されていた。
所見と共に引用された大量の画像は初めて見るものが多数。
改めて同モデルの魅力を堪能する機会となった。
その所見の中で、同モデルのプランバリエーションに共通する“対称性”について言及されている。
なるほど確かに、中央コアを基軸に両翼に取付く居室について同一の面積調整を図った左右対称形のプランバリエーションが数種類整備されていた。
しかし、上に書いた中央コアの自由度を鑑みれば、両翼共に等しく調整を図る必然性は無い。
室用途に応じたアシンメトリーな対応も選能だ。
むしろそうすることで、より多彩な居室面積構成をプランバリエーションに組み込むことが可能であるにも関わらずシンメトリーに拘った理由。
それは、生産性と意匠性の両立、あるいは整った外観の獲得、そしてプランそのものの美しさの実現であったのかもしれぬ。
未だに思い入れの強いA型2階建てであるが、同じ商品系列の後継モデルとして1983年に発売されたAIII型は、A型2階建てとは全く異なるもの。
むしろO型に近い。
「何でこれがA型?」と当時は思ったものだった。
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2020.08.18:旧長岡文化会館
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「カーテンウォール」という単語を初めて目にしたのがいつ頃のことだったのかは既に忘却の彼方。
しかし、その語感に違和を覚えた記憶はかすかに残っている。
カーテンはカーテンであって壁じゃないダロウ、と。
後にその建築部材の意味や位置づけを知ることになって漸く、その違和は払拭された。
国内においてカーテンウォールの採用が一般化し始めたのは1960年代に入ってからということになろう。
草創期の事例というのは面白い。
洗練からは程遠いが、ノウハウの蓄積が乏しいがゆえの創意工夫を多々読み取ることが出来る。
だから、一瞥した印象では冴えない建物であってもディテールに注視してみる価値は十分にある。
私がかつて居住していた新潟県長岡市に建つ長岡商工会議所のファサードもその一つ。
竣工時の同建物の名称は長岡文化会館。
かつてその一階には、「長岡現代美術館」と名付けられた私設美術館が在った。
国内で初めて「現代」という名を冠したその美術館の設置を含め、市内の文化の拠点であろうと企図された建物であったためだろうか。
前面道路から大きく後退させた配棟によって前庭を整備。
その前庭を矩折りに囲う様に建物の雰囲気と揃えたアーケードを敷地外に面する歩道上に架け、あたかも前庭の回廊であるかの如く演出すると共に建物の基壇を形成※1。
白一色の敷砂利に景石を点在させた枯山水風のその前庭の背後に屹立する同建物の一階外壁面には、巨大なレリーフが設えられた※2。
これらが醸す雰囲気は、街中の喧騒から完全に切り離された異世界。
幼少のみぎりより、周囲とは何か違う場所という印象を、前庭の前を通る度に抱いたものだった。
と同時に、視線や意識は前庭に留まり、建物上層部分に関心が向くことは無かった。
しかし数年前に久々に再訪した際、上層部立面のディテールがなかなかシャープなものであることに気づく。
水平方向に同一サイズで割付けられた平滑な鋼製パネル。
その直下に、パネルよりもやや面落ちさせて横連窓が配置されている。
もしも両者が同面で納められていたら野暮ったくなったことだろう。
更にその連窓の直下には、黒御影と思われる面台が、鋼製パネルに対して離隔を設けて取り合う。
この離隔は勿論室内外の換気機能の組み込みを目的としたものだろうが、同時に面台直下に陰影をもたらし層状の立面構成をキリリと引き締める効果も生じさせている。
これらの要素を、建物端部に上下通しで設けた袖壁が目透かしを介して軽く受け止めている。
建物の完成が1964年だから、国内においてカーテンウォールの採用が一般化し始めた初期の事例ということになろう。
参照可能な前例に乏しく、あるいはその製作に関する技術が必ずしも十分では無かったであろう草創期。
そんな時代において、如何に新技術と対峙し意匠を構成するか。
そんな課題に携わる技術者達の試行が、ディテールのそこかしこに静かに顕れている様な気がする。
同市在住の美術作家の方が、御自身のブログに以前から当該建物の画像を多数挙げていらっしゃる。
最近始まった周辺一帯を含む再開発事業に伴う除却工事の様子も随時紹介されている。
遠隔地ゆえ、そして昨今の状況から同地を訪ねることも叶わぬ身としては、それらの情報はとてもありがたい。
と同時に、挙げられている多数の写真は、この建物の来歴を鑑みれば既に歴史的価値を帯びている。
無へと帰す過程を追うそれらの画像に接しつつ、去り行く建物への哀悼の意を込めてこの場に少々言及を試みた。
