日本の佇まい
国内の様々な建築について徒然に記したサイトです
町並み紀行
建築探訪
建築の側面
ニシン漁家建築
北の古民家
住宅メーカーの住宅
間取り逍遥
 
INDEXに戻る
建築外構造物
幸町公園
所在地:
新潟県長岡市
幸町2-1

竣工:
1973年10月24日

規模:
4500平米

設計:
池原謙一郎

写真1:
敷地の東側中央から南西方向を観た園内の様子。
背後の白壁は長岡市立劇場。


1.位置

上越新幹線の下り列車が長岡駅に到着する直前、進行方向右手に白亜の建物が見えてくる。 単純立体の組み合わせによって構成された外観をもつこの建物は、遠望においても容易に視認可能。
日建設計の設計によるこの建物の名称は「長岡市立劇場」。 1973年に開館した、その名の通り大小のホールを備えた文化施設。 簡素且つ清楚な外観は、その時々の流行に左右されることの無いデザイン的な強さを有している。
そしてその堂々とした佇まいは、周囲のロケーションによっても大いに補完されている。 例えば、前面道路から十分に引きをとったアプローチ。 劇場という非日常空間に至るプロムナードとしての適切な装いと距離感が、そこには在る。
そしてそのアプローチの南側に、市立劇場の竣工とほぼ同時期に、同建物の形態と抗わぬデザインで整備された「幸町公園」が配置されている。



2.概要
公園といえば、児童公園であるとかスポーツないしはレクリエーションに供するといった様に、使用目的が明瞭なものが一般的には連想される。 しかし、市立劇場の真正面に同時期に整備された幸町公園は、そういった使途が曖昧だ。
周縁に地被植物で覆ったマウンドを帯状に連ね、中高木を配すことで周辺環境から軽く囲い込む。 そうしてエリアが定義づけられた園内の床面の大部分は、粗く割り出した御影の小石が荒い凹凸の割り肌面そのままに敷モルタルの上にやや疎に敷き込められている。 マウンドは、一部園内にも巡らされ、ところどころに小さなコーナーを形成。そこにコンクリート製のベンチを並べ、心地良い滞留場所を提供。 そしてそれだけでは取り留めのない空間となりそうなところを、高さ12mのコンクリート打放しの板状構造体や平滑な球形の築山、更には凝灰岩を敷き詰めた方形のステージを景観彫刻として園内の中央にバランスよく配置し、風景を引き締めている。


写真2:
敷地の東南から観た全景。
景観彫刻と長岡市立劇場の相補関係。
写真3:
長岡市立劇場の二階ロビーから俯瞰した全景。 地被に覆われたマウンドが帯状に連なり領域を規定。
公園の概要はこんなところ。 子供が遊ぶための遊具がある訳でもない。 レクリエーションに興じるためのまとまった広場が用意されている訳でもない。 では、整備目的が何であったのかと言えば、市立劇場の前庭的な意味合いが強いのであろうか。 劇場で催されるイベントを観に訪れた際の待ち合わせ場所として、あるいはイベント終了後にその余韻に浸るための場、等々。 中央に設けられた三つの景観彫刻も、市立劇場の外観と良く調和する。 そして劇場内の二階ロビーからも、この公園の俯瞰を愉しむことが可能だ。
市立劇場に寄り添う造形性を志向した都市的な佇まいを持つ公園。 それが、この幸町公園になる。


3.景観設計の手法

市の広報誌に掲載された幸町公園の計画図*1
図の上側が北になる。 外周をマウンドで囲い、その内側に様々な設備を配備した広場を形成する様子が伺える。 広場の中央に三種の景観彫刻も描かれている。
西側に「市民会館」と仮称が付けられた長岡市立劇場。 写真1は、東側斜辺の中央付近から南西に向かって撮ったもの。

この公園を設計したのは、池原謙一郎。 国内におけるランドスケープデザインの先駆者として、各地の公園デザインを数多く手掛けた人物だ。
代表作として、例えば東京の代々木公園の基本構想や、1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の日本庭園などが挙げられる。 主だった公園設計の仕事は、1960年代半ば頃から始まる。従って、幸町公園は初期の仕事に属することとなろう。
しかし、既に公園デザインに関する独自の理論と手法をある程度確立していたようだ。 そのことは、例えば1966年に千葉県庁前に計画した羽衣公園からも窺える。 この公園についての御本人の解説が、「都市公園」誌の1972年2月号に載せられている。 その一部をここに引用すると、次の通り。

