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町並み紀行
上芦川
場所:
山梨県笛吹市
芦川町上芦川

写真1
東村組界隈の風景。
傾斜地に石垣を設けてひな壇を造成。
街村状に集落が拓ける。


JR中央本線石和温泉駅から日に数本の路線バスに乗り換える。 車窓からは、塩山の旧高野家住宅(甘草屋敷)に代表される切妻突上屋根形式の甲州民家が、ブドウ棚等の果実畑と共に時折目に飛び込んでくる。 そんなこの地ならではの風景を堪能しているうちに、バスは甲府盆地の南端に連なる御坂山地の一つ、鳥坂峠(標高約1070m)の山あいへ。
幾重にも連なるヘアピンカーブを超え、峠下の長いトンネルを抜けて間もなくすると、斜面地に形成された集落が見えてくる。

集落の東端に建てられた道の駅風の物産館「芦川農産物直売所おごっそう家」前で降車。 その道程、約50分。
施設の裏手に廻ると、雛壇上の石垣に畑と民家が折り重なる圧倒的な風景が眼前に一気に展開する。 それが上芦川集落の東端のエリア(東村組)。
民家の多くは東西に棟を向ける兜屋根を冠した平入り形式。 もともとは茅葺きであった屋根にトタンを被せているものが殆どであるが、これほどまとまった数の兜屋根民家が連なる群景は奇跡的である。 しかもそれらが、美しい石垣と共に在る風景。 はやる心を抑えつつ、集落を貫通する「若彦路」を中心に、ゆっくりと散策を愉しむ。

写真2:
集落の西側、西村組エリア。山間の傾斜地に家々が並ぶ。
東村組とは異なり、こちらは塊村状の風景。
写真3:
同左。
標高約900〜1000mの山あいに、兜屋根形式の民家が並ぶ。
集落は、その南側を東西に流れる芦川に沿って、その斜面地に東西約1kmにわたって形成されている。 集落内には水路が巡らされ、そして所々に馬頭観音が祀られ、あるいは由緒が近世にまで遡る建造物が散在。
若彦路も、古くは甲斐と駿河を結ぶ街道であったのだそうだ。
その道路は起伏に富み、平坦な場所は殆ど無い。 高低差の関係から、場所によっては道路が民家の軒先に届きそうな所もある。 従って、様々なアングルから兜屋根を観察することが可能になるのだが、そこで疑問が湧く。
同じ甲州の地に在りながら、切妻突上屋根型ではなく兜屋根形式が発達したのはなぜだろう。 集落内の人の話では、この地に兜屋根型の民家が作られるようになったのは明治に入り養蚕が盛んになった頃からであるという。 屋根裏で蚕を飼うために、もともとあった民家の屋根形状を今の形式に改変したものもあったのだそうだ。
その際に選択されたのが兜屋根であったのは、地理的与件であろうか。 峠に阻まれ、甲州盆地の文化圏とは切り離されていた。 そのために、盆地エリアの建築形式ではなく、それ以外の全国に広く展開した兜造りが用いられた。
しかし一方で、盆地の影響が全く無い訳でもない。 集落内の民家の中には、兜屋根に盆地型の突上屋根を組み合わせた折衷様式も数は少ないが確認することが出来る。
山々に囲われつつ、盆地エリアの南端に位置するという地理的与件が、建築様式に微妙な影響を与えているといえそうだ。
写真4:
東村組界隈。
石垣と民家と畑が折り重なる。
写真5:
集落内の古民家を利用して整備された生活体験施設「農啓庵」。

地理的与件といえば、石垣の連なりも同様である。
土地を起こせばどこからでも石が出てくるという。 その石を積み上げ、斜面地を雛壇に造成する作業は、並大抵ではなかっただろう。
先人の努力が、時間を経ることで豊かで美しい景観へと醸成される。 そして石垣が連なる風景は、近年整備された集落外縁の農道を敷設する際にも施され、形を変えつつ時を超えて継承されている。

私がこの集落にアクセスする際に通った長いトンネルの名称は、新鳥坂トンネル。
「新」という文字を冠することから判るとおり、開通は1995年。 それ以前は、更に標高の高いところに昭和初期に整備された隋道が利用されていた。 車での相互通行がやっとという狭隘なものであったという。
また、集落の更に向こう側は、富士五湖の一つ、河口湖を有する河口湖町が隣り合う。 しかし、両町の間にも山脈が連なり、往来するには大きく迂回する必要があった。 そんな双方の町を繋ぐ若彦トンネルが開通したのは、2010年のこと。
これらの道路施設の供用開始時期から判るように、秘境あるいは陸の孤島といった様相を呈していたこの集落の利便性は、近年になって急速に改善されたことになる。 私が路線バスを降車した直売施設も、この若彦トンネルの開通に合せて作られたものだそうだ。 地元で生産された農産物やその加工品を求める客で、館内は繁盛していた。
車社会に対応した利便性の獲得は、過疎化と高齢化の渦中におかれていたこの集落の今後に、少なからぬ影響を与えるのかもしれない。 例えば、観光に過度に依拠した無用な修景や投資を繰り返し、テーマパークと変らぬ風情へと堕した国内の多くの歴史的街並み事例の一つに名を連ねることになるのか。 それとも、現代の暮らしとしっくり馴染んだ今の風景を維持しつつ、かけがえの無い歴史的景観財産を活かした活性化を図ることが出来るのか。
いま、その分岐点にこの集落は在る。 地元有志の考え方は後者に近いようだ。 そのことに、この集落の展望が見出せる。



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