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2020.08.11:建築的考察
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※1:
円形校舎の形式については、建築探訪のページに登録している「室蘭市立絵鞆小学校」の中で少々言及している。
例えば各フロア外周のバルコニーの有無といった僅かな違いは認められるが、作中の中学校も絵鞆小学校も概ね同じ形式を基本としている。
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地上波で初放映された掲題のアニメ作品を観る。
同作品のことは以前から知っていたけれど、酷評記事がネット上に多く見受けられ、映画館に足を運ぶ気にはなれなかった。
ちなみに、原作の実写作品も観ていない。
で、初見の感想はというと、多くの酷評と大して変わらぬ。
よくもここまで空疎なアニメ作品を手間暇かけて大真面目に制作したものだと。
これはつまり、映像は綺麗だったという意味でもあるが、映像と内容の質の差がなんとも腑に落ちぬ。
ゲーテ風に言うならば、
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しかし私はまだ納得がいかない。ひどく言われるからにはひとかどの作品に違いない
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ということになる。
しかしその「ひとかど」を巡って考察を試みることも叶わぬ。
然程に全編を通じて内容不足。演出不足。
物語について可能なのは、考察ではなく推察でしかない。
ということで、建築的考察だけ以下に数点。
島田典道の家:
「花火」とタイトルに冠していることに因み、花火のモチーフが散りばめられている。
例えば、トイレの腰壁より上の部分(テクスチュアは不明)の模様。
あるいは典道の部屋の襖紙。
その典道の部屋の天井は、目透かしのピッチがモジュールに則っていない。
また、部屋の短辺二面に付けられた天袋収納の一方は、引違襖の勝手が逆。
それと、階段と壁との取り合い箇所がシーンによってささらが有ったり無かったり。
更に廊下との境に設けた竪格子の見込みと見付けの関係も、シーンによってバラバラ。
框や下枠の上端レベルが床仕上げレベルよりも突出する納まりが散見されるのは、古い家ゆえに仕方がないのかな。
円形校舎:
登場人物達が通う中学校は、円筒形のボリュームを二つ並べた校舎。
これも花火の形に因んだ設定と読み取れる。
その内外観描写は、昭和30年代を中心に各地に建てられた円形校舎の形式※1を細かいところまでしっかりと再現している。
但し、二層吹抜けの開放的で豪壮な生徒用エントランスホールは、往時の円形校舎が志向していた効率性重視の設計思想から乖離している。
かつて建てられた円形校舎のうち、この様な空間を組み込んだ事例は有っただろうか。
あるいは製作者の創作か。
先入観なのかもしれぬが、事例に基づき描いたと考えられる扇形の教室や螺旋階段を伴う円形ホールのリアルさに比べ、エントランスホール廻りの描写密度はやや劣る様に見える。
灯台:
これも円形要素として使われたのか。
あるいは、闇夜を照らす発光体という点で花火と結びつけたのかもしれぬ。
改修工事のため外壁周囲に施された枠組足場に侵入して頂部まで昇る主人公達が身を屈めなくとも足場を移動出来るのは、中学一年生ゆえの身長設定だからなのであろう。
風景:
物語の舞台が千葉県の房総エリアのため、そこかしこに槙塀が連なる様子が描かれ地域性が良く顕れている。
ロケハンに基づき、実在する風景を精緻に描いたのだろう。
ならば、背景にメーカー住宅が出てくるかもしれぬと思って注視していたら一件、旧大栄住宅と思しきRC住宅が描かれていた。
登場人物達の登下校ルート上にある三叉路に面して建つ陸屋根の家。
モールを幾重も施した鼻先の処理は、80年代の同社モデル「大栄プレタメゾン」の一仕様を彷彿とさせる。
まぁ、詳細を確認するためにアニメツーリズムを敢行しようとは思わぬが。
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2020.08.05:メーカー住宅私考_121
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東急不動産が1981年に発売したモデル。
白色化粧スレートを外壁全面に張った総二階建ての外観は、このシリーズのNo.111(2019年12月12日掲載)で取り上げた同社の「東急ホーム・シェシェール」との類似性を見い出せる。
あるいは、その後継モデルという位置づけであったのかもしれぬ。
