日本の佇まい
国内の様々な建築について徒然に記したサイトです
町並み紀行
建築の側面
建築外構造物
ニシン漁家建築
北の古民家
住宅メーカーの住宅
間取り逍遥
 
INDEXに戻る
建築探訪
長岡赤十字病院
旧所在地:
新潟県長岡市
日赤町2-6

竣工:
1933年11月10日

備考:
他所に移転。現存せず。

写真1:
外観。背後右手に見える赤茶色の建物も同病院施設。
中央円筒形の棟の頂部に赤十字のマーク。


1.俯瞰画像から

都市の俯瞰写真をウェブ上で公開するサービスが幾つかある。 その中でも、国土交通省がかつて提供していた国土情報ウェブマッピングシステムは、昔の航空画像を公開している点で他とは異なっていた。 例えば長岡市については、1975年に撮影した写真が公表されていた。
そんな画像データの中から日赤病院界隈を取り出してみたのが、写真2。
赤い屋根の部分とその周辺に隣接する幾つかの建物が、日赤病院だ。 赤い屋根の棟の下側に通る比較的幅の広い道路が、国道351号。 この通りを右の方に進むと、長岡駅に至る。
左の方には、信濃川が見える。 現在は大手大橋を介して対岸へと繋がるが、当時はまだ架けられていなかったので土手の手前でT字路で道路が終わっている。
まだ戸建住宅が建ち並ぶ当時の周辺環境の中にあって、日赤病院の大きさは際立っている。


写真2:航空画像*

そしてその配置も随分複雑だ。象形文字のごとく、クランクを繰り返しながら病棟が迷路のように配置されている様子が確認できる。 増築を繰り返した結果なのかと思ったが、1942年発行の長岡市街地図を見ると、少なくとも赤色の屋根が葺かれた棟の連なりについては、ほぼ同じ構成のものが描き込まれている。 この地に同病院が開設されたのが、1933年11月10日。 ということは、極々初期の段階から、既に1975年と同様の配棟の骨格がある程度成立していたことになる。



2.地上の視線から
※1
敷地の隅にメインエントランスが設けられた理由は何だろう。
敷地形状のみを考えれば、国道351号に面した敷地の長辺方向の中央部分に計画するという選択もあった。 その方が、各病棟へのアクセス動線もより効率的に構成できた筈だ。
隅角部に配置した理由は、交差点に向けて建物の表情を造り出そうとしたこと。 あるいは、写真1の航空画像の右手方向に進むと長岡駅を中心とした市街地に至るという地理的条件が作用したのだろうか。
同施設を計画する際に、既に信濃川に架かる橋が国道351号から伸びていれば、また違った配棟計画も有り得たかもしれない。

※2
写真3
写真1の向かって左側の棟の立面。

一,二階の開口部は二連の縦長窓によって構成されているのに対し、三階部分は四枚引違い窓になっている。 その微妙なディテールの違いによって、そこが増築であることを窺わせる。
各階とも開口部の上に小庇が設置され、それが立面の水平性を強調する。

前述の俯瞰画像で、敷地の右下の隅角部に白い円筒形の箇所が見える。 その部分を地上レベルから観たアングルが、冒頭の写真1になる。
交差点に面する敷地の角に対してなだらかなカーブを描く外壁面。 そこから張り出す分厚い庇が車寄せをゆったりと覆う。 その庇の先端も柔らかな弧を描き、外壁面と相まって、街路に対して優美な表情を醸し出す。
そして、庇を支える二本の太い柱によって、安定した重厚感も与えられている。柱は、下から上に向かって微妙に太くなる形状。 もしもこれがただの寸胴な円柱だったら、野暮ったくなったことだろう。

この印象的なエントランス廻りは、竣工当時もほぼ同質のデザインであったことが、長岡市に関する幾つかの郷土資料にて確認出来る※1。 つまり、配棟計画のみならず外観デザインも、竣工当初の様態が近年まで脈々と踏襲されて来たことになる。
しかしこの建物も、かつての戦災を免れて物理的に存続出来た訳ではない。 苛烈を極めた長岡空襲によって、外郭を除いてその殆どを灰燼に帰す。
戦後、直ちに復興。 その際には、戦前の形態がほぼそのまま引き継がれた。 限られた予算と建築部材の制約の中で、早急に医療体制を復旧させる必要性が、過去の踏襲という選択になったのであろうか。
以降、拡大かつ高度化する様々な医療体制への対応から、幾度かの増築や改修が実施されている。 例えば、写真1のエントランス廻りとその両翼に伸びる病棟の3階部分は、1958年に増築された箇所である※2
増築の際、エントランス部分の上層には、全面ガラス張りの優美な弧を描く意匠が与えられた。 その装いは、例えば柳原町に建つ市の分庁舎(旧長岡市役所庁舎)に通ずる意匠と読み解くことが出来る。 同じく優美な弧を描くガラス張りの壁面が印象的な分庁舎の竣工は1955年。 昭和中期のモダン建築の装いという同時代性を感じさせるのが、この三階部分だ。
戦前のオリジナルを受け継ぐ重厚なイメージの一,二階廻りと、その上に軽快に載冠するモダンな三階部分。 異種様態が違和感なく巧みに積層され、建物の外観上の要となる箇所のデザインを構成。 資料によると、エントランス内部も、階段を中心とした重厚な佇まいが設えられている。 そんな内外観によって、地域医療の拠点としての風格が、周囲の町並みに向けて表徴された。



3.痕跡の在り処
同病院は、1997年9月に信濃川の対岸に移転。 現在も、広範且つ高度な医療を実施する地域の拠点的な総合病院としての位置づけを担っている。
旧建物は全て除却され、その敷地には今は大規模な商業施設が建つ。 移転そのものは、医療技術の進展や高度な医療サービスのニーズに逐一対応するためには不可避なことであったのだろう。
結果として、元の場所にかつての面影は見出せない。 唯一、地名にのみその痕跡が残る。 かつて神明町と呼ばれていたその界隈は、同病院の開設と共に日赤町という住所に改められ、そして移転してしまった今もその名称が使われ続けている。
物理的事象が消失し、名前にのみ歴史が残る。 それは例えば、かつては城下町であったのに城跡が一切存在しない長岡市において、市内各所の住所にその名残を見出せる状況に似ているといえるのかもしれない。


INDEXに戻る *引用した図版の出典:航空画像/国土画像情報(カラー空中写真)<国土交通省>

2011.04.16/記