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住宅メーカーの住宅
北海道の大和ハウス工業−1950年代後半から70年代初頭までの動向
1.進出経緯
※1
同社の社名に"ハウス"が用いられている意図も、単に住宅を指したものでは無い。 「広義の建築を表徴している。」と同社の社史に記述されている。

大和ハウス工業が札幌に営業所を構えたのは1958年4月。 同社の社史には、真新しい平屋建て切妻屋根の社屋の外観写真が載せられている。 周囲に建ち並ぶ木造家屋群の風雪で黒々と褪色した下見板張りの外壁と、溶融亜鉛メッキ波型鋼板が光り輝く同社社屋の外壁との鮮烈な対比が、モノクロームの小さな画像からも容易に見て取れる。

国内のプレハブ関連の住宅史を御存じの方の中には、この記述を奇異に思う人もいらっしゃるかもしれない。
同社がプレハブ住宅事業に参画したのは、1959年10月のミゼットハウスから。 といってもそれは、母屋に付属する小屋の扱い。 独立住宅であるダイワハウスA型を発表し、本格的に戸建住宅事業を展開するのは1962年4月以降になる。
それ以前に北海道に営業所が開設された理由。 それは、そもそも同社の事業が「パイプハウス」と名付けられた鋼管を主要構造体とする仮設プレハブ建築の製造及び建設業務に端を発するため。 商品名に"ハウス"とありながら、それは住宅用途を想定したものでは無い※1。 国鉄(当時)や営林署の施設や倉庫、あるいは工事現場に設ける仮設の事務所や宿泊施設等に販路を求め、その事業領域を全国へと拡大。 北海道への進出も、その一環であった。 最初に札幌市北区に設けた営業所社屋も、このパイプハウス。 社員自らの手で組み立てたその事務所兼宿舎を拠点に、道内各地に業務が展開された。
従って、同社が道内で住宅事業を手掛ける頃には、既に営業網と部材調達環境が整備されていたことになる。



2.北海道における住宅市場の固有性
※2
三角屋根の住宅が連なる風景。 道内各地に見受けられる北海道固有の住宅地の風景。

※3

変形屋根の事例。

同社が北海道に進出した1950年代の道内の状況として、「北海道防寒住宅建設等促進法(寒住法)」が挙げられる。
1953年に制定されたこの法律では、公営住宅や金融公庫融資住宅は簡易耐火構造の防寒住宅であることが求められ、具体的にはコンクリートブロック造が仕様規定化された。 結果、この「住宅メーカーの住宅」のページに別途登録している、通称「三角屋根」と呼ばれるコンクリートブロック造に急勾配の三角屋根を載せた住宅が多数建てられ、道内各地に特徴的な風景を形成した※2
同法は1969年に改正。 コンクリートブロック造以外の構法にも適用が広がる。 すると、それまでの規格化された「三角屋根」への反動から、「変形屋根」※3と呼ばれる単純な三角形ではない様々な屋根形態が好んで用いられるようになる。 それらは、降雪期において屋根面に積もる雪の円滑な自然落下を指向しつつ、造形面での多彩な遊びの要素が取り入れられ、それまでの三角屋根による画一的な様相から住宅地の風景を脱却させた。

大和ハウス工業が道内に進出した時期。 それは、三角屋根が定着した風景と、それへの反動としての変形屋根への嗜好の変容・拡散の狭間に位置する。 商品を構成するにあたっては、そんな住宅市場のニーズを睨んだ展開が与件となり得た。

屋根形態に纏わる道内固有の状況を創り出した寒住法の制定事由は、当然のことながら北海道の寒冷地としての気候風土にある。 厳冬期の北海道において、家の中が寒いという状況は受忍され得ない。 往時の本州以南の様に、部分間欠暖房を前提に寒い室内で炬燵に潜り込んで暖をとる生活様式は成り立たぬ。 家の隅々まで暖かくあること。 ために早くから常時暖房が一般化した。
徹底した防寒対策の付与。 あるいは防露対策の確立。 その実現に向け、道内では官民共に防寒住宅の研究開発が積極的に進められた。 「三角屋根」は、その成果の一つだ。
このことは、本州の住宅メーカーが北海道に進出する際には、本州モデルの若干の仕様調整では通用しないことを意味する。 道内の研究機関や工務店等の成果に対抗し得る商品体系の整備が求められた。
そのため、例えば積水ハウスは1960年に札幌市内にセキスイハウスA型をベースとした試作住宅を建設。 ナショナル住宅建材(当時)も、1965年に札幌市内に、更に1969年に函館市内に試作住宅を建設。 道内進出にあたって、温熱環境を中心とした自社モデルの性能検証期間を設けている。