但し、シェシェールよりはやや静的な印象。
例えば屋根は寄棟の単純なものだし、壁面にブリーズソレイユも付いていない。
総二階に意匠性を持たせるべく様々な形態操作を施したシェシェールでの経験を踏まえ、商品として訴求可能な範囲で外観デザインを整理したといったところか。
折れ戸形式の雨戸やフラワーボックス、そしてドーマウィンドウ等によって単調さを避けつつ、シェシェールに比べてるとやや落ち着いた印象の外観となっている。
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外観
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一階平面図
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二階平面図
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一方、内観はシェシェールとは別の意味で動的だ。
上下階に水廻りを振る構成は、シェシェールと同じ。
北側に広めのユーティリティ、そして南側に書斎的なスペースを連続させたキッチンも、シェシェールのプランについて黒沢隆が言及した「ワークショップ型キッチン」に与するところがあろう。
しかしリビングダイニングルームの扱いには当モデルの独自性が見て取れる。
つまり、南北に貫通する空間の中で、北側にリビング、南側にダイニングを設定したこと。
通常は逆となろう。
更には、南面するダイニングの直上に吹抜けを設け、結果、食卓には二層分の外部開口から自然光が燦々と降り注ぐことになる。
外部との関係性を積極的に持たせたダイニングと、北面採光を主とすることで屋内空間としての落ち着きを持たせたリビングというメリハリが一続きの空間で実現された。
更に、食卓との連携強化を意識したキッチンが取り付き、先述の書斎的スペースもそこに絡む。
食卓を中心とした間取り。
その提案は面白い。
宮脇檀も、様々な著書の中でそのことについて言及している。
例えば、1991年出版の「それでも建てたい家」の中には、
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出来たら朝日が差し込み、家の中央の一番よいところに・・・・・・などと言うふうにダイニングを作って御覧なさい、まア、一日中みんなこの部屋、この食卓から動かずその辺りでウロウロしていること請け合い。
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とある。
この文章そのままの日常風景が、当該モデルのダイニングに期待され得るのかもしれぬ。
但し、結果として二階の一部居室は吹抜けを介して南面することとなる。
その吹抜けに面して取り付く外部建具の開閉や外側ガラス面の清掃はどの様な運用を考えていたのか。
平面図からは読み取れない。
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2020.07.28:メーカー住宅私考_120
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※1:
日本ホームズの「BASE」外観。
前回(7月15日)引用したミサワホームのLIMITED25(SMART STYLE25の前身モデル)と比較すると、共通性が見い出せる。
※2:
「わいわいHOMES」については、メーカー住宅私考_94(2018年6月26日)にて言及している。
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このシリーズの第119回(7月15日掲載)からの流れで、掲題のモデルについて書いてみる。
その外観を改めて眺めた際、日本ホームズが1984年に発表した「BASE」というモデル※1を思い起こした。
高額所得者層を主なターゲットに事業展開を図っていた同社が取り組んだ一次取得者層向けモデル。
「SMART STYLE25」同様にその外観は小屋裏二階建てだ。
コストダウンを図る手法として、同じ容積であれば極力外表面積を減らすことが考えられる。
つまりは、凹凸の多いプランより単純な立体。
そして直方体よりも立方体。
更には球体であれば表面積は最少となるが、住宅用途においてそれは内観の空間活用において制約やロスが増える。
従って、立方体が最適ということになる。
実際、昨今パワービルダーが発表するローコストモデルの新聞折り込みチラシなどを見ると、屋根勾配も無い四角四面の事例を時折見掛ける。
しかし、「BASE」も「SMART STYLE25」もそのボリュームに拠らなかったのは、住宅としての潤いや意匠性ということに対する住宅メーカーとしての拘りだったのだろうか。
