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町並み紀行
三津谷
場所:
福島県喜多方市
岩月町宮津勝耕作

写真1:
※1

樋口窯業外観。 1970年まで操業。 登り窯は「喜多方市指定有形民族文化財」に指定されている。

喜多方の市内中心部から、米沢街道を5kmほど東北東に進んだ右手に、戸数にして十軒に満たない小さな集落がある。 しかし、その小さな集落はその中の建物の多くを煉瓦蔵によって構成するという特徴を持つ。

この地の煉瓦は、集落から約500mほど南方にある樋口窯業※1により生産されたという。
この窯業所の創設者は、新潟県出身の瓦職人。 瓦の生産に適した土と大量の薪を供給可能な場所としてこの地を選び、登り窯を造った。
明治後期の会津地方は、阿賀野川を介した舟運により、越後地方と深い関わりを持っていた。 喜多方において盛んに行われた蔵の造営には、越後の優秀な棟梁や左官職人がその一翼を担っていたと言われているが、三津谷の蔵造りにおいても同様であった。
窯業所で瓦と共に煉瓦を焼成するようになったのは、岩越鉄道(現磐越西線)の敷設に伴い大量の煉瓦需要が生じた頃に始まる。


写真2
集落の中の煉瓦蔵。下層が施釉煉瓦で上層が無釉。正面の5連アーチが個性的。

写真3

樋口窯業製の煉瓦を用いた蔵が三津集落に多数建てられた背景については、資料により全く説明が異なる。
工場設立のために、集落の人々が出資したことは、どの資料でも共通している。 しかし、「図説日本の町並み」では、事業がなかなか軌道にのらず、出資の対価が生産された煉瓦の無償支給となったため、仕方なくその煉瓦を用いて蔵を造ったと解説する。 「造りたくて造ったのではない。造らせられたのだ」という、住民の証言を根拠として掲げている。 一方で、「会津喜多方地方の煉瓦蔵発掘」や「民家巡礼東日本編」では、住民が有力なパトロンとなり積極的に煉瓦蔵の施工を行った様子が書かれている。
全く異なる説明であるが、いずれにせよ、煉瓦蔵の造営と煉瓦工場の間には、地場産業における「講」や「結い」のような体制が築かれていたのではないか。 「講」あるいは「結い」は、地域における相互扶助のようなシステムであるが、そこに参加する者にはそれぞれの想いがあったことだろう。 そのことが、郷土資料における様々な解説を生む背景になっているのかもしれない。

煉瓦蔵は、その全面あるいは一部に施釉煉瓦を用いている。 地域特性を鑑み、凍害への対策として編み出されたという。 また構造体として木骨煉瓦造が採用されている。
三津谷地区を中心とするこの地域で採用された木骨煉瓦造は、木造架構の外側ないしはそのフレーム内に帳壁として煉瓦壁を構成する一般的な木骨煉瓦造とは異なる。 そのような工法と組積造の折衷様式とでも呼べるような独自の構法が採用されている。

集落内には、土蔵や板倉もあるが、共通して釉薬を施した深いエンジ色の瓦が葺かれている(写真3)。 これも耐凍害性を持つ瓦であるが、周囲に広がる田畑の緑とのコントラストがとても美しい。



INDEXに戻る 参考文献:
1.図説日本の町並み 2 南東北編<第一法規出版>
2.会津喜多方地方の煉瓦蔵発掘<普請帳研究会>
3.民家巡礼東日本編<溝口歌子 小林昌人>

2008.09.06/記