3.地域性を踏まえた展開
※4
ダイワハウス北海道型*
のちにM型、更に大雪と改称。

画像は「大和ハウス工業二十年史」より引用。 同社は十年ごとに社史を編纂しているが、それらの中には切妻平屋の事例を当該モデルとして記録したものもある。

※5
ダイワハウス風雪*

上記と同じく二十年史からの引用。 変形屋根が用いられているが、これも別の版ではダイワハウスB型に似た切妻二階建ての事例が記録されている。

上記2.に示した固有の市場性の中、大和ハウス工業は1963年10月に北海道向けモデルとして「ダイワハウス北海道型」を発表。 道内で住宅事業を開始した。 本州企業がプレハブ住宅事業で道内に進出するのは、同社が初めてであった。
その外観は道内で馴染み深い前述の「三角屋根」のプロポーションに相通ずる※4。 そして内観も、「三角屋根」と同様の全館暖房に有利な居間中心型のプランを基本とした。 当該モデルは、1964年5月にダイワハウスM型、更に1968年4月にダイワハウス大雪に改称している。
これとは別に、1966年4月にダイワハウスSD型及びST型を発売。 こちらは、防寒対策を付与しながら本州以南のモデルの内外観を踏襲。 1968年4月にダイワハウス風雪に改称している。 後年になると、左記外観画像※5の通り、変形屋根を組み入れた事例が現れる。 これは市場ニーズに沿った対応であろう。
更に、1971年5月に同様に変形屋根を取り入れたダイワハウス石狩を発売。 これらによって、三角屋根及び変形屋根双方のニーズに対応した他地域には無い独自の商品体系が整備された。

これらはいずれも同社が戸建住宅事業の初期段階から展開してきた軽量鉄骨軸組造が採用されている。 しかしそれとは別に、北海道独自の体系として木質パネル構造を用いたモデルも商品化された。

大和ハウス工業の創業家は奈良県吉野で代々林業を営んでいた。 しかしながら、1950年に四国及び近畿地方に甚大な被害をもたらした台風28号(通称、ジェーン台風)で露呈した木造家屋の脆弱性。 あるいは森林資源の保全を目的に1951年に改正された森林法における木材代替資源の使用普及促進の動き。 更には鋼材活用の将来性等々の状況を見据え、パイプハウスの製造・建設事業の企業化を決断した経緯がある。
そのことについて、社史には

家業の木材業をすてて、パイプ建築をやるなどということは、一つの革命であった。 謀叛であった。 しかしこれは必然である。 そう悟った。

とある。
こうして、創業時より鋼構造建築及び住宅事業に邁進して来た同社が、ここで木質系の住宅モデルを商品化した背景。 それは、他地域と異なり道内では木材を安価且つ大量に調達し易く、鋼構造よりもローコストなモデルの安定供給が見込まれたこと。 そして、寒冷地においては鋼材に比して高い熱抵抗値を持つ木材を用いることが温熱環境上有利との判断があったのだろう。

1969年9月に平屋建てローコストモデルのダイワハウス北海、1970年4月に二階建て高級モデルのダイワハウス白樺。 同年9月に道内の農協と提携したホクレンハウス瑞穂及び鈴蘭を発売している。

既に整備されていた営業網及び資材調達環境と、商品構成の充実。 それらによって、当時は同社に次いで北海道に進出する他本州メーカーの追随を許さぬ圧倒的な事業成績を誇った。
また、道内における同社の木質系住宅の商品化の動きはその後本州以南にも波及。 軽量鉄骨軸組系に並行して幾つかの木質系モデルが開発された。 例えば、1971年7月にダイワハウス柳生、翌年7月に構造を改良したダイワハウス美吉野を発表。 商品体系の一層の多様化に繋げられた。



 
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*引用した図版の出典:大和ハウス工業

2021.12.04/記