そういえば、「BASE」と同じ年にミサワホームでも「わいわいHOMES」という小屋裏二階型のローコストモデル※2を発売している。
小屋裏二階という形式とローコストモデルの親和性については、少し考察してみる価値がありそうだ。
その小屋裏二階形式の採用によって「SMART STYLE25」の一階リビングには急勾配の天井を伴う吹抜け空間が設けられた。
二階に配した二つの居室を結ぶ渡り廊下とその吹抜けを連携させた構成は、ローコストモデルらしからぬ造形性と開放性と、そして住まいとしての潤いを屋内空間に付与することに成功している様にも見える。
しかし、その空中廊下を含む吹抜け上部への自然採光は、一階のリビングの外部開口のみに頼っているから、少々暗く、そして閉塞的な雰囲気となっていることが、同モデルのパンフレットに掲載された内観写真※3からも伺える。
本来ならば屋根面にトップライトを標準搭載したいところであろうが、ローコストという制約の中でそれは叶わず。
閉塞性といえば、一階のプランについても動線計画に回遊性が無いためにやや息苦しい印象。
一階各居室へのアクセスは玄関ホールと隔てる一枚の扉からのみであり、それぞれの部屋に至るためには他の居室を通過せねばならぬ。
そうして辿り着く最奥部の和室は、行き止まりだ。
キッチンについても同様のことが言える。
この様なプランになった理由は、同社の平屋建てモデルとして同じ時期に販売されていた「DEBUTふたりの家」の基本骨格を踏襲しながら小屋裏二階としたため。
「DEBUTふたりの家」では辛うじて確保されていた回遊動線(つまりは、一つの室に至る複数動線の確保)が、階段を設置したがために「SMART STYLE25」では分断されてしまった。
昭和50年代を中心としたミサワホームの動向について纏められた内橋克人著の企業ルポルタージュ「続々続々匠の時代」の中に次の記述がある。
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岩田らは他社のプランを見るにつけ、いつも思わず感想を漏らさずにいられなかった。
「どうして、こんなに投げやりなプランになるんだろうなあ。マル一日やったら五時になった。くたびれた。お腹も空いた。えーい、やっちゃえ。そんな感じだよなあ、失礼ながら・・・・・・」
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「SMART STYLE25」のプランに接した際、この岩田さんという方のセリフを思い出すこととなった。
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※3:
急勾配の天井が造り出す吹抜けの中を二階廊下が貫通する構成はローコスト住宅らしからぬ設え。
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2020.07.22:ワンルームマンションの変遷
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「住まいの履歴」のページで紹介している通り、私は1990年代前半にワンルームマンション三件に移り住んでいる。
いずれも、キッチンセットは電気コンロが一口と小さなシンクが付いたいわゆるミニキッチンと呼ばれる900mm幅のもの。
下部に小さな冷蔵庫もセットされていた。
そして、浴槽と洗面とトイレが一体になった三点ユニットによってサニタリーがコンパクトに纏められていた。
当時のワンルームマンションの水廻りとしては極々一般的なもの。
使い勝手が良いとは思わなかったけれど、この手の住まいならば仕方が無いし普通だろうくらいの感覚で住んでいた。
だから、最近久々に不動産情報誌を眺めて目に留まった事例には少し驚くこととなった。
以下に簡単にトレースしたものを載せる。
住まいの中で水廻りの充実とその面積の拡張はかなり以前からの傾向だ。
ワンルームマンションも例外ではない。
当たり前であった三点ユニットからトイレが切り離され、洗面と浴室も分離されるようになった。
更にキッチンも、居室や廊下に面して申し訳程度に付けられるのではなく、それなりの設備を持つものが独立して設置される様になった。
従って、この間取りもそんな傾向と抗わぬ近年における極々一般的なものなのかもしれぬ。
でも、住戸面積27.81平米で居室の広さが6帖というのはどうかと思う。
しかも、キッチン脇の通路状の部分も含めてこの広さであって、実際に部屋として使える面積は、表示された帖数を下回る。
シングルベッドと小さなシェルフを配置しキッチンカウンター前に椅子を据えれば、あとは僅かな隙間が残るのみだ。
因みに、私が最初に住んだワンルームマンションは、専有面積28.97平米と上のプランの住戸とほぼ同じ面積だけれども、居室部分は9.9帖であった。
しかも上の事例の様な通路状の部分が無い整形な居室なので、9.9帖がそのまま部屋として使える広さであった。
その差は勿論、水廻りが占める面積の違いに他ならぬ。
しかし、水廻りの充実のために、ここまで居室の広さにしわ寄せが及ぶ状況が、果たして妥当なものなのか。
考えてみれば、私がワンルームマンションに暮らしていた頃とは生活様態が全く違う。
日常生活の殆どは、掌に収まる軽くて小さなモバイル機器一つで事足りてしまう。
ベッドに寝転び、端末を相手にしていれば、大概のことは処理が可能。
そんな御時勢において、広い部屋など無用の長物。
それよりも、身体の快適性と密接に関わるサニタリーの充実こそが、商品的価値なのかもしれぬ。
私の居住体験から四半世紀が過ぎ、その間に変わり続けて来た私的極小空間。
今後、更に思いもよらぬ変化を遂げてゆくのだろうか。
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2020.07.15:メーカー住宅私考_119
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※1:
LIMITED25外観。
その内外観については、別の機会に改めて言及してみたいと思う。
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かつて私がハウスメーカーの住宅に関心を寄せていたのは、1970年代後半から1980年代半ばまでの期間。
以降、2002年の秋口に復活するまで、一切の興味を失っていた。
その経緯についてはこの場に何度も書いているので繰り返さぬ。
90年代以降の住宅に関する興味の対象は建築家の作品に移っていたし、その中でも、齊藤裕の作品に深い感銘を受けておりましたか。
氏が二川幸夫との対話形式で発刊した「建築のエッセンス」は、とてつもない名著だと今でも思う。
興味を失っていた間の情報は、時折目にする新聞広告がせいぜい。
かつて熱中していたミサワホームについても、幾つかのモデルについてはたまたま目に留まることもあったが、「ふ〜ん、こんなモンを出しているんだ」と受け止める程度であった。
「GENIUS」と英文字表記されたブランド名を一瞥して、どこが「ゲニウス」なんだか良く判りませんワ、などと思っていたくらいである。
ちなみに、「ゲニウス」ではなく「ジニアス」が当該ブランドの正しい読み方。
でも、建築関係者であれば、「GENIUS」はラテン語の方で読みますよね。
ともあれこんな調子だから、興味が復活する一年前にミサワホームが超ローコスト住宅を発表したことを見知った際にも、大して関心は持てなかった。
何せ目にしたそのモデルが、最初に期間限定で発表された「LIMITED25」※1だったのか、その後継の「SMART STYLE25」であったのかすらも、今となっては定かではない状況。
但し、それ自体の内外観についての評価とは別の視点で当該モデルを捉えていた面はあった。
社会全体が平成不況の泥沼にあった当時、巷には「価格破壊」とか「デフレ・スパイラル」という言葉が跋扈していた。
LIMITED25の発表は、そんな社会情勢を背景とする。
販売経費削減と、その前提となる個別オーダー対応を一切受け付けぬ徹底した内外仕様の標準化によって坪単価25万円という超低価格のモデルを品質や性能を保ったまま大量供給する。
経費とは、決して無駄なものではない。
一定のサービスや信用を保持するために必要なものではある。
しかし当然ながら程度の問題も付き纏う。
その「程度」の部分にメスを入れ、従来の慣例を徹底的に突き崩して価格破壊を達成する。
恐らくそれは、ミサワホームに限ったことでは無く他社、否、それ以外のあらゆる業界において事業存続のために多かれ少なかれ手を染めていたことなのではないか。
そんな時代の表象としてこのモデルが在った。
同社にとってローコスト住宅の開発はLIMITED25が初めての試みではない。
例えば、昭和40年代に発表した百万円住宅ホームコア。
あるいは、昭和50年代に発表した国家プロジェクトの産物、ミサワホーム55。
しかしそれらとLIMITED25とは、同じローコストモデルであっても同列としては扱えぬ様に思う。
前二者は、住宅生産の工業化に纏わる各種要素技術の開発を多面的に推し進めることでローコスト化を実現した。
一方LIMITED25は、住宅販売に関わる仕組みに手を付けることでそれを実現した面が強い。
何か新しい技術が取り入れられた様には見受けられない。
そして平面プランについても、例えば一階部分は1998年4月に同社が発売した「DEBUTふたりの家」の基本骨格がほぼそのまま踏襲されているから、商品開発的にも何か目新しいことが試みられたという風でもない。