" 都市的なスケールをベースに、様々な形の人間集団のドラマが展開される空間造形"
" 求心的にして遠心的、しかもプライベートなコーナーからソシアルな集まりの場までの一連の人間集団のパターンを包含する空間構成"

“空間造形”とか“空間構成”という言葉に、アート志向に基づく公園設計の立ち位置が顕れている。 そしてこの二項目の中に記述されているキーワードは、いずれも幸町公園にも当て嵌めることが可能だ。
例えば、プライベートなコーナーというのは、マウンドで囲いベンチを配したスペースが該当する。 あるいは、求心的な機能は、公園の中央に配した三種の幾何学的な景観彫刻が担うと見做せそうだ。 そしてその周囲の広場は、ソシアルな集まりの場と解釈できよう。



4.もう一つの都市公園

長岡市内には、同じ設計者の設計に拠るもう一つの都市公園が市内中心部にかつて存在した。
幸町公園から遡ること三年前、市内の東坂之上町1丁目に開設された長岡セントラルパークがそれ。 本格的な都市公園として整備され、その佇まいは幸町公園のそれと相通ずるものがあった。 ランドスケープデザインの先駆者の初期の作品が、一つの都市において立て続けに二つ実現されたということは画期的なことであったのではないだろうか。
しかし、長岡セントラルパークの方は現存しない。 市役所庁舎機能の移転を含めた周辺一帯の再開発事業によって2009年に閉鎖。 跡地には、隈研吾建築都市設計事務所の設計による新たな市役所庁舎「シティホールプラザ アオーレ長岡」が建つ。



5.公園が紡ぐ都市の記憶
※1

アオーレ長岡のナカドマの吹抜けに面する三階のデッキ部分。 外観を特徴付ける千鳥配置の木パネルは、壁面のみならずガラス屋根面にも浮遊し、木漏れ日の様な自然光をもたらす。

造形美を追求した都市公園の先進例。 あるいは、国内におけるランドスケープデザインの先駆者による設計という出自を鑑みれば、長岡セントラルパークは恒久的に保全され、その文化的価値を後世に伝えるべき施設であったのかもしれぬ。
にも関わらず、新たな公共施設を建設するために閉鎖され、除却されてしまった理由は何であったのか。 都市公園としての機能を果たすためのロケーションにやや恵まれなかった面があるのかもしれぬ。 市街地のメインストリートから隔離された、裏手といった雰囲気の立地条件。 そのことが、馴染み深い都市施設として認知・浸透されることの足枷となったきらいが無きにしも非ず。
そんな長岡セントラルパークの跡地に建てられたアオーレ長岡に立ち寄る際、通常は当該施設の大きな特徴である半屋外広場“ナカドマ※1”に歩を向けることとなる。 広場の大半を覆うガラス屋根から差し込む太陽光は、屋根全体を支える豪放な構造体や千鳥配置された杉板パネルなどによって拡散され、ザックリとした粒子となってシャラシャラと地上に降り注ぐ。 季節や天気などの条件にも拠るが、木漏れ日の如きその光の加減がすこぶる心地良い。 広場に置かれた椅子に腰かけて暫しその場に佇んでみれば、そこが市街中心部においては数少ない無目的に滞留可能な快適な公共空間であることを実感できる。
かつて長岡セントラルパークにおいて企図された都市のアメニティ機能は、姿を変え、そして場所を若干変えてこのナカドマに移設されたと言えるのかもしれぬ。 言わば、都市の遺伝子の継承。 そしてその残像としての具体的風景の記憶を、幸町公園が穏やかに担う。
市立劇場の前庭という位置付けを超えた価値を、既にこの公園は帯び始めている。



INDEXに戻る 参考文献:
都市公園1972年2月号(東京都公園協会)

引用した図版の出典:
*1;ながおか市政だよりNo.222(長岡市広報課)

特記事項:
当該掲載文は、当サイト管理人が長岡地域情報誌「マイ・スキップ」の2013年8月号に寄稿した特集記事「幸町公園とセントラルパーク・・・二つの公園が織り成す都市の風景」の原稿をもとに、幸町公園の内容を中心に再構成・加筆したものになる。
2018.11.03/記