日本の佇まい
国内の様々な建築について徒然に記したサイトです |
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住宅メーカーの住宅
商品開発の在り方:セキスイハウス・フェトーのある家 |
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1.時代背景 | ||||||
※1:
1976年に実施。 延床面積100平米の住宅を、1980年(昭和55年)時点で500万円台の価格で大量供給可能な住宅生産システムを構築することを目標に掲げた。 提案競技が実施され、42の企業グループが応募。 3グループが開発主体として選出された。 ※2: 例えば、1982年7月24日から29日の期間、建設・通産両省及び日本住宅公団(当時)の後援により、日本建築センターにて「ハウス55まつり」が開催され、三社のモデルハウスが公開されている。 |
1981年10月に発表されたモデル。 商品名称とは別にBK-530型という型式呼称がある。
この年は、ミサワホームが1月にミサワホーム55を発売している。
この住宅施策は、その後間もなくして訪れることとなったバブル景気の波に乗った高級化路線に押され持続性を持ち得なかった。
しかし、一時的に住宅市場に与えた影響は小さくは無い。
同業他社から対抗モデルが相次いで商品化されることとなった。 |
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2.プレハブ化の価値 | ||||||
※3:
1977年9月発刊の「プレハブ住宅産業−停滞脱出ねらう企業戦略(日本経済新聞社編)」に収録された、ミサワホームの社長・三沢千代治(当時)を交えた座談会において、右記の発言を行っている。 この発言に対し、三沢千代治は「工業化することで、プレハブは一産業たりうると思う」と述べている。 プレハブに対する捉え方は真逆だ。そしてそのことが、当時の両社から発表されるモデルの違いに如実に顕れていた。 ※4: ハウス55プロジェクトの実施から遡ること6年前。 同様に建設・通産両省が1970年に共催した類似の住宅先導モデル事業「パイロットハウス技術考案競技」には積水ハウスも応募。 実施モデルとして採択されている。
ここで同社から提案された「E-PH'70型」は、他社採択モデルとは方向性をやや異にしたものであった。 その様な手段に拠らなくても高品質で低廉なモデルの大量供給体制を組むことが可能であるとする思想は、「フェトーのある家」にも引き継がれた。 |
積水ハウスは、このハウス55プロジェクトの推進企業を採択するために実施された技術提案コンペには参加していない。
プレハブ住宅の草分けにしてトップメーカーであるにも関わらずだ。
しかしそれは、同社が創業当初より住宅に対して一貫して持ち続けている姿勢を鑑みれば、ごくごく自然なことといえそうだ。 |
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“プレハブ住宅というのは特殊な商品ではなく、住宅産業の中の一供給形態、一工法をあらわす言葉である。(中略)
お客さんは工法で家を買うのではない。住んで快適で、丈夫で、見栄えのいいものを選ぶ。
だから「プレハブ」と区切って、プレハブだけの評価をするという考え方を私はとらない。※3”
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住宅は建てるものではなく買うものだという前提の発言であるところが、いかにもハウスメーカーの社長らしい。
その様な背景を鑑みた時、ミサワホーム55が発売された年に積水ハウスがフェトーのある家を発表した意味は大きい。 |
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3.商品化の手法 | ||||||
発売当時、建売住宅として分譲されている同モデルを観る機会があった。
その際の私の印象は、内外観共にそんなに良いものではなかった。
同時期において、斬新な意匠と新進の空間提案をギッシリと詰め込んだ企画モデルを怒涛の如く発表し続けていたミサワホームに比べると、ひどく退屈に思えた。
このモデルは、竣工時の様態を良好に維持した建築事例を現在でも各地でよく見かける。
80年代初頭に発表されたこのモデルの前に今改めて立ってみて抱く印象は、経時に対する高い耐性だ。
発売当初において先鋭的なモデルが陥りやすい陳腐化とは無縁の穏やかさが、そこには在る。 |
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*引用した図版の出典:積水ハウス
2013.12.28/記 |