プレファブリケーションによってVE(Value Engineering)に資するという指向もしくは矜持の多寡。
その違いが、ハウスメーカーに対する興味が復活してから改めて眺めるこれらのモデルへの個人的な関心を分かつことになる。
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2020.07.08:五番舘
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※1:
昭和半ばに建て替えられた五番舘の店舗は、その後上層へ増築されている。
更に遡れば、創業時の煉瓦造の店舗は周辺敷地を購入し増築された経緯がある様だ。
昭和半ばの建て替えの際も然り。
とういうことは、当デパートはその長い歴史の中で三種全ての増床プロセスを有したことになる。
※2:
札幌駅南口広場から前回触れた札幌そごうに至るペディストリアンデッキ上から撮ったもの。
既存館はこの裏手に配棟。
この画像の左手にかつてそごうがキーテナントとして入っていた店舗が建つ。
更にその向かいに、さっぽろ東急デパートが立地。
そんな位置関係で三つのデパートが駅前商業エリアの核を成していた。
この写真の撮影時点で五番舘は西武と業務提携しており、内外共に西武色が強くなっていた。
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前回書いたさっぽろ東急百貨店の一つ西側のブロックに立地していたデパート。
その歴史は明治まで遡り、創業時から同じ場所で事業を展開していた老舗。
しかし、さっぽろ東急百貨店の様に、外観について幼児期に深い印象を持つということは無かった。
私自身が目にした店舗は昭和半ばに建て替えられたもので、地味なものであった。
それでも老舗は老舗。
その歴史について詳述したサイトが幾つか開設されている事実が、地元で愛されたデパートであったことを示す。
そんな当百貨店が大きく様変わりしたのは1990年。
坂倉建築事務所によって既存棟の改修が実施される。
時、まさにポストモダンの絶頂期。
創業時の煉瓦造店舗のイメージを低層部に再現したのは、ヒストリシズムへの接近だったのだろうか。
その低層部を基壇とし、濃灰色の陶板で基準階外壁全面を仕上げることで基壇と対比。
更に交差点に向けて尖塔を建てて装いを一新した。
と同時に、仲通りを挟んだ向かいの土地に既存館の改修のイメージを発展させ、煉瓦を全面的に採用(恐らくPCaの打ち込み)した新館を、同じく坂倉建築事務所の設計により建設。
増床が図られている。
前回書いたさっぽろ東急百貨店は、隣地を取得して既存建物そのものを段階的に拡大した。
対して五番舘は、道路を挟んだ別敷地に新館を建てる方法が採られた。
百貨店の増床方法は、この二つの方式に加え、階数を増やす、つまり上へと積み重ねる方法の三種に分類出来るのではないか※1。
そして、五番舘が用いた方式では、敷地を分かつ公道(五番舘の場合は仲通り)の真上に双方を連絡する渡り廊下が架けられることが一般的。
双方の階高の違いから、その段差処理のために渡り廊下の床面には勾配が設けられていた様に記憶している。
その渡り廊下を頭上に仰ぐ両館に挟まれた仲通りは、レンガ壁が屹立する雰囲気の良い通りになった。
また、新館は各フロアを往来する階段を外周に螺旋状に配すことで、ほぼ平坦な市街地に高低差を伴う“街路”を演出した空間を提供した。
その雰囲気もとても良かったように記憶している。
避難経路として法的に設置が必要な階段を商業施設としての魅力付け及び他百貨店との差別化に活用するという発想が面白い。
螺旋階段状“街路”の内在が外部からの目視でも明瞭な外観を持つ新館は、札幌駅南口の駅前広場に面することとなり、同デパートが駅から直接視認され得る立地が獲得された。
五番舘新館外観※2
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五番舘新館屋内階段
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北の都の風情を感じさせる装いへの既存館改修及び新館建設について、安易で皮相的な歴史主義と批判する向きも私の周囲にはいた。
しかし個人的には肯定的に受け止めていた。
商業建築なのだから、判り易く、そして楽しく地域性や風情を内外に演出する試みがあっても良いではないか。
それでいて俗悪に陥らぬ纏め方は、坂倉建築事務所ならではの手腕。
なので、2009年に閉店し程なく除却されてしまった時には驚いたものだった。
その際、土地を取得したのが家電量販店であったというのも、その時代らしい出来事であった。
以降、今日に至るまで、駅前の一等地でありながら更地のまま推移。
駅前に広がる都市の風景の中に空疎な一画を呈し続けてきた。
最近漸く状況が動き始め、周辺敷地も巻き込み十年後を目途に高さ200mを超える超高層建物を屹立させるボリュームスタディが公表された。
実現すれば、北海道新幹線の札幌延伸を睨んだ再開発と併せ、駅前の風景は大きく変わることとなろう。
しかし、もしも五番舘が営業を継続し、既存館と新館が将来にわたって維持・供用され続けたとしたならば、ポストモダン期における商業施設の改修及び増床事例としての歴史的価値が出て来たのではないか。
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2020.07.01:さっぽろ東急百貨店
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幼少のみぎり、札幌駅前に建つさっぽろ東急百貨店の斬新な外観にワクワクした気分になったものだった。
金属パネルとガラスを竪方向に交互に配列した外壁。
前面にオーバーハングする最上階。
そんな立面の向かって左側には雁行するガラスの塔が屹立し、その内部はシースルーエレベーターが二基。
更にその頂部には天空を射る様に円筒形の時計塔がそそり立つ。
1973年に開業したこの商業施設の設計が石本建築事務所であると知ったのは、その後かなり時間が経過し、建築を学ぶようになってからのこと。
札幌中心部は、整形なグリッドで規定される街路によって約109m(60間)四方の区画が整形に並ぶ都市構造を持つ。
さっぽろ東急百貨店は、その一区画の中に不整形な平面形状をなしつつ収まり、東西南北それぞれが街路に接する。
上に書いた外観は札幌駅前広場に面する北側立面※1。
東西を別敷地の建物に挟まれながらも、特徴的な意匠によって存在感を存分に示している。
一方、南側は広い間口を確保。
北側立面と同質の意匠で纏められている。
周囲に目を移すと、道路を挟んで北側の区画にはそごうデパートが、そして西側の区画には市内の老舗デパート・五番舘がかつては立地。
この三つの店舗が駅前の商業エリアの核を成していた。
ところで、東急百貨店の南側立面は、開業時からのものではない。
当初は、一区画を東西方向に三分割した中央部分の敷地に建てられた建物で営業が行われた。
その後1983年に南西側角地に増床。
間口が二倍程度広がり、建物は概ねL型の平面形状となった。
その際、既存の立面が踏襲され、一瞥した印象では後年増築が行われたものとは気づきにくい※2。
仔細に確認すれば、金属パネルの色調が既存部と増築部で僅かに異なる。
その後も、市営地下鉄東豊線の開業に向けて東側隣地の一部に低層棟の増床。
更に地下鉄連絡経路の確保等、段階的に増改築が行われている。
しかし、少し前に書いた三越日本橋本店の様ないびつさは全く無い。
これらの増改築は、自社の事業拡大と共に隣接する二つのデパートと張り合う意識が無かった訳ではあるまい。
その中で、経営者側は北西側角地への拡張をより強く望んでいたのではないか。
実現すれば駅前広場に向けた存在感を大幅に強化出来る。
あるいは既に実施した南西側の増床と合わせ、整形で広大なフロアを獲得出来る。
更には、圧倒的な建物スケールを誇る北向いのそごうに対抗することも可能となる。
しかし北西角地の既存建物の一部フロアには、一時期そごうの一部門がテナントとして入居していた。
東急側の増床計画を見越した意図があったのではという憶測が、当時の地元誌等に書かれたこともあった。
勿論、真意の程は部外者に判る筈も無い。
けれども、隣接する百貨店同士が競っている様に第三者の目に映る状況。
その前提となる商業エリアとしての駅前のポテンシャルの高さが見て取れる、そんな時期があった。
その後、そごうは撤退。
巨大な店舗施設は、別のテナントが複数入ることで今日まで維持されてきたが、北海道新幹線の札幌延伸に合わせた駅前再開発に伴い除却される予定。
そして、五番舘も、曲折の末閉店・除却。
以降長年にわたって更地となったままだ。
そごうの一部門がテナントとして入っていた北西角地の建物もパチンコ屋へと建て替えられた。
現在、駅ビルの建て替え事業に合わせて新たに進出した大丸百貨店が、駅前広場を挟んで東急百貨店と対峙する。
今世紀に入ってから出店し、先進のファシリティを誇る大丸。
一方、昭和半ばに開店し、竣工時の意匠を保持しながらも市況に合わせ増床と改修を繰り返してきた東急百貨店。
そんな両者の建物の在り姿の対比は、それはそれで面白い。
と同時に、東急百貨店の現況は、昭和半ば以降の駅前の変容を色濃くその様態に堆積させていると受け取ることも出来そうだ。
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