日本の佇まい
国内の様々な建築について徒然に記したサイトです |
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住宅メーカーの住宅
北海道の大和ハウス工業−1950年代後半から70年代初頭までの動向 |
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1.進出経緯 | |||||
※1:
同社の社名に"ハウス"が用いられている意図も、単に住宅を指したものでは無い。 「広義の建築を表徴している。」と同社の社史に記述されている。 |
大和ハウス工業が札幌に営業所を構えたのは1958年4月。 同社の社史には、真新しい平屋建て切妻屋根の社屋の外観写真が載せられている。 周囲に建ち並ぶ木造家屋群の風雪で黒々と褪色した下見板張りの外壁と、溶融亜鉛メッキ波型鋼板が光り輝く同社社屋の外壁との鮮烈な対比が、モノクロームの小さな画像からも容易に見て取れる。
国内のプレハブ関連の住宅史を御存じの方の中には、この記述を奇異に思う人もいらっしゃるかもしれない。 |
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2.北海道における住宅市場の固有性 | |||||
※2:
三角屋根の住宅が連なる風景。 道内各地に見受けられる北海道固有の住宅地の風景。 ※3: 変形屋根の事例。 |
同社が北海道に進出した1950年代の道内の状況として、「北海道防寒住宅建設等促進法(寒住法)」が挙げられる。 大和ハウス工業が道内に進出した時期。 それは、三角屋根が定着した風景と、それへの反動としての変形屋根への嗜好の変容・拡散の狭間に位置する。 商品を構成するにあたっては、そんな住宅市場のニーズを睨んだ展開が与件となり得た。
屋根形態に纏わる道内固有の状況を創り出した寒住法の制定事由は、当然のことながら北海道の寒冷地としての気候風土にある。
厳冬期の北海道において、家の中が寒いという状況は受忍され得ない。
往時の本州以南の様に、部分間欠暖房を前提に寒い室内で炬燵に潜り込んで暖をとる生活様式は成り立たぬ。
家の隅々まで暖かくあること。
ために早くから常時暖房が一般化した。 |
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3.地域性を踏まえた展開 | |||||
※4:
ダイワハウス北海道型* のちにM型、更に大雪と改称。 画像は「大和ハウス工業二十年史」より引用。 同社は十年ごとに社史を編纂しているが、それらの中には切妻平屋の事例を当該モデルとして記録したものもある。 ※5: ダイワハウス風雪* 上記と同じく二十年史からの引用。 変形屋根が用いられているが、これも別の版ではダイワハウスB型に似た切妻二階建ての事例が記録されている。 |
上記2.に示した固有の市場性の中、大和ハウス工業は1963年10月に北海道向けモデルとして「ダイワハウス北海道型」を発表。
道内で住宅事業を開始した。
本州企業がプレハブ住宅事業で道内に進出するのは、同社が初めてであった。
これらはいずれも同社が戸建住宅事業の初期段階から展開してきた軽量鉄骨軸組造が採用されている。 しかしそれとは別に、北海道独自の体系として木質パネル構造を用いたモデルも商品化された。
大和ハウス工業の創業家は奈良県吉野で代々林業を営んでいた。
しかしながら、1950年に四国及び近畿地方に甚大な被害をもたらした台風28号(通称、ジェーン台風)で露呈した木造家屋の脆弱性。
あるいは森林資源の保全を目的に1951年に改正された森林法における木材代替資源の使用普及促進の動き。
更には鋼材活用の将来性等々の状況を見据え、パイプハウスの製造・建設事業の企業化を決断した経緯がある。 |
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家業の木材業をすてて、パイプ建築をやるなどということは、一つの革命であった。
謀叛であった。
しかしこれは必然である。
そう悟った。
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とある。 1969年9月に平屋建てローコストモデルのダイワハウス北海、1970年4月に二階建て高級モデルのダイワハウス白樺。 同年9月に道内の農協と提携したホクレンハウス瑞穂及び鈴蘭を発売している。
既に整備されていた営業網及び資材調達環境と、商品構成の充実。
それらによって、当時は同社に次いで北海道に進出する他本州メーカーの追随を許さぬ圧倒的な事業成績を誇った。 |
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*引用した図版の出典:大和ハウス工業
2021.12.04